第33話 海の上の道(12)
大きいうねりが、また、背中の下を通り過ぎて行く。
こんどはみちるがきいてみた。
「
空は、青い透明な色から、透明さをそのままに、黒い空へと変わって行こうとしている。
でも、透明な黒って、どんな色だろう。
「どこ?」
「フィリピン」
咲恵はたんたんと言った。
「フィリピンの、セントロレンスって街。知ってる?」
「いいや」
外国というと、アメリカかヨーロッパのどこかか、もしかすると中国と台湾ぐらいしか思い浮かばなかった。
ちょっと恥ずかしい。いや、そんなので咲恵に地理を教えたりしているのだから、ちょっと、ではなく、もっと恥ずかしいと思ったほうがいいんだろう。
「ま、いまの日本人は知らないよね。わたしも知らなかった」
「うん」
とりあえず、ほっとする。咲恵は説明した。
「昔さ、遠洋漁業っていうのをいっぱいやってたころには、日本の漁船がいっぱい行ってた街なんだよね。そこにさ、現地の人たちと缶詰工場を
咲恵は声を立てて笑った。
いや、笑っちゃいけないところだろう、と思う。でも、みちるは、黙って、咲恵の話のつづきをきく。
「破産したから帰ってきていいよって話だったらしいんだけど、なんかやっぱり責任感じちゃったらしくてさ、そのセントロレンスって街の人とまた新しい小さい工場を作って、なんか工場の掃除からお金借りる交渉まで、仲間の人たちと二‐三人で分担しながらやってるって。そんなんだからさ、お母さんが死んだときにも、けっきょくお葬式に間に合わなかった」
みちるはきいてみた。
「そんなお父さんを、咲恵さんは好き?」
「好きだよ、もちろん」
咲恵は、間髪を入れずというタイミングで答えた。
「いいなぁ」
みちるは正直に言った。咲恵は意外そうだ。
「なんで?」
「だってさ、わたし、ときどきお母さんのこと、うっとうしいと思うもん。家にぜんぜんいないんだしさ。でも、わたしのことにはいろいろ口出しするし、それでこんどのいじめのことだって、ぜんぜん気にかけてくれなくてさぁ」
そこでみちるは笑ってしまった。
思いもかけないことだった。そこがいちばん深刻な話のはずなのに。
これでは、お父さんの工場が倒産した話で笑った咲恵のことをどうこう言えない。
「うっとうしいのは、帰りが遅いとか言っても、家にお母さんがいるからじゃない? お母さんがいたころ、わたしもそんなふうに感じてたこと、あるから」
咲恵が言う。
「そのお母さんのお話、きいて、いい?」
みちるは遠慮がちに言う。もしかすると、あまり触れられたくないことかも知れない。
でも、咲恵の答えは、みちるの予想しないようなものだった。
「
泳ぎがとてもうまくて、お城から逃げてきたお姫様を守って戦った女のひと?
たくましくて、どんな偉い相手にも屈しない強さを持ったひと?
それは、咲恵自身なのだけど。
咲恵は短く笑って、続けた。
「あのさあ、相瀬って
「うん」
ところで、「重複」を「ちょうふく」と読めなかった咲恵が、「じゅうふく」とすら読めなかった咲恵が、どうして「海女」は読めるんだろう?
「ここの村は昔から海女漁をやって来ててさ、途絶えてたんだけどさ、うちのお母さん、泳ぐの得意だったから。あの
「それで?」
「大当たり!」
咲恵は、それが自分のことのように、笑った。
「ほんと、大当たり。ほら、高級料理屋さんって、新鮮さとかそういうのにこだわるじゃない? 海女漁ならばぜったい獲れたてでしょ? それにこのへん海きれいだから。それに、浜でほかに漁業やってるひとと対立しなかったっていうのが大きいかな。漁協の
そういうものなのだろうか。
じゃあ、みちるのお母さんは、金融コンサルタントとか言って、いろんな会社のお金に関係する仕事をしていて、いろんな会社が抱えるはずのトラブルを引き取って、その会社がトラブルを抱えなくてすむようにする仕事をしているんだろうか。だからあんなに忙しくて、しかも、年中、夜中まで、電話で、けんか腰になったり、粘り強く説得していたり、「すみません」を連発したりしなくてはいけないのだろうか。
よくわからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます