恋の終わり

「千夏先輩?」


 ただ事ではない光景に自然と声が出る。

 しかし、彼女は圭の呼び掛けが耳に入らないほど何かに縛られているらしく、そのまま彼の横を通り過ぎようとした。


「千夏先輩!」


 今度は意識して強く叫ぶ。

 すると、千夏の身体が小さく跳ねた。


「東くん……?」

「どうしたんですか傘も差さずに!」


 言って、傘がカバーする範囲内に急いで彼女を入れる。


「何でも……ない、から」


 歯切れの悪い言葉を紡ぐ千夏。


「何でもなかったらそんな顔はしませんよ。あー、これ使ってください」


 後ろポケットに入れていたハンカチを差し出す。


「何でもないって言ってるでしょ!!」

「──っ!?」


 しかしながら、圭の優しさは千夏によって弾かれる。同時に、乾いていたハンカチは地面に落ちてしまい、すぐさま水を吸っていった。

 彼女らしからぬ行動に頭が現実についていけず、体が石にでもなってしまったかのように動けなかった。千夏もまた自身の行動が自分でも訳が分からなかったようで、戸惑っているようだった。


「え、ぁ、ごめんなさい――」


 先に動いたのは千夏。しかしやや遅れて圭もまた動く。


「すみません! 俺の方こそ先輩の気持ちを考えずに差し出がましいことしちゃって!」


 早口で言葉を並べながらしゃがみ、びしょびしょになった布を手に取る。雨水を吸ったハンカチは思ったよりも重く気持ち悪かった。


「えっとあの――」

「この傘使ってください!」

「ぁ」


 持っていた傘を無理やり彼女に押し付け家へと走り出す。千夏から少しでも離れる為に全力で。


 声を掛けるべきじゃなかった。

 先輩の心に土足で踏み込むような真似をすべきじゃなかった。

 傘だけ渡して放っておくべきだった。

 俺なんかが先輩の傍に近寄ろうとすべきじゃなかったんだ……!


 次から次へと溢れる後悔に圧し潰されそうになりながら、圭はただただ駆け抜けた。最早雨の冷たさなど気にもならなかった。

 我が家の玄関の前に辿り着いた時は意識が朦朧とするくらい呼吸が荒く、今にも倒れそうだった。

 母親の目を潜り抜け脱衣所まで無言で歩く。濡れて肌にくっ付いた衣服を洗濯機へと叩き込むと、圭は蛇口を捻りお湯を出そうとした。だが、最初に流れた水は雨よりも冷たかった。


 死にたい。


 抱えたマイナス感情はお湯に変わってもこびりついたままだ。シャワーを浴び終わり自室に戻ってもそれは変わらなかった。

 そして、暗黒の気分のまま土曜日の残りを寝たきりで過ごし、日曜日は一日の大半をビルを爆破解体する動画を観て終えた次の日。突如SNSによって圭は、昼休みにとある人間に呼び出された。


 あー、入り辛いなぁ。


 重たい気分を抱えていたものの、意を決して待ち合わせ先である部室のドアノブを捻る。


「千夏先輩……」


 既に部屋の中には千夏の姿があった。右手には圭が使用していた黒い傘が握られており、顔は申し訳なさそうな気持ちで一杯だった。


「ごめんね急に。それと一昨日はごめんなさい!」


 開幕頭を下げる千夏。

 しかし、大体の展開は想像していた為、呆気に取られることはなかった。


「アタシ気が動転してて……。それで酷いこと言っちゃって。本当にごめんなさい」


 二日前にこの言葉を聞いていればもっとぐいぐい行ったかもしれない。ただ残念ながらとても今はそんな気にはなれなかった。


「いえ、こっちこそすみません。何も知らないのにずけずけと」

「うんん、違うの。君は悪くない。悪くないから!」

「そう……ですか」


 違う。言いたいのはこんなことじゃない。

 本当は聞きたいんだ。「何かあったんですか」って。


 会話が途切れ気持ちの悪い間が空く。

 居たたまれない空気に圭は出ていこうか、と一瞬思った時だ。何処からか「これで終わって良いのか」という強い気持ちが脳内に飛び込んできた。


 ダメだ。言わないとダメなんだ。


 どう転ぶかは分からない。しかし言いたいことを言わなければ、数日前に元気の無い圭を心配してくれた千夏と、そして何より自分の感情に失礼な気がした。


 言え!

 言わないと俺は──、

 次に進めない!


「えっと、何かあったんですか。もし俺なんかでよければ、相談に乗りますけど」


 ぎこちなかったが、どうにか未来を作った。


「……君は優しいね」

「人生で初めて言われましたね」

「あはは、そうなんだ」


 二人して軽く笑う。

 そしてほんの少し雰囲気が良くなかったことで、部室中央に鎮座しているベンチに千夏は腰を下ろした。圭もまたそれに続く。


「実はあの日彼氏の試合の応援に行ったんだけど、私の応援が邪魔だったらしくてね。その『うるさい』って。『二度と来るな』って言われちゃってね。これはもう振られたかなーって思ったら訳分かんなくなっちゃって」


 千夏の声のトーンが徐々に下がっていくのを聞く。当然のことながらまだ引き摺っているようだった


 案の定彼氏絡みか。そりゃそうだよね。


「嫌われちゃってるよね。アタシ」


 恐らく先輩は悪くない。

 悪いのは全面的に彼氏の方だ。


「多分ですけど、それ照れ隠しじゃないですかね」

「え、どういうこと?」

「男子って変なところで面倒なんですよ。他に知人がいる前で女子と話し辛いというか、関係を持ってるのを悟られたくないというか。まあ、人にもよりますし、大人はそんなこと無いんでしょうけど」

「そう……なんだ」


 千夏が信じられないといった風に圭を見る。


「それに恋愛関連は他の男子が茶化してきますからね。千夏先輩の彼氏も何か言われたんだと思いますよ。だから心にもないこと言ってしまったのかと」


 馬鹿なことを言っているような気がする。

 何故先輩と付き合いたかった自分が恋敵の肩を持っているのだろうか。


「なので彼氏さんが本当に千夏先輩のことが大事なら、今日あたり謝ってくるんじゃないですか」

「そういうもの……かな」

「そんなもんですよ」


 圭が言い切るや否や突如スマホのバイブレーションが鳴った。


「ごめんね」

「いえ」


 千夏はスカートのポケットからスマホを取り出し画面を操作する。すると、沈んでいたのが嘘なくらい表情が明るくなった。


「『謝りたいことがあるから放課後時間取れる?』だって。君の言う通りだったよ!」


 最上級に可愛い笑顔を振り撒きながらスマホを見せてくる彼女。自分の助力は無駄じゃなかったと思うと同時に、千夏が彼女となる未来が完全に消えたことに悲しさもあった。


「良かったですね」

「うん。本当にありがとう! 君のおかげだよ!」


 我を忘れて喜ぶ千夏を見て、圭は心が澄みきっていくのを感じた。


 あぁ、そうか。

 俺が見たかったのは千夏先輩のこの顔だったんだ。


 千夏に彼氏がいると知ってから散々苦しんだ悩みから解放された気がして、胸が軽くなった。


「安心したら逆にそわそわしてきたから、そろそろ行くね。あ、それと──」


 立ち上がった千夏が思い出したように右手を差し出してくる。正確に言えば右手に持った傘だが。


「傘もありがとう。危ない危ない、忘れるところだったよ」

「先輩らしさが戻ってきましたね」

「……君だけ今日は球拾いかな」


 何で!?


「冗談だって。じゃあ、また部活でね」

「はい!」


 圭の強い返事を聞くと、小さく口角を上げた千夏は外へと出ていった。取り残された圭は、彼女が居なくなった部屋で呆然と扉を見続ける。

 後悔が無いわけではない。むしろ逆で未練たらたらだ。それでも彼女を手助けしたのは、大好きな先輩には笑っていて欲しかったから。


 あー、でもちくしょう。


 午後の授業の開始5分前を告げるチャイムを聴きながら、圭はごろんとベンチの上に横たわった。


 千夏先輩と付き合いたかったなぁ!

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