貴女の犬より

先山芝太郎

貴方の犬より

 ぼくは行かなくてはならない。


 それは、ほかの誰でもなく君と、そしてぼくのためだ。


 きみがこの手紙を読んでいる頃、多分、ぼくはもうこの世にはいないのたろう。


 不謹慎に思われるかもしれないが、ぼくはこの度の戦争を幸運だと思っています。


 君と離れる口実が出来たから。


 誤解しないで。決して君を疎んじてのことではありません。


 ぼくは君よりずっと先に大人になって、君より先に老いて死ぬ。それはぼくら一族のさだめだから、特に異論はありません。


 でも老いて衰えて行く姿を、弱りきって死ぬ様を君に見られるのはつらい。それを見て君がなくのはもっと辛い。


 猫たちは死ぬ姿を、人には見せないというね。ぼくもそれに習おうと思います。


 君はきっと怒るだろう。どうかわがままを許してほしい。


 ぼくの親友。ぼくの恋人。ぼくの妹。ぼくの姉さん。愛おしい人。恋しい人。憎らしい人。素晴らしい人。


 誰より近い人。


 そして誰より遠い人。


 さよなら。


 きっときっと、幸せに。





 貴女の犬より。



 ***




 ぼくが輸送兵にその手紙を手渡した時、彼はひどく驚いた様子だった。ぼくたち狗頭族は短命ゆえか、まったくと言っていいほど勉学に意義を見出さない。狗頭族の大半が日々の生活に追われながらその短い生涯を終える。だから狗頭族には読み書きの出来る者がほとんどいないのだ。大体、見るからにケダモノじみたぼくらの顔からはあまり知性が感じられない。彼が驚くのも無理はないだろう。


 宛先にはもっと驚いたろう。国内でも有数の大貴族だ。貴族に囲われている狗頭族は別に珍しくはないが、そんな連中は普通こんな最前線まで来たりしない。貴族という連中は、羽振りがよさそうに振る舞っていたって自分の所有物を無駄にはしないのだ。


 若い輸送兵は、必ず届けると請け合ってくれた。けれど前線からディアナの暮らすのどかなあの街まではとても遠い。ただでさえ戦時で流通経路も混乱しているのだ。手紙が届いた頃にはとっくに戦争も終わっていて、ぼくは多分戦死しているだろう。さもなきゃ、老衰で死んでる。ぼくはもう十七だ。狗頭族としてはもう老人。それなのにこんなところで命を削っているのだ。たった二十年しかない寿命は、もう随分縮んでいるだろう。


 貴族に引き取られた狗頭族っていうのは幸運だ。ぼくたち狗頭族は奴隷階級だから、ロクな食事も与えられず息絶える同族も珍しくはない。だけど貴族は気に入って引き取った狗頭族を丁寧に扱う。その中でもぼくは取り分け幸運だっただろう。ディアナはお転婆だったが、優しくて寂しがりやだった。いつもどこでも、ぼくを連れて回った。彼女に付き合って、ぼくはいつの間にか読み書きが出来るようになっていた。


 彼女に出会えた幸運を、ぼくは心から神に感謝しよう。


 だから別に死にたいわけじゃない。


 だけど。


 ***


 社会においてのぼくらの立ち位置を表現するのに、奴隷っていう表現は少し違和感が残る。そうだな、どちらかと言えば、家畜、が適切かも知れない。


 ぼくらは一度に一人しか子供を産めない人間と違って、大体二人から四人くらい同時に産まれてくる。成長も人間なんて比較にならないくらい早い。人間の子供の首が座った頃には、ぼくらは乳離れして、自分の足で歩き、言葉を話し始める。妊娠から出産の周期も早い。狗頭族の女は、一生で十何人、下手すれば数十人の子供を産むのだ。で、そうして産んだ子供を、彼女たちは大抵手離すことになる。代わりに手にするのはいくばくかのお金。それがぼくたち狗頭族が奴隷としての暮らしから抜け出す、数少ない手段のひとつだ。


 ぼくもそんな狗頭族の女に産み落とされ、売られたクチだ。ぼくの気性は小さい頃から大人しく従順で、自慢じゃないけど金色の毛並みは美しかった。遊び相手を探していた貴族のお嬢様は一目見てぼくを気に入った。その日からぼくは彼女の子分になった。


 女の子の名前はディアナと言った。国内でも有数の大貴族の娘さんなんだそうだ。でも末っ子だった彼女を、旦那様も奥様も放任して甘やかしていたもんだから、気付いた時にはディアナは手の付けられないお転婆娘になっていた。


 彼女が野山を走り回るようになった頃には、ぼくはもう青年になっていた。本当はディアナの方が年上なんだけど、ぼくたち狗頭族は大体三年から五年で大人になる。下手すれば時間単位で大きくなっていくぼくに、彼女はいつも地団太を踏んでいた。


 それを見てぼくは笑った。皆も笑っていた。


 その時が、気付かなかった。それがこんなにも悲しいことだったなんて、思いもしなかったんだ。



 ***



 思春期を迎えたディアナは、少女の蛹を破って女へと変貌していった。彼女は日増しに美しくなった。ぼくは変わらなかった。少なくとも、ヒトから見てぼくの変化は微々たるものだったろう。でもぼくは、着実に自分が老いて行くのを感じていた。


 現実は残酷。ぼくは気付いてしまった。どんなに思っても、ぼくとディアナの間には時間という深い深い溝が存在するってことに。


 その頃から、ぼくらの関係は少しずつ変わっていった。


 ディアナはヒトのクセして同類が嫌いだった。大貴族の娘なんかに産まれれば、汚いものも山ほど見たことだろう。


 ぼくたちは時々、小鳥の交歓みたいなキスをして、ひと時の恋人ごっこを楽しんだ。


 それはぼくにとって夢のような時間だった。思春期の気の迷いでも、それで構わなかった。


「あなたより素敵な男はこの世にいないわ」


 彼女はそう言ってぼくにキスをするんだ。


 でもぼくは知っていた。ぼくは最低な男だ。


 ぼくは必ず君をひとりぼっちにして、去っていく男だ。


 絶対に幸せな結末など訪れないと知っているのに、それを伝えないひどい男なんだよ。


 でもどうかディアナ。


 せめてぼくの命が続く内は。


 夢から醒めないで。

 



 ***



 狗頭族が奴隷をやめる方法はもう一つある。それは軍人になるってことだ。


 寿命が短いっていっても、狗頭族は生涯現役だ。頑丈さも五感も身体能力も、人間なんて比較にならないほど優れている。しかも命令には従順だし組織に組み込まれることに抵抗がない。加えて読み書きが出来ないから、人間の出世を脅かす心配もない。


 だから狗頭族は軍に入ると概ね歓迎され、厚遇される。特に子供を産めない男の狗頭族は軍に入るのが多い。どうせ元々短い命だ。狗頭族は、平気で命を安売りする。


 でも戦場っていうのは地獄だ。特に鉄砲ってものが普及してからはひどい。前からも後ろからも、鉛の弾がすっ飛んできて、いつ自分の体を貫くかわかったもんじゃない。


 鉄砲っていうのは、これがなかなかタチの悪い武器で、頑丈な皮や鉄の鎧を貫くくせに、腹や骨の中にはうまいこと残るんだ。こんな前線じゃ、まともな治療なんて期待できない。鉛の弾の入ったあたりから、血と肉が徐々に腐っていく。よしんば体の奥に入った鉛玉を取り出せても、出血がひどくて兵士としちゃもう使いものにならない。前線に転がっているのは敵兵の死体だけじゃない。そうやって遺棄された仲間の死体もごろごろ転がってる。



 ぼくたち狗頭族は匂いに敏感だ。最初は何度も吐いたが、もう慣れた。今では死体の山の前だって、平然と食事を掻き込める。


 運がいいのか悪いのか、ぼくは今のところ鉄砲玉の犠牲にはなっていない。生まれ持った身体能力に任せて、何人も殺した。人を殺すのは簡単だ。殺されるのも簡単だ。でもぼくは今は殺されちゃいない。未練なんてとうに捨ててきたし、死ぬために戦場に来たはずなのに。


 早く死ななきゃならないんだって、本当は分かっているんだ。


 でも、



 ***



 戦況は徐々に悪化していった。これまでにない大勢に、味方は一人、また一人と倒れ、命を落としていった。


 前線は徐々に押し込まれ、あわや王都決戦かというところまで来ていた。


 王都へ向かう最後の城壁を背後に、その戦いは凄惨を極めた。


 でもぼくは引かなかった。槍が折れたら、死んだ上官の腕を引きちぎって振り回した。ガントレットを付けた腕はちょうどいい鈍器になった。何発もの弾丸がぼくの体を貫き、槍の穂先がぼくの肌を貫いた。


 痛くはなかった。流れる血も、溢れる汗も、気にはならなかった。


 この城壁の向こうには、ぼくとディアナの故郷があった。


 のどかで綺麗な草原だった。毎日飽きもせず、野原を、丘を、笑いながら駆け回った。


 そこは神聖な場所だった。


 土足で踏み荒らされるなんて、我慢がならなかった。


 ぼくは狗から、狼に変わった。


 でも狼でいられたのはその日が最後だった。



 ***



 気付けば血の匂いが渦巻く荒野でごろりと寝そべっていた。


 あるいはぼくは、夢を見ていたのかも知れない。


 思わずえずきそうになろうくらいの死臭の中、ぼくはすぐそばにひどく懐かしい匂いを感じていた。


 ぽつ、ぽつ、と雨がぼくの鼻先を濡らしていた。


 雨はしょっぱい味がする。


 ああ、もうほとんど目が見えない。でもはっきりと分かるんだ。


 あんなに嫌だと思ったのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう?


 死にゆく姿を、朽ちて行く命を看取られることが。


 ぼくのために、君が泣いていることが。


 どうして。



 どうしてこんなにも、




 幸せなのだろう?






 ***



 わたし達人間と、狗頭族では表情が全然違う。


 だって彼らの顔と来たら、まるっきり犬なんだもの!


 でもわたしはちゃんと分かっているわ。他の人には同じに見えても、悲しい顔、怒った顔、楽しい顔、嬉しい顔。彼らは案外と表情豊かだ。


 今だってこんなにも。


 幸せそうな顔をしている。


 わたしは――、ずっと傍にいてくれたその狗頭族の青年に、小鳥のついばむみたいなキスをした。


 わたしが色気づいた頃から、何度も繰り返してきた儀式だ。これをやると、彼はいつもくすぐったいみたいな、嬉しいみたいな、なんとも言えない表情をする。


 わたしはそれが好きだった。


 貴族の暮らしは窮屈で、疑いと謀略に満ちている。


 だからこそ、貴族は狗頭族を愛してやまない。彼らは裏切らない。決して裏切らず、最期まで主のために死んでいく。


 彼が軍の最前線に志願したと初めて聞いた時、わたしは両親を詰った。


 なぜ止めなかったの。なぜ行かせたの。どうして、どうして黙っていたの。


 お父様もお母様も悲しそうな顔をしていた。



 しょうがないのよ。狗頭族の命は短いから――これがあの子の望みなのよ。



 分からないって思った。


 あいつはとうとうわたしが嫌になったのだろうか。


 わがままなわたしに愛想が尽きたのだろうか。



 本当は違った。わたしは何も分かっていなかった。


 狗頭族の一生は短い。


 わたしが大人になった時。彼は死んでしまう。


 だから彼は離れたのだと。わたしに老いて死んでいく姿を見られたくなかったのだと。


 ばあやがそう諭してくれた。



 わたしは。



 だからわたしは。




 ***



 ディアナという名は、概ね婦人の鑑として語られる。


 当時その国は戦争の渦中にあり、前線では毎日何人もの死者が出たという。ディアナは大貴族の令嬢でありながら両親の反対を押し切り、自ら志願して従軍看護師として前線の要塞に入ったという。故郷を守りたいという強い意志であったとも、貴人の義務ノブレス・オブリージュ故であったともされるが、結局何故彼女をそこまでかきたてたのか、語られることはなかった。


 彼女は戦場を生き抜いて、戦後両親の勧めで結婚。四人の子供に恵まれ、八十二歳でこの世を去った。


 偉大なる貴婦人の死に、国葬が開かれたほどであった。死後百年が経ち、貴族制度が廃止された今でも、彼女が生まれ育った故郷では、その銅像が人々を見守り続けている。


 さて。話は変わるが、彼女の死後しばらくすると、ある戯曲が流行するようになった。


 それは貴族の少女と狗頭族の青年の道ならぬ恋の物語。


 そのモデルとなったのが、他ならぬディアナと、かつて彼女に仕えていたという狗頭族の兵士だ。


 寿命と身分の差を鑑みて身を引き、戦場へと身を投じた青年を追って、貴族の娘もまた戦場に身を投じる。


 幾多の困難の末二人は再会を果たすが、時既に遅く、青年の命の灯は短命の種故に間もなく消え去ってしまう。


 ヒロインの涙の内に幕は閉じる――というストーリーなのだが、オリジナルの脚本には、その後にヒロインのこんなモノローグが付け加えられていたという。




 ***




 お手紙拝見しました。


 ふざけたこと抜かしてるんじゃないわよ。何よ「この手紙を読んだ頃には」って。ちょっと小説の読み過ぎなんじゃないの!?


 あと、貴女の犬よりって最低なセンスね! まるでわたしが変態じゃないの!


 説教してやるから覚悟してなさい。


 あなたが戦場のどこにいようと、必ず見つけ出してやるわ。



 なんてね。ちょっとバカみたいね。


 何が悲しくて、十年前に出された手紙にこんな返事を出してるんだか。



 ねえ、あなたの人生は、とても短かったわね。わたしにも、あなたがいた頃のことが、とても遠く感じられるわ。


 もしどこかで見守っているなら、どうか答えて欲しいの。



 わたしの親友。わたしの恋人。わたしの弟。わたしの兄さん。愛おしい人。恋しい人。憎らしい人。素晴らしい人。


 誰よりも近い人。


 そして誰よりも遠い人。



 あなたは、幸せだった?


 わたしは幸せだったわ。


 今幸せよ。


 これからもきっときっと、ずっと幸せよ。





 追伸




 三人目に産まれた、初めての男の子には、あなたの名前をお借りしました。


 旦那様には申し訳ないけど、初恋なんだもの。


 少しばかり、こじらせたって、許されるとは思わない?

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