19 epilogue(side Las)

 ラスはパタパタと翼を軽く羽ばたかせ、高さのある燭台の上部の蝋燭の火を、そっと吹き消した。ピキンと音をたてて白い蝋燭に軽いヒビが入った気がするが、そんなことは気にしない。出来るだけ、手加減したつもりだ。


 ナトラージュは、処理しなければいけない書類に埋もれた机に、うつ伏せで寝てしまっていた。起きたら頬にインクで書いた黒い文字が、写ってしまっていることだろう。


 彼女の足元まで、苦労して一人前を意味する灰色のローブを持ってきたものの、まだまだ小さな体では彼女の肩に上手く掛けられるかわからない。未熟な翼は、不安定過ぎてまだ上手く飛べない。


 いっそのこと起こして、宿舎で寝た方が良いんだろうとは思うが、気持ちよさそうに熟睡しているところをわざわざというのも躊躇われる。このところ、仕事が立て込んでいてナトラージュは多忙だった。


 リンデント王国での召喚士は、幻獣を召喚して使役することだけを仕事としている訳ではない。|縛られし者(リガート)を使い国を守るための国境の結界の維持のための計画などにも関わり、そういった国防のための書類を作成するのも仕事の内だった。


 ふと気配を感じて、はっと前を見ると暗闇の中に尚一層暗い影が出来ている。


(ちゃら男かよ……脅かすなよ)


「……起こしたくはないんだろう。君の声は、頭に響いてしまうから黙って」


 いきなり現れた派手な格好をした背の高い男は、形の良い唇に人差し指を当てると優雅な笑みを浮かべた。


 そっと音を立てずに、机に突っ伏しているナトラージュに近付くと、彼は慎重に顔を持ち上げそのまま腕に抱き上げた。


(おい)


 ぷにぷにとした前脚を器用に使って、長い腰布を引っ張る。彩り鮮やかな出で立ちが、彼の国オペルでの正装だ。しゃらっと鳴った金の透かし模様の剣帯も、下手すると下品になりかねないが、周辺国に鳴り響くほどの美貌を持つ彼には良く似合っていた。いや、この男が着ればなんでも様になると言うべきか。


「ここで寝かせるつもりかい?」


 ヴァンキッシュは、腕の中で可愛い寝息を立てている彼女を気遣いひそやかな掠れた声で囁いた。


 なんだか訳もなく、それを聞いて背中がぞくぞくとした。


 ラスは人ではないが、人の感情に敏感な生き物だ。彼の決して悪意ではない、何らかの強い感情を気取った。


 このいけすかない異国の外交官は、自分がどう振る舞えば人を思い通りに出来るかを心得ている。人を騙し悪い事をしようと思えば、いくらでも悪事を働けそうな才能だ。


 何も言わずに手を下ろしたラスにふっと笑い、小さな身体を胸に触れ合う程に近く抱き寄せると、執務室の扉へと向かう。


 その後を追うしかないラスは、石畳をペタペタと間抜けな音を立てて歩いた。


 別に翼を使って彼らが歩く程度の速度で飛行することも出来なくはないのだが、こうして足で歩くのが好きなのだ。生まれてすぐ幻獣界を離れ、人界のことしか知らない幼竜は、一番身近な人間のナトラージュと同じように振る舞いたがった。


 涼しい夜風が吹いて、ナトラージュのさらさらとした黒い髪が文字の形にインクのついた白い頬に纏わりついた。すーすーと可愛らしい寝息をたてている彼女を見ながら、ヴァンキッシュは夜の渡り廊下を歩いた。勝手知ったる顔でナトラージュの部屋の扉を開けて、奥の寝室へと進む。


「おやすみ……僕の召喚士さん」


 愛しそうに呟いて、そっと彼女の部屋の寝室のベッドへと寝かせた。


 上掛けをかけ音を立てないようにゆっくりとパタンと寝室の扉を後ろ手に閉め、廊下で黙ったまま待っていたラスに微笑んだ。


「大人しくして、良い子だね。お菓子でもあげようか?」


 揶揄うような男の声に、ラスは思わずイラッとして言い返した。


(要らない。明日、グリアーニのところでケーキを食べるから)


「随分、あの男に懐いたね。胃袋でも握られた?」


(……お前。本当にナトラージュを、オペルに連れて帰るのか?)


 ラスは普段強い感情を露わにすることのない背の高い男を、じっと見上げた。


 いつも飄々として機嫌良く微笑んでいるように見えるが、ラスにはまるでそれがのっぺりとした仮面のような笑顔に見える。


 ヴァンキッシュは短い廊下を進み、居間と言える大きな部屋にまで辿り着いて肩を竦めて微笑んだ。


「うーん。別に、オペルじゃなくても良い。僕は何処でも良いんだよ。あの可愛い彼女さえ、傍に居てくれれば。世界中を旅したいというのなら、それも叶えよう。僕が、なんとかする。顔だけの男が外交官になれる程、オペルも落ちぶれていない」


(前から聞きたかったんだけど、ナトラージュの何処が良かったんだよ。お前の周りには、いくらでも良い条件の女が居たんじゃないのか)


 ラスがそう聞くと、彼は流れるような仕草で椅子へと腰掛け、面白そうな表情で机に頬杖をついた。


「誰かを好きになる理由は、なかなか説明し辛いね。ただ、ひとつ言えるのは、人は条件で恋をすることはない。金や与えられる境遇に目が眩む事は、あるだろうけどね。そうだな……僕が誰とも何の約束も交わしていない時に、他でもない彼女と出会えた。以前は下半身がだらしない男だったことには、一応自覚はある。だが、母と父のことがどうしてもあってね。決まっている人と付き合っていると言える時には、決して他の誰かと同時進行はしていない。何事も、最も適した好機と言える時がある。そんな時に、絶対に手に入れたいと思える女性を見つけることが出来た。理由など考えていれば、誰かに攫われるかもしれない。なりふり構わず、必死になるのは必然の流れだと思わないか」


(もし、騙していたとしたら、俺がお前を氷漬けにする。グリアーニも連帯責任だ)


 シャアっと音を立てて牙を剥いたラスに、ヴァンキッシュは明るい笑い声をあげた。


「あいつが僕を理由に受けるとばっちりも、ここまで来ると面白いな。確かに誰かに信用されるには、長い時間を要する。いくつもの結果を積み上げて、これならば信じるに値すると思われなければならない。僕は彼女とは一生一緒に居るから、時間だけはたっぷりとある。疑いを持つ君の前に、何度でも積み上げるさ」


(お前は良いよな……俺は、ナトラージュがいつか死ぬのが嫌だ。なんで、寿命が違うんだろう。俺も人間に生まれれば良かった)


 いずれ必ず来る別れの日を思い、大きな目から涙をひとつ床に落とした竜を見てヴァンキッシュは優しく笑った。


「君も……生きている限りは、いつかは死ぬだろう。ただ、生きている間、死ぬのは嫌だと黄昏れているのはひどく無駄なことだとは思わないか。彼女と共に生きている時間を存分に楽しみ笑い、一緒に居られて嬉しかったと笑顔で別れられるようにすれば良い。いずれ来るのがわかっている悲劇を、悲劇のままにしたいのならそうすれば良い。度の過ぎた悲観主義者は、嫌われると思うけどね。そうして生きるのも、君の自由だ」


(ちゃら男の癖に、人生語りやがって……)


「こういう人間だと思われていると、世の中には都合が良いこともある。例えば君は、僕をちゃらちゃらして軽い性格の人間だと侮り、真面目な人間には決して言わないことも簡単に言う。自分より下の立場にあると思われる方が、口数が多くなり本性を出してくれるんだよ。自分こそが上の立場にあり、下に見た人間には何も出来ないと思っている人間は多いからね。この職を辞しナトラージュが望むなら、グリアーニのような真面目な堅物になっても僕は構わない。だが、幼い君にはまだわからないと思うけど、女性に好かれるのは、口がそこそこ上手いのも重要な条件ではあるね。一緒に居るだけで楽しい時間を提供する人には、無条件で好意を持つものだ」


(……そういう人間を、敢えて演じていると?)


「こういう気質を持っていることも確かだが、道化を演じる時もあるということだよ。世の中を上手く生き抜くために何かを演じていない人間なんて、いない。本当の僕は愛するナトラージュ一人だけが、特別に知っていれば良い。この腕の中で守れるものは少ない。だから、大事なものは厳選しないとね」


(初めて本気になったんだもんな)


「そう。だから、命をかける程に必死になれた。目の前で僕以外を選んだ時は、胸を引き裂かれる思いだったけど。あの後の可愛い告白で、すべてが報われた。もう二度と、手離せないだろう」


(浮気したら、氷漬けだからな)


「……絶対に有り得ないよ。父のように後から大事なものに気がつき、母を喪ってから後悔ばかりの贖罪の余生を送るなどまっぴらごめんだ。有難いことに、決してなりたくはない反面教師がすぐ傍に居たからね。同じ失敗は、犯さない」


(お前の顔……女が好みそうな顔だもんな。不安にさせんなよ)


「世界で誰より愛している女性が、この顔がお好みのようだからね。それだけは、神に感謝する」


(……俺が人化したら、お前よりナトラージュに好かれるかも。その時はごめんな)


「女性に好かれるためには、良い外見だけがあれば良いと思っていると痛い目に遭うよ」


(お前がそれ言うのかよ……じゃあ、他に何があるんだよ)


「真面目で奥手なナトラージュが悪い噂がある僕を、好きになってはいけないと警戒したのに、結局好きになってくれたのは、見た目だけの理由では絶対にない。僕の言葉や態度、そして隠しきれない本心が見えて、ようやく心を開いてくれた。要するに、愛していなければ誰も愛を返してはくれない。誰かとの関係は、持ちつ持たれつだ。必ずしも返って来る訳ではないが、心をあげなければ返っても来ないだろう。ラスも好きな相手には、好意を隠さないようにすると良い」


(まあ、でも……お前みたいに口が上手いのも、重要なんだな。何かを伝えようとしなければ、伝わらないもんな)


「好きな相手には、自然と口説き上手になるものだ。それに、僕はナトラージュ以外は口説いた覚えはないけどね」


(あー……向こうから、いくらでも寄ってくるから? まじかよ。本当に、女の敵だな)


 他種族の自分でも信じられないほどに綺麗な顔をしている去る者追わずな入れ食い状態の男が、懸命に口説いたのは本命ただ一人だけだったのかとラスは大きく溜め息をついた。



Fin

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竜に選ばれし召喚士は口説き上手な外交官に恋の罠に落とされる 待鳥園子 @machidori

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