恋と婚姻

 不知日女しらずひめの名を返したフウは、日近ひぢかの屋敷から、ほど近い寺へも足を運んだ。そこには、フウの祖母上ばばさまが暮らしていなさる。

 近頃は体調を崩しがちだということで、たとえ巫女の立場であっても、フウは見舞いに行きたいと考えていたところだった。


 屋敷では駕籠かごが仕立てられていたが、「歩きたい」とフウは断りを入れた。


助左衛門すけざえもんと申します。駕籠かごが必要なときは、いつでも言ってくだせぇ」

 若い百姓は、へこりと布面ぬのめんのフウに頭を下げた。

 駕籠かごかきに呼ばれると、よい駄賃にもなるからうれしいらしい。だが、田畑も忙しい時期だ。狭い山間の地で収穫を得るには、手をかけねば作物は育たない。


 寺への往復は僧の永順えいじゅんが同行してくれた。護衛としてさいもいっしょだ。

 フウは被衣かづきを被り、長い黒髪を隠した。着物は単衣ひとえうちきを着重ねて腰紐こしひもを結んで引き上げ、歩きやすいようにすそをはしょった。

 それすら、さいうとましかったらしく、完全に男のなりだ。


「一応、お前さんも女子おなごだらーが。そんな恰好をしとったら、嫁御様よめごさいけん――」「行かんでいい」

 かぶせ気味のさいの言い草に、永順えいじゅんは呆れている。


「フウさま、かさをかぶったほうが。日焼けは嫁御様よめごさに禁物であらーかな(だろう)」

布面ぬのめんが、ちょうど日焼けふさぎになるんじゃね」

 また、さいが適当なことを言う。


「うーん。ちょっと暑い」

 涼月りょうげつ(旧暦七月)なのだ。日が高くなる前に出立したが、やはり暑い。フウは被衣かづきを少し、頭からずらした。


「まぁ、フウさまは日焼けなんぞ気にせぬ、お子であったがね」


永順えいじゅんさまは、われの小さな頃を御存じなのか?」

 フウは永順えいじゅんに会ったことがあったとしても、覚えていない。


「はじめて会ったときのフウさまは日焼けして、男子おのこか仔犬にしか見えんかった」

「わぁ、意外、でもない?」

 さいは、フウと目を見交わして笑った。フウは見た目、たおやかな乙女だったが、存外、手が出ることは承知のことだ。


 永順えいじゅんはフウが生まれた頃、日近ひぢかに流れ着いたという。


「大きな反乱のあとだったでね。日近ひぢか謀反むほんの責を負って久兵衛貞友きゅうべえさだともさまの父上は追放、兄上様は鹿狩り中に本家さまに誅殺ちゅうさつ。それをもって八平本家は主家しゅけゆるされたのさぁ」


「……フウさま、身内、本家に殺されてるじゃん」

「無常、無常」

 永順えいじゅんが合の手を入れてくる。

「あっちについたり、こっちについたり、風向きを見るのも、この山家やまがでは当然のこと」


「今、八平はちだいらの主君は、参之國サンノコク黎明レイメイ公さまなのですね」

 そこだけは、フウにもわかっていた。


「そうさぁ。珠流スルという國で質子ちしだった黎明レイメイ公さ。黎明レイメイ公は八平はちだいらの帰参を大いに喜ばれ、三つの領の三千五百貫文と、どこだったかな、海の方の領の三分の一の知行ちぎょうを八平はたまわって、八平当主は美作みまさかを名乗られるようになったわけさ」


 寺の山門が見えてきた。山の中に入ると木陰が濃い。


「フウさま、キョウのことを知っとるかい?」

「山また山の向こうの國と」

 フウは大巫女おおみこから聞いていた。


赤鬼アカオニ公という方が治めとる。黎明レイメイ公にとっては、一番の強敵。なのに、八平はちだいら本家当主の弟さまは、その赤鬼アカオニ公をお慕いなすってぇ、五年前に離反してキョウに行っちまった」

 

 八平源五左衛門常勝はちだいらげんござえもんつねかつのことだ。


「八平の家老である五老ごろう生田しょうだの当時の御当主が討ち取らんと追いかけなさったけど、大雪にはばままれて、凍えてお亡くなりになったんじゃあ。――無常、無常。それで、生田しょうだは三男のお若い四郎兵衛しろうべえさまが継いでいなさる。玖八郎くはちろうさまの侍従でもある」


「ほら、フウさまが若君を突き飛ばしたとき。側におった侍従だろ」

 さいが、シシと笑う。

「なんと」

 永順えいじゅんの眼が丸くなった。

「いきなり腕を掴んでくるから」

 フウはバツが悪そうに言い訳した。


「それから、八平はちだいらは、参之國サンノコク惣先手そうせんての侍大将の下で働いとるのさぁ」


 歩いている内に皆、汗をかいてきて、寺に着いたころには、フウの布面ぬのめんは汗を拭く手拭い代わりになっていた。


「さぁて、これよりは、風はどちらに吹くかねぇ」


 勝手知ったる他人の寺、永順えいじゅんは寺の門をくぐり、どんどん奥へ進んで行く。

 日当たりのよい場所に、祖母上さまのいおりは結ばれていた。

 屋根は秋にいた杉の皮でかれ、竹を組んだもので押さえてある。板引戸と窓は半蔀はじとみが開け離されていた。間取りは六畳の部屋が四間に土間という簡素なものだ。

 祖母上付きの尼が一人いて、土間に作られたかまどで煮炊きをしているらしい。

 屋敷で暮らしていたことより、ずいぶん質素な暮らしではないかと思うが、それを言うなら、フウも似たような生活だった。


 祖母上は待ちきれなかったのか、とこから起きていた。

「まぁ、すっかり娘らしくなって」

 フウを見た祖父母ばばさまは目を細めると、その目元が久兵衛貞友きゅうべえさだともに似ている。

 そして、祖母上の衣のたもとが揺れるたび、焼香の香りがした。ここで、祖母上は先に身罷みまかった人々を弔ってきたのだ。

 

祖母上ばばさま、御無理をなさらんで」

「いえいえ、今日は調子がようございます」

 祖母上とフウは、会わなかったときを一気に飛び越えた。


此度こたびは本家の玖八郎くはちろうさまに嫁入りなさるとか」

 そう云う祖母上自身は、参之國サンノコク寄りの士豪から嫁してきた。

「今日は、ゆっくりしていけ」


 いおりの奥の部屋までは、夏の日差しは届かない。風が時節、すぅっと通って行った。文机ふみづくえには、お道具の蒔絵まきえ硯箱すずりばこなどが並べてあった。


 祖母上はフウに硯箱すずりばこを見るよう、うながした。

 硯箱すずりばこの蓋には鶴と亀と菊が描いてある。この山家やまがでは見たこともない細工だった。

「われの嫁入り道具じゃ。お前に譲らーかな(譲ろう)」

 硯箱すずりばこの側には、くしが添えられていた。

「お前の母が使っとった物じゃ。これも持って行け」

「このようなお品、いただいては祖母上ばばさまが寂しゅうなりましょ」

「なぁに、もう、ここに、たんと思いがある故」

 祖母上は、そうっと己の胸の辺りに手を添えた。

「お前が嫁御様よめごさになるのを見られるとは思うておらなんだ。ずっと見守っとるでな。フウ、元気でおりん(おれよ)」

 祖母上さまは、己の手にフウの手をとり、何度も何度もやさしくなぜた。

「また、すぐ参りますよ?」

「……年をとると、待てが苦手になるのじゃわ」


 衣擦きぬずれの音がして、祖母上の身の回りを世話する尼であろうか、茶ともちを持って入って来た。


久兵衛きゅうべえが、よくお前を不知森しらずもりから出すと承知したの」

「本意ではないかもしれませぬぁ。亡き室さまに生き写しのフウさまを引き留とめときたい御心が、駄々洩だだもれでございましたわ」

 永順が言い添えてきた。


「引き止められはせぬ。ときと同じじゃ」

 祖母上は茶を一口含んで、長いため息をついた。


「それで、フウ。本家の玖八郎くはちろうには、もう会ったのか?」


 きらきらきら。

 また、フウの頭の後ろ辺りで、泉の中の砂が舞う。


「会い、ました」

 印象は最悪であったが。

 それがフウの顔色に出たらしい。祖母上さまが、あれ、という顔をする。

「……やはり、覚えとらんのか。フウは」

「?」

 フウは昔のことを思い出そうとすると、頭にもやがかかるか、と頭が痛くなる。


「神隠し子は、神さんの知恵を貰う代わりに、自分の記憶を壊すと言いますものやぁ」

 また、永順えいじゅんが。


「大丈夫、大丈夫。そんなもんだよぉ。われも小さい頃のことって覚えとらん――。ん。この餅、どえらいうまいです」

 さいは、ぺろりと餅をたいらげていた。


さい、お前、相変わらず元気そうじゃ」

 そう言えば、さいを呼ばわり山に行くように差配したのは祖母上さまである。連れて来たのは永順えいじゅんだ。

「これからもフウの役に立っとくれ」

 祖母上さまは、自分の餅の皿をさいによこした。

「承知」

 さいは満面の笑みで、それを受け取った。


「本家が日近ひぢか日女ひめを望むとはやぁ。――彦九郎ひこくろうも喜んでおるかの。フウ、嫁いだで(から)には、本家のために、お働きなされ。玖八郎くはちろうさまを大事にすれ。その心は通じるからの」

 彦九郎ひこくろう、と祖母上ばばさまは、フウの知らない人の名を言った。

 それは、本家に誅殺ちゅうさつされた日近ひぢか先代当主の嫡男ちゃくなんの名だ。

 久兵衛貞友きゅうべえさだともの名を言い間違えたのか、それともと思えるが、もう確かめようがない。


 祖母上さまは、清月きよげつ(旧暦八月)に入ったばかりの日に眠るように逝かれた。






※〈被衣〉 女子が外出に頭にかづく単衣の衣

 〈三千五百貫〉 この世界では四億円くらいの感覚で

 〈美作〉 古来の役職階級では美作守 従五位下を参考とす

 〈半蔀〉 軒または天井から下げた金具に引っかけて留める蔀戸しとみど

      上半分を開ける窓


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八平源五左衛門常勝 八平本家当主の弟 玖八郎の叔父

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