第3話 海辺の少女(3)

 「海鼠なまこ、嫌い?」

 咲恵さきえはきいた。気にしている様子もない。みちるは小さく頷いた。咲恵の手のなかの海鼠が、意地の悪い小さな目で自分の答えを確かめようとしているように思えたからだ。

 「食べたことない?」

 こんどは小さく首を振る。

 食べたことはあるのだ、ほんとうは。そのときのぬるぬる加減とんだときの弾力のある歯ざわりを思い出すと、気もちが悪い。自分の体まで海鼠のようにぬめぬめで中途半端なとげが立った肌に変身してしまいそうだ。

 「ふうん」

 咲恵は関心なさそうに右手から海鼠を海にほうり投げた。岩の向こうに、ちゃぽん、と波紋を広げて、海鼠の姿は消える。

 あらためて咲恵が差し出した手さえ気もち悪くて、みちるは胸の前で右手をかばい、咲恵の顔をうかがう。

 「うん?」

 咲恵は自分の手をしばらくじっと見てから、みちるのおびえた顔を見る。

 みちるはごくっと唾を呑みこんだ。

 「あ、そうか」

 咲恵は、腰を屈めて海水でちゃっちゃっと右手を洗った。

 「だいじょうぶだよ、毒なんかついてないから」

 それで、その、日に焼けたたくましい腕をぎゅっと突き出す。

 近くで見るとみちるの腕の倍ぐらいの太さがある。もっとも、それはみちるの腕が華奢だったからでもあるけれど。

 それに、オレンジ色の水着の下の胸はむくっと自己主張をしていて、海のにおいの移った咲恵の体は、小さいみちるの前で大人のかおりを立てているように思えた。

 ほんとうはまださわりたくなかった。海水で二‐三度揉むように洗っただけで、咲恵の手から海鼠のぬめぬめの成分が取れたとは思えない。

 でも、みちるの右手はすうっと伸びた。自然現象のように、みちるの顔の前を横切り、咲恵の逞しい右手に吸いこまれていく。

 まるでその「大人のかおり」に引かれるように。

 かばんに寄りかかったようなへんな横座りで握手するのも失礼だと思って座り直したところで、みちるの手は咲恵に届いた。

 ざらざらっとした粗い肌だった。でも温かかった。しっかりと握った手のひらや指から暖かさが伝わってきた。

 咲恵の手の先に出た自分の白い細い指が海に住む生きもののように見えた。さっきの海鼠を小さくして細くして白くしたような。しかしそれが少しも厭ではなかった。

 咲恵はその丸い顔でにこっと笑って見せた。

 「学校は八時半から朝礼だから、二十分頃には行ってたほうがいいよ。ここの学校、毎日朝礼あるから。転校生だったら、朝礼で紹介してもらえるんじゃないかな。お弁当は持ってる?」

 「……はい」

 「じゃ、心配ないね。それじゃ、またね!」

 咲恵は言うと、くるんと背を向け、足で海水をかき分けながら海へと下りていく。海は急に深くなっているらしい。少し歩いただけで膝のあたりまで水にかる。

 膝の横まではよく焼けた赤みがかった色だが、膝の後ろ側は思ったより白い。

 そこまで行って、咲恵はみちるのほうを振り返って

「くふふっ」

と照れたように笑い、前に倒れるようにして水に吸いこまれていった。

 跡には穏やかな波紋が広がっているだけだ。それも湾内の波にまれて、すぐにわからなくなってしまう。

 ほんとうにいまの子はいたんだろうか?

 ふしぎさに引かれるようにみちるは立ち上がった。

 海の上を探す。

 波がゆさゆさと揺れているだけだ。その波の揺れに合わせて、向かい側にある漁港の防波堤の外に並べてつないである船が揺れている。

 その間の海には何もない。

 咲恵もこれからみちるが通う中学校の三年生だと言っていた。握手をしたあと、もしかして咲恵がみちるを学校まで案内してくれるんじゃないかと思った。

 でも、少し考えれば、そんなわけはない。みちるはもう制服を着ている。咲恵はあの鮮やかなオレンジ色の水着のままだ。家に帰って着替えないと学校には行けない。

 咲恵の姿はいっこうに見えない。きっと、岩の陰になったほうへ曲がって泳いで行ったのだろう。

 また学校で会える。

 そう思って、かばんを持とうと手を伸ばしたとき、向こうの漁港の前の海面にぽこっと黒いかたまりがあらわれた。

 横に手が現れて、長い髪をかき分ける。「黒いかたまり」の下から顔が見えた。咲恵だ。ときどき肩のところのオレンジの水着が見える。

 髪をかき分けた手を高く上げて、大きく振っている。

 みちるもそれに答えるように右手を挙げて振った。半袖の袖口が腕にあたり、くすぐったい。

 みちるがとまどっているあいだに、咲恵はあんなところまで泳いで行ったのだ。

 たぶん、水に潜ったまま。

 咲恵は、ひとしきり手を振ると、またすっと水の下へと姿を消した。

 もしかすると、村の下の狭い砂浜のところで咲恵にもういちど会えるかも知れない。

 みちるはかばんを持ってコンクリートの段を上がっていこうとし、途中で気づいてかばんを置いた。スカートの斜め右と後ろとを念入りに右手ではたく。そして、あらためて足もとに置いたかばんを握り直し、みちるはコンクリートの段を軽やかに駆け上がった。

 気の早い蝉の声はあいかわらずあたりの空気を押しつつんでいる。


 *海鼠に「目」はありません。光の明るさは表面の神経細胞で感知するようです。

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