善悪の彼岸~さまよえる真のIRA~


 IRA(アイルランド共和国軍)ほど、エンターテイメントの敵方として消費されたテロ組織も、そう多くはあるまい。とくにわれわれが想像するのは、ハリソン・フォード主演の映画『パトリオット・ゲーム』の敵方として出てくるような、血も涙もないテロリストとして、である。

 しかし、清教徒革命(1642~1649)が強化したところのプロテスタント‐カトリックの宗教的確執を継承し、あくまで統一アイルランドを志向するナショナリズムをもって、そして冷戦構造の下ソヴィエトやリビアなどの社会主義圏や第三世界から軍事的支援を得て、またかつ極左テロ組織のバスク祖国と自由や赤い旅団との交流すら取り沙汰されていたこの組織には、なにか一筋縄ではいかないものがある。だからこそ『パトリオット・ゲーム』に登場するIRAが滑稽なものに見えてしまうのだが、つまりこの映画にとって、テロ集団は別にIRAでなくてもよかったのだ。序盤、イギリスのホームズ卿なる男を暗殺するため、近場のIRAを引っ張ってきましたという、それだけのことでしかないのかもしれない。

 だが、たとえIRAが物語の中で悪役として消費されるべき運命を付託されていたとしても、これらの組織は彼らにとって共通の言語を有し、ある目的によって運動していたのは確かである。ある固有の組織が、それぞれに持つアイデンティティというものが。

 2014年、世田谷パブリックシアターで公演されたイギリスの劇作家リチャード・ビーンによる戯曲『THE BIG FELLAH(2010)』は、IRAの活動資金や武器調達に奔走するアイルランド系アメリカ人たちの、北アイルランドのデリーにおける血の日曜日事件から9・11米同時多発テロまでの30年ほどの年月を描いた物語である。

 ここでいささか煩雑で駆け足になることは承知しつつ、物語の背景であるアイルランド問題およびIRAの成立とその経過を確認しておきたい。

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 アイルランド問題は、支配者としてのイギリス人と被支配者としてのアイルランド人の、清教徒革命(1642~1649)以来の歴史的な確執から端を発する。

 1649年、護国卿オリバー・クロムウェルに率いられたイングランド議会軍は、カトリック勢力を抑えんことを名目に、アイルランド・カトリック同盟統治下にあったアイルランドに侵攻した。この時イングランド議会軍の情け容赦のない攻撃により、アイルランドの人口の十五%から二十五%が殺害されもしくは亡命した。

 時を経て1916年のイースター(復活祭)蜂起は、武器や作戦の不備から早々に英軍により鎮圧された。その後英国はアイルランドにおける自治領(ドミニオン)の建設を図るアイルランド自治法を成立させるも、第一次世界大戦によって計画は凍結。19年、業を煮やした民族主義者らはアイルランド全島を単一の共和国にせんことを謳って、アイルランド共和国暫定政府設立を宣言し、アイルランド独立戦争が勃発する。アイルランドのダブリンにおいては第一ドイル(立法議会)が作られ、政府・裁判システムなどとともに、軍事の面では、それまで自発的な戦闘員の集団に過ぎなかったところのアイルランド義勇軍が、ドイルの指揮下に入ることによって晴れて暫定政府の〈正規軍〉としてアイルランド共和国軍(IRA)と呼称されるようになる。20年、英国はアイルランド統治法を制定し、アイルランドを南北に分割してそれぞれに議会を与えることとした。休戦後、21年には英愛条約においてアイルランドを大英帝国領内の自治国として建国することが取り決められ、北アイルランド政府は前年の統治法に基づき、その帰属先を自身の手にゆだねられたのだった。22年12月6日には、実際に全島がアイルランド自由国として英国自治領になるも、しかし翌7日には北アイルランド政府が離脱、プロテスタント系住民の多いアルスター地方は結局連合王国内に留まることになった。

 そのさなか、あくまでもアイルランド全島統一を目指し、英国王に忠誠を誓わなければならない英愛条約に反対する一派と、独立への過渡的段階としてこれをよしとするアイルランド自由国との間で内戦が勃発。そのさなか自由国側でIRAの軍事指導者でもあったマイケル・コリンズ(題名となっているBIG FELLAHは、彼の尊称である)が暗殺される。しかしコリンズを失いながらも自由国は反条約派との内戦に勝利、その後37年に、自治領からアイルランド共和国へ転じ、49年には英国から離脱した。これによってイングランド・スコットランドそして北アイルランドを擁する現在の〈グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国〉と、南アイルランドのアイルランド共和国という形が整ったといえよう。

 60年代に入るとアメリカのマーティン・ルーサー・キングに始まる公民権運動の影響を受け、政治的に抑圧され続けていたカトリックによって抗議活動が始まり、北部のカトリック系住民とプロテスタント住民、現地警察(王立アルスター警察隊)との間で衝突が発生。事態収拾の見込みが立たず、69年に英軍が北アイルランドに派遣される。

 さて、このときIRA内部にあくまで武装闘争路線をひた走る一派と、政治的にアイルランド統一を達成すべしとする一派との間に反目が生じた。前者をIRA暫定派、後者をオフィシャルIRAとし、69年以降のIRAとは、おおむねこの暫定派を指す言葉といって差し支えない。暫定派は北アイルランド政府も、49年に英国から離脱したアイルランド共和国をも否定し、自らの正当性をアイルランド独立戦争の際に宣言されたアイルランド共和国暫定政府にもとめた。そして組織改革の上設立したIRA軍事協議会を、統一アイルランドの正統な後継であると、もって自ら任じたのである。

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 戯曲『THE BIG FELLAH』にて、IRAニューヨーク支部のリーダ、デイヴィット・コステロを演じるのは、俳優の内野聖陽、である。

 コステロは先述したマイケル・コリンズの尊称「ビッグ・フェラー」の名で親しまれている。弁舌巧みで、部下からの信頼厚く、妻子もち、アメリカで経済的にも成功している――という、まさにアメリカンドリームを体現したような男である。

 序幕。「プロテスタントだったら無駄使いせずにすんだのに」と皮肉めいた冗談を飛ばしながら、血の日曜日事件を引き起こした英軍への報復のため、アイルランド系アメリカ人富裕層たちに活動資金の提供を呼びかける。

 この追悼演説で語られる血の日曜日事件とは、1972年1月30日、北アイルランドのデリーにてイギリス軍が非武装のデモ隊に対して発砲、十四名が死亡した事件のことを指している。公判なしでの拘禁を認める政策に反対したデモであった。それに対する英軍の行動は「イギリス本国のアイルランドに対する暴力的抑圧」を体現したものであるとみなされ、報復を叫ぶ暫定派の規模人員を拡大させ、またアイルランド系アメリカ人のナショナリズムをも刺激して、一般市民からの募金もよく集まったようである。

 アイルランド系アメリカ人のコミュニティーは、現在でも大規模なコミュニティーのひとつである。コステロのように経済的成功をえたものから、警察官、消防士、軍人等の危険な職種につく者もある(コステロ自身も朝鮮戦争に従軍したことが追悼演説の中でも明かされている)。一口に「アイルランド系アメリカ人」と記しても、先述したようにカトリック系とプロテスタント系に分かれ、基本的にカトリック系がアイルランド系アメリカ人と称するのを好み、プロテスタント系移民はスコッツ=アイリッシュを指す(どうやらあまり正確な線引きではないようだが)。警察官や消防士、軍人などの職が多いのは、アメリカへの移民としては比較的後発組であったため、職種が、しかも危険が伴うようなものに限られていたという歴史的事情によるところが大きい。

 消防士マイケルのアパートメントがNY支部のアジトとなる。マイケルは本国での英国兵士暗殺に関与した為、アメリカに逃げ延びたお調子者のIRA兵士ルエリをかくまっている。マイケルの入隊面接も、このアパートメントにコステロが訪れて行われる。このときコステロはマイケルが魂を売って(組織に入って)手に入れるのは苦痛の日々であるとして、悪魔との契約によって、この世のあらゆる快楽をむさぼり続けたファウストの逆バージョンだと表現する。やるのは劇的なヒーローの役目ではなく、コステロ曰く「自分のやりたくないくだらないことであり」それを受けたマイケル曰く「自分の人生をおしまいにする」ことである。


 87年八月、エニスキレンの戦没者追悼集会の会場をIRAは爆破した。事件の中で一番若い女性犠牲者の父親は報復否定の姿勢をとり、この無差別な爆弾テロにより、IRAは世論から激しい批難を浴びることとなる。


 コステロはいった「戦争に必要なのは明確に道徳的な目標だ」と。道徳的である、ということは、一般的にその目標は正しくなければならない。

 さて、問題はその〈正しさ〉なるものの帰属先の問題である。

 道徳とは存在に対する正邪や善悪の規範であり、その道徳観は地域や歴史によってはまったく異なってしまう。プロテスタント‐カトリック、支配者と被支配者の関係性ともなればなおさらである。また道徳観や道徳感情は、利益や報酬の問題ではない。その行為が利益や報酬と直結するとき、それは道徳観や道徳感情とは無縁である。そしてIRAにとって統一アイルランドは、その戦いの末手にするべき利益や報酬ではない。彼らにとって統一アイルランドとは、本来自明の事柄であり、彼らの手にあるはずのものだからだ。IRAにとって〈正しさ〉なるものは統一アイルランドであり、分裂した北アイルランドとアイルランド共和国に〈正しさ〉は存在しない。しかも一向に正しくない時間軸の上に、彼らは存在しているのである。


 この和平合意に反対する一団が、分派してリアルIRA(真のIRA)を結成。98年8月15日に北アイルランドのオマーのショッピング街にて爆弾テロ事件を起こし、29名の一般市民を殺害。その三週間後、休戦を宣言する。


 内野聖陽演じるコステロは、真のIRAたりえたかといわれれば、否といわざるを得ない。それは裏切り者となった自分を処刑できずにいるマイケルに対し、肩に手を置きつつ、マイケルがIRA兵士であるということを諭しながらでも、だ。

 なによりもまず人間であることを自覚し、そして「父」であったと宣言したコステロの前に真のIRA――人間を廃棄した軍隊組織としてのIRAは敗北してしまうのである。とくにコステロがマイケルの入隊面接を行った際、自らその存在をメフィストフェレスとの契約によって、この世のあらゆる快楽をむさぼり続けたファウストの逆バージョンだと表現したにもかかわらず、である。むしろ人間であること、「父」であることは、まさにファウスト博士それなのだ。そして人間社会ではかくのごとく人間であったり「父」であったり、あるいは「母」であったり、時には「恋人」であることが要請される。

 ファウストは悪魔との契約によってこの世の快楽をほしいままにした。そして人間社会の中で人間であったり、あるいは「父」であったりすることは、まさに人間としての社会的欲求という名の〈正しさ〉を満たすことへの快楽であるのだ。それこそ、人間であり「父」である。コステロはエニスキレンにおける爆弾テロに対して動揺したのであったが、それはIRA兵士の一人として疑問を持ったのではなく、何度もいうように人間であること、「父」であることのためである。すでに組織や党派としての正しさで、コステロは判断していない。エニスキレンで看護師の娘を失った父親の、報復の否定を示す態度によって、IRA兵士そして〈ビッグ・フェラー〉としてのコステロは崩壊したのである。

 FBIに協力することによって、結果的にルエリとコステロらはIRAにとって裏切り者になってしまうのだが、しかし彼らはIRAが間違っており、FBIが正しいから協力しているわけではない。事実ルエリが提供した情報も、コステロが提供した情報も、IRAの仕掛けるテロ、その効果的抑止にはつながらなかった。FBIのような組織にしてみれば、下手に介入し組織が分裂、情報の蓄積のない組織が誕生するのはなんとしても避けたいところである。密通者も再度獲得しなければならない。しかもある程度の意思決定が可能な幹部クラスの人間を温存する必要さへある。ルエリにとっては己がIRAとしての自己顕示欲とそれによって生まれる金のためであり、嵩じて人間社会の社会的欲求という名の〈正しさ〉を満たすことへの快楽が追求される。

 そこで「俺だって何かをやったってことになる」というあの言葉が提出される。

 マイケルは唯一の良心に見えない事もないが、〈正しさ〉とは何か、と言う命題によってその〈正しさ〉からまたその反対にも肉迫できない。IRA兵士として「エニスキレンはまずかった」などと言ってはいけないのである。最終的に彼は消防士として9・11に関わることがほのめかされるのだが、マイケルは結局答えを見出せないままイスラームテロ組織の〈正しさ〉に直面してしまうのであろう。全編を通して純真な人格として描かれるマイケルであるが、彼が登場人物の中では最も性質が悪いことは疑いない。

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偶像と聖典 神崎由紀都 @patchw0rks

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