『読む人』から、『書く人』への手紙

黒犬

現実と虚構を貫く力・伊藤計劃『虐殺器官』

「現実が虚構を超えてしまった」


 そんな言葉を、稀に聞く。

 例えば今、ウクライナに対してロシアが(というよりもプーチン政権が)侵略戦争を仕掛けているけれど、「核保有国が核兵器の使用を匂わせながら堂々と正規軍を動かして他国の都市を占領しようとする」なんていう物語を書こうとしたら、ちょっと前までなら鼻で笑われたかもしれない。あまりにも荒唐無稽だといって。


 でも現実は、軽々と虚構を超えてしまった。


 国連安保理の常任理事国であるロシア。核保有国であるロシア。ソ連崩壊を経たとはいえ、軍事大国として一定の存在感を保っていたであろうロシア。そのロシアが始めた戦争。もっと言えばその戦争でロシアが誰も予想だにしなかった程の苦戦を強いられている事も含めて、それらはどこか現実離れしている。確かに今、自分達の眼の前で起こっている現実であるにも関わらず、『リアルさ』を喪失している。


 このカクヨムにアカウントを持っている人は、文字通り日頃から積極的に『書く人』であったり『読む人』であったりするのだろうと思う。その中でも特に書く人達にとって、今回の戦争はショックだったのではないか。


 簡単に言えば、書く事、つまり創作がやりにくくなってしまった様に思う。


 『現実』と『事実』と『真実』と『リアリティ』が、全て違うものを意味する様に、本来創作は自由なものだ。小説を書く事はドキュメンタリーを書く事とは違うのだから。であるにも関わらず、創作には時として『現実らしさ』が求められる。


 例えば『戦争』をテーマにする場合、それが『銀河英雄伝説』的な戦争なのか、『宇宙戦艦ヤマト』的な戦争なのか『機動戦士ガンダム』的な戦争なのか、それとも数多くの史実を元にした戦争映画――『地獄の黙示録』や『プラトーン』の様な戦争なのか、もっとドキュメンタリー寄りの作品である『アメリカン・スナイパー』や『アルマジロ』や『ジャーヘッド』といった映画寄りの戦争なのかによって、求められる現実らしさ、リアリティのラインは変わってくる。ただ変わらないのは、その作品が持つ世界観に照らして、読者や視聴者が登場人物達の行動や選択、決意に違和感を覚えない程度のリアル、言ってしまえば受け手が『しらけてしまわない程度のリアル』が保たれている事が期待されるという事だ。


 そして、そうした『リアルさ』のラインは、現実という基準が大きく揺れ動くと、当然影響を受けてしまう。

 ウクライナで戦争が始まるまで、誰もロシアが核による恫喝どうかつを伴って侵略に出るなどという事をリアルだとは感じられなかった様に。


 それらを前提とした時に、創作をする事、中でもとりわけ『戦争を描く事』にはどんな意味があり、難しさがあるのか。その事を考える上で、伊藤計劃けいかく氏の『虐殺器官』を避けて通る事はできない――なんて、単純に自分が好きなだけなのだけれど。


 特にSF小説を評価する時、少し前から『それがいかに現実に迫っているか』がひとつの基準とされる様になった気がしている。『先見性』と言い換えても良いけれど、例えば小松左京『復活の日』や小川一水『天冥の標』がコロナ禍の現在を予見したかの様な作品だとして再評価された事は記憶に新しい。

 ただ、誤解を恐れずに言えば、そういった評価が各作品に対して、そして作者に対して下される事が妥当なのかという疑問はある。もちろんそれは高く評価されすぎているという意味ではない。単純に、小説は予言書ではないし、小説家は予言者でもなければ預言者でもないという事だ。ただ、作品のリアルさをひとつの評価基準にする時、作中で描かれた世界に現実が追い付いた、或いは虚構の物語を現実がなぞった(様に見える)事が、作者の意図とは別に読者側の評価や注目を集めてしまう事も分かる。


 では『虐殺器官』はどうだっただろう。


 本作はSF小説であると同時に、ポリティカル・フィクションだとされる。それは本作に強い影響を与えた、小島秀夫氏の手によるゲーム『メタルギアシリーズ』が志向した方向性であり、そもそも本作のプロトタイプである『Heavenscape』(『The Indifference Engine』所収)が同じく小島秀夫氏の代表作である『スナッチャー』から着想を得ていた事とも無関係ではない。

 ポリティカル・フィクションはその性質上、史実の、また現在の政治体制をその下敷きとする。現実に近い世界観を描くにせよ、架空の星間戦争の様に現在から遠く離れた世界や時間軸の上にある世界を描くにせよ、物語の中で描かれる世界が、自分達が生きている現実とどこか地続きである事が求められて行く。


 先に述べた、ある種の『先見性』に対する評価と、この『地続き感』とは似ている様でいて、実は異なるものだ。


 今ニュースを見れば、目の前には身も蓋もないナマの戦争がどうしようもなく横たわっている。


 巡航ミサイルによる都市空爆、都市に侵攻する戦車の車列、無差別砲撃、郊外に掘られた大規模な墓穴、後ろ手に縛られた上で銃殺されたらしい市民、拷問、暴行、略奪といった、自分達が前世紀に置いて来た筈だった思い付く限りの忌まわしいモノたち。

 戦争はもっとスマートになる筈だった。精密誘導兵器によって軍事目標のみをピンポイントで叩く様な形の戦争。或いは無人兵器の活用によって人的被害を最小限に抑えた上で行われる限定戦争。でも現実はそうならなかったし、戦争の目的も武力を背景にした領土割譲かつじょうや相手国の主権放棄を要求する様な、まるで中世の様な戦争が今現在も行われている。ナチズムから市民を解放するなどというこじつけの様な理由を隠れ蓑にしながら。


 そこには、『虐殺器官』が描いた様な――少なくとも作中で主人公が属するアメリカが志向した様な戦争の形は存在しなかった。

 使用者のIDと紐付けされた銃も、ナノテクノロジーも、感情や痛覚へのマスキングもそこにはない。少なくとも、今はまだ。もっと言えば大国の軍事活動とは、戦力が非対称になるテロ組織や小国の独裁政権等を相手にした『勝つべくして勝つ戦い』を指すのであって、おびただしい戦死者を出しながら機甲部隊をひたすら前進させる様な消耗戦でもなければ、艦隊旗艦を撃沈される様な不測の事態に巻き込まれる可能性を孕んだ博打ばくちでもなかったはずだ。作中で核兵器が『使える兵器』だとされたのも、それが限定的な使用を企図しているからであって、間違っても冷戦を戦った大国とその同盟国が全面核戦争までのチキンレースを始める様な悪夢を想定してはいなかっただろう。

 しかし現実の戦争が起きてみれば、自分達はもっと野蛮で人の命が安い戦争を見せられている。ドローンの活用がわずかに現実と重なっているだけだ。逆に現実の方が先に進んでいる箇所もあるけれど。


 でも、その前提を飲み込んだ上でも、自分は『虐殺器官』が現実との『地続き感』を失った様には思わない。繰り返しになるが、小説は『予言書』ではないからだ。現実の戦争が、ある時点での自分達の、そして物語の作者の想定を大きく裏切って行ったとしても、現実と通底する基盤がそこにはあるし、そこに読者である自分は確かな『リアル≠現実』を見る。


 『虐殺器官』のリアルとは、現実を生きる自分達が背負っている、ある核心を突いている事にある。自分が思うに、その核心とは『責任』の事だ。


 あくまで私見ではあるけれど、『虐殺器官』とは『責任』の物語だ。

 その『責任』は『選択』とセットだし、『罪と罰』と言い換える事もできるだろう。


 主人公のクラヴィスが母の延命治療の中止を承認した責任。

 政府の命令を受けてターゲットを暗殺した責任。

 作戦の過程で市民や子どもへの虐殺行為を黙認した責任。

 自死や戦死といった形で失った部下や仲間の死に対する責任。

 そしてジョン・ポールの側からすれば、妻子の死に際して家族を裏切っていた責任。

 愛人だったルツィアへの責任。

 『虐殺器官』を見出した者としての責任。


 そして忘れてはならない、何も知らず安穏と暮らして来た、名前を持たない自分達が本来背負っていなければならなかった責任がある。それは無邪気さに隠された責任であり、どこか遠くの名も知らぬ人々の犠牲の上に平和と繁栄を享受して来た事に対する責任だ。


 この世界がどんなにくそったれかなんて知らずに生きて行く為に自ら塞いだ耳と目の向こう側にあった責任。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんていう現実を、自分にとって大切な人に知らせてはならないと築き上げた高い壁の向こう側にあった責任。Amazonやスターバックスやドミノ・ピザの普遍性が永遠であるかの様に扱われる世界からは締め出された責任。


 それらの責任と選択。選択の結果生じた罪と、それに対する罰の物語。

 そしてその責任の主体である『自分』の物語。


 それが『虐殺器官』の『リアル≠現実』なのだろうと思うし、その鋭い部分に核心を射抜かれているからこそ、自分はこの作品を現実と地続きのものだと感じるのではないかと思う。


 また、ニュースを見る。

 そこには虐殺があり、略奪や強制収容といった戦争犯罪があり、それに加担させられている兵士達の生き死にがある。祖国を追われた難民の長い列があり、全ての死者に対して遺された者が流す涙があり、その悲劇に対して何もできない自分がいる事を発見したりする。

 ネットの向こう側にいくら声を投げても、プーチンに兵を退かせる事ができない様に、募金や寄付はできても、救いを求める人々の手を取ってあげる事ができない様に、また、ロシア人であるというだけで理不尽なバッシングを受ける人々の防波堤になってあげる事ができない様に、自分は何もできないし、無力だ。


 でも暗い見方をすれば、そうした無力感や虚しさは、今まで何もしてこなかった自分に対する、今も何もできていない自分に対する罰であるとも言える。


 現実の報道を追い続けると、心が荒んでくる。それは仕方がない。事実なのだから。目の前にあるむき出しの暴力も残酷さも、それに対する救いがない事も事実で、動かしようがない。そうなってくると、『創作する事そのものに意味があるのだろうか』という考えが頭をもたげてくる。とりわけ、戦争を描こうとする場合は。創作には現実を変える力はない。少なくとも、今すぐに現実を変える力は。誤解を恐れずに言えば、創作や小説はどこまで行っても虚構で、作り話で、言ってしまえば嘘だから。


 でも創作は、虚構で作り話で嘘だからこそ、現実にはまだ辿り着く事ができない、実現不可能な結末を引き寄せる事もできるし、現実に今起こっている様な戦争が始まる前に警鐘を鳴らす事もできる。そして人々が、また自分自身が見たくないものに目を向けさせる力、振り向かせ、気付かせる力がある。自分の中に溜まって行くおりの様な感情を吐き出す助けにもなる。


 これからの自分が、『書く人』として創作に向き合う事があるのかどうかは分からない。ただ、『読む人』として書く人に伝えたいのは、同じ時代を生きている人が、その胸の内のいくらかを創作という形で作品にしてくれる事、それを読む事ができるという事はきっと幸せなんだろうという事だ。


 『虐殺器官』の著者である伊藤計劃氏は2009年にこの世を去った。


 自分は今でも、いや、今だからこそ、今伊藤氏が生きていたらどんな作品を書いただろう、何を言ってくれただろうと思う事がある。

 小説には名作とされる古典作品が数多くある。それらが素晴らしい作品である事は事実だ。『虐殺器官』も、いつかその列に名を連ねるのかもしれない。でもその一方で、自分は同時代を生きている誰かが、今この世界をどう見て、何を感じ、どんな作品を書いてくれるのだろうという事に目を向けていたいとも思う。


 全くの作り話でありながら、どこかに作者が生きている『今』を内包した物語。


 そうした同時代性を自分は求めてきたんじゃないかと思う事がある。今ではもう大昔になってしまったかもしれないけれど、ライトノベルの読者だった頃から。

 自分とそう歳の変わらない、若い書き手が公募新人賞からデビューする。彼はどんな風に今を見ているのか。どんな作品を書いてくれるのか。それを読んだ自分は何を思うのかという事も含めた期待と、彼等と並走する読者としての自分の姿をそこに見る事。


 それが『読む人』としての自分で、だからこそ『書く人』に届くかどうかは分からないけれど、かつての自分は誰に届くかも分からない『感想を書く』という事を始めたのだと思う。自分の意志で、自分の為に、そして勝手に。


 『書く人』である事からも、『読む人』である事からも、自分はもう随分離れてしまった。だから、ここから少しずつ再開してみようと思う。まだ誰に届くかは分からないけれど、それはあの頃も今も、きっと同じ事だろうから。

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