第32話 海の上の道(11)

 本番の前の日、咲恵さきえとみちるは、あの遺跡のある浜の沖に出ていた。

 週末までは雨が降って、夜の練習は寒かったけれど、前の日とこの日はよく晴れていた。昼のあいだ太陽は強く照りつけ、もう梅雨が明けたような天気だった。

 咲恵はあの浮き輪を持って来ていたけれど、いかりのかわりにコンクリートブロックのかけらがついたロープをつけて海に投げこみ、そのままにしてある。

 二人の娘は、その横で、仰向けになったまま水の上に浮いていた。高い波が来ると頭から水をかぶる。でも沖では海岸ほど大きい波は来ない。

 浮き輪を固定するために投げたロープの長さからすると、ここはみちるの背丈の五倍くらいの深さがある。

 でももう怖くない。

 いや、ここでもし溺れたら、と思うと、たしかに怖い。でも、人の体は、足が立たないからといってすぐに沈むものではないと、みちるも自然に思えるようになっていた。

 空は、最初は夕焼け色だったけれど、少しずつ群青ぐんじょう色になり、やがて星が瞬きだした。

 東京湾岸の街で見ていた星空とは違う。

 星の光が細やかで、しかも明るく、つまりは一つひとつの星が鮮やかに見える。

 「あのさ」

 その星の見え始めた空を見上げながら咲恵が言った。

 「うん?」

とみちるは顔を横に向けたいところだが、横に向くと口のなかに水が入ってしまうので、同じように上を向いて答える。

 「わたしの両親がいないって話は前にしたけど、みちるのところもお父さんもお母さんも見ないね」

 「ああ。お母さん、いつも帰ってくるの遅いから。それとお父さんは遠くに単身赴任。それも、わたしがここに引っ越してきた日の前の週に決まったんだ」

 「なんかそれってすごい話だよね」

 ほんと、すごい話だ。そう思うのでみちるも

「うん」

と答える。

 大きなうねりが、一つ、二人の背中の下を通り抜ける。

 咲恵はもちろん、みちるもこれくらいでは慌てなくなった。沖を船が通れば、こんな波がいくつか連続して来る。そういうことがわかってきている。

 「ご両親のお仕事ってなんの仕事か、きいていい?」

 咲恵がきく。

 「いいけど、わたしもよくわからないんだよね」

 みちるは前置きして答えた。

 「お母さんは東京の金融コンサルタント会社。もっとも、わたし、金融コンサルタントって何をするのか、よくわかってないんだけどね」

 照れ笑いする。

 「咲恵さん、わかる?」

 咲恵の答えはかんたんだった。

 「みちるにわからないものがわたしにわかるわけないでしょ?」

 でも咲恵さんのほうが先輩でしょ、とは、思っても、言わない。

 そのまま続ける。

 「お父さんは精密機械の部品を作ってる会社の技術者。機械の動きを千分の一ミリよりも細かくコントロールする技術を持ってるって。それがさぁ。金沢のほうの工場の責任者のひとが、本社とけんかしたとかで急にやめちゃってさ、夜に急に社長さんから電話かかってきて、次の日にはもう金沢だったよ」

 「それって、お父さん、信頼されてるってことだよね」

 「どうなのかなぁ」

 でも、信頼されていてくれると嬉しいと思う。

 お父さんは家では仕事の話はあまりしないひとだ。家にいるときは、できるかぎり、お母さんとみちるを中心にやってくれていた。

 そのお母さんは、休日で家にいるときも、コピーしてきた資料をいっぱい机に並べ、タブレットも二つほどならべて絶えずその画面を上に動かしたり下に動かしたりし、ずっと何か打ったりスマートフォンで何か話したりしているひとだ。家でもずっと仕事をしている。この海岸の村に引っ越してきてからもそれは変わっていない。

 「それで、住んでた家がお父さんの会社から借りてた家で、出なくちゃいけなくなって。それで、お父さんが小さいときに住んでた家のあるここに来たわけ」

 「ああ、そうなんだ」

 言って、咲恵は黙る。しばらくしてから、ぽつん、と言う。

 「桑江くわえって家、この村じゃけっこう古い家柄らしいよ。ま、みちるの一家が引っ越してくるまで、もうだれも住んでなかったわけだけどさ」

 「それ、初耳」

 みちるがほんとうのことを言う。

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