13

 そうして、私たちは詳細に約束していたわけでもないが、その翌週、また同じ時間に相見えた。彼女は真っ白なワンピースを着て、やはり、白い日傘を差していた。私が「お化けみたいだ」と茶化すと、彼女は「似たようなものかもしれない」と笑った。

 私たちは緩慢な動作で公園を後にすると、ふらふらとバス停まで歩き、海辺の町まで乗車した。目的など何一つ無かったし、どちらが言い出したことでもなかった。少なくとも私の方では、ただ、そうする他に何も思いつけないでいた。

 やがて辿り着いた穏やかな砂浜で、私たちはしばし、寄せては返す白波を眺めていた。辺りには人気もなく、実に静かである。

 世間話の種も切れてきた頃に、彼女はふと、こちらを向いた。

 私も何をとち狂ったか、実に自然な動きで、彼女の頬に手を添えた。

 唇が重なり、鼓動が震える。海風にたなびく彼女の髪からは、花のような甘い香りが放散していた。

 それからの記憶は、妙に曖昧である。しかし起きたことといえば、ただ、近くのホテルへ入り、彼女と交わったのみだ。私は当然に性的に興奮していたが、それは私の精神──いや、感性というべきであろうか──の作用ではなく、あくまで機械的にヒトとしての肉体が機能したような、そういう感じだった。

 事の済んだ後、私はようやく彼女の手首に沢山の細かい切傷があることに気づいた。そっとそれらを撫でてみたが、意味を訊ねることはしなかった。代わりに私は天井を見上げて、

「実はね、これが初めてなのです」

 と呟いた。彼女は少し悪戯っぽく笑うと、私の横っ腹へ抱きついて、

「どうでしたか?期待に添えましたかね?」

 と問うた。私は今一度、情事の詳細を思い出しながら、よく知りもしない、金盞花という名の、少し間の抜けた花を思い浮かべた。そして最後に、ふと、懐かしい彼の顔を思い出し、小さく笑った。

「へんだと思われると思うけど」

「はい」

「僕は、ような気がします」

 馬鹿にされるかと思っていたけど、彼女は「そうですか」と、そう呟いただけだった。

 私たちは陽が暮れた頃にバスで戻り、公園の前で別れた。去り際、彼女の目には涙が浮かんでいたが、その意味は終ぞ判らぬままだ。

 なお、それきり、彼女が現れることは二度と無かった。

 私は日暮れた帰路をゆっくりと歩いていった。頭脳の半分には、まだ彼女との情事が映っているように幻覚されたが、そんなことも刻一刻と風化していくのだろうと、今の私にははっきりと判っていた。道々、私はこれまでのことをぼんやりと思い出す。小さな罪を犯したこと、その報復に遭ったこと、初めて殺意を抱いたこと、静かな孤独、束の間の情熱、平静と青春、そうして、人生に対する倦疲。そのどれもが今となってはどうでもよく、かといって、それをどうでも良いと断じてしまえば、凡夫の人生に何一つとして残らぬことを解っていた。水の低きに流るごとく、時が過ぎてやがて死ぬる──つまりはそれこそが人間の正体であると、気づいたのである。

『池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる』

 私はそれを、ひどく悲しく思った。それは生きることへの憎悪にすらならず、ただただ、私に命ひとつぶんの重さを押し付けて、それでもう、だんまりである。西陽が落とした長い影法師と目が合って、思わず苦笑がもれた。私は何かそういう、言ってしまえばヒト畜生の憐れがここにあることを証明するために生きてきたような気がしていた。


 私の人生が始まった時、私の理性は世界の何処にも届きはしなかったが、私の感性は世界のあらゆる遠方までも届き、すべてを享受していた。陽の光は眩しく、当たり前のように美しかったし、何よりも暖かかった。淡空に浮かぶ掠れた雲や、駐車場の錆びたフェンスや、その向こうで揺れていた狗尾草だの芒だの、そんなものの一々一々が、出したての絵の具みたいに新鮮だった。

 人生の総ては、今なお私の眼前にひらけてある。

 そうしてそれは、今もこうして、ここにある。

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ヒト畜生の憐れ 不朽林檎 @forget_me_not

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