ペール・パープル・プール

トーシ

 体育に補習があるって知ってたら、もうちょっとがんばって、水泳の授業に出たのになあ。

 ──そんなことを思いながら、美沢春架は、重たい気分で更衣室の扉を開けた。湿った塩素の匂いがして、いっそう憂鬱な気持ちになった。

 

 栄凛高校では、6月下旬から、夏休みをはさんで9月上旬まで水泳の授業が行われる。ただ

女子の場合は、月に一度、かならず1週間見学になる生徒が多いため、見学した授業1コマにつき50メートルを5本、計250メートルを放課後の補習として泳ぐきまりになっていた。

 春架もいたし方なく、補習組だった。そのうえ、それがいつもより長くて、5回も授業を見学してしまった。だから1250メートルも泳がなくちゃいけない。水泳が苦手な春架にとっては、途方もない数字だ。


 プール横の更衣室では、水泳部の部員たちがおしゃべりをしながら、けれど手際よく水着に着替えている。肩身が狭いなあなんて考えながら、更衣室の奥まで行く。

 ふとそこで、彼女は丸い目をぱちくりさせた。紫の外はねヘアの女の子──クラスメイトの相良明日香がそこにいた。明日香はすでに着替え終わっていて、ヘアゴムで髪をひとつにまとめているところだった。

 

「明日香ちゃんも補習なの?」

「あっ春架! よかったー! この日まで補習受けてんの私だけかと思ってたわ」


 振り向いた明日香は、ヘアゴムをぱちんと弾いて、少しほっとしたような顔で駆け寄ってくる。そして、まだ1500メートルも残ってんのよね、と大袈裟にため息をついて見せた。

 明日香は、春架よりも長い間水泳の授業を見学していた。部活中に無茶なターンをして転倒、打ちどころが悪く、腕にヒビが入ったらしい。だからほんの1週間前まで腕にギプスを巻いていて、プールに入れなかったのだ。


「でも春架がこの日まで残ってるなんて意外」

「う、うん。なかなか放課後の予定が合わなくて……」


 補習は今日だけではなく、終業式の日の1週間前から始まっていた。生徒はその中で都合の合う日を選んで、放課後の補習に参加するのだ。明日香はみんなよりうんと長い距離が課されているため、何日かに分けて泳いでいるらしい。


 普段の春架なら、明日香のように計画的に補習に参加して、無理なく終わらせていただろう。でも水泳となるとどうしても気乗りしなくて、部活のミーティングやら家の用事やらと、何かと理由をつけてプールサイドから逃げていた。そして、終業式の前日まで引き伸ばしてしまったのだ。

 本当は今日だって来たくなかった。でも、ここでちゃんと泳ぎきらないと、夏休み中も水泳のために登校するハメになってしまう。

 

「春架は何メートル泳がなきゃいけないの?」

「えっと、1250メートルだよ」

「じゃあ同じくらいね。1000メートル超えはキツいけど、お互い頑張りましょ!」

 

 明るい声音の言葉に、頷く。ひとりじゃなくてよかった。けれどすぐに、心にじわりとブルーが広がった。

 大丈夫、終わりはあるんだから、と自分に言い聞かせながら、春架はもぞもぞと水着に着替え始めた。

 

 ◇


 夕方とはいえ、真夏のこの時間帯はまだ明るいし、からりと晴れて暑い。同じ水に入るなら、寒い中で入るよりも、暑い中で入る方が気持ちが楽だ。そう思うと、今日は一日中快晴だったから、幸運だったかもしれない。


 補習組は春架と明日香の2人だけだった。水泳部の部活もあるため、2人は水泳部が準備体操とシャワーを終えてからプールサイドに上がった。

 同じように準備体操をしたあと、冷たいシャワーを浴びて、いよいよプールに入る。まずは1往復、水温に体を慣らすために水中を歩く。そうしたらいよいよ、水泳開始だ。

 春架はプールの一番端の第8レーン、明日香は隣の第7レーン。プールサイドにいる体育の先生が、何往復したかを教えてくれる。


 競っているわけではないから、それぞれ好きなタイミングで、と言われたけど、自然と2人は同じ瞬間にプールの壁を蹴った。

 まずは蹴伸びから、少し進んだところでクロールに切り替える。春架は──上手くできているかはともかくとして──体育で教わった通りに腕を回し、水を捕まえて、前へ進んでいった。


 しかし、春架の視界の端には、自分よりずっと速いスピードで泳ぐ明日香の足が映っていた。

 明日香のバタ足で弾けた水泡が、春架のレーンまで流れてくる。

 あっという間に明日香は視界から外れてしまって、バタ足の音も消えて、春架の周りは耳が詰まるみたいに静かになった。


 春架は、これが苦手だった。

 夏の水は青色に見える。プールも、海も、にわか雨の色も。遠くから見てるだけなら、涼しげで夏らしい色だけど、いざ水中に入ってその色に覆われると、冷たさと寂しさを覚えるのだ。


 25メートルで返ってきた明日香とすれ違って間もなく、春架もプールの対岸に着いてUターンする。7レーンに見える水しぶきは、もうプールの半分に差し掛かっていた。

 フォームを崩さないように意識しながら、復路を泳ぐ。2往復目の明日香と、今度はプールの真ん中数メートル手前ですれ違った。


 いつもと同じだ、と春架は鼻の奥がつんとする感覚を覚えた。

 ただでさえ運動が苦手な春架は、その中でも水泳が特に苦手だった。水中では呼吸ができなくて怖いし、バタ足の推進力が弱いから速く泳げない。早く足の着ける場所へ行きたいのに、その25メートルが果てしなく遠い。隣のレーンのクラスメイトにどんどん置いていかれるのも、寂しくていやだった。

 スタート地点に着く。早くも、肩が小さく上下している。あと1200メートル。くらりとした。春架は無理やり呼吸を整えて、2往復目を泳ぎ始めた。


 ◇


「よっしゃー! 1500メートル!」

 

 遠くで、明日香が歓喜の声を上げるのが聞こえた。

 彼女は振り返って、対岸にいる春架に、無邪気に手を振った。小さく手を振り返したとき、校舎を向こうに、空が赤くなり始めているのが見えた。

 下校時刻が迫っている。ざわざわと、心臓が嫌な音を立てた。


 春架だって一生懸命に泳いでいる。でも、明日香が泳ぎ終えても、彼女のノルマはあと7往復もあった。

 体力は、もうほとんど残っていなかった。さっきからずっと、プールの途中で何度も足を着いて、また泳いでを繰り返すばかりだ。


 景色が滲むのをプールの水のせいにして、春架は小さく息を吸って、クロールを再開する。  

 フォームはもうボロボロだ。息継ぎを急ぐあまり、頭が上がって腕が落ちる。腕が落ちるから足が落ちて、バタ足が進まなくなる。

 もう、やめちゃおうかな。夏休みにプールに入るのはいやだけど、今だってすごく苦しい。


 でも──そうやって後回しにしたから苦しいんだと、春架は分かっていた。

 

「春架、大丈夫?」

  

 ふと、上から声をかけられた。スイミングキャップを脱いだ明日香が、春架の顔を覗き込むように、冷たいプールサイドに膝をついている。


「だいぶしんどそうだけど」

「ええと………ちょっとだけ。泳ぐの苦手だから……」

「今日泳ぎきらないとだめってわけじゃないんでしょ? 夏休みに出てくるのは面倒だけど、しんどいんだったら、今日は終わりにしてもいいんじゃない?」

 

 少し、迷った。

 夕陽が少し、傾いた。

 明日香はちょっとの間を置いて、再び口を開く。


「よし、じゃあ私が引っ張ったげる」

「ひっぱる?」

「そ、休んだ分泳げって言われてるけど、泳法は指定されてないんだし。ビート板使って、春架がそれ持って、私が逆から引っ張ったらすぐに終わるわよ」


 いいよね? と、彼女が体育教師に訊ねると、体育教師は首を縦に振った。


「でも、明日香ちゃんも疲れてるんじゃない……?」

「私は体力あるからへーきへーき! それに、春架にはこないだ宿題助けてもらったし、それの恩返しってことで」


 そう言うやいなや、明日香はビート板を引っ張り出してきて、ざぷんとプールに入った。紫の髪を結び直して、スイミングキャップを被る。


「あと何メートル?」

「350メートル、です」

「7往復だったらすぐに終わるわね!」


 頑張るぞ、と言わんばかりに、明日香はこぶしを空に上げる。つられて春架も、小さくこぶしを上げた。


 ◇


 3つ数えて、1つ息継ぎ。

 明日香の掛け声に合わせて、春架はクロールをする。ビート板のおかげで腕が沈まないため、ひとりで泳いでいたときよりも随分と楽だ。

 明日香の言う通り、7往復はあっという間だった。ちっとも進まないバタ足よりも、明日香が後ろ向きに歩きながら引っ張ってくれる方が速い。なにより、明日香が声をかけてくれるから、水の中でも心細さを感じなかったのだ。

 6.5往復泳いで、あとは復路25メートル。

 春架は、明日香にビート板を渡した。


「最後の25メートルは、自分で泳いでみるね」

「うん。あっちで待ってるわね」


 明日香は頷いて、水から上がる。

 第8レーン。大きなプールのすみっこで、春架は水泳ゴーグルのストラップを締め直した。

 

 下校時刻はとっくに過ぎて、水泳部も帰ってしまった。青い水中に、赤い夕陽が落ちていく。きらきらと小さく波打ちながら、水が、紫色に滲んでいく。

 薄紫の中、春架は行き先をまっすぐ見た。


 両足で壁を蹴り、泳ぎ出す。まずは蹴伸びから、少し進んだところでクロールに切り替える。

 バタ足の力ではなく、腕が水を捕らえる推進力で前に進んでいく。不思議と、息ができないことへの恐怖心はなかった。ただ泳ぐことだけを考えていた。


 そして、25メートルの終わりを示すT字の線がプールの底に見えたとき、春架は自分の指先からつま先までが熱くなるのを感じた。

 ゴールの壁にタッチして、水面に顔を出す。胸いっぱいに息を吸うと、水気を含んだ塩素の匂いがした。


「春架、おつかれさま!」

 

 明日香が、プールサイドから手を差し伸べてくる。

 終わった。終わったんだ、やっと。

 ゴーグルを外すと、夕空の鮮やかさが沁みた。鼻の奥がつーんとして、目の奥まで熱くなる。

 春架は大きく頷いて、明日香の手を握った。そのまま明日香は、春架を引っ張り上げる。


 ──ただ、春架も明日香もへとへとに疲れていた。だから、春架が少し体重を預けた瞬間、明日香の体がぐらりと傾いて、そのままふたりして水中に落ちた。


 水面に、ざぱん、とひときわ派手な水飛沫が上がるのが見えた。

 それから。紫の中で、明日香の紫の髪がゆらゆらと翻って、春架の紫の瞳に、不思議と鮮明に映っていた。


 水中から顔を出した明日香は、ごめーん、と謝りながらも、楽しそうに笑っていた。すっかり体は冷えてしまったから、帰りに温かいものでも飲んで帰ろう、と言い出したのは、どっちだっただろうか。

 直前の言葉を思い出せないほどに疲れきっていたけれど、今日の薄紫のプールのことは、きっと忘れない。

 春架は明日香と並んで、プールをあとにした。

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ペール・パープル・プール トーシ @little_by_litte

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