第48話 月が昇るまでに(1)

 夕日は、北西の山の上から、山の斜面をなめるように港を照らしている。港の波も、突堤も、向こう側の岬も、漁船も、人の顔も夕日の透明な色に一色に染まっている。

 あの「オウムガイの家」という店で仮眠したあと、店員の浅野あさのさんに見送られ、千菜美ちなみ先生の運転する車で、咲恵さきえとみちるは唐子浜からこはまの漁港にやってきた。

 唐子の浜の村に行くのとは途中から道が違う。車が漁協の建物の下に入ると、よく日に焼けた、ひげの濃いおじさんが出てきて、二階で水着に着替えるように言ってくれた。

 みちるは、着替えを終えて、漁協の建物の二階から降りてきた。学校の水着を着て、肩からすっぽりとタオルケットを羽織っている。

 下で待っていたおじさんが言った。

 「よ、似合ってるぜ」

 「はぁ」

 いや、分厚いタオルケットにくるまって、膝の下まで覆ってところを「似合ってる」と言われても。

 自分では、これで顔もタオルで隠してしまえば、いつかニュースで見た、イランかどこか、中東の国の女の人みたいになると思っているんだけど。

 「何を不景気なこと言ってるんだ」

 おじさんはさっそく絡んできた。

 「あ、いや、いま景気よくしてると、あとで景気が悪くなっちゃうんじゃないかと思って」

 みちるが言い返す。

 「何言ってんだ」

 おじさんは、自分自身が不景気そうな顔をして、みちるを上から下まで見回した。

 見回しても、見えるのは、足首から下とタオルケットと顔だけなのだけれど。

 「そんなこと言ってるから不景気なんじゃねえか。温暖化か何か知らねえが魚はとれなくなるし、燃料代は上がるしよぉ。たまったもんじゃないぞ、おい」

 みちるがもういちど言い返す。

 「い、いや。それはわたしのせいじゃないから。そういうのは政府に言って」

 「バカ野郎! あんたがもっと景気よければ、政府だってもっと景気よくなって国全部も景気よくなるんだ。それが民主主義ってもんだろうが」

 「そっ、それ、もっと違うと思う」

 みちるは、言って、両手でタオルケットの端をきっちり押さえて、軽く笑った。

 なぜだろう。こういう冗談のやりとりはみちるは苦手だった。

 でも、このおじさんが相手なら、なぜか軽く言い返せてしまう。

 いままで身近にいなかったようなひとだからだろうか。

 みちるをにらみつけていた漁協のおじさんも、ほんとうに、破顔一笑はがんいっしょう、というのだろう、にっこりと笑った。

 笑うと、目の横から頬から、深く皺が刻まれているのが、傾いた夕日で際立つ。

 「筒島つつしままいり、志願してくれて、ありがとうよ」

 おじさんは、さっきの冗談よりもずっと落ち着いた声で言った。

 いや、志願したって、そんな大げさなことじゃない、と言おうとした。

 でも、言わなかった。おじさんが続ける。

 「一昨年があの咲恵さきえ、その前はっていうと、もう木綿ゆうちゃん、あ、つまり咲恵のお袋まで筒島帰りはいなかったもんな。おれが子どものころは一ダースぐらいいたもんなんだが」

 「そうなんですか?」

 「そうさ」

 おじさんは顔を横に向け、漁港を見渡した。

 「さっきの話じゃないけどな、そうじゃないとやっぱり不景気なんだよな。どこの村もさびれちまってさ。だいたい若いのがいない、いても都会にしか目が向いてないってのがよくないや。そんななかで、あんたががんばって筒島様のところまで行ってくれる。転校してきたばっかりだっていうのに。成功すれば筒島帰りが一人から二人になる。倍だぞ、倍。そりゃ、さ。うれしいよ」

 おじさんがまたみちるを見たとき、目は潤んでいるように見えた。

 一人から二人になるのは、倍だけど、でも一人増えるだけなんだけど、などとぜっ返せる雰囲気ではない。

 「しかも、あんた、桑江くわえの家の子だろう?」

 「あ。はい」

 咲恵がまえに桑江の家はこの村でも古い家柄だと言っていた。

 冗談や軽口につき合うのとは違う受け答えをしなければ、と、みちるは思う。両目で、まっすぐにおじさんを見上げる。

 おじさんが何も言わないので、みちるがきく。

 「お父さんが小さいときのこと、何かご存じですか?」

 「まあ、ご存じ、ってほどのことはないけど」

 おじさんは照れ笑いする。

 「おれが知ってるのは、そのまた親父さん、だから、あんたのおじいさん、かな。それもあんまり知らない。おれが生まれたときには、あんたの家、もう漁師やめてたからなぁ」

 そのおじいさんというひとには、みちるは数えるほどしか会ったことがない。どんなひとだったのかもまったく知らない。

 「それなのに、あんた、咲恵のやつに会った最初に、相瀬あいせの話をしたそうじゃないか」

 「あ、はい」

 そうか、と思う。

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