第42話 昔の物語(6)

 「じゃあ」

 みちるは顔を上げてきいてみた。

 「その相瀬あいせって女の人は、ほんとにいたんですか?」

 「浜では、いたことになってるわね」

 先生は含みのある答えをする。

 「もちろん実在しなかったとは言えないんだけど、ここの唐子からこの村の記録って、十八世紀の後ろのほうからしか残ってないのね。玉藻姫たまもひめ騒動は宝暦ほうれき年間、だいたい一七五〇年代ぐらいのできごとだから、そのちょっと前なのね。だから、わからないわけ」

 「殿様の隠し子とか、家老の隠し子とかいうのは?」

 「あんまり可能性はないわね。岡平おかだいらの藩主だったいずみ家って、江戸時代の初めのころは海辺のほうとも関係があったような形跡があるから、その伝手つてが残っていたら、隠し子を海岸の村に預けることもなくはないだろうし、ましてその相良さがら易矩やすのりって家老は海岸地区担当だから、可能性がなくはないけど。でも、とくにこの唐子の村はその相良易矩とあんまりうまくいってなかったから、よりによって隠し子をここに預けるっていうのは、ないと思う」

 相良易矩というのは、あの相良讃州さんしゅう、つまりあの久本ひさもと更志郎こうしろうのご先祖様だ。それが唐子浜とうまくいってなかったという話もきいてみたかった。

 でも、相瀬について聞くほうが先だと思う。

 「じゃ、魚より速く泳げたとか、海蛇と戦って仲間を助けたとかは?」

 「そういう話が最初に出てくるのは、『向洋こうよう史話しわ』っていう、明治も終わりごろになって編集された本。しかも、その相瀬の話は、そういう話もあります、って程度にしか出て来ない。相瀬についての語り伝えって、ほんとに口で語り伝えたものがほとんどなんだよね。それで、相瀬がいたっていう時代からその話が活字になるまで百五十年ぐらい、百五十年前のできごとならばほんとうのことが語り伝えられてるって考えるか、百五十年も前のできごとなんかわかるはずがないからどこかで伝説が作られたって考えるか、どっちとも言えないわけ。ただね」

 千菜美ちなみ先生は身を乗り出した。この先生は姿勢を崩してもどことなく品がある。

 隣では咲恵さきえ頬杖ほおづえをついている。

 先生の前なのにはしたないとみちるは思う。

 「いてもおかしくはないの。この浜は海女あま漁があったからさ」

 千菜美先生がちらっと咲恵を見た。咲恵がストローをくわえたまま、軽くうなずく。

 先生は知っているのだと思った。

 咲恵のお母さんが、その海女漁を復活させようとして事故死したことを。

 「そんな抜群の技能を持った海女さんがいてもおかしくない。そして、たしかに、そのあとの時代だけど、相瀬って名まえを持つ海女さんは唐子浜に何人かいた。これは、宗門改しゅうもんあらため帳っていうのとか、あと、海女組の名簿もところどころ残っててね、それに出てくるからわかるの。だから、もし、宝暦年間に相瀬ってひとが実在して、そのひとが伝説になるくらいの海女さんだったら、あとの世代の海女さんがあやかって相瀬って名まえを名のることはあるかも知れない。でも、海女さんによくある名まえってほかにもあるから、なんとも言えないのよ」

 みちるはもう少しきいてみたかった。でも、海女の話になると、咲恵のお母さんの話に関係する話がもっと出てくるかも知れない。それで咲恵がいやな思いをするのはみちるとしてはいやだ。

 話を変えることにした。

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