Arne

井上 カヲル

Arne

平成三十四年九月三日

彼女は黒いセーラー服に太いハイヒールを履いた黒髪短髪の透明少女。今まさに駅のホームに飛び込む寸前。電車の警笛が鳴った。

次の瞬間、すぐ後ろに並んでいた僕は彼女の腕を掴んだ。

腕を掴まれた彼女は、大きく透き通った目で僕を見た。少し泣いているようだった。

「大丈夫?」と僕は尋ねた。

「うん」彼女はか細い声で言った。

これが僕と彼女との出会いだった。

「とりあえず座ろうか」僕は彼女の手を引いて、ベンチに座らした。彼女は恐ろしく無抵抗で、無気力の様に見えた。「大丈夫?」と僕はもう一度尋ねたが、次は反応がない。

しばらくして、周りで見ていた人が駅員を呼んできた。僕は一部始終を説明した。そして、駅員さんに引き継ごうとしたとき、

「あの人私の彼氏なの、だから大丈夫」と彼女が僕を指差して、言った。

そして次の瞬間、僕の手を引いて改札まで走り出した。駅員さんは呆気に取られてしまった。僕も呆気に取られたまま走っていた。改札を通り、(正確には彼女はジャンプして改札を飛び越え、僕はスイカをタッチした)すぐ隣の薄暗い高架下を通り抜けた。


しばらく走り、僕たちは大きな公園まで来た。区立の公園で中心に小山があり、遊具もちらほらとある公園だった。十一時の公園には子供たちの姿はまばらで、若い主婦達がベンチで世間話をしていた。

もう僕はヘトヘトだった。それにもかかわらず、彼女は芝生に寝そべって、

「楽しかった」と笑いながら言った。

先ほどとは打って変わった表情とその余裕そうな表情に、僕は驚いた。

「私ね、死ぬ気なんてなかったんだよ」と彼女が言った。「でもあなたが止めたから頭が真っ白になっちゃって、」

「それで逃げたの?」と僕は尋ねた。

「うん」と彼女は答えた。「名前はなんていうの?」と彼女は言った。

「サトウ」と僕が言う

「サトウくん、下の名前は?」

「リョウ、君こそなんて言う名前なんだ?」

「 Arne (アルネ)」と彼女が言う。

「アルネ?」

「そう、Arne(アルネ)。いい名前でしょ?」

「いい名前だと思うけど、本名じゃないだろ?」僕はArne(アルネ)という言葉が、どこの国の言葉で、どの様な意味を持つのか知らなかった。

「本名に意味なんてあるの?」と彼女が言った。

「親がつけてくれた名前だ。」

「それだけよ」と彼女は言って「私、本名が嫌いなの。特に苗字が。だからArne(アルネ)、わかった?」

「わかったよ」僕は何か事情があるのだろうと思い、これ以上突っ込むことをやめた。


僕は腕時計を見た。時計の長針は十一時を回っていた。

「学校には行かなくていいの?」と僕が言った。

「学校?」と彼女は言った。

「うん、学生だろ?」

「違うよ」と彼女はそっけなく言った。

僕はよく意味がわからなかった。目の前にセーラー服を着ている女の子がいるが、その子は高校生ではないというのだ。

「よくわからないな」と僕は言った。

「何がわからないの?」と彼女は言った。

僕は少し考えた。思ってみれば僕は彼女について何も知らない。

「君のこと全て」

「知りたい?」

「どちらかと言うと」

「じゃあ、教えない」と彼女は意地悪く言った。

「はあ、知りたいよ」と僕は言った。


彼女はにっこりと笑って、自分のことを喋り始めた。彼女は僕の周りにはいない非日常的な人物だった。彼女の歳は19歳で、帰る家を持っていなかった。いや、帰るべき家はあった。しかしそれは彼女にとって帰りたい家ではなかった。そして彼女は大学にも行っていなかった。「学校なんてごめん被るわ」と彼女は愚痴の様に言った。それから彼女は彼女の好きな映画と音楽のことを延々と語った。

「これでわかった?私のこと」

「なんとなく」と僕は言った。

彼女は彼女についての重要なことだけを避けて説明していた。僕は彼女については何も知らない。僕が知っているのは彼女が語る彼女であり、彼女自身ではなかった。


「あーもう疲れちゃった、サトウくん、私少し寝るから、悪い人に私が犯されない様に見張っておいて」と彼女はそう言って、横になった。

なぜ今さっきあった僕の横で寝るほど他人を信頼できるのだろう。僕がなぜその悪い人ではないと思い込めるのだろう。不思議でたまらなかったが、僕が彼女を襲うことはなかったので、彼女の見立ては正しかった。


それから僕は今日起こったことを整理することにした。朝8時に起きて、大学に行く準備をし、9時に家を出て最寄り駅まで自転車で10分かけて行き、京王井の頭線に乗って渋谷に行くはずだった。ところが僕がホームで電車を待っていたら、前に並んでいた女の子が線路に飛び降りようとした。僕は彼女の手を掴んで彼女を助けたと思ったら、手を引かれこの公園まで逃げてきてしまった。なんとも奇天烈な出来事だ。僕はそんなことを思うと少し嬉しくなった。これまでのつまらない変化のない生活が刺激されている感覚を感じた。

ふと彼女の寝顔を見た。僕は人の顔を見ながら会話をするのが苦手で、それまでまじまじと彼女の顔を見ていなかった。黒髪の短髪が似合う、整った顔だった。鼻筋が通っていて、小さい口の右下に黒子があった。それら顔のパーツの寄せ集めは、昨日見たCMに出ていた女優に似ていたが、その女優よりもずっと彼女は自然体で、健康的だった。

その中でも彼女の目は特別だった。目の上のまつ毛は長く上を向き、綺麗に跡のついている二重(ふたえ)が対照的にあった。眉毛は細く絶妙なバランスで目の上にあり、目が彼女の顔の中心部であるのは明白だった。そのほかのパーツがどれほど滑稽だとしても、彼女の目の持つパワーで多くの人は魅了されるだろう。僕がこのようなことを思い浮かべていると、

突然彼女の『目』が開いた。

それは先ほど感じていた目とは明らかに違うものだった。いやそれはまさに閉じていたものが開いただけのようなもので、花が蕾から開花したのと同じく、隠された美しさが顕在化したのだった。その『目』の力は目を合わせれば取り込まれてしまうと錯覚するほどの力だった。とっさに彼女の『目』を見るのをやめた。これ以上見てはいけなかった。僕はできる限り彼女の『目』を忘れなければならなかった。僕は横になり目を瞑った。


「起きてサトウくん」

彼女の声で僕は起きた。彼女の目が僕の目を覗き込んでいた。

いけないと僕は思った。しかし彼女の目に先ほどのような魔力は感じなかった。

「もう一時よ。」と彼女は言った。「あなた、悪夢を見ていたみたいよ。すごい顔だった」と彼女は笑いながら言った。そしてポケットからラッキーストライクを出してライターで火をつけた。

僕は状況を整理できなかった。どこまでが現実でどこまでが夢だったのか。彼女の目は夢の産物だったのか。

このような考えに僕が支配されていると

「どうしたの、ぼーっとして」と彼女が言った。

僕は咄嗟に「なんでもない」と言って、「もう帰らないと」と反射的に言った。

「もう帰るの?もう少し一緒にいようよ」と彼女は言った。

「どうして?」と僕は訊いた。

「どうして? うーん、多分、ただ寂しいからかな?」

「寂しい?」

「うん、寂しいの。それに帰る家なんてないのよ?こんなにか弱い女の子を置いていくつもり?」と彼女が演技くさい大袈裟な言い方で言った。

「そう言われてもなぁ」少しの沈黙の後、僕の中にもう一度あの目を見たいと言う欲が沸々と湧いてくるのを感じる。

僕はもう一度あの目が見たい。どうすればあの目をもう一度見られるだろうか。

そして僕は思いついた。

「近くに一人暮らしをしている友達の家がある、そこに行かないか?」

彼女はニコッと笑って、「今日はそこに泊まるってことね」と言った。

僕は彼女の寝ている隙にもう一度どうにかして『目』を見たかった。


林の家はこの公園から歩いて20分ほどのところにあった。林は僕の大学での友人である。地方から上京してきており、一人暮らしをしていた。家が近いこともあり。仲良くなった。そして僕は何度も彼の家に押しかけていた。僕はまず彼が彼の家にいるのか確認するために、電話をかけた。

「もしもし、林?いまどこにいる?」僕はすぐに彼に問いかけた。

「佐藤か、どうしたいきなり」と林が電話越しに言った。

「色々あって…それより今どこにいるんだ?」と僕は言った。

「家だよ、お前の電話で起きたんだ」と彼は言った。

「それはすまなかった」と僕は言った。「ところで今日これからお前の家に泊まることはできるか?」

「ああ、いいよ。」と彼は眠そうに行った。

僕は腕時計を見た。時計の針は1時半を回っていた。

「あと30分ぐらいで行くよ」

「随分急だな…わかった、部屋を掃除しておく」

「それと、俺の友達も一緒に行くんだけどいいか?」

「誰なんだ、それは?」

「大学の友達さ」

「俺は知っている?」

「知らないと思う」と僕は言った。

「…まあ、いいよ」と林は間を置いてから言った。

「ありがとう、それじゃあ30分後」と僕は言って電話を切った。


「友達の家には行けそう?」とアルネが聞いてきた。

「ああ、なんとか」と僕は答えた。

「私のことも言った?」と彼女は不安そうに訊いた。

「言ったよ。大学の友人だって。多分あいつは男だと思っているだろうけど」と僕は言った。

「驚かないかな?」と彼女は言った。

「驚くだろうね、きっと。でも大丈夫、俺はいつもあいつを振り回している。こういうのは慣れっこなはずさ」と僕は言った。

「だといいけど」と彼女は言った。


2時15分

コンビニで林に渡すための缶ビールと適当な菓子を買い、僕たちは彼の家に赴いた。林の家はアパートの3階だった。

ピンポーン

僕がインターホンを鳴らす。

ガチャ

鍵が開き、軽そうなドアが開く。その隙間から林が顔を出した。

「佐藤か、遅かったな」と林が言った。

「このぐらいがちょうどよかっただろ?」と僕が言い、「上がってもいいか?」と尋ねた。

「ああ、どうぞ」と林が言った。

「おじゃまします」と僕は言い、彼の家に上がろうとした。

そして僕の後ろに隠れていたアルネも小さく「おじゃまします」と言った。

この声を林は聞き逃さなかった。

「ちょっと待て、」すかさず林は言う「お前の言っていた友達ってこの娘(こ)か?」

「そうだよ」僕はすかして言った。彼女が少し笑った。

「おいおいおい、俺はてっきり男かと」彼は明らかに動揺していた。

「ごめん、女と言ったら断られるかと思ったんだ。」

「ああ、断ったね、何しろ俺の家はラブホじゃない。」と林はやや怒ったように言った。

「ラブホテルとして泊まる気はないよ」と僕は言った。これは本心だった。

林はそれを聞いて、少し黙った。それから、「まあいい、ここまできて追っ払うほど俺も鬼じゃない。」と彼は言った。「しかし君はいいのか?こんなところで男二人と泊まるのは?」とアルネに向かって言った。

「うん。わたし佐藤くんのこと、信頼しているの。」と彼女は言った。

「あのな、そう簡単に人っていうのは信頼できるものじゃないんだぜ」林は女慣れしていないせいか、少したじろいだ。

「大丈夫よ、それに私たちもう一緒に寝たもの」と彼女が言った。

「本当か?」林がびっくりして僕に言った。

僕は首を横に振った。

「本当よ」と彼女が言った。

「どういうことだ」林は僕を問い詰めようとした。

そこに彼女が割って入ってきた。

「この話を聞きたいんなら、まずは私たちを家に入れて」と彼女が言った。

林は度肝を抜いたような顔をした。そして「わ、わかった」と了承してしまった。

「ありがとう」と彼女はウィンクして言った。

「ありがとう」と僕も言った。


林の部屋は物が少なく、生活感に乏しかった。あるのは本棚とシングルベット、小さな机だけだった。本棚には大量の漫画と少量の小説があった。

家に上がり僕は林に事の始終を説明した。彼女との出会いや名前など最低限の情報だ。『目』のことは話さなかった。しかし僕たちは確かに一緒に寝たが、それは性交と言う意味ではないことは、しっかりと説明した。

林がそれを聞くと「すっかり騙された」と気の抜けた声でを言った。

僕が説明している間アルネはタバコを吸いながら、スマホをいじっていた。それを見て林は少し嫌な顔をしたがすぐに振り返って、

「どっかの安っぽいラノベみたいな展開だな」と林は言った。

「そうだな」と僕は同調したが、ラノベなど読んだことがなかった。

ある程度話がまとまって後、アルネが「ねえ、サトウ君ってどんな人なの?」と僕と林に聞いた。林は僕と初めて出会った時の話から最近のことまでを冗談を交えながら話した。その話の中のあまりにも大袈裟な嘘に僕がいちいち訂正した。それを彼女は嬉しそうに聞いていた。だんだん場が盛り上がってきて、僕たちは適当な話題を1から10まで広げて話をした。

17時ごろから夕飯の話になった。外食にするか買ってくるか。あいにく二十歳の男には自炊をするという機能は備わっていなかった。金がないので何か買ってくるという雰囲気になった。が、アルネが突然に言った「簡単な料理なら作ってもいいよ」と。

それから彼女と僕は一緒に近くのスーパーマーケットに行って、人数分のパスタと卵と牛乳などのカルボナーラの材料を手早くカゴに入れて行った。それと6本のアサヒビールと一箱のラッキーストライクも。もちろん支払ったのは僕だった。

林の家に帰ってからすぐに彼女は料理を始めた。僕と林はビールを飲みながらその姿を見ていた。林は「台所を使ったのは半年ぶりだ」と言った。

彼女はパスタを茹でている鍋に塩をいれて、茹でている間にベーコンを切って、卵を溶いていた。実に効率よくカルボナーラを作ってみせた。

「いただきます」林はそう言って、勢いよく彼女の作ったカルボナーラを食べた。そして「おいしい!」と言った。

彼女は嬉しそうに「ありがとう」と言った。

たしかに彼女の作ったカルボナーラは美味しかった。


食事の後に僕たちはビールを飲みながらまた話した。変な雑学から昔の恋人の話までした。僕はこういう時間が好きだった。なんでもないすぐに忘れる時間だ。

「なんだか眠いな」と林が言った。

時計の針は十一時を指していた。大学生が眠るには早い時間だ。

「そうか?まだ早いぞ」と僕が言った。

「私も眠いわ」と彼女が言った。

「そうかもしれない。俺はもう寝るよ。お前らも早く寝ときな」林は眠そうに言った。

「そうだな。」と僕がいう。しかし、僕は寝る気がなかった。僕は彼女のあの目をもう一度見たかった。そのためにもアルネより先に眠ってはいけなかった。

「電気消すよ」と彼女が言った。

「うん、ありがとう」と僕は言った。

狭いリビングに男女3人が川の字になって寝転んでいた。1番左に林がいて、真ん中に僕、1番右にアルネがいた。

僕は彼女の『目』が見たかった。だから暗闇の中で眠らないように天井を見ていた。僕の目が慣れてきて少し天井の木目が見える。隣の彼女から寝息が聞こえる。彼女はすぐに寝てしまったようだ。僕は恐る恐る彼女の方を見た。しかしあの目はまだ出てきていなかった。僕はまた仰向けになって、暗闇の中で次にあの目を見たらどうなるのかを想像した。あの目は恐ろしいものだった。もしかしたらその恐ろしさから彼女を殺してしまうかもしれない。そして彼女の目をくり抜いてしまうかもしれない。もしくは僕がその余りの美しさから、死んでしまうのかもしれない。廃人になってしまうかもしれない。僕の思考は僕の欲望とは反対に、絶望に満ちていた。

部屋には全く音がなくなり二人の寝息だけが聞こえてくるまで、夜は深まっていた。僕は二人が完全に寝たのだと思い、意を決してそっと彼女の方を向いた。すると、彼女の『目』はこちらを見ていた。あまりに突然の出来事に、体が硬直しその目から目線がそらせなくなってしまった。まずい。体の感覚がなくなり、自己の認識がわからなくなる感覚に襲われる。それは直感的な死だった。

そして、僕は少しずつ僕の体が動き出しているのに気が付いた。僕は気がついたら、静かに起き上がり、彼女の上に乗って、彼女の細い首に手をかけていた。僕は勃起をしていた。僕が力いっぱいに彼女の首を絞めているのにも関わらず、彼女は苦しい様子もなく、人形のような硬い表情をしていた。しかしその『目』だけは生き生きと僕を見つめていた。僕は強く彼女の首を絞めた。それでも彼女は一向に苦しまない。むしろ驚異的な力で少しずつ僕に顔を近づけてきた。僕は彼女の首を押さえつけることもできなくなって、手を離した。「化け物っ」と僕は怯んだ。しかし彼女は僕の怯みに関係なく僕に近づいて、ゆっくりとキスをした。舌と舌が絡んだ。僕はなすがまま、抵抗できなかった。呼吸ができなかった。

アルネはキスをしている間に、僕の中にある何かを奪ってしまった。僕はその感覚がしっかりとわかった。しかし僕は何もできなかった。何分かわからなかったが、僕の意識が無くなりそうなほど長い間、彼女と僕はキスをしていた。そして彼女がキスをやめたと思うと、アルネは僕の頬に手を当て、「眠って」と言った。


気が付くと朝になっていた。アルネの姿はなかった。

林はまだ寝ていた。窓が開いていた。朝日が差し込んできていた。何があったのだろうか。彼女はどこに行ってしまったのか。それから僕は林を起こして、部屋中を探したが、彼女はお風呂にも入っていなかったし、トイレもしていなかった。また玄関から外に出た形跡もなかった。ただ彼女の靴だけは無くなっていた。

この部屋には彼女は痕跡を一切残さずにどこかへ行ってしまったと言う事実だけが残った。

後日、林は「よくわからない娘(こ)だったし、まあどこかの男の家に泊まっているさ。幸い何も盗まれてないし、俺たちが気にすることないよ」とあっけらかんと言った。

しかし僕には日が重なってもこの出来事と『目』を忘れることはできなかった。朝早く起きた時、誰かと寝て相手の顔を見ている時、林の家を尋ねた時、さまざまなきっかけであれはフラッシュバックし、僕は鼓動が早くなるのを感じる。


あの『目』は今も僕を苦しめている。

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Arne 井上 カヲル @sodashi_mask

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