18 記憶

「……甥か姪か……楽しみだね。出産祝いは何にしようか」


 スカーレットはあの後、何度もその手の誘惑がとても多そうなヴァンキッシュを脅しつけていた。


 その光景を呆れて見ていたカミーユと二人で長く会えていなかった妹にも会えて安心し、貴族院に申請していた婚姻証明書を手に入れたので、領地ゲインズブールに帰るからと言って去っていった。


 カミーユと姉との関係について大きな勘違いをしていた自分がなんだか恥ずかしく思えて、ナトラージュは目を伏せがちにして答えた。


「赤ちゃんだと、服が良いかもしれませんね。色々と汚したりすると、何枚あっても良いと思いますし……」


「……もう既に、子育てをしたことのあるような人の台詞だね」


 クラリッサ城の広い廊下を二人で歩きながら、ヴァンキッシュは揶揄うように言った。


「ちっ……違います! 子育ては大変だというお話を色んな方から聞いていたりしていたので、なんとなくそう思っただけです。後、赤ちゃんだったラスを育てたことを、子育てだと言われたら確かにそうかもしれません」


「ラスはちょっと生意気だけど、そういうところも可愛いよね……僕たちの子どもの、良いお兄さんになるだろうね」


 ヴァンキッシュはにこにこと幸せそうに微笑み、躊躇う事なくナトラージュと結婚する未来を語った。それを先に望んで彼に言ったのは、他でもない自分なのに思わず顔を赤くした。


(好きな人が自分と結婚をするのを当たり前みたいに言ってくれるの……嬉しい。あの時、勇気出して追いかけて本当に良かった……)


 彼が去ってしまった、あの時。


 もし、ナトラージュが後を追いかけていなかったとしても、彼は無事ではあっただろう。女性問題で騒ぎを起こしすぎた外交官のことを、あまり良くは思っていない王でも、自分の城に暗殺集団が入り込んでいたという知らせを聞いたら導師の誰かに|縛られし者(リガート)で事態を収拾するように命じたはずだ。


 けれど、ひどく傷ついたヴァンキッシュの心はあの後時間を空けてしまえば、もう離れて閉じてしまったままになったかもしれない。


 必死で走って追いかけて、みっともなく何度もこけてその度に「彼を探さなきゃ」と、立ち上がった。二人の関係がどうしようもならなくなる前に、誤解がとけて、今こうして笑い合えていることが何よりも嬉しい。


「……ナトラージュ。僕は君に言っておかねばならないことが、ひとつあるんだけど」


 神妙な表情で切り出した彼は、言いにくそうに口に手を当てていた。


「なんでしょう?」


 彼の女性問題については、面白おかしくして流れている噂も多いが事実も確かにいくつか紛れているという話は聞いた。自分と出会う前のことを、今更気にしても仕方ない。


 ヴァンキッシュはナトラージュが、生まれて初めて本気になった女性だと言った。


 今までの噂になった女性は本気ではなかったのかと思うと複雑な思いにもなるけれど、本気でなかったとしても良いからと迫って来た女性を好きな人が明確にいた訳でもない彼は振り切る理由はなかったんだろう。


 不思議そうに首を傾げたナトラージュに、ヴァンキッシュは息をついて早口に捲し立てた。


「ナトラージュを凶暴そうな幻獣から庇った時に、僕は特殊な毒を受けた。あの時にその毒を解毒する方法が、君みたいな純情可憐な乙女には口に出すのも憚られるものでね。あの後……何回も何回も避けられていたから、もしかしたら君はその解毒した方法を知っているかもしれないんだが……僕にはその時の記憶はほとんどないんだ。だが、どんな状況だったとしても、君の事が好きで交際を迫っていたのに、君以外の女性に触れたのは事実だから。もし……その事で、嫌な思いをさせていたら本当にすまない。謝るしかないけどごめん」


 彼の思いもよらぬ謝罪の言葉を聞いて、ナトラージュは驚いて目を瞬いた。


 もしかしたら、ヴァンキッシュはこれまでずっと自分が避けられている理由を、命の危険があり仕方ないとは言え、誰か他の女性とそういうみだらな事をして、それを知ったナトラージュが年若い乙女らしい潔癖さを発揮して自分の事を嫌がっていたとずっと勘違いしていたのかもしれない。


 そう思い至ってふふっと面白そうに笑ったナトラージュを見て、ヴァンキッシュは拗ねた顔になった。


「……本当に……笑う顔は、食べたいくらいにとっても可愛い。けど、こういう真剣な話の後だと……ちょっとだけ、いじめたくなるね」


「あの……ごめんなさい。それ、私です」


「……え?」


 ナトラージュが悪気なく微笑みながらそう言うと、いつも余裕綽々の態度を崩さない彼が珍しいぽかんとした表情になり、急に立ち止まった。彼の前に回り込み、背伸びをして顔を近づけた。


「……えっと……あの時に毒を受けて、解毒するために媚薬を使われていたヴァンキッシュ様と、そういう事したのは私なんです。朝になって起きたら……貴方が寝言で他の女性の名前を呼んだのがすごくショックで……それで、すぐに自分の部屋に帰ってしまいました」


「……僕が? 寝ている時に、他の女の名前を?」


 完全に衝撃を受けた顔になり、唇を震わせた。


「そうです。あの……ルクレティアさんって……オペルの女王様のお名前ですよね? 確か、前に付き合っていた事があるって言っていたのを聞いていたので。だから。私。ヴァンキッシュ様が、まだその人の事を好きなのかなって勘違いしてしまって……でも、あの後にそうじゃないと言う話を聞いて……」


「は? 僕が? あいつを……いや、それは絶対に有り得ない。今やルクレティアは人妻だし……そういう状態で復縁したいと何度も迫られて、ほとほと嫌気がさしてね。だから、彼女から逃げる意味もあって、リンデントの駐在を希望したんだ。君も良く知っている人だけど、この国の中央に近いところに若くして出世している従兄弟が居るから。強力なコネがあると僕の仕事がしやすいことは、誰の目から見ても明白だからね……もしかしたら、あの直前にマーヴェリー卿から、またルクレティアの話を聞いたせいかもしれない。あの男は、食わせ者でね。僕の持っている情報を得るために、昔付き合っていた女の話で、揺さぶりをかけているつもりなんだよ」


「……そうだったんですね。私、あの時にすっかり誤解してしまって」


 あの時にそうなってしまった理由の経緯を聞けて、ほうっと大きく息をついたナトラージュをヴァンキッシュは難しい顔で見下ろした。


「あの朝、ジェラルディンが君は部屋から出なかったって言ってたよね……僕は、騙されていたの?」


「ごめんなさい。あの時にジェラルディンが言ったのは、全部嘘です。私がそういうことをしたと知っている人には、解毒されただけのヴァンキッシュ様には絶対に言わないでと、お願いしてたんです」


「……じゃあ、本当にナトラージュと一緒に僕は朝まで、過ごして……その時の記憶が、今……まったくないの?」


 どこか呆然とした様子で、彼は呟いた。


「えっと……そういうことに、なります。あの時……私、自分を庇ったせいでヴァンキッシュ様が、私と違う人とそういう事をするのが嫌で。だから、今まで嘘をついていて……ごめんなさい」


「……いや、まさか……最後までは……流石に、してないよね?」


 何故かそう願うような声で、彼は真剣な目でじっとナトラージュを見つめた。言葉なくふるふると小さく首を振ったのを見て、大きなショックを受けたのか彼は動きを止めて完全に固まってしまった。


「あ、あのっ……ごめんなさい。意識がなかったとは言え……あんなことしちゃって……」


 顔を赤らめて照れつつ言ったナトラージュの言葉を聞いて、彼の体はビクッと震えようやく動くことを思い出したようだ。


「ちょっと待って……あんなことって? 何したの?」


「えっと……それはここでは……」


 昼日中の城の廊下は流石に人目があると、また顔を赤くしたナトラージュを横抱きにして彼は早足で廊下を歩き出した。


「じっくり聞かせて欲しい。その辺の事を詳しく……何もかも」


 完全に据わった目になった彼に顔の間近でそう言われて、抱き上げられていたナトラージュは何度も頷いた。




◇◆◇




 ぽんっと軽く跳ねるような大きなベッドの上に下ろされたのは、城の中の貴賓室のような豪華な一室だった。柔らかく、それで居て体全体をしっかりと包み込む極上の寝心地。貴族であったナトラージュでも、未だかつて味わったことのない最上級のもの。


 ヴァンキッシュはナトラージュをベッドに下ろした後、一度入ってきた扉へと戻り、鍵をかけそれをもう一度確認していた。


「ここは?」


 頭に浮かんだ疑問をそのままに聞いたら、彼は難しい顔をして答える。


「一応……オペルの外交官の身分にある僕に客分として、用意されている部屋だ。本当なら君との初夜は結婚式後、国で一番の宿屋か二人で相談して建てた新居でしたかったんだけど……僕たちは……あの医務室で、もう既に結ばれているんだよね?」


「……そうです。私のせいで、本当にごめんなさい。あの時、ヴァンキッシュ様は自分から、率先して動いていたし。私はもしかしたら、うっすらと記憶があるのかもしれないと思っていました」


「僕が率先して……? いや……とても、残念なことにまったく覚えてはいない。あの後、君に避けられていたから……他の女性とそういった事をしたのを知られていて、嫌われたのかと……思っていた……もしかして、その時に何かひどいことを?」


「そんなことは……全然なくて、すごく気持ち良いだけでした。私初めてだったけど、話に聞いていたように痛いことなんてまったくなくて」


 顔を赤らめて話すナトラージュの隣へと座って、彼は微妙な顔でため息をついて頷いた。


「そうだよね……そうだ。君は絶対に処女だと、思っていた。そうして、それを奪ったはずの僕にはその記憶がない……信じ難いことに」


「私、その一回だけで、ヴァンキッシュ様の事を忘れようと、あの時思っていたんです。けどすごく気持ち良かったから、これは忘れられないなってそう思っていたんです」


「……そう。君がそれ程までに、気持ち良かったのなら……良かったと思う。けれど、それを覚えているのは、君だけなのは……不公平だと思わない?」


「ヴァンキッシュ様?」


「ねえ。ナトラージュ、その時のことを再現して欲しい。そんな大事な夜の記憶がない、可哀想な僕にもわかるようにじっくりと」

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