終章 別れ

しばらく、高見沢美代子のことで、もちきりだった新聞や雑誌も、新たに事件が起きて、もうその話題はどこかに消えてしまった。おおよそ、事件というものはそうなっていくのだろう。それは、歴史上の事件でも同じだから。歴史に関係なく、社会に残る事件なんて、曽我兄弟の仇討みたいな、大掛かりな事件で無いとならない。

優と繭子さんにも、盛んに警察がやってくるかと思ったら、割と高見沢美代子が供述したのは早かったようで、優が何もしていないというのは、すぐに警察に認められたし、そこさえわかってしまえば、あとは別に警察は優と繭子さんの元をしつこく訪ねてはこなかった。最も、これは繭子さんが重度の障害者だったために、警察がした配慮かもしれないが。

いずれにしても、優と繭子さんの生活は、すぐに、平常通りに戻ってしまったのだった。それは、良かったのか悪かったのか、なんだかよくわからない。

その日、のび子が、飲み物を買うために、かわのやの客室を出て、廊下に出ると、車椅子の音がして、優と繭子さんが近づいてきたことがわかった。

「あら繭子さん。今日はまたお散歩ですか?」

のび子が聞くと、

「いえ、繭子がどうしても水穂さんに話したいことがあるそうなんです。」

と、優が言った。

「水穂さんは、今ちょっと。」

のび子は正直に答えたのであるが、

「一度だけでいいです。繭子を、水穂さんにあわせてやってくれませんか?」

と、優に言われて、

「そうね。本当に少しなら構わないわ。」

と言って、自分たちの居室に、優と繭子さんを入らせた。

「あれれ、お前さんたち、お二人で一体どうしたの?なにか、重大なことでもあったのか?」

と、杉ちゃんが二人をからかうように言った。

「あああ、ああ。」

と、繭子さんは、なにかいいたそうな顔をして、水穂さんをじっと見ている。

「そうなんだねえ。わかった、おい水穂さん、起きてくれよ。お願いしますよ。」

杉ちゃんがでかい声で言ったため、水穂さんがは目を覚まして、よろよろと布団の上に起きた。最近かわのやの仲居さんの間にも、噂されているのだが、水穂さんは、疲れ果てていることがわかった。療養のために来ているのであるが、なんだかそれが逆効果だったのかもしれない。ここで、生活しているのが、疲れてしまっているようなのだ。

「なにか、僕に言うことがおありますか?」

と、水穂さんがそうきくと、

「ああ、ああ。」

繭子さんは、一生懸命なにか言おうとしているのであるが、どうしても、言葉にならないのだった。それは本人にもわかっているようで、自分で言葉を話せないことに苛立っているようだった。のび子は、わかったわと国語辞典をカバンから出して、テーブルの上に置いた。繭子さんは、五十音の一覧表を見て、さ行で頷いた。そして、さ行の三番目の音、すで頷いた。のび子が、すで始まる単語を一つ一つ指さしていく。繭子さんは、「好き」という言葉で頷いた。

「好き。誰のことですか?」

と、水穂さんが聞くと、今度はいきなりあの音で頷いてくれた。のび子は、あから始まる単語を一つ一つ指さしていくと、「あなた」という言葉の前で繭子さんは頷いた。

「つまり、あなた、好き。でも、具体的に誰のことなんですかね。」

と、杉ちゃんがちょっとからかい半分で言うと、繭子さんは、真剣な目つきで水穂さんをじっと見つめた。それはいくら手も足も動かせない女性であっても、恋する乙女の顔だった。

「水穂さんのことですか?」

のび子が聞くと、繭子さんは三回頷いた。それをするくらいだから、まず間違いないだろう。一方付き添っていた優のほうは、繭子さんがやっと、彼女が自分の言うことを、話してくれたという気持ちで嬉しく思った。

「そうですか。つまり、繭子さんは、水穂さんが好きなんですね。彼のこと、本当に好きなんでしょう?それは、消してはいけませんよね。」

のび子は、繭子さんが言いたいことを、自分が伝えられることで、なんだか、自分が重大なことをしてあげたような気がした。世の中には、当たり前のことができない人もいる。だから、その人のお手伝いをすることを、生きがいにしてもいいなと思う気がする。

「繭子さんのその気持に、偽りは無いわよね。」

「ああ。ああ。」

繭子さんは、のび子が伝えてくれたことを、本当に嬉しいと思っているようだ。それはそうだろう。自分の言いたいことを人に言えなくて、ずっと閉じこもっていたのが、人の手を借りて話せる様になったから。

「そうですか。繭子さんの気持ちはよくわかります。あなたが、僕のことを好きになってくださったことは、すごく嬉しいです。」

水穂さんは、繭子さんにそういった。繭子さんは、また辞書に目をやる。のび子が、ひらがな五十音を指さしていくと、繭子さんは、つで頷いた。そして、今度はつで始まる単語を追っていくと、つきあうという言葉で繭子さんは頷いた。

「付き合う。つまり、繭子さんは、水穂さんに私と付き合ってといいたいのね。」

のび子は、繭子さんが次の単語を言う前に、繭子さんの言葉を当ててしまった。繭子さんは、この上なくニッコリする。それは、繭子さんの言葉そのものなのだとのび子は思った。

「繭子さんは、水穂さんのことが好きだそうです。そして、付き合ってほしいと言っています。水穂さんもお返事を出してあげてください。」

のび子は、水穂さんにそう通訳した。水穂さんにできるだけこういうことを、伝えてあげたいと思った。水穂さんは、布団に座ったまま、少し考えて、

「そうですね。好きになってくださってありがとうございます。ただ、ご覧の通り、体が思わしくありませんし、それに、僕みたいな人間と付き合っても、とても不利なものが生じてしまうと思います。あなたが、僕と付き合うことによって、あなたの良さまで誤解されてしまったら、僕も困ります。そうならないように、お付き合いは、できないです。」

と、繭子さんに言った。のび子としてみれば、繭子さんと付き合ってもいいし、体が回復したら、繭子さんと定期的にあってもいいと思ったのであるが、水穂さんはそれができない様子だった。

「この、銘仙の着物が何よりの証拠です。繭子さんのような重度の障害者が、僕のような銘仙の着物を着ている人間と付き合うなんてなったら、重大な障壁ばかりで、多分成就できないですよ。」

水穂さんは、そういったのだった。繭子さんは、また国語辞典をみた。のび子は、また五十音を指さしていくと、今度は、あの音で直ぐに頷いた。そして、あで始まる単語を追っていき、あいという言葉の前で頷いた。漢字を見てみると、愛という漢字だった。つまり、愛しているということだ。こんなに、愛されて、水穂さんも答えてやらなければだめなのではないかと、のび子は言おうとしたが、

「そんな事考えていはいけませんよ。僕は、日頃から、汚いとか言われてきた身分なんです。だから、もし付き合ってしまったら、あなたまで同じ身分と言われてしまうことになる。それでは、繭子さんも傷つくでしょうし、僕も、悲しくなりますし、まずはじめに、僕が、繭子さんを傷つけた責任を負わなければなりません。僕は勝手なことを言っているのではないのです。繭子さんが傷ついては嫌だから、そう言っているんです。だから、付き合わないほうが良い。そう思っているんです。」

水穂さんは、そういった。冗談を言っているとか、そのような顔では無い。水穂さんも繭子さんに対して、真剣に言っているようだ。そこが、繭子さんへの、唯一の救いのように見えた。

「繭子さんのことを、重度の障害者であり、愛していないとか、そういうことを言っているのではありません。僕は、繭子さんがこれ以上つらい思いをしないようにという意味で言っているんです。繭子さんは、焼身自殺を図るほど、傷ついていらっしゃるんですから。それ以上、傷つかないほうが、幸せになれます。」

優は、自分は何も言わないでおこうと思った。繭子さんが自分で踏ん切りをつけるまで、手を出さないほうが、良いと思ったのだ。

「決して、繭子さんのことを、バカにしているとか、そういうことはありませんから。安心してくださいね。」

と、水穂さんは、優しい表情で繭子さんに言った。繭子さんは、一気に顔が崩れ落ちて、泣き出してしまう。

「うう、あ。」

それだけしか言えない繭子さんに、のび子は、そっと繭子さんの顔を拭いてあげた。

「でも、好きだと言ってくれて嬉しいです。ありがとうございます。」

水穂さんがそういうと、繭子さんは、涙をこぼして泣いた。いくら体を叩いても、涙は止まらなかった。繭子さんにしてみたら、自分の好きになった相手にこんなことを言われて、悲しい事この上ないに違いない。でも、これも、繭子さんが乗り越えて行かないきゃならない問題だとのび子は思った。

「大丈夫よ。繭子さん。きっとそのうち、あなたのことを、好きになってくれる男性が、現れるから。繭子さんは、それを待ってくれればいいのよ。」

のび子は、にこやかに笑った。恋愛の問題は、それしか解決方法が無いのであるが、歌謡曲の題材になるほど、解決しにくいものであった。

「大丈夫大丈夫。私だって、学校で憧れている先輩に告白したら、サラリと振られちゃったことだってあるわ。」

繭子さんにしてみれば初恋なのかもしれなかった。

「まあなあ。きっと水穂さんは、お前さんが歩けないから嫌いだとか、そういうことは一切考えてないよ。そういう事考える人では無いからね。ただ、繭子さんも僕も、歩けないから、人の助けが必要だよね。だから、そういう人間だから、余計に傷つきやすいよね。水穂さんは、それをしないようにと言ってるんだ。それは水穂さんの想いでもあるんだ。今はわからなくてもきっと分かる時が来るよ。まあ、わかってしまえば、意外に簡単なことでもあるよ。それを楽しみに待ってようね。」

杉ちゃんにそう言われて、繭子さんは、一言、

「ああ。」

と答えた。それはきっと泣きながらハイと言っているのだろう。

「あの皆さん、お夕食の用意ができましたよ。」

と、仲居さんが、夕食を持ってきてくれた。杉ちゃんが、じゃあ今日はここで晩餐会をするか、といったため、全員同じ部屋で夕食を食べることになった。水穂さんは疲れた表情で、繭子さんの隣に座ってくれた。繭子さんは、自分の前に置かれている肉の塊をじっとみた。のび子は、水穂さんには食べられ無いと言うと、杉ちゃんがじゃあ僕にくれと言ったので、のび子は杉ちゃんに渡してしまった。

「あ。」

繭子さんは、そう言っているが、杉ちゃんは平気な顔をして、肉の塊を食べてしまった。

夕食が終わったので、優と繭子さん、杉ちゃんたちはそれぞれの部屋に戻った。その後、繭子さんがどうしたのかは、のび子は知らないけれど、きっとにいにが水穂さんの言う通りにしろと説得してくれているのだと思った。繭子さんは、何も喋れないが、誰か通訳を通してやっと喋れる。それに自分で車椅子を動かすことだってできないのだから、きっと納得してくれるに違いない。女は意外に早く立ち直れるものだから。そしてのび子は、繭子さんのような重度の障害のある人を、応援してあげられるような、そんな人間になりたいと思った。そういう人を応援するために、なにか資格がとれたらうまくいくのではないか。のび子は、部屋の中でそう考えていた。

翌日の明け方。

のび子が、さあぼちぼち起きるかなと思っていると、水穂さんが咳き込んでいる声がした。のび子は、すぐ布団から起きて水穂さんどうしたのと聞くが、答えは返ってこなかった。水穂さんは、激しく咳き込み、隣にいた杉ちゃんが、急いでちり紙を口にあてがったのと同時に、赤い液体が口元から溢れ出た。

「このまま東京か、千葉の病院に連れて行っても意味ないと思う。救急車を呼んでも、絶対成功しないよ。」

「そうね。それなら、静岡へ戻りましょう。私、柳沢先生に連絡しておくわ。」

杉ちゃんとのび子は、そう言い合って、すぐに、帰り支度を始めた。ストレッチャー付きの介護タクシーを呼ぼうかと思ったが、それを待っているのは大変だと杉ちゃんが言うので、もう小湊鐵道の始発列車で、帰ろうと言うことにした。かわのやの大女将さんに話して、とりあえず、宿泊費を払った。杉ちゃんたちは、養老渓谷駅へ行くと言ったが、女将さんが五井駅まで送りますと言ってくれた。かわのやのマイクロバスのようなワゴン車で、とりあえず五井駅まで送ってもらうと、朝一番の特急列車が待っていたので、杉ちゃんたちは駅員に頼んでそれに乗っけてもらって、東京駅まで乗っていった。

繭子は、隣の部屋がなにか騒がしいことに気がついた。すぐに兄の優に話したかったが、優は、

「大丈夫だ。水穂さんは、無事に静岡へ帰れるよ。」

と、だけ言ったのであった。繭子さんはびっくりして、

「にいに。」

と小さくて、ちょっときつい言い方をしたのであるが、優は、こうなってよかったと思った。

「僕達は、水穂さんと付き合うことはできないんだ。それが、繭子にとっても、一番大事なことだと思うよ。繭子は、水穂さんと、一緒に付き合うことはできないんだということを、覚えておかないと、これから生きていかれないじゃないか。繭子もそれを受け入れないとね。」

優は優しくそう言っているが、繭子さんはまた涙をこぼし始めた。

「繭子、辛いかもしれないが、この気持は、なんとか乗り越えていかなくちゃ。あの杉ちゃんという人が、そう言ってたじゃないか。もしかしたら、新しい恋愛ができるかもしれない。そのための時間なんだと言うことを考えよう。」

優は、そう言って繭子さんを慰めたが、繭子さんは、涙をふこうともしなかった。

「きっとなにか、新しい出会いができるかもしれないよ。それできっとまた変われるさ。さあ、僕達も朝ごはん食べに行かなくちゃ。そして、また養老の滝まで散歩に行こう。」

優は介護者らしくそういったのであるが、

「ううあ。」

繭子さんは、なきながらそういうことを言った。他に客がいないのが、優は良かったと思った。繭子さんはその後、わあーっと声をあげて泣いてしまうのではないかと思ったのである。

「うう、あ。」

繭子さんはそういった。でも、それ以上泣くことはなかった。繭子さんは、なにか考えついたようで、

「ううう。ああ。」

と言いながら、一生懸命考えているらしい。優は、それを邪魔することなく見守った。

「にいに。」

と言われて、優は繭子さんを見た。繭子さんは、笑っていた。にこやかに笑っていて、もう吹っ切れたのかなと思った。もし、繭子さんが言葉を喋れたら、どうなるのだろうか。それを喋ることができたら、どんなにいいだろう。でも繭子さんにはできないのだった。歩けない人間がどんなことをしても、立ち上がれないのと同じだった。繭子さんは、言葉は言えないけれど、それでも自分でなんとかしようとしているのである。

「にいに。」

繭子さんはもう一度いった。それでは、もう水穂さんのことはいいとでも思ってくれたのだろうか。それとも水穂さんの思い出を大事にして、他の人間を探そうとでも思ったのだろうか。それは口に出して言えないが、繭子さんは、きっとそういうことを考えている。

一方、杉ちゃんたちは、東京駅からは新幹線である。一度は席に座ろうと思ったが、車掌さんのご好意で、多目的室という部屋があり、そこを貸してもらった。新幹線で、一時間程度で東京から、新富士へついた。全く新幹線はなんて速いんだろうと、のび子も杉ちゃんも口にしたくらいだ。駅に着いて、駅員に助けてもらいながら新幹線を降りると、ジョチさんが小園さんと一緒に、迎えに来てくれた。のび子が、新幹線の中でメールで知らせて置いたのだ。それができるから、今の世の中というのは本当に便利なものである。ボタン一つで何でもできてしまうのだから。杉ちゃんたちは、水穂さんを座席に座らせて、小園さんの運転するワゴン車で、急いで製鉄所に戻った。製鉄所の中には柳沢先生がいて、水穂さんを待っていてくれた。柳沢先生に飲ませてもらった薬で、水穂さんは楽になってウトウト眠っている。

「やれれ。今は、スマートフォンで何でも連絡が取れちゃうからいいもんだな。もうのび子さんが用意周到。さっさと行動してくれて嬉しかったよ。」

布団で眠っている水穂さんを見て杉ちゃんはカラカラと笑った。

「何しに行ったんだろうね。水穂さんの具合が悪くなって、帰ってきちゃうなんて。」

「まあそうかも知れないけど、あの繭子さんはきっと水穂さんにあったことがきっかけで、間違いなく変わって行くと思うわ。そして私も、なにかしてみたいなと思ったわよ。」

杉ちゃんが言うと、のび子は、答えを出した。

「はあ、珍しいねえ。のび子さんがそんな事言うなんて。」

杉ちゃんがのび子をじっと見る。

「そうかしら。私は、いつもと変わらない、須田のび子だけど?」

のび子が杉ちゃんに言うと、

「そうか。その変わったことに本人が気が付かないってことは、実は素晴らしいことだとだけ伝えておくよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「私、誰かの間に立って話をするってことが、こんなにすごいことだとは思わなかったわ。繭子さんと話してみてそれがよくわかったの。この体験を何かにして、それで人の役に立てたらいいと思う。」

「そうかそうか。まあ、目標が決まったから、それはいいってことにしておこうかな。あれほどつらそうにしていたのび子さんが、こんなに変わっちまうとはな。水穂さんもたまには役に立つね。」

杉ちゃんに言われてのび子は、

「もうそんな事言わないでよ。あたしはただ、あたしが勝手に思いついたことを言っているだけで。」

と、ちょっと照れくさそうに言った。

ここで、話をまとめて置くと、のび子は精神疾患こそあるが、手や足は動くという特徴があった。一方の村瀬繭子さんに至っては、足も手も不自由で人の助けなければ生きていられないのだ。自分の足で動ける人間は、こういう重大な面に直面すると、前向きに考えることが可能である。でも、できない人間には大変なストレスになるということを申し上げておきたい。




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ピクニック 増田朋美 @masubuchi4996

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