第28話 海の上の道(7)

 二百メートル泳げば賞がもらえた。「お母さんの子」なので頑張りたかった。せめて百メートルは、と思ったのだけど、二十五メートルプールを二回折り返して七十五メートルのところで息苦しくなって立ってしまったのだ。

 「プールででしょ、それ?」

 咲恵さきえが言う。

 「プールは休むとすぐ足着いちゃうからさ。それ、実力じゃないんだよ。泳げる実力は、学校のプールで泳ぐよりもずっと上。いくら泳げるか、っていうのは、一度でも足着いちゃだめ、っていうんじゃないんだから。休みながら行けばいいんだよ」

 いや、それは違うんじゃないか?

 「でも、足が着かないと、溺れちゃう」

 「溺れないって」

 咲恵は強い言いかたで食い下がる。

 「人間の体って浮くんだから。息のつぎ方さえちゃんとしてたら、絶対に溺れない」

 「絶対に溺れない」と言っても、毎年、夏になるたびに人が溺れたというニュースがいっぱい流れるんだから、そんなことはないはずだ。

 言わなかったけれど、理屈を考えられるようになって、みちるはふっと落ち着いた。

 「でもさ、わたし、さっき、あの前、手も足もってた。すごく痛くなって、泳ぐどころじゃなかった。動かなかった。石投げられてもともかく上に上がりたいと思ってた」

 「攣るのはさぁ」

 咲恵はことばを切る。

 「攣るのはさ、泳ぐと冷たくなるからなんだよね、まず。泳ぎ続けて、体が温まってきたら、攣らなくなる」

 そんなものなのだろうか。

 泣いた反動で、しゃっくりが出る。咲恵が続ける。

 「それと、ちゃんと栄養取ってたらだいじょうぶ。あとさ、いきなり百パーセントの力を入れたりするともろに攣るんだよね。それはわたしでもそう。だからさ、五‐六十パーセントの力で始めてさ、八十パーセントぐらいまで持っていけば、攣らずにすむよ、何百メートル泳いでも、さ」

 「じゃあ、咲恵さんは、連続でどれくらい泳いでいたことがある? その、一度も足を着かずに」

 「さあ」

 咲恵はしばらく考えた。

 「午後ずっと泳いでたことあるから、四時間ぐらいかな。一時から五時くらいまで。泳がずにぷかぁっと浮いてた時間とか浮き輪につかまってた時間も含めて、だけど。それもさ、トイレ行きたくなって岸に上がっちゃったんだよね。だから、もっと泳げたはず」

 さっきの厳しい顔ではなく、もとのようににこにこしている。

 ああ、この子は海の子だ、歌にある「海の子」というのがいるならば、それはこの咲恵さんなんだ、と、みちるは感心する。

 「だからできるよ。あそこまでゆっくり泳いで二時間かからないもん。百点取れない子でも、五十点は取れるでしょ? それとおんなじ。四時間は泳げなくても、二時間なら泳げる。ね!」

 「うん……」

 なんだか理屈になっていないと思うのだが。

 「介添かいぞえとして、後ろについて泳いであげるから。だから、やろうよぉ! そのかわり、わたしも勉強がんばる。みちるがわたしに勉強教えてくれて、わたしがみちるに泳ぎかた教える。あとで調べとくけど、今日の月が半月ぐらいだから、あと一週間。ね!」

 咲恵は、みちるの両手の手首を、上から叩いて押さえるようにして握った。

 その手は硬くて、でも衝撃が少なくて、しなやかで、しかもしっかりしている。

 ああ、この手ならば、あのふにゃふにゃした海鼠なまこだって難なくつかまるはずだ。

 それても、あの食べたときのように、こりっとしたなんか奇妙な歯ごたえがあるものなのだろうか、海鼠って。

 自信なさそうな顔をしていると思う。それで、目を上げると、咲恵が黒い瞳でじっとみちるの目を見ていた。

 ごまかしは、きかない。

 咲恵が、握った手をゆすって言った。

 「ね。やろう!」

 だから、みちるは弱々しくだけれど、でもはっきり言うしかなかった。

 「うん。やってみる」

 「うんっ!」

 咲恵は嬉しそうに頷いた。

 そして、いきなり正面から抱きついてきた。咲恵は目を閉じて、顎でみちるの頬を擦り回す。

 やわらかかった。

 海のにおいがする。それは自分も似たようなものだろうと思う。でも、咲恵の海のかおりは、自分とは較べものにならないほど深いところまでその体に染みついているように感じた。

 「海に抱かれる」ってこんな感じなのかな、と思う。

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