第64話 別れ(3)

 更志郎こうしろうとの別れはみちるにとって何でもなかった。一学期が終わったときに、更志郎は、もうみちるにとってもうどうでもいい存在になっていた。

 しかしみちるには次の別れが待っていた。

 夏が終わり、日暮れが早くなり、空気も涼しくさわやかになってきたある日、みちるは、自分の家を訪ねてきた咲恵さきえに、とつぜん別れを告げられたのだ。

 「外国行くことにしたから」

 「外国?」

 「そう。セントロレンス」

 「ああ、お父さんがいらっしゃる街だったよね」

 「そう。だってほらさ」

 咲恵は何のあいさつもなく、自分の家のようにみちるの家に上がり、パソコンを立ち上げ、すっかり慣れた手つきでネットを開いた。検索し、リンクをたどり、英語のページにたどり着く。

 使い始めて二か月ぐらいで、よくここまで慣れるものだと思う。

 そこには、遠浅の青い海にこぎ出す手こぎの漁船とか、網で漁船から獲物をすくっている人とか、唐子の浜の村によく似たの建物とか、漁船が横付けしている漁港とか、熱帯らしい植物の葉を下から見上げたところとか、入道雲のような陰影のある雲が浮かぶ遠く開けた青い空とかが写っていた。

 とくに、何かを手に持って得意そうに高く手を上げている男の子の写真が、咲恵は気に入ったらしい。その「何か」をみちるはわざときちんと見なかった。たぶん海鼠なまこだろう。その遠い海にも、やっぱりいるのだ。この海鼠という気もちの悪い生き物が。

 その写真を閉じてもとのページに戻ってから、咲恵は言う。

 「これ、観光なんとかのページじゃなくて、住んでる人の作ったページだから、ほんとにこんなところだと思うんだ」

 「そうか」

 みちるは正直に答えた。

 「じゃあ、しかたないよね。お父さんは?」

 「うん。連絡してみたら、日本とはだいぶ違う街だからいままで呼ばなかったけど、試しに一度来てみるか、って」

 「そうか……」

 試し、だったら、また帰って来るかもしれない。

 でも、そうはならなさそうだ。

 少なくとも、このセントロレンスという街の海を泳いで、潜って、その海を知り尽くすまで、咲恵は帰ってこないだろう。

 そして、この唐子からこ浜よりも、セントロレンスの海はもっと広そうだった。

 インターネットのつなぎかたなんか教えなきゃよかった、と、みちるは思う。思って、そのくだらなさに自分で笑った。

 「じゃ、咲恵さん。元気で」

 「うん」

 みちるを見つめていた咲恵は、目を細めた。

 「また握手でもしよっか」

 で、右手を上に向けて、確かめるふりをする。

 「今日は海鼠、持ってないから」

 「うん……」

 そういえば、ひと夏海に潜って、みちるは岩地に海鼠がいるのも見つけた。岩地の底のほうで暗く、岩に紛れてその色が迷彩になっていたけれど、たしかにあの生きものだった。じっとして動かない。それをみちるもじっと見ていた。

 だから、見るのもいや、という段階ではなくなった。

 でも、けっきょく、どうしても触る気になれなかった。

 さっきの写真の少年のように、そして、咲恵のように平気で海鼠をつかめるようになるのは、いつのことだろう?

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