第52話 月が昇るまでに(5)

 最初は少しずつ水を掻く。顔は上げたままだ。

 「なんだよ、ぜんぜん進まないじゃないか」

 振り向かなくてもわかる。この美声は高地たかち兵司へいじだ。

 「黙ってください」

 ふだんはめったに強い言いかたをしない長谷川はせがわ澄名すみなが言っている。

 そういえば、この子は、相瀬あいせの側なのだろうか、敵側なのだろうか。

 「味方でなければ敵だ、中間はない」と言い放ったアメリカ大統領が昔いたとテレビのニュース番組できいた。

 玉藻姫たまもひめをめぐる争いではどうなのだろう。

 後ろには咲恵さきえがついて来てくれる。何メートルか離れている感じだ。それでいいと思う。

 日が暮れてすぐなんてまだ夕方の延長だと思っていたが、海はもう暗い。ここは西側に山が迫っているので、天文台のいう日の入りよりも早く日が暮れるからだろう。

 もうこのあたりは足が立たないはず、とみちるは思う。

 あれっ、と思う。

 軽い恐怖が襲ってきたのだ。

 これまで足が立たなくても平気だったのは、咲恵がそばにいてくれて、いざとなったら咲恵が助けてくれたからだ。

 いまも咲恵はそばにいる。助けてもくれるだろう。でも、咲恵に助けてもらったら、そこで筒島つつしままいりは失敗だ。

 いじめから逃れるために筒島参りを志願し、そしてかんたんに失敗したら、どうなるだろう?

 前よりずっと惨めないじめられっ子に戻るのは目に見えていた。

 しかも、それは、みちるだけではない。

 相瀬が玉藻姫を守って以来、続いている戦いに負けることになる。

 それはいやだ。

 みちるが男の子たちにいじめられていたいかだの横を通り過ぎる。

 体は温まっただろうか。

 恐怖を押し返すように、みちるは思い切り手と足を伸ばした。

 大きなきで、ゆっくりした拍子の平泳ぎに変える。

 たしかにこのほうが早く泳げているように思う。後ろで、咲恵が同じ泳ぎかたに変えたのにみちるは気がつく。

 千菜美ちなみ先生の櫓の音からすると、船はだいぶ後ろを来ているらしい。

 ありがたい。あのいじめ男子どもがもしまた石を投げようとしたりしても、離れていては届かない。ここまできて妨害をするはずもないというのがふつうの考えだと思うが、久本ひさもと更志郎こうしろうのなりふりかまわない絶叫をきけば、どんな仕掛けを考えていてもおかしくない。

 この筒島参りは、筒島の神様のところにお参りするのだなどと言っても、ロボットとコンピュータープログラミングの天才にとっては、神様なんて何でもないだろう。

 もしかすると、あの祖先の相良さがら讃州さんしゅうも同じように考えていたかも知れない。

 自分の才能の前には、神様なんて何でもない、と。

 だとしたら、讃州は、生まれるのが早すぎたのだ。

 ところで、まだこんな事態になる前、久本更志郎が、その新星杯しんせいはいというコンクールの今年の課題を説明してくれた。

 それは何だっただろう、というようなことを考える。

 考えているうちに、遊泳区域と遊泳禁止区域を区切るブイのところまで来た。いつもはフェンスが張ってあるが、今日は、漁協のひとがあらかじめはずしてくれている。

 鮮やかな星が、いくつも同時に空に現れ始めていた。

 みちるはいつもは遊泳禁止になっている場所に出た。

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