第3話 絶望と回帰

「――なんだって!?」

 僕が父に代わって大半の仕事をこなすようになってきた頃、父はそう声を上げた。

 奈美の家の会社の下請けから切られたのだ。突然に。

 奇しくも、彼女が結婚してからしばらく経ち、実質的な支配権が彼女の許婚――いや、今は彼女の夫に変わった直後だった。

 これが偶然とは思い難く、明らかな嫌がらせだった。

 悪い人ではない――彼女はそう言ったが、猫を被っていたのだろう。彼女が心までは自分の物にならないのに嫌気がさして、それならばその仮の恋人とやらに苦痛を与えてやろうと考えたのだろう。

「父さん……ごめん」

 思わずそんな言葉が口に出た。

「いいんだ。お前は悪くない」

 父は苦渋に満ちた顔をしながらも、僕を責めなかった。

 こうして、父の会社は倒産した。

 父は最後まで、従業員たちの再就職先を探して回ったが、全員には行き渡らなかった。それでも、父のことを悪く言う人は居なかった。

 僕はその後、職を転々とした。職に就いては、なんらかの理由が付けられて辞めさせられるということが繰り返し続いた。こちらにそこまでの落ち度があったかというとそうではなく、どことなく、どこからか圧力があったことを感じさせた。

 結局、定職に就くことは諦めて、日雇いのアルバイトのような仕事ばかりをするようになった。それでも、会社が無くなって抜け殻のようになった父とそれを支える母のことを考えるとお金は必要だった。妹は遠方で職に就いていたが、収入がそれ程ある訳でもなく、生活費を差し引くと仕送りできる額は知れていた。――もし僕に家族がおらず、一人きりだったらとっくに働くことをやめて首を吊っていただろう。

 そんな生活を変えたのは妹のある一言だった。


「お兄ちゃん、最近は絵を描いてないの?」

 電話越しに妹はそう言った。

「そういえば……描いてないな。忙しくて」

 実際、忙しいのは確かだったが、絵を描けない程かというとそうでもなかった。

「こっちは都会だからさ……いろんな人が居るんだけど、たまに道端で似顔絵を描いて売ってる人が居るの。お兄ちゃんなら、できるんじゃない?」

「似顔絵か……」

 確かに、それで収入になるなら悪くない。なまった腕を磨き直す訓練にもなる。

 それ以降は他愛のない会話をして電話を切った。

 僕はしまい込んだ画材を探し始めた。


 休日に玄関前の道路に面した敷地で、似顔絵描きの仕事をすることに決めた。

 最初はほとんど人が来なかったが、徐々に話題になって人が集まるようになった。

 初めはアルバイトの合間だけだったが、そちらの方に人が集まるようになるとアルバイトは辞めて似顔絵一本に絞った。

 流石に個人の動きまでは邪魔できないようで、今度はどこからか圧力がかかることはなかった。

 そうしている間にも、僕は奈美の絵を描いた。もっとも、今の彼女のことは知りようが無いから、想像に過ぎなかったが。自分でも未練がましいと思ったが、描き続けた。

 やがて、かつての腕が戻ってきたことを実感すると、各地の絵画賞にも応募するようになり、それなりに入選するようになった。似顔絵は続けていたので、その噂を聞きつけた人たちが大勢来るようになった。

 両親や妹は、その様子を喜んでくれた。画家として成功した……というよりも、僕にかつての活気が戻ってきたことが嬉しいらしかった。

 それから数年の歳月が流れた。


「私の絵を描いてくれない?」

 相変わらず、似顔絵を描く準備をしていると、背後から声が掛かった。

「すいません。ちょっと準備するので――奈美!?」

 振り返ったそこに居たのは、少し老けていたが紛れもない彼女だった。

「そ、そんな……旦那さんは!? 家のことはいいのか!?」

 僕は焦ってまくし立てた。

「いいの。……全て終わったから」

 奈美の旦那は、昨年に病気で亡くなったのだという。仕事ばかりにかまけて治療を怠ったのが死期を早めたのだという。

 しかし、死後のことは考えてあったようで遺言を残した。

 その遺言には、会社を他人に任せること、そして彼女を僕の所に謝罪に向かわせて、後は好きにさせるようにとの指示があったらしかった。

「すまなかったって、あの人何度も言ってた。……体は自分の物になっても、心まではそうならないのが不満だったのね。でも、プライドの高い人だからそれを認めたくなくて、あなたに嫌がらせした……なんだか子どもみたいね」

 彼女はどこか寂しげに笑った。

「ねえ……」

 彼女は僕の顔を覗き込んだ。

「今度は、恋人として付き合ってくれる?」

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