第29話 海の上の道(8)

 それから新しい日々が始まった。

 みちるは学校が終わるとすぐに家に帰る。帰ると咲恵さきえが待っている。

 咲恵は、みちるの家の裏から、あの咲恵の「プライベートビーチ」、つまり遺跡のある砂浜に出入りする道を知っていて、そこから、だれにも気づかれずにみちるの家の裏まで来るのだ。

 この道は、幻に終わった別荘地開拓計画のとき、別荘地に通じる道路として造られ始めた道の一部分なのだそうだ。平坦に均されているが、もう崩れ始めていて、しかも上は草が茂ったり低い木が生えたりしていて、整地した道路には見えない。

 日が暮れるまでみちるが咲恵に勉強を教える。

 咲恵が学校に行っていないというのは、やっぱりほんとうらしい。

 漢字は読めないし、素因数そいんすう分解もできない。英語もめちゃくちゃだ。文字をすぐローマ字読みするので、boyはボーイでいいとしても、girlは「ギララ」になるし、highなんかは、どう読むのか「ヒガッハ」になる。これでよく三年生まで進級できたものだと思う。

 でも、いちど覚え始めると、咲恵が覚えるのは早かった。二日めには咲恵が持っていた英語の中学一年生の教科書の単語を全部覚えてきた。もちろん発音も含めてだ。

 数学の問題の解きかたも次々に覚えていった。みちるが先生に指摘された「証明の文の書きかた」なんか咲恵のほうがよほど教科書に近くちゃんとしていると思った。

 そして、日が暮れると、咲恵が来た道を逆にたどって、あの遺跡のある海岸に行き、咲恵の指導でみちるが泳ぎを覚える。

 昼間は避ける。昼間に練習していると、何かの拍子にいじめっ子どもに見られるかも知れない。海岸は道がないので磯釣りのひとは来ないが、沖に釣り船が来ていることはたまにある。それに、本番は、夜、日が暮れて月が昇るまでなので、夜の海に慣れておいたほうがいいという咲恵の考えだ。

 最初は、咲恵が自分の家から浮き輪を持って来て、沖に出た。

 浮き輪と言っても何の飾りもない大きい黒い輪だ。自動車のタイヤのなかのチューブの使い古したものだと咲恵は言った。それを、咲恵の持って来たポンプをぶっかんぶっかん足で踏んでふくらます。

 そうやって、沖で、足の立たないところで泳ぎ続ける練習をした。それと、顔を水につけないで泳ぐ練習だ。学校では顔は水につけなさいと教わるから、それとは違う泳ぎ方だ。広い海では、そうやって目標を見て、まわりの様子も見ながら泳ぐのがいいと咲恵は教えてくれた。

 手や足がったり、足が立たないのが怖くなったりしたら、浮き輪につかまりに来ればいい。

 最初の日は、何度も何度も足が攣った。それでも、何度も浮き輪に戻りながら、二時間泳ぎ続けた。砂浜に戻ったときには体がずしんと重かった。その体を、咲恵についてきてもらって、自分の家まで帰る。

 次の日にはもう浮き輪まで戻る回数が減っていた。その次の日には足の立たないところで泳ぐのが怖くなくなっていた。

 最初の日には、練習を始めるころには後ろから照らしていた月明かりが、日が経つにつれて、みちるの前側、沖のほうに移っていった。それといっしょに月は輝きを増す。満月近い月が半月よりずっと明るいことを、みちるはこの練習ではじめて知った。

 浮き輪が「念のため」ほどにしか必要なくなったころ、咲恵は「大きくく平泳ぎ」の泳ぎかたを教えてくれた。このほうが疲れないで遠くまで速く泳ぐにはいいのだという。

 それと同じように、咲恵のほうの英語や数学も上達していった。もっとも、これは最初が悪すぎたのかも知れない。

 でも、みちるの泳ぎだって、咲恵から見れば、やっぱり最初は悪すぎたに違いない。お互い様だと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る