ハチドリ

鳥尾巻

第1話

 はちみつ色の髪のあの子は花の蜜を吸う。


「どうしてそんなことするの?その花には毒があるって先生が言ってたよ」


 ぼくは心配になって彼女の袖を引いた。白いシャツの袖は滑らかな絹の手触り。しっとり優しく指に馴染むのに、するりとぼくから逃げていく。

 彼女はふっくら柔らかそうな白い頬を緩めてこちらを振り向いた。唇に鮮やかな躑躅つつじの花。身の内から咲いたと言われても違和感のない光景に少しこわくなる。


「大丈夫よ」

「どうして?じゃあ、ぼくもやる」

「あなたはだめ。毒があるから」

「やっぱり毒なんじゃないか。きみもだめだよ」

「わたしは大丈夫なの。ちゃんと選んでるから。でもあなたは違いが分からないからだめ」


 彼女がしゃべると花は地面にポトリと落ちた。春に降る静かな雨のような声。同じ歳のはずなのに、とても落ち着いていて、なぜだか従わなくてはいけない気がしてくる。それでも意地になって植込みの花に手を伸ばすとやんわり止められた。


「昔ハチドリだったの」

「そんなのうそなんだろ」

「じゃあ、うそ。ほんとはミツバチ」

「それもうそでしょ」

「そうだね。じゃあ、チョウチョ」

「うそばっかり!」


 ぼくはなんだか悔しくて泣きそうになった。それは嘘をつかれていることになのか、彼女が嬉しそうに吸う花の蜜が欲しかったからなのか。多分どっちもだ。

 彼女は曖昧に微笑み花に顔を寄せ、その香りをいだ。陽の光がはちみつ色の髪を彩り、辺りに金粉をいたようにきらきらと光る。

 実際発光しているのは彼女自身かもしれなかった。丸い瞳をぐるりと縁取る長いまつ毛も頬の淡い産毛も陽炎のようにゆらゆらする。なんとなく眩しく感じて目を細めたぼくに彼女は悪戯っぽく笑った。


「本当のことを教えるね」


 近づいてきた彼女がぼくの両手を取る。小さくて温かい手の感触が恥ずかしくて俯くと、きちんと折り目のついた制服のスカートからのぞく白い膝頭が目に入る。

 ぎくしゃくと身をこわばらせるぼくの耳の近くで彼女は囁いた。重大な秘密を打ち明けるようにおごそかに。


「魂の欠片かけらを集めているの」

「………」

「昔ばらばらになってしまったわたしの魂が、いろんな場所に積もっているの。だからそれを集めているの」


 いくらぼくの頭の中身がお粗末でも、そんな話は到底信じられる訳がない。それなのにぼくは何も言えなかった。細い指の子どもらしい体温に、産毛が触れそうなほど近づいた頬に、耳朶に触れる湿った吐息にくらくらして耳の中がふわふわする。


「……だからきみは花の蜜を吸うの?」

「花は吸いやすいから好き。植物や動物や建物、人、どこにでもあるの。触って集めることもあるわ」

「全部集めるのにどれくらいかかるの?」

「わからない。でも、全部集めないと戻ってきちゃダメなんだって」

「誰がダメって言ったの?」

「忘れちゃった」

「自分のだってわかるの?」

「分かるわ。近づくと光るから」


 時々、道端の猫や犬や壁に触れて話しかけている彼女の姿を見たことがある。みんなには変わった子だとこそこそ言われているけど、誰もその意味を尋ねたことはない。

 あまりにも非現実的な言動なのに、ぼくはどうして引き寄せられてしまうのだろう。


 彼女は黙ってしまったぼくの両手を恭しく目の前まで持ち上げ指先に小さな唇を寄せた。触れるか触れないかの距離で深く息を吸いこむ様に声もなく見とれていると、不意にぼくの指先から金色の粒が漏れ出たように見えた。

 驚いて手を引き抜こうとして、強い力で握られているわけでもないのにどうしてか振り払えない。

 

「あなたはたくさん持ってるのね」


 何を?

 下から覗き込むようにじっと瞳を見つめられて、心臓がどくりと音を立てる。彼女の背後の地面に散らばった色鮮やかな花弁が、太陽にさらされて萎れていくのが見える。

 汗をかいた首筋を冷たい風に撫でられた時のように、ふわふわしていた頭の中が急にひんやりする。尋ねる声が震えた。


「…きみの欠片を返した生き物は……どうなるの?」

「どうなるんだろう」


 可愛らしく首を傾げた彼女は、掴んだ時と同じくらい唐突にぼくの手を離した。意味深な笑みを浮かべてくるりと背を向け、直後、弾けるように笑い出した。


「信じた?」

「もう!」

「吸血鬼みたいに干からびるまで吸ってやるー」

「からかうな!」


 ふざけて両手を広げて迫る彼女に、わざと強い口調で叫ぶ。恥ずかしいのと腹立たしい気持ちがないまぜになってぼくはその場から逃げ出した。

 結局花の蜜を吸う理由も、どうしてぼくが吸ってはダメなのかも、聞き出せないままだった。




 大人になった今でも彼女は僕の傍にいる。相変わらずふわふわしながら気に入った花の蜜を吸う。気まぐれにものに触れ、小さな声で何かを囁いている。

 昔と違うのは、あの時僕の手を包んだ体温は、毎日僕に触れ、甘い温もりをくれることだ。


「何を考えていたの?」

「子供のころのことだよ。僕に嘘をついて脅かしたよね」

「ふふ、あなた泣きそうで可愛かった」


 僕の腕の中で彼女がくすくすと笑う。小憎らしいことを言う赤い花弁にそっと唇を寄せる。

 淡い花の香り、目を閉じる瞬間に二人の間から金の粒子が立ち昇るのが見えた気がした。

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ハチドリ 鳥尾巻 @toriokan

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