第50話 月が昇るまでに(3)

 「行く、って、どこへ?」

 「だから、浜へ」

 「うん?」

 浜へは歩いて行くのだと思った。浜は、ここから突堤の向こう側のはずだ。

 「へ?」

 だが、そうではないことがわかった。咲恵さきえは浮き桟橋さんばしに下りていこうとする。

 「え? あ? あのボートで行くの?」

 「あたりまえでしょ! だから先生を呼んだんじゃない」

 「だから、って?」

 「だからさ。ボート漕いでもらうため」

 「そのために、女子大の先生を?」

 「そ」

 「あ……」

 あきれすぎて、「あきれた」の「あ」の後ろが出てこない。

 隣の県の大学の先生を、ここでボートいでもらうために、呼ぶ?

 それは「人使いが荒い」と言われるわけだ。

 「行ってこい」

 二人の話が終わるのを待って、浅野あさのさんが言う。

 みちるは浅野さんのほうを向いて会釈した。

 「ありがとう。行ってきます」

 咲恵がみちるの手を取る。みちるは二人で浮き桟橋に下りていこうとした。

 「あ、ちょっと待て」

 浅野さんのおじさんが後ろから声をかける。

 手をつないだ少女二人が足を止め、顔を見合わせて振り返る。

 「あ、いや、その」

 照れているようだ。

 「無理はするな。いや、無理をしに行くわけだから、無理はするなとは言えないけど、無理は九割までにしておけ。九割はいいにしても、九割九分までだぞ。無理が十割に行きそうだと思ったら、やめるんだ」

 「はいっ!」

 みちるは十割の笑顔でそう答えた。

 見送る浅野のおじさんの笑顔は、父親の、というより、男の子の笑顔のように見えた。

 もしかすると、おじさんは、「筒島つつしまがえり」が一ダースもいたころの女の子たちを見送った気もちに返って、二人を見送っていたのかも知れない。

 西日はもう山の端から下に入っていた。漁港には夜がやって来ている。

 「浅野さん、って?」

 浮き桟橋への鉄の階段を下りながら、みちるがきく。聞き覚えのある名まえだったからだ。

 「そ」

 咲恵は当然のことのように軽く答えた。

 「お母さんがずっとお世話になってた漁協のおじさんでさ、それで、さっきのお店の女のひとが浅野さんだったでしょ? あのひとのお父さん」

 ああ、そうかと思う。たしか、咲恵は、自分のお母さんの働きかたを漁協のひとから聞いたと言っていた。それが、いまの浅野さんというひとだったのだろう。

 そして、それで、咲恵は、唐子の町や学校から離れた、それも浜とは反対側のあの店までみちるを連れて行った。

 あのひとも、あの相瀬の伝説を信じているひとなのだ。

 みちるは気を引き締める。

 これは、勝負、それも負けられない勝負なんだ。

 浜の人たちとお城の人たち、玉藻姫たまもひめをめぐる相瀬あいせ相良さがら讃州さんしゅうとの勝負の続きなのだ。

 そして、みちるは、その浜の人たちチームの代表に選ばれたのだ。

 体が冷えないようにかぶっているタオルケットの下で、みちるの体がぶるっと震えた。

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