二 

 さて、側室は何年たっても山に囲まれた、この領に慣れなかった。

 もともとは、亡くなった室が八平はちだいらに嫁したときに、ついてきた乳母の身内であった。

 室が質子ちしとして珠流スルに召されている間に、美作貞能みまさかさだよしとそういうことになった。


 平地の者は、山というのは天狗や魑魅魍魎ちみもうりょうの住処と思うておるものも少なくない。霧が生まれる場所じゃとも云う。

 さんざ、側室も子供の頃に、『山から天狗てんぐがさらいに来るで』とおそれかされた。

(山は、おそがい(怖い))

 そう思うていた。だが、平地で幽閉されていた八平の室は、串刺しにされて処刑された。

(平地も、おそがい(怖い))

 そういうことだ。



 その後の平地は、元々の士豪や参入者とのいさかいを経て、ようよう、参之國サンノコクの国主、黎明レイメイ公が力をつけ、今、一つのクニにならんとしている。

 そうして、山間の地の士族も納まるべくして、参之國サンノコクに従った。


 ただ、山家やまがの風は変わりやすい。 


 参之國サンノコクをまたいで、とり(西)の方角から風が吹いてくる。

 祖父上じじさまと呼ばれる大殿、貞勝さだかつの亡くなった前のしつも平地の士豪から嫁してきたが、この室の甥御さまの御説得で祖父上じじさまの代、一時、尾之國オノコク疾風シップウ公に通じられたことがある。

 まさしく、尾之國オノコク参之國サンノコクとり(西)の方角にある。その大将を疾風シップウ公と人は呼ぶ。



 自分の息を整えて、側室は板敷の廊下をくりやへ歩いて行った。

 エンが握り飯を作ると、くりやで駄々をこねているであろう。あの勝気な日女ひめは、兄、玖八郎くはちろうが好き過ぎる。


 思った通り、くりやでは、エンが炊けた飯を横取りして、塩をまぶした握り飯を作っていた。

「もう、よろしいだら」

 乳母が言うことは耳には入らぬようだ。竹のザルには笹の葉が敷かれ、握り飯が山盛りになっている。

「エン。十分じゃ。それより、夕のうたげで、お前のことがなけれゃ、さみしかろ。玖八郎くはちろう様ががっかりする」

 側室は、わざと玖八郎くはちろうの名前を出した。

「たいへん! 練習せにゃ!」

 エンは、ぬれた手拭いで手を拭いて終わりにし、ばたばたと行ってしまった。乳母が側室に一礼し、追いかけて行く。


「握り飯は残れば不寝ねずばんの者たちの夜食にしろ」

 側室は、こめかみを抑えた。


 最近になって、うたげの差配など、大勢の者たちの前に出ると眩暈めまいがするようになった。加えて、尋常じんじょうではない動悸どうきや汗の量。

 薬師くすしは、「女子おなごやまいだら」と判じたが。

 気分のよい時の方が少ない。もう三十を超える。女としては身を引く時期だ。その寂しさと心細さが、余計に体に響くようだった。

 それでも、今日は夫の帰還と戦勝に心が浮き立っているのだ。

めしを炊いてくれるか。腹いっぱい、帰って来た者たちに食べさせたい」


 うるち米、赤米、の雑穀を混ぜたものがめしだった。普段は朝一度に炊いておくが、今日は特別だ。

 下女たちもうれし気に、炊飯の大鍋を手にくりやの外に出た。建屋の側に、四方を竹で囲った小屋がある。そこが竈場かまどばだ。

 竈場かまどばで湯が沸けば、米は、その中でふつふつと煮え出した。

 炊きたてもうまかろうが、この季節は水飯みずめしにしてもうまい。何にしても塩か味噌みそがあれば、何杯でもいける。


 その塩は、山間の八平はちだいらの領では取れない。海辺の國はいにしえには〈製塩土器せいえんどき〉、それからは〈塩浜しおはま〉という仕組みで塩を産出していた。さらに、それが味噌みそ作りに繋がるから、たかが塩ではない。

 海に面した半島を持つ参之國サンノコク、はたまた尾之國オノコクと良好な関係を築きたいのは、その辺りもある。今でこそ、はるか西方の國に製塩技術で追い抜かれ、塩の産地としては下火とはいえ、ここより更に山深いキョウが海辺の國を欲しがるのも、そこだろう。


 下女たちは、そこまでのことは考えてない。

 ただ、飯が残れば御相伴おしょうばんにあずかれる。下女たちは楽し気に、かまどの番をするのだった。

 その軒先から白い煙は、ふんわりと立ち上がり空の雲へと混じって行った。

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