第38話 昔の物語(2)

 咲恵さきえに促されて、教室を出る。

 教室を出て、階段の角を曲がったところで、咲恵が短く言った。

 「ダッシュ!」

 咲恵は走り出す。またあのどたどた走りだ。

 ダッシュなんかして、廊下で転んで、泳げなくなったらどうするつもりだ!

 だが咲恵の判断は正しかった。

 「だれかあいつを追いかけろ!」

 絶望的な叫び声が後ろから聞こえた。

 濁ってはいるけれど、それは、あのプログラミングの天才少年、久本ひさもと更志郎こうしろうに違いなかった。

 「つかまえて、足でも手でもたたき折ってしまえーっ!」

 最後までこの子が真犯人でない可能性をひと筋だけ信じていた。そのひと筋が切れる。

 「靴に画鋲がびょうとかそういういたずらがないのは確かめた。すぐき替えて!」

 「うん」

 あの天才少年の指令にだれがどれだけ従うかわからない。それに、捕まっても、今日は咲恵がいる。咲恵がけんかに強いかどうかはわからないけれど、体力はある。それに、下足場は職員室にも近いから、こんなところで騒ぎを起こせば、先生のだれかが気がつく。

 でも、神様もうでという意味は抜きにしても、二キロほどもある水泳のタイムトライアルの前に、乱闘騒ぎなんか起こしたくなかった。

 「こっち」

 咲恵はみちるを引っぱって出口から横に走る。職員室のあるほうだ。職員室の横の入り口に水色の小さい乗用車が停まっている。

 咲恵がその車のドアを開け、まずみちるをみちるのかばんごと押しこむ。つづいて自分も乗りこんだ。ドアを閉め、澄ました顔でシートベルトをする。

 「先生っ、早く!」

 「ほんと、派手なことが好きね、あなたって」

 運転席に座っていた女の人が言う。咲恵に言ったのだろう。

 落ち着いた、「渋い」という感じのする声だった。みちるはすぐ後ろに座っているので、顔はわからない。

 「お願い、早く!」

 あまり「お願い」しているようには聞こえない。

 「それに、ほんとに人使いが荒い」

 「先生」と呼ばれた女の人が言い、エンジンをかける。咲恵が「きゅっ」といたずらっぽい笑いを漏らした。

 車は走り出した。

 いつも見ている学校も、走る車のなかから見ると違って見える。

 みちるは注意して見ていたけれど、クラスの子、二年生の子はだれも来なかった。近くには生徒の姿は見えない。だれかがみちるを追ってきたとしても、正門のほうに行ってしまったらしい。

 車は学校の裏門から出た。咲恵がほっと息をつく。みちるも気分が楽になった。

 この学校の裏側にはみちるは来たことがない。

 宅地になるのだろうか、茶色い土のかぶった場所と、田んぼとが交互に並んでいる。畑もある。そんなところのなかに、ぽつぽつと、白い壁で、青や明るい茶色の屋根の新しい建物が並ぶ。向こうには、いかめしい屋根の作りと黒い色の壁の、古いお屋敷のような家がいくつも見えた。

 みちるは高鳴っている動悸どうきを落ち着かせる。

 落ち着いて、ふと気がついた。

 咲恵も、運転席の「先生」と呼ばれた女の人も、黙っている。

 そこでみちるがおずおずと言ってみるしかなかった。

 「あの、海岸と方向が違うようなんですけど」

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