第65話 別れ(4)

 「じゃ」

 みちるも右手を差し出す。ちょっと照れた笑いで。

 咲恵が見て笑う。

 「ほんとみちるって妖精さんみたいだね。ちょっと日に焼けたけど、それはそれで」

 「体がちっちゃいってだけじゃない?」

 咲恵がみちるの手を握る。しっかり握る。

 と思ったら、咲恵はその手を自分の胸にたぐり寄せた。妖精のみちるが前にのめる。咲恵はそのみちるの体を抱き止めた。

 ぎゅっ、と、抱く。

 それでも咲恵の体は柔らかい。

 そのなかで、骨っぽいみちるの体は溶けて行ってしまいそうだ。

 このまま溶けて行ってくれれば。

 みちるも咲恵の豊かな体の後ろに手を回す。

 最初は遠慮がちに、そして、咲恵が抵抗しないでいると、もっときつく。

 髪と肩がみちるの顔にかかる。その耳の後ろで、咲恵は言った。

 「ごめんね。ほんとは、みちるといっしょにやりたいことも、みちるに伝えておきたいこともたくさんあったんだからね。それは、いつか、かならず伝えるね、かならずやるね。だから」

 ささやくようだったが、しっかりした声だった。

 泣きそうになるのを、支えているようでもある。でもぜんぜん違うかも知れない。

 みちるも大きく息をついた。

 「いいよ、それで」

 もういちど、息をついて、息を整える。

 たぶん、咲恵が帰ってくるまでに、みちるはいまのようなみちるでなくなってしまう。日本で高校に行き、たぶん大学にも進学し……。

 そのときに何か伝えてもらえればもちろん嬉しい。何かいっしょにできればもちろん嬉しい。でも、それは「いまやる」こととはぜんぜん違うのだ。

 だから、言いたいことは言ってしまおうと思う。

 「わたし、咲恵さんに出会ったから、わたし、この村もこの海も好きになれた。出会ってなかったら、きっといまもここに住んで中学校に通ってるだけの子だよ。相瀬あいせとか、あの悪家老とか、玉藻姫たまもひめとかのことも咲恵さんを通して知った。浅野あさのさんとか、浅野さんのおじさんとか、明珠めいしゅ女学館じょがっかんの先生とか、咲恵さんを通じて知り合った。フジツボが海のなかでは花みたいにそよぐこととか、ガンガゼが要注意だってこととかも、咲恵さんから知った。だからさ、受け継いで行くね、それ。そして、こんどはわたしが、この海をもっと知って、この村のことをもっと知るようにするね」

 「うん」

 咲恵が頷いたのが、体と体を通してわかる。

 みちるは大きく息を吸いこんだ。

 それは、泣きそうになって鼻をすすっていると思われたかも知れない。

 でもそうではない。

 咲恵の髪と肩のあたりの体と、もう咲恵にとっては制服ではない制服とがはらむかおりを、いっぱいに吸って、自分の体にとどめておくためだった。

 ふっ、と息をついて、咲恵はみちるの体を離した。

 みちるも咲恵の背の手をほどく。

 みちるは咲恵が泣いていたかどうか、目のあたりを探る。

 泣いていたようではない。自分も泣いていないと思う。

 それはそうだ。いま、抱き合ったことで、みちるの一部分が咲恵に溶けこみ、咲恵の一部分がみちるに溶けこんだ。だから、みちるは咲恵といっしょにそのセントロレンスという港町に行くし、咲恵はみちるといっしょにこの村に残るのだ。

 ほんの少しだけ、だけど。

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