第58話 月が昇るまでに(11)

 みちるは浮き上がった。

 もう潜る必要はないので、平泳ぎに切り替える。もし更志郎こうしろうが二発めの魚雷を用意していたらアウトかも知れないけれど、そんな余裕はなさそうだ。

 息が切れている。動悸どうきも速まっている。

 まったく!

 天才少年が、よけいなことをさせて!

 後ろを確かめる。

 千菜美ちなみ先生のボートはだいぶ後ろだ。五十メートル以上離れているだろう。

 咲恵さきえの姿もない。

 一瞬、ひやっとする。

 まさか。咲恵は溺れた?

 たしかに楽ではないコースなのだ。咲恵でも油断すれば……。

 いや、それより、みちるを助けるために咲恵が魚雷に体当たりしてくれた?

 そんなことはなかった。

 ボートの少し前、思ったより右に、咲恵はゆったりと泳いでいる。

 みちるが潜ってしまったので、見失ったのだろう。

 それにしてもだいぶ沖のほうに寄っている。

 みちるはもう島に到着できることはまちがいないと思った。

 すぐそこに島が見えている。もう百メートルもないだろう。足や手がっても、なんとかたどり着ける。いや、ここまで着たら、何かが起こったとしたら筒島に逃げるのがいちばん早い。

 島の上には、草かこけか、緑の部分があるらしい。暗くてよくわからないが、松か何かの木も生えている。

 その下に小さいほこらがあり、鳥居もあるのが見えた。

 どうせならあの祠の正面に上陸しよう、と思ったとき、ふと、咲恵がどうしてあんなに右のほうを、つまり沖のほうを泳いでいたのか、という疑問が湧いた。

 危ない。

 危ないところだった。

 さっき乗り切ったあの急流が筒島つつしまと二つの岬のあいだでできるとしたら、筒島の前側にはあの急流が流れているはずだ。

 考えてみれば、そうなのだ。

 急流に乗って島の前側で上陸できるとしたら、巧く急流に乗ってそこで陸に上がればいい。それだったら、右側の岬の先端まで泳ぐ力があれば、あとは流れに乗ってしまえばいいわけだ。

 かんたんすぎる。

 それをやったら上陸できないからこそ、これは試練になるのだ。

 そう思っていると、筒島に向かって泳いでいるはずの自分の体が、少しずつ浜のほうに近づいているのがわかってくる。急流に引き寄せられているのだ。

 最後の、神様の与えた試練、または、神様の意地悪だ。

 みちるは勢いよく抜き手を切って斜めに泳ぎ始めた。

 自分に追いついてきた咲恵が、ぱっと明るい笑みを浮かべたのがわかった。

 左右に波が洗う岩があるところまで来た。島の横から陸に上がるとして、どこから上がるかは考えないといけない。

 夜だ。海の上からは海の底が確かめられない。

 下手をして海鼠なまこやヒトデを踏んでしまうと気もち悪い。ここは人が来ないところなのだから、そういう生きものがいっぱいいそうだ。

 でも、それ以上に、波で岩に打ちつけられたりしたら、たとえ筒島参りを達成したとしても大けがをするだろう。

 ちょっと顔を水につけて、水のなかを見てみる。

 険しい岩のあいだに、少し滑らかな岩が海の底から出っ張っているところがある。

 あそこならばだいじょうぶそうだ。

 夜空の下にも白く波が打ち寄せる岩場を横に見ながら、泳いで行く。手はかずに、ゆるやかなバタ足で進む。

 うしろから波が来るのをみちるは感じた。

 いまだ。

 みちるはその波におなかを載せた。波といっしょに、みちるの体が神様の島に打ち上がる。

 波の力が弱まる。岩の上に上がっていた波が、岩から外へ流れ落ち始める。

 みちるは右膝をついた。ごりっとした岩の感触が膝に伝わる。

 急いで左膝をつき、右膝で立ち上がる。水はざあっと引いていった。

 重い。

 宇宙から地球に帰ってきたときのようだ。宇宙に行ったことはないからわからないけれど。

 でも、たしかに、海のなかでは、体の重さと体の浮く力とが釣り合っていて、無重力状態なのだ。

 だから、最初の二‐三歩はみちるは原始人類のように背を丸めて歩いた。ともかく歩かないと、次の波に足をさらわれてしまうかも知れない。

 だが、そのあとは、もう背を伸ばして歩くことができた。背も、肩も、肘も膝も筋肉が張っていたけれど、心地よかった。

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