第25話 海の上の道(4)
紺色の水着のみちるが気おされたところを衝いて、
「わたしは勉強したい」
「はい?」
みちるは目をぱちっとさせる。学校の先生が泣いて喜ぶようなそんなせりふがこの子から出てくるとは思わなかった。
自分だって、言わないと思う。
「意外?」
きかれて、みちるはとまどう。
「い、いや。そんなことは」
「いや、意外でしょ」
咲恵は得意そうに笑った。
「だから、みちるに勉強を教えて欲しい」
「はいっ?」
もっと意外だ。いや、何か勘違いしてるのでは……?
「いや、だって、咲恵さん、三年生でしょ? わたし、二年生。だから、無理。無理無理、無理無理無理無理」
これだけ繰り返せば、わかってもらえるだろう。ところが、
「それがそうじゃないんだよ」
咲恵は言って、首を縮ませて見せた。
「わたし、ほとんど学校行ってないから。二年生のときはなんとか出席日数
「は、はぁ……」
そこまで泳ぐのが好きなら競泳の選手になればいいのにと思う。
ともかく、これでわかったことがある。
なぜついさっきまで咲恵のことをかんぺきに忘れていたのか。
みちるは、引っ越しの翌日に咲恵に会った。
あの日の朝、みちるは学校で咲恵にまた会えると思ったはずだ。でも、会えなかった。
そしてそのまま忘れてしまっていた。
学年が違うとは言っても、あまり生徒数の多くない学校で一度も見かけないとは。
でも、来ていないのでは、会えるはずもない。
そんなことをしているうちに、
「じゃ、不登校なんだ」
「そんなたいしたものじゃないって。ただ学校行くより泳ぐのが好きなだけ。だいたい、四十分とか五十分とか椅子に座ったままでいて、ただ鉛筆動かしてるなんて、ほんと耐えられないよ。だから学校行かなくなっただけ」
そういうのを不登校と言うと思うのだが。
でも、みちるの家では、みちるが調子が悪いから学校休みたいと言っても、お母さんが許してくれない。体温を測って、三十七度五分以上ないと、学校に行くように言われる。どんなに気分が悪いと訴えても、測ってくれるのは体温だけだ。そのたびにあの「みちるはお母さんの子」という理屈が登場する。
咲恵のところは問題ないのだろうか?
「でも、お父さんとかお母さんとか、何も言わないの?」
「だってさ、いま、いないもの。二人とも」
ああ。そうか。
みちるの家も、お父さんがいまいないのだった。お母さんだって、顔を合わすのはだいたい夜十時より後なのだから、半分はいないも同じだ。
「どこか行ってるんですか?」
急に敬語っぽくなったのは、お父さんお母さんの話だから、ていねいに言わなければと思ったから、なのかな?
自分でもわからない。
「お父さんは外国。それで」
咲恵はそこまで言ってひと息置いた。
続きをさりげなく言う。
「お母さんは、どこかな。こことは違う世界。天国、って言うのかな」
みちるはびっくりした。
まずいことをきいてしまったと思った。
みちるはお父さんは夜にかかってきた電話一本でいきなり金沢に単身赴任させられた。それで週末にも帰って来られないくらい忙しいらしい。お母さんはお母さんで、何か責任ある地位に就いたとかで、朝早くから夜遅くまで東京の会社に行っている。
それで「親と離れている度」マックスだと思っていた。でも咲恵はそれより上だ。
みちるは慌てて言いわけする。
「あ、ごめん。咲恵さんが気にしてることきいちゃって」
「いや、気にしない気にしない」
咲恵はもとの笑顔に戻った。
「わたしも思わせぶりな言いかたして悪かった。なんかだめだよね、こういうわたしみたいなのがさあ、へんに表現とかいう表現とかしようとしたら。天国、とかさ」
「あ、いや……」
「そんなことない!」と否定しようとしたけれど、そうするとかえって不自然だと思われるだろう。みちるは何も言わなかった。
「それにさ、ま、お父さんがうちにいて、お母さんが生きてても、たぶん勉強しろとかあんまり言わないだろうと思うんだけどさ。そういうところは世のなかから浮いてる人たちだったから。二人とも。でも、いちおう、中学卒業できるくらいの勉強はしとこう、って思って。いちおう義務教育だし、さ」
「義務教育」なんてことばを聞いたのは、小学校以来じゃないかと思う。
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