五十八話 虐めなんて、無くなれば良いのに……

 十六夜さんが転落したあの日から一か月が過ぎた頃、私は父の病院を訪れていた。

 それは月に一度、両親に決められた習慣のせい。院長である父の娘として、将来的にこの病院を継ぐ者として、ここで働く人達に顔を出す為だ。


 この病院は一〇階にも及ぶ高層の建物で、周囲に聳える緑の樹木が景観を美しく彩る。玄関前のロータリーには噴水が水飛沫を上げ、人工物と自然の調和を描き出す。

 患者に安心感をもたらす為の配慮なのだそうだけど、私もこの景色が好きだ。都会から隔離されたようで、静かだから。

 でも、いつもなら事務的にこなすだけの訪問も、今日だけは憂鬱で仕方がない。

 だってここには……。


「……あっ、卯月ちゃん」


「……。」


 そう。この病院には、十六夜さんが入院しているからだ。

 こうやって廊下ですれ違うのは、予想していたから……。

 十六夜さんは私に何かを言おうとしていたけれど、それでも私は、歩き続けた。

 きっと、私がお見舞いに来たのかと思ったのね。そんな事するはずがないのに。


「お父さん、今日も各部門の人に会ってきたわ。他にする事ないなら、もう帰っても良いかしら」


 恒例の挨拶回りを終えた私は、父のいる最上階まで来ていた。

 そこはどんな木々よりも高く、私の暮らす街を一望できる場所。豪奢な照明やソファ、大理石でできた楕円形の大テーブル。この一室だけは、ここが病院内である事を忘れさせる。


「おぉ、卯月、早かったな。なら少し、仕事を頼まれてくれないか?」


 忙しなくパソコンを打ちながら、そう言う父。


「お前も聞いてるかもしれないんだが、実は今、十六夜さんのところの娘さんが入院しててな」


「……そう」


「しかしなぁ、どうも人見知りなのか、担当の療法士が療育訓練リハビリの手伝いをしようとすると、酷く怖がるみたいなんだ。身体に触れると、特に」


 ……だから十六夜さんは、一人で廊下にいたのね。手摺を掴みながら壁伝いに歩いて、彼女なりに療育訓練リハビリをしていたんだ。

 十六夜さんが入院している部屋は最上位の特別個室専用の階だから、一部の医療従事者と身内しか訪れる事はない。人目を避けて訓練するなら、確かに打ってつけの場所。

 でも、どうしてわざわざ、歩行訓練そんな事をするのだろう。

 ここに居る間だけは、安全なのに。学校になんて、行かなくて済むのに。


「卯月、頼めるか?」


「……ええ」


 そして私は、八階にある特別病室まで足を運んだ。重い足取りのまま、心の整理もつかないまま。


 コンコンコン。


 扉を叩いても、返事はない。もしかしたら、今は仮眠を取っているのかも。

 そう思った私は、意図せず扉を開いてしまった。無意識のうちにそうしてしまったのは、恐らく十六夜さんの顔を見たかったのだと思う。寝ている今なら、ちゃんと彼女の顔を見られるのだから。


「……卯月……ちゃん」


 でも、十六夜さんは眠ってなんかいなかった。ベッドに腰掛けながら、何かの本を手に持っていて。

 陽射しの下で見た彼女の姿は、心なしか痩せ衰えていて、弱々しく見えた。


「勘違いしないで。父親院長から様子を見てくるように頼まれただけだから」


「……そうなんだ。ごめんね、私のせいで」


 そう言って、十六夜さんの足元で屈み、彼女の右足を両手で持ち上げた。


「今から柔軟体操ストレッチング手技療法リラクゼーションをするわ。一人で療育訓練リハビリしたいのなら、しっかり覚えて」


「……うん」


 廊下で見掛けた十六夜さんは、いきなり歩行訓練から始めていた。石膏ギプスが取れて間もないなら、まずは筋肉や皮膚などの柔軟性を高める運動が必要なんだ。だからすぐに歩行訓練や荷重訓練をするのは望ましくない。

 そんな事、医学部を目指している十六夜さんだって知っているはずなのに。

 それなのに、どうして彼女は、こんなにも急ぐのだろう。


「じゃあ、私は帰るから」


 一通りの過程を終えた私は、その後も長居する事はなく、病室を出ようとした。決して目を合わせる事もなく。


「うん、ありがとう。忙しいのに、ごめんね」


 それでも私は、歩みを止めなかった。本当は、もっと話したかったのに。


「早く治して、すぐ学校に行くから。これ以上、卯月ちゃんに迷惑をかけないから」


 ……そうか。十六夜さんが快復を急いでいたのは、そういう事だったんだ。いつまでも入院していると私に迷惑をかけるからと、そう思ったからなのね。

 ……その言葉が、気遣いが、どれだけ私を苦しめた事か。


「……なさいよ」


 背を向けたまま、私は独り言のように呟く。握り締めた拳に、力が籠る。


「いい加減怒りなさいよ! 私は貴女を見捨てたのよ! なのに、なんで瑠璃さんが謝るのよ! いつもいつも、口を開けば謝ってるじゃない!」


 本当はわかっていた。十六夜さんが、どうして私に謝るのか。

 それは私達が中学生の頃だ。彼女の父親が、私達二人の親友を奈落へと追い込んだからだ。

 小さい頃からずっと一緒だった、もう一人の親友を。家族諸とも。


「いっつもそうやって謝って! 本当に全部自分が悪いとでも思っているの!? たまにはやり返してみなさいよ! 殴ってみなさいよ!」


 本当はわかっていた。十六夜さんに罪が無い事なんて。彼女の心はとても綺麗で、優しい事も。

 わかってはいたけど、私は気付かぬ振りをしていたんだ。十六夜さんを助けられない自分への、言い訳として。


「……ごめんね。それはできないよ」


 どれだけ感情的に叫んでも、十六夜さんの笑顔は壊れなかった。少し困ったように笑う姿は、今も変わらず、昔のままだ。


「私は自分が受けた痛みを、他の人にもさせたくない。やられたらやり返すなんて、そんなの間違ってるよ」


「……何それ。そんなの弱いだけじゃない! ただの言い訳だわ!」


 本当は、十六夜さんを否定したい訳ではない。私を、否定して欲しかった。

 彼女を見捨てた私を、罰して欲しかったんだ。


「ふふふ、そうかもしれないね。私ったら、臆病な癖に強がっているだけなのかも」


「……。」


 結局十六夜さんは、口許を押さえながら小さく微笑んでいた。

 そして最後に、彼女はこう言った。

 この世界はゲームや小説なんかではない。犯した罪を後悔した時、その後悔は一生付き纏う事になる。例え産まれ変わる事ができても、記憶が残る限り、ずっと。


 この時からだ。私が、弱くなったのは。

 私が、十六夜瑠璃いざよいるりと言う呪縛に捕らわれたのは……。


 でもそれは、大きな間違いだったんだ。

 もう我慢なんてしない。見て見ぬ振りはしない。

 だから私は、今日、アメリナを問い詰める。もしもシラを切るなら、強引にでも吐かせてみせるわ……。

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何度やり直しても無理なんです! ~悪役令嬢に転生した私だけど、やっぱり悪役にしかなれない~ 緋色 @hiro-kakuyome

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