第49話 月が昇るまでに(2)

 たぶん、この浜の村では、あの相瀬あいせの物語を知っているひととそうでないひとで、まったく違うと思われているんだ。

 相瀬の物語を知っているひとだけが仲間なのだろう。

 「昔は筒島つつしままいりは一人前の海女さんになるための儀式だったらしいからな。月が昇るまでに泳ぎ着いた子だけが海女さんになれたっていうな。そんなのがなくなってからもずっと浜の女の子は筒島参りに出るっていうのが慣例になってた」

 おじさんが言う。相瀬の物語を伝えたのはその海女さんたちのいる村のひとたちで、それが筒島参りを伝えてきたのだ。二百年以上も前から。

 遠くから声がした。

 「浅野あさのさーん!」

 それはあの先生、千菜美ちなみ先生の声だ。

 しかし、どこにいるのだろう。

 「おーぅ、海の上でも化粧品のセールスかぁ? ご苦労なこった!」

 おじさんが声を返す。

 でも、浅野さん、って?

 「そんなのもうずっと前のことですよー」

 千菜美先生が声を返している。

 「あ」

 みちるは驚いた。

 さっきまで、都会的な、大人びたスーツを着ていた先生が、いまは、細身のジーパンにTシャツ一枚、首にはタオルを巻いている。長くてきれいな髪は、大ざっぱにまとめて、頭の上に巻いているらしい。やっぱり美人は美人だ。お母さんぐらいの歳だろうと思うのに、とても活発でボーイッシュに見える。

 その千菜美先生が、十人ぐらいは乗れそうな大きいボートの後ろのほうに経って、いでいる。

 ボートのオールみたいなの一本で、ボートは先生の動きに敏感にこたえるように、こちらに進んでくる。

 さっきはここの藩の歴史について難しい話をしていた先生から大した変わりようだ。

 それにしても。

 「化粧品のセールスって何ですか?」

 「あれ? 知らないのか?」

 浅野さんのおじさんは意外そうに目を丸くしてみちるを見た。

 「あの先生、最初は化粧品のセールスマンやってたんだ。いや、セールスレディー、っていうのかな」

 「レディー」の「ディ」の発音があやしくて、「レジー」と「レデイ」の中間になっている。

 「はぁ」

 たしかに美人だから、化粧品のセールスなら似合うとは思うけど。

 「で、いまは学校の先生?」

 「学校っておまえ……」

 浅野さんのおじさんが疑わしそうな目をする。

 「ほんと知らないわけ? 先生のこと?」

 「はい」

 みちるが目を瞬かせる。

 「あんたさぁ」

 何かねたように浅野さんのおじさんが言う。

 「明珠めいしゅ女学館じょがっかん女子大ってとこの先生だよ」

 そうだ。その名まえならきいたことがある。

 たしか隣の県だったはずだ。高校受験の資料にも、たしか明珠女学館第一高校、第二高校と出ていたと思う。

 あれ、と思う。

 おじさんは、高校の先生とは言わなかったけれど……?

 きいてみる。

 「女子大……って大学の先生?」

 「そうよ」

 おじさんは、当然、というふうに答える。

 「大学の先生だよ。教授とかいうのかな。ほれ、そこの山の向こうに」

 おじさんは海水浴場の向こうの岬を指さした。

 「戦国だかなんだかの遺跡が見つかったって調査に来たんだ。そのときに木綿ゆうちゃん、あ、つまりあの咲恵さきえちゃんのお母さんと知り合って、それからずっとつき合ってるんだと」

 「はあ」

 それしか言えなかった。

 大学教授なんて、テレビのニュース番組のコメントか、でなければ、たまにクイズ番組の回答者をやっているところしか見たことがない。

 それが、いま、よりによって櫓でボートを漕いでいるなんて。

 でも、たしかに、さっきの玉藻姫たまもひめ騒動の説明のときの話しかたは、テレビなんかで見る大学の先生の話しかたに似ているようでもあった。

 「せんせーっ!」

 いつの間にか、あのオレンジ色の水着を着て下りてきていたその咲恵が、岸壁から声をかける。

 みちるには、体が冷えるからタオルケットを放すなと言った咲恵が、自分は何も身につけていない。

 その水着姿で漁港の岸壁にいるというのは、何か場違いな感じもするのだけれど。

 「先生、かっこいいー!」

 咲恵が声をかける。

 「バカ言え!」

 浅野さんのおじさんが応じた。先生に向かって言う。

 「前より腕落ちただろう! ああもう。ちゃんと教えてやったってのによぉ。バカが!」

 大学の先生に向かって「バカ」とはよく言ったものだ。

 「あたりまえですよ。ふだんは船なんか漕ぐ機会ないんですから!」

 先生も陽気に言い返している。

 それでも、先生は、ボートを器用に操って、漁港の浮き桟橋さんばしにきれいに横付けした。

 咲恵が岸壁を軽やかにとんとんとんとんと駆けてきて、みちるの横に並ぶ。

 「行こう、みちる!」

 うきうきした声で言う。

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