第20話 再会(10)

 どれくらい泣いただろう。

 波が激しく打ちつけるぼしゃーんという音がして、つづいて、しゅるしゅるしゅるとストローで水を吸いそこねたときのような音がする。もう井戸から噴き上げる波の音にも驚かなくなった。いま自分が泣いていたことと較べると、どうでもいいことの繰り返しだと思った。みちるは顔を上げた。

 上から咲恵さきえが見下ろしている。

 「ね」

 咲恵がふんわり柔らかい声で言う。

 「みちるさ、あのバカに何かしたでしょ?」

 「バカって……?」

 声がまだ涙で詰まる。

 「だからさ。あの昔のバカ家老か何かの子孫」

 「え? 久本ひさもと君?」

 「そんな名まえだったかな」

 咲恵は冷たく言う。みちるの体よりも上のほうを見ている。みちるは驚いた。

 咲恵は、どうやら、今回のいじめの中心はあの久本更志郎こうしろうだと言いたいらしい。

 でも、更志郎君は、みちるがいじめられているあいだ、クラスでただ一人みちるに笑顔を見せてくれた子だ。いかだから石を投げられたときにも更志郎君だけが何もしなかった。

 それに更志郎君は天才少年だという。バカではない。

 「いや、覚え、ない。ほかの子じゃなくて?」

 「いや、あいつ」

 咲恵は硬い声ですぐに言い返した。

 でも、咲恵は三年生だという。二年生の生徒を取り違えて覚えているかも知れない。

 「やっぱり、何も……。出畑でばた君とか、高地たかち君とかじゃなくて?」

 「あの二人はその久本なんとかいうバカの犬だよ。言われたとおりにやってるんだ。そのなんとかいうのに言われたとおりにみんなやってるか見張ってて、言われたとおりやらない子がいたらこの二人が脅しをかける。ひどいときには、いじめられる本人よりひどい目にわされることもある」

 咲恵の声は冷たくなっていく。

 「みちるは覚えてないようなことかも知れないんだ。そのバカとのあいだに、何かなかった? 今度のことが始まったあたりの日にさ」

 あれはいつ始まったのだろう?

 そういえば、最初、みちるは、房子ふさこが何かに怒って自分と口をきいてくれなくなったのだと思っていた。あれがたぶん始まりだ。

 そうだ。あの昼、房子と夏弥子かやことみちるでお弁当を食べていたら、あの出畑武登たけとが来た。咲恵さんの言うとおり、出畑武登が「犬」だとして、あれが房子の態度が変わるきっかけだったとしたら。

 その前に何があったか、思い出すのにまた時間がかかる。

 みちるは、元通りに咲恵の隣に腰を落ち着けて、しばらく考えた。

 でも、あの日、更志郎に関係することで思い出せることと言えば、一つしかない。あの日は更志郎とは話もしなかったし、顔を合わせてもいないと思う。

 「そういえば、更志郎君といっしょに数学の問題に当たって。図形の証明問題だった。わたしがなんかもやもや考えて書いた答案が先生にほめられた。わたし、まちがってるって思ったのに」

 「それだよ!」

 咲恵は何かだいじなものを見つけたときのように嬉しそうに言った。

 でもみちるは違うと思う。

 「でも、更志郎君もほめられたよ。おんなじ三重丸もらった。わたしのは、ことばづかいとかいろんなところが雑だって言われたし」

 「それって、つまり、そのことばづかいとかの問題がなければ、みちるのほうが上だったってことじゃない!」

 「それは、そうだけど……」

 「あいつ、そういうの、耐えられないんだ」

 咲恵は、みちるのほうではなく、前を向いていた。

 目がうるんでいるのが光の加減でわかる。

 「あいつ、自分より上の人間がいるのが許せないんだ。とくに数学についてはね。先生さえ、経験は自分より上でも、才能は自分より下だと思ってると思うよ」

 「でも」

 みちるはそれでもまだ十分に信じられない。

 「久本君、いろんなことを教えてくれたよ。それに、わたしがいじめられてるときにも、久本君だけは何もしなかった」

 「みちるに何か教えてもらった、ってこと、ないでしょ、あいつ?」

 咲恵は笑った。

 「しかも、教えてくれたことって、半分くらいは自分のことだったでしょ? コンクールで入賞した話しとか、そんなの」

 そう言えばそうだった。半分以上だったと思う。

 「あ、うん」

 でも、それは更志郎が天才だからで……。

 「教えるばっかりで、相手から教えてもらおうとしない関係なんて、へんだよ、友だちとしてはさ。それに、自分では何もしないのはあたりまえだよ、だって、まわりの子たちがみんなやってくれるんだもん」

 「何を?」

 「みちるをいじめるのを」

 そう思えないこともなかった。

 あのあいだも、更志郎君だけはにっこりとみちるに笑いかけてくれていた。それは、更志郎だけがみんなとは違う行動をとってもだいじょうぶという自信からだと思っていた。

 でも、それは、もしかすると、軽蔑の笑いとか、自分の仕掛けたいじめでみちるが苦しんでいるのを確認したときの会心の笑みとかかも知れない。

 クラス全部でいじめをやっているときに、それに加わらない態度をとることができるのは、そのいじめを仕掛けた張本人だけだ。そうも言えるかも知れない。

 でも、まだ信じられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る