第30話 海の上の道(9)

 お母さんは十時を回らないと帰って来ない。泳ぎの練習が終わって帰ってくるのが九時二十分か三十分ぐらいだから間に合う。

 そう思っていたら、お母さんが先に帰っていたことがあった。

 みちるがまだ帰っていないのに台所の明かりがついていたのはびっくりした。しかも裏口の戸から入らないといけない。

 まさか空き巣とかじゃないだろうな、という心配もしながら、みちるがそっと裏口を開けるとお母さんがいた。

 お母さんも気がついて、台所から顔を出した。

 「何してたの、こんな時間に。心配したのよ」

と言う。

 言いかたが、怒っていると言うより、不満そうだ。口をとがらせている。

 「それに、そんな格好で!」

 そういえば、お母さんは、水泳の授業がある日には、水着とバスタオルとサンダルだけで娘が海岸まで泳ぎに行っているのを知らないのだ。

 「ごめんなさい」

 みちるは謝った。

 「こんど、学校の体育の期末テストで水泳があるらしいから、泳ぎの得意な先輩に教えてもらっていたの」

 「なんていう先輩?」

 「咲恵さきえ先輩」

 苗字はなんだっただろう? あ、そうだ。

 「椿井つばい咲恵先輩」

 「ふぅん」

 それだけだった。

 お母さんは、小学校のころからみちるの友だちの名まえを覚えてくれたことがない。例外は、父母会なんかで親どうしが友だちになってしまったばあいだけだ。そのときだけは、うそが通じない。

 でも、お母さんは、忙しすぎて学校の友だちのお母さんたちとのつきあいに参加しないので、けっきょく、すぐに友だちの親とも仲が悪くなって離れてしまう。そのたびにみちるは「なんとか君のお母さんはお母さんをのけ者にしてひどいのよ」などと愚痴ぐちを聞かされるのだけど、そのせいでお母さんはまたみちるのうそが通じる状態に戻る。

 それに、咲恵については、体育の期末テストということはうそだけれど、それ以外はほんとうだ。期末テストのことについて後で何か言われたら、新しい学校で、テストの仕組みがよくわかってなかったから、と言えばいい。

 「さ、早く上がって、ご飯食べちゃいなさい」

 この件はそれで終わった。

 もしかすると、自分も夜遅くまで仕事している以上、娘が夜に水泳の特訓をしているのもそれほどおかしなこととは思わなかったのかも知れない。女子バスケットボール部の主将だったころは、同じように夜遅くまで特訓していたのかも知れない。

 みちるは、くすっ、と笑った。

 みちるがお母さんのことでこんなふうに笑ったのは初めてだ。

 みちるがあの決定的ないじめから抜け出したことで、いじめはもっとひどくなるのではないかと思った。とくに、次の朝、あの美声の高地たかち兵司へいじがわざわざみちるの席まで来て

桑江くわえさん、昨日はどうしちゃったのぉ? あれから姿が見えなくなったんで、みんな心配したんだよぉ」

と、猫なで声みたいな言いかたで言ってきたときにはぞっとした。

 でも、美声でも、太い声なので、猫なで声そのものにはなっていない。なっていたら、もっとぞっとしただろう。

 みちるは、あまり表情を作らないようにして

「ありがとう。おぼれて気を失ってたみたいで、気がついたらもう夜で、家で寝てた。だれかが助けてくれたんだと思う。心配かけてごめんね」

と言う。兵司はおもしろくなさそうな顔で去って行った。

 その日の久本ひさもと更志郎こうしろうは元気がなかった。みちるとは顔を合わせなかったが、遠くから見ていてもあの得意の笑顔を見せない。だれとも話さず、いつもと違って愛想が悪そうだ。

 それに疲れきっていた。授業中に居眠りをして国語の先生に注意されていた。更志郎が居眠りするなんてことは、みちるが転校してきて以来、なかったことなのに。

 もっと痛々しかったのがあの出畑でばた武登たけとだ。

 左足にいっぱい包帯を巻いて、左足を床につけるたびに顔をゆがませて歩いてきた。男子バレー部員ということだが、これでは痛くて練習もできないだろう。どうしてこんなことになったのか。前日のみちるいじめ事件と関係があるのか。それは、みちるとはだれも口をきいてくれない以上、みちるにはわかりようがない。

 その日から、それまでのみちるいじめの「ノリ」みたいなものが消えた。

 房子ふさこも、みちるには話はしてくれないし、登下校にもつき合ってくれないけれど、目が合えば、あの細い目をもっと細めて笑い返してくれるようになった。

 咲恵にいわれてみれば簡単なことだ。

 あの久本更志郎が、出畑武登や高地兵司を動かし、この二人を含む数人が学年全体を動かしていたのだ。だとすれば、何が原因か知らないけれど、久本更志郎があまり元気ではなくなった以上、出畑武登も高地兵司の脅しもきかず、いじめの動きは鈍くなって当然だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る