第26話 海の上の道(5)

 みちるが言う。

 「でも、わたし、教えられない。そんな成績いいほうじゃないから」

 咲恵さきえは首を振る。

 「数学であの悪家老の子孫に勝った子がそんなこと言っても信じないよ。たぶんみちるなら三年生の内容でもわたしに教えられるんじゃないかな」

 いたずらっぽく言う。

 わたしのことなんか、何も知らないくせに、と、みちるは少し恨めしく思った。口には出さない。

 「ね? だから、教える、とかじゃなくていいんだ。よくあるじゃない、いっしょに宿題する、とかさ。ああいう感じでさ、わたしのわからないところを教えてくれたらいいから」

 二人のあいだを蚊取り線香のにおいのする風が吹き抜ける。

 もう時間は五時を過ぎているかも知れない。あのいじめっ子どもは学校に戻らなければいけない時間だ。

 でも、まだ外は夕方というより昼間のようだった。この季節は朝が来るのは早く夜が来るのも遅い。この海岸では、いままで住んでいた街よりもそのことを強く感じる。

 「ああ、……はい」

 それでも自信がなかったけれど、みちるはそう言って頷いた。

 「よろしく」

 咲恵がみちるの肩をとんとんと叩く。痛いほどの力の強さだった。

 「さ、次はみちるの問題」

 「わたしの?」

 みちるは首を傾げ、目を瞬かせた。何のことかわからない。

 咲恵はまた大きく笑った。

 「みちるってさ、そういう顔してると、ほんとかわいい。色も白くてさ、なんか妖精さん、って感じするよね」

 「え」

 そんなこと、言われたことがない。

 妖精さんというわけでもないだろう。

 咲恵はその「妖精さん」の肩を乱暴にぎゅっとつかむ。

 無理やり引っぱって、隣の部屋に入る。

 そこは、三方向が窓で、さっきの部屋よりずっと明るい。

 今度は海の側の窓をぐいぐいと引き開ける。がさがさ、きゅるきゅると音がして、窓が開いた。

 波が寄せて崩れる音が大きく響く。風は強く、咲恵の長い髪も、みちるの二つに束ねた髪もそよがせて吹き抜ける。

 そこは、さっきの砂浜よりずっと広い砂浜だった。砂も豊かだ。さっき二人が出てきた左側の岬から、右側の岬まで、青と緑色のあいだの色をした海が広がっている。

 たしかに、ビーチとして売り出すのだったら、漁港の隣のせせこましい砂浜よりも、こっちの海岸のほうが向いているに違いない。

 みちるは深呼吸した。何度か深呼吸してから、咲恵にきく。

 「で、今度は何?」

 「何、じゃないって」

 咲恵は言ってみちるを振り向く。いたずらっぽくではなかった。

 「解決しないといけないでしょ、みちるのいじめ問題」

 ああ、そうだった、と思う。

 この咲恵の「別荘」に来てから、そのことはほとんど忘れていた。

 ずっと忘れていたかった。でもそうはいかないだろう。

 咲恵はまた沖のほうに顔を向ける。

 「あの学校の子に、けっしてみちるをいじめさせないようにする方法がある、って言ったよね」

 「あ、はい」

 そういえば、咲恵はそう言っていた。いや、それを説明するために、ここに来たはずだ。

 「で、それなんだけどさ」

 咲恵は、ゆっくりと、力強そうに、その右手を前へすっと伸ばした。

 その手の先は、村とのあいだの岬の向こうの、青い海の向こうを指している。

 「あの先にちっちゃい島があるんだ」

 咲恵が指した先の海が、白く波立っている。

 ああ、そうだったと思い出す。

 あそこに島があるのではないかとみちるはずっと思っていた。

 そうだ。あのときも、あのいかだの上でその島のことを考えていたら、いじめ男子どもが来たのに気づかず、決定的に追いこまれてしまった。

 あのとき、咲恵に助けてもらっていなければ、たぶん、溺れかけさせられたうえ、岸に連れて行かれて、いまごろ頭を砂に埋めてバットでお尻を打たれたりしていたんだ。

 それを考えると体が切られるような痛みが走る。

 その島は、ここからも見えない。でも、咲恵が言う以上、たしかにあるのだ。

 咲恵は続けた。

 「あれさ、筒島つつしまって島でさ」

 「……うん」

 「唐子からこの村のところの浜からさ」

 「……うん」

 「見えるでしょ?」というくらいのことばが続くのかと思っていた。

 でも、咲恵が言った次のことばはぜんぜん違っていた。

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