第53話 月が昇るまでに(6)

 漁港の堤防の端の灯台は赤と白の明かりを灯している。その横も通り過ぎる。

 ここは、みちるが咲恵さきえに助けられて、懸命に、ほんとうに命けに逃げたあたりだ。自分を助けてくれた咲恵の顔を見て思わず「相瀬あいせ」と言ってしまったことから、今度のこと全部が始まった。

 江戸時代に生きていた相瀬が、時代を超えて自分を助けてくれたなどと、あのとき思ったのだろうか。

 それとも、あのとき「相瀬」という名まえが口から出たのは、自分でないだれか、たとえばその玉藻姫たまもひめが言わせたことなのだろうか。

 そんなのは空想だ。

 でも、と思う。

 相瀬という海女さんがいたとすれば、江戸時代、いまみちるが泳いでいるこの海を泳ぎ、魚やあわび海鼠なまこをとっていたのだ。もし、相瀬が伝説上の人物であっても、相瀬ほどの天才でなくても、無数の海女たちがこの海に浮かんだり潜ったりして、漁をしていた。

 海女たちがたくさんいたことは、いま後ろでボートを漕いでいる千菜美先生も言っていたのだから、ほんとうのことだろう。

 そして、この海では、咲恵のお母さんも、同じように魚や貝を獲っていた。いまはもういない。咲恵の言いかただと海の向こうの国に行ってしまった。

 筒島つつしまという島まで泳ぎ着けた女の子だけが海女になれた。お父さんのお父さんを知っているというあの浅野あさのさんのおじさんが子どものころ、つまり父方のおじいさんの時代で、そんな子が一ダースはいたという。時代をさかのぼって合計すれば、何百人といたに違いない。

 みちるはその中の一人だ。

 けっして一人で泳いでいるのではない。

 右を見ると、点々と灯り続けていた街灯の列が、いまみちるの横の明かりで終わりになっている。岬の護岸の道路がここで終わっているのだ。

 引っ越しの翌朝、ここでみちるは咲恵と出会ったのだ。その場所を通り過ぎる。

 だとすると、いまの場所の横あたりに、咲恵がみちるを連れて行ったあの洞穴があるのだ。

 あのとき、みちるは、一人ではあの場所には入れない、入れても出ることはできないと思った。

 いまはどうなのだろう? 咲恵と同じように出入りできるだろうか。

 たぶん無理だと思う。みちるはまだまだなのだ。

 あのとき、あの洞穴の入り口に、風になびく糸のような細かい花のようなものが群れていた。咲恵はあれがフジツボだと教えてくれた。あとで陸の上で見たフジツボは、殻が固くて、岩を白く汚しているきたない附着ふちゃく物にしか見えなかった。

 水の下だと、いきいきと、きれいに見える。

 どうしてだろう?

 人間も水のなかにいたほうがきれいに見えるんだろうか。

 みちるは岬の先端の手前まで来た。

 空はもうほとんど暗くなっている。そろそろ、明るい星のあいだを埋める暗い星たちまで見えてきそうだ。

 その暗い空の明かりを背景に、行く手に島が見えた。

 前に見たときには、あるかどうかわからないほど小さいと思っていた。

 ここから見ると、違う。

 海面の上に、しっかりと盛り上がっている。まわりに白い波が立っている。この島がまわりに多くの岩を従えている。この島はその岩たちの主なのだ。

 これは、神様が宿る島だと昔のひとが考えたのも無理はない。

 振り向いて見る。

 少し後ろに、でも十メートルぐらいは離れて咲恵さんがついて来ている。それからまた二十メートルぐらい離れて、千菜美ちなみ先生の漕ぐ船が着いてきている。

 その奥の遠くに、白い街灯と、もっとぎらぎらする明かりがついている場所がある。あそこから来たのだ。

 もうずいぶん遠い。

 その上の村にも、街灯がついたり、家の窓に電球色や白色の明かりがついたりしている。

 みちるはゆっくりと首の向きを戻した。もういちど目的地の筒島を見る。

 もう半分は来ただろう。

 首の後ろや肩の近くの腕は少しだるさを感じるようになっている。でもすぐに動かなくなることはなさそうだ。

 行ける、と思った。しかも、思ったより早く着くのではないか。

 もういちど右を見る。

 右の岬の先端を越える。

 手前の水面が油を流したように平たく滑らかになっている。

 その向こうの海は波立っている。

 こちらがわの海はなぜしずかなんだろう?

 そう思ったとたん、胴体全体を殴られたような衝撃が来た。

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