ミッドナイト・タクシー

@k-kuramoto

ミッドナイト・タクシー

 誰かが手を挙げている。

 押本はブレーキを踏んだ。彼の運転するタクシーは、音もなく停止した。

 ドアを開ける。乗り込んできたのは、颯爽とした女性だ。高価そうなスーツを一分の隙もなく着こなしている。

「ああよかった!」

 彼女は開口一番そう言うと、行き先の住所を告げた。タクシーは滑るように発進する。

「遅くまで大変ですね。残業ですか?」

 普段押本は無駄口を叩かないが、一定時間を過ぎてから乗り込んでくる客には、軽い雑談をすることに決めている。途中で眠りこまれてはたまらないからだ。過去、起こすのに苦労したことが何度かあった。

「そうなんです。今はちょうど忙しい時期でね、でもあまり遅くなると終電はなくなるし、タクシーも捕まりにくいし。今日はひどかったわ。誰も停まってくれないんだもの」

 そこまで言って女性はあくびした。ひどく眠そうだ。早めに到着したほうがいいだろう。押本は少しスピードを上げた。

 交通量も深夜は少ない。昼間の半分ほどの時間で目的地へ到着する。

 眠り込む寸前の女性に声をかけると、彼女はもう一度大きなあくびをして、にっこり笑った。

 そのまますうっと姿を消した。

 押本は驚かない。苦笑いをして、そのまま車を出した。この時間帯にはよくあることだ。明日の新聞を読めば、もしかしたら、小さな死亡記事が載っているかもしれないが。

 その日はそのあと、二人ばかり乗せた。特に変わったこともない、普通の客だった。

 押本の勤務は夜明け前までと決まっている。

 四人目の客を拾う前に時間が来た。押本はタクシーを走らせながら、助手席へちらっと目をやった。

 もうかなり黄ばんだ、古い新聞がそこにある。

 一面には大きな見出し。

「深夜のタクシー強盗、運転手殺害される」

 載っているのは押本の顔写真だ。

 あれから何年、いや何十年経つのだろうか。犯人の顔を押本ははっきりと覚えている。

 犯人はもう生きてはいないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。一晩タクシーを流すだけで、四、五人の幽霊が乗り込んでくることもある。あの犯人がその中の一人になっていないとは言い切れない。今の押本には、その僅かな可能性だけで充分だ。

 最期の記憶にありありと残るあの顔に出会うまで、押本のタクシー営業は終わらない。

 白みはじめた空を避けるように、押本のタクシーは、狭い路地の暗闇の中へと静かに消えていった。

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