12

 私は休日の殆どを、人気の無い公園で過ごした。それは小高い丘の上にあって、遊具のひとつもなく、並んだ桜と小さな藤棚の他には取り柄の無いような、ひどく寂れたところだった。来るのは老人ばかりで、彼らは決まって無言のまま、公園の敷地をぐるり一周し、何もしないで帰っていく。まず間違いなく散歩であろうことは判るが、その様には、えも言われぬ虚しさがあった。祭りの残り香だけが来る誰かを待ち侘びているような、また或いは、山奥の廃屋で眠り続ける機械のような、そういう質感があった。かくいう私はと言えば、大抵は読書をして過ごしていたが、本へ向ける集中力も乏しく、ぼんやり空を眺めていることも多かった。

 私自身も、まるで老人になってしまったようであった。

 そうして二十歳の誕生日も近づいた、或る週末のこと、私はいつものように公園へ向かった。それはうららかな晩春の陽が辺りいっぱいに満ち満ちて、これから世界が梅雨へ向かって湿気っていくなど、とても思いつけないような、よく晴れた日だった。私はいつものように満開の藤棚の直下のベンチへ腰を下ろして、どうしてかタイトルは思い出せないのだが、何かしら人が死んでしまう話を読んでいた。桜は散ってしまったが、藤は未だ芳しく、どこか妖艶な佇まいにて陽光に戯れ、コンクリートの上に雅な影絵を成していた。

 この日は珍しく素直に、私の意識は手元の文庫本へ吸い込まれていた。それなので近づいてくる足音に私が気づけなかったのも無理からぬことであったが、それにしても彼女の足音はこれっぽっちも意識を阻害しなかった。

 彼女がベンチの他端に腰掛けて、ようやく私は面をあげた。ちらと横目で窺えばそこに、降る花弁にも見紛う、大変に美しい女性がいる。彼女は凛と背筋を伸ばし、口許で小さく笑んだまま、何処か遠くを眺めていた。その横顔などは天使もかくやと思しく、盗み見に留めるつもりが、私は素直に見惚れてしまった。その視線に気づいたのか、彼女はやおらこちらを振り向き、今度こそは目尻を下げて、顔全体で笑ってみせた。

 その表情の意味も、わざわざこんな公園で、見ず知らずの男と相席している理由も判じかね、私はただただ会釈を返した。彼女もまた、小さく頭を下げてみせると、

「こんにちは」

 と、至って現実的な言葉を寄越した。その声は顔に似つかわしく、鈴蘭の花を彷彿とさせた。

「こんにちは」

「読書をしに来られたのですか?」

「ああ、まあ」

「いいですね。ここは静かで、誂え向きです」

「ええ、そうですね……あの、あなたは、どういった用向きで?」

「私は」彼女は頭上の藤棚を指差す。「藤を見に来たのです。この時期には、毎年」

 これには私も合点がいったが、ベンチを占領していることに一抹の罪悪を感じて、

「なるほど。あの、僕はお邪魔ではないでしょうか。もしやお連れさんなど……?」

 と、彼女の顔色を窺った。けれども彼女はかぶりを振る。

「私ひとりです。それに、あなたが先客ではありませんか。遠慮は無用です」

「はあ、それなら良かった。ありがとうございます」

「いいえ。どうぞお気になさらず、お寛ぎください」

 それから私は視線を紙面へ注いだが、どうも、上手くいかなくなってしまった。眼球は文字を捉えているのに、ちっとも頭に入ってこない。数分後、とうとう痺れを切らして本を閉じ、ふと隣を見遣るも、そこはもとの空席となっていた。はてな、首を傾げて辺りを見回したが、やはり、人っ子ひとり見当たらぬ。またしても気づかぬ間に、彼女は帰ってしまったらしい。

 一人残された私はぼんやりと素晴らしい日和を眺めて、

「池水は──、」

 と、ぽつり呟いた。

 その翌週も私は公園へ出向き、そうして気づかぬ間に彼女が現れた。今度は最初から本を閉じてしまって、彼女との会話を試みる。

「今日も花見ですか」

「ええ。そちらは今日も読書ですか?」

「はい。暇な大学生なもので」

「まぁ、それは立派です」彼女は両掌を合わせ、満更お世辞でもなさそうに感心を示した。「何の勉強をなさってるのです?」

「物理を、少々」言っているそばから恥ずかしい気もしてきて、私は頭の後ろへ手を遣った。「まだまだ初学者ですが」

「理系の方なのですね」

 彼女の頬が実に自然に緩んだ。それを見て私も、さすがに少し笑った。

「ええ、まあ。あなたは、もう社会でご活躍だったり?」

「私は──、」

 表情は曇らなかったが、これまでの物言いとは明らかに違って、彼女は二の句を継ぎかねている様子だった。これには私が何かを察知し、

「すみません、なんだか、詮索するような真似を」

 と謝る。すると彼女は困ったような、苦笑に似た顔を作って、

「いえ、とんでもないです。ただ、お恥ずかしながら、今は何もしていませんで……」

 と呟いた。その言葉だけで何やら込み入った事情のありそうなことは察せられたので、私はくるりと目をまわして、「うん、なるほど…」などと茶を濁す。

「花が、お好きなのですか?」

 我ながら大胆な話題転換であったが、彼女はちょっと安心した様子で小さく頷く。

「ええ。花の咲いて、それから散るのが好きなのです」

「散るのが?」

「そう。桜みたいにぱあっと散る様が、とても」

 私は彼女の言を興味深く感じた。花の散る様はたしかに美しかろうが、そんなことを赤の他人に打ち明けるのは、なかなかに斬新奇抜で面白い。

「何の花がお気に入りです?やっぱり桜ですか?」

「うーん……」

 彼女は顎に人差し指をあてがい、ずいぶん長考していた。これまた、彼女のような美人を前にして奇妙なことでもあるが、そのとき初めて私は、彼女に官能的な肉体美を感じた。そして同時に気づいたことには、近頃、私においては性欲すらも減衰しているのだ。

 暫くの後、彼女はようよう私と目を合わせて、口を開いた。

「桜も捨てがたいですが、一番はやはり金盞花でしょうね」

「金盞花?」

「ご存知ないですか。マリーゴールドと言えば、どうでしょう」

「ああ…」

 私ははっきりとマリーゴールドの立ち姿を知っているわけではなかったが、何となく、麦わら帽子と青空が似合いそうな、黄色くて、馬鹿に元気な花の姿を思い描いた。

「しかし、それはまた、どうして?」

「金盞花ってね、とっても明るくて、見てると元気になるような感じの花なんです。でもその花言葉は、別れの哀しみ」

「はあ……ずいぶん変わった花ですね」

 彼女はにっこり笑って頷いた。

「そうでしょう。だからお気に入りなんです。あんなに明るくて元気なのに、その根っこには、消えて亡くなってしまうことへの哀しみが渦巻いてる。それが、まるで人間みたいで、大嫌いで、愛おしいんです」

 ずっと私は目を丸くしていたが、彼女はお構い無しに言い切った。それから勢いよく立ち上がると日傘を開き、藤棚の外へ躍り出る。

 長い黒髪を振り乱した彼女が、私を真っ直ぐに捉える。

「今日はもう帰ります。来週も、また会えますか?」

 私は呆気に取られたままだったが、その言葉に笑ってしまって、首肯する。

「もちろん」

「ありがとう」

 彼女はそれだけ言って、さっさと踵を返してしまった。

 その日はなんだか気怠くて、彼女を見送ってから腰をあげると、そのまま帰宅した。

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