伝えたくて伝えられなくて

エプソン

始まらない恋

 千夏ちなつ先輩今日も綺麗だな。


 テニス部の日課である素振り百本をこなしながら、東圭あずまけいは何時ものようにそう思った。

 圭の一個年上である千夏は中学二年生だ。

 部員数が少ないため、男女混合となってしまっているテニス部のエース的な存在。小学校の時からテニスを続けているのも相まって、強さのみならずフォームも他の部員とは段違いに美しかった。


 意識して練習してるのかな?

 今度聞いてみよ。


 加えて人柄も良く、人付き合いが消極的な圭にも時折話し掛けてきてくれた。また、こちらから話すのも全くと言っていいほど抵抗感を感じない。そのせいか『女子と絡むのはダサい』という、小学生男子特有のルールから解き放たれたばかりの彼が恋心を抱くには充分過ぎるほどだった。


 あぁ、こうして毎日先輩を見ていられるだけで幸せだ。

 本当テニス部入って良かった!


 しかし、その小さな恋が霧散するのはあっという間だった。


「千夏先輩彼氏いるらしいぜ」


 は──?


 休憩中に同級生の男子から出た他愛の無い一言によって、圭の精神は底無し沼へと沈んだ。あまりの衝撃に水飲み場の蛇口から吹き出る水を飲み込むことが出来ず、壊れたじょうろのように次から次へと口から漏れていった。


「マジで。誰と付き合ってんの?」

「バスケ部の太田っていうニ年らしいぜ」

「知らねー。でも千夏先輩と付き合えるなんて羨ましー」


 ハンマーで殴られたような衝撃に耐え、何とか情報を聞き続ける。会話に挟まることは出来なかったが、むしろ蛇口の水で溺れなかったことを褒めて欲しいぐらいだった。


「い、何時から付き合ってんだろ」


 何とか顔を上げるとようやく声が出た。


「さぁ。分かんね」

「そ、そう」


 どうにか絞り出した言葉はいとも簡単に振り払われた。他者の色恋などどうでも良いのだろう。


「おい、そろそろ行こうぜ。ストローク練習付き合ってくれよ」


 仲間達は千夏が居るであろうコートへと戻っていく。対して、圭は身体が硬直してしまって思うように足を踏み出せない。

 出しっぱなしの水が流れていく音がやたらと耳に残った。


「あぁぁぁぁ!!」


 練習が終わって帰宅するなり圭はベッドへと倒れ込み、枕に口を押し付けどろどろの感情を吐いた。


 あー、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい!!!!!!


 千夏に彼氏がいることを知ってからの練習はボロボロだった。球を打とうとすれば空振りを繰り返し、たまに当たったと思えばボールを大きく打ち上げるホームランになってしまった。しかも千夏を意識すればするほど段々と酷くなっていったのだ。

 想いを寄せる相手に情けない姿を見られて、圭の羞恥心は限界を突破していた。


 ……これからどうすれば良いんだろう。


 ひとしきり手足をバタつかせたところで、ようやく少しだけ冷静さが戻ってきた。昼まであったはずの胸の高鳴りはすっかりと息を潜め、代わりに虚無感ばかりが大きくなっている。


 そもそも俺の彼女どころか想いすら伝えてなかったもんなぁ。


 戦って負けたのならまだ踏ん切りがつく。だが、戦う前に負けたのだから、気持ちに整理がつかなくて当然だった。

 結局圭は感情に答えを出せずにいると、そのまま深い眠りへと落ちていった。母親による夕飯の声にも気付くこと無く。


「っ!?」


 次の日の放課後。

 変わらず失意のどん底に沈んだままテニスコートへと赴くと、一人ラケットのフレームでボールを上げ続ける少女が居た。


 千夏先輩……。


 相当早く来たのかネットも張られている。暇そうなのは一目見て分かった。


 何か声、掛け辛いな。昨日までは嬉しいくらいだったのに……。

 誰か来るまでランニング行こうかな。


 と、思ったところで、突如ボールコントロールを誤った千夏が後ろを向く。すると必然的とも言うべきか、彼女と目が合ってしまった。

 つまらなそうにしていた千夏の表情がぱぁっと明るくなる。


「ちょうど良かったよ。皆が来るまで軽く打たない?」


 屈託の無い笑みで言われる。こんな表情を見せられたら男として断る理由がなかった。


「い、良いですよ」


 何故か声が少し上擦ってしまった。


「なに、緊張してる? 大丈夫だよ、軽く流すだけだから」


 千夏は優しくぽんと右肘を叩く。

 彼女は技術力の差を心配しているようだが、圭の心はもっと別のことに捕らわれているのだ。そして、原因が彼女にあることなど気付ける方が可笑しいだろう。


 え、いや、何これ、触れられた箇所が熱いんだけど、っていうか千夏先輩近くて顔ちっさ、とかじゃなくて、あーもう分かんねー!


「は、はい」


 沸騰しそうなほど熱された頭と心のまま何とか返事をすると、千夏はクスリと笑ってネットを挟んだコートの対岸へと走っていった。


「行くよ」

「はい!」


 圭の返事から数秒遅れてアンダーサーブによる緩い球が飛んでくる。明らかに初心者である圭を意識した速度だ。

 拙い動きながらも返すことが出来ほっとする圭。次のショットは山なりだが先程よりも少し早い。こちらもどうにか打ち返したものの、変に深く返ってしまった。


 上手っ!


 だが、これも息をするようにいとも容易く返球してくる。しかも、2打目よりほんの少し球威を上げて。


 っ!


 取れそうだったがイメージと現実に差があったのか、球へは一歩届かなかった。


「すみません!」

「惜しい惜しい! 次行こう!」


 それからも千夏は圭が打てる範囲の球を送り続けてくれた。果たして彼女の練習になっているのかは分からなかったが、少なくとも圭の頭からは生産性の無い雑念はすっかりと息を潜めていた。

 そうして10本目のラリー。圭の手によってボールがネットに引っ掛かったところで、千夏はボールを拾いながら言う。


「どう? 気は晴れた?」


 どうやら気を遣われていたらしい。まだまだ初心者とはいえ、昨日あれだけ空振りを繰り返したのだから何かあったと思われて当然だろう。実際頭の中に掛かっていたモヤはかなり澄みきっていた。


「あ、はい。そこそこ」

「そっか。それなら良かった」


 千夏は笑顔で言うと、ぼちぼち集まっていた部員の輪の中へと入っていった。


 ずるいな……本当に。


 千夏は絶世の美女というわけではない。ただ見た目が可愛いだけの生徒なら他に沢山いる。だが、彼女の周囲への気遣いや特有の明るい雰囲気は、容姿の差など軽く引っくり返してしまう。だからこそ圭も彼女に惹かれたのだ。


 バスケ部の太田先輩が羨ましい。


 軽くなった胸に手を当てる。モヤモヤは消えていたが、代わりに純粋な嫉妬心が残ってしまったような気がした。

 そして何とか毎日を過ごし続けた次の土曜日。土砂降りの雨が降り注ぐ住宅街の一角に、傘も差さずに呆然と歩く千夏を──、

 圭は偶然にも目撃した。

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