第13話 REVOKE
※※※※
サランはアメリカンスピリットの煙を勢いよく吐くと、スポーツタイプのサングラスをかけ、テトラとヒデアキのガードを始めた。
ヒデアキたちがレンタカーで向かったのは琉球空手の道場だった。スケジュールは沖縄支店の老夫婦経由で把握してある。そこに先回りする形で、サランは自転車を止めた。
バイクを走らせるよりも音が小さくていい。特に殺し屋の場合はそれが利点だった。
裏手に回り、Tシャツの襟を少し伸ばして風を招き入れる。世話の焼ける歌姫様と、うだつの上がらない男子大学生の日々に付き合うのはウンザリするが、それも目的を達するためなら仕方ない。
――奴らはただの餌だ。
俺のペギンを殺ったクソ野郎どもを迎え撃って始末するための。
サランは――彼女は、うなじを刈り上げた黒のベリーショートに、コントラストの強いメイクで、両耳にパープルカラーのピアスを下げながら、沖縄の離島でその機会を伺っていた。
ヒデアキとテトラの車が道場に到着し、しばらく経ってから、彼らが別々の更衣室から道着を着て現れる。
そのとき、「おい」とテトラがヒデアキを呼んだ。
テトラが? 違う、これはモノオの人格だ。
――どうやら沖田レインの情報は本物らしい。この女は一人の体のなかに心がいくつもバラバラに入っているんだ。
「ヒデアキ、なんの真似だ?」
「畳に入る前には、礼ですよ」
サランが窓から覗くと、どうやらヒデアキがいったん畳に入る前の場所で正座し、本来神棚がある場所に向けて礼をしている。それをモノオが呆れた顔で見ていたらしい。
「下らねえ」とモノオは言った。「それが何の役に立つんだ? 時間の無駄だ、さっさと始めるぞ。オレはやらねえ」
「同じ作法じゃなくてもべつにいいですけど、なにかないんですか?」
「オレは喧嘩だけだよ。ここには防具を借りにきただけだ。お前をブチのめしすぎたらジーイたちに悪いだろ」
そうして乱雑な足取りでビニール製の畳を踏みしめ中央まで進む。ヒデアキは自然な形で、まずは左足から入った。その作法も、彼が師範から教わったものだろう。
「グローブとマウスピースと、他に欲しけりゃなんか持ってこい。二人分だ。アップを終えたらさっさと打ち合うぞ」
「もう?」
「お前が弱いのは、人を傷つける意志がないからだ。今日はそれだけ鍛えてやる。
なあ、お前、なんで自分が操り人形のゴミ一匹にすら勝てないのか分かるか?」
「――分かりません」
「あいつらの筋肉が洗脳でいきなり鍛えられると思うか? なら、オレはどうだ? テトラはたしかに歌声のために、腹筋が割れる程度のトレーニングはしてる。でもそれだけだぜ。オレたちがイカれてるのはここだけだ」
モノオはそう言って、自分のこめかみをトントンと叩いた。
「ヒデアキ、てめえは殺意が足りねえから誰も守れねえんだ。誰かを守るってことは、それ以外を殺すってことだ。
オレが強引にてめえの才能こじ開けてやる。まずは一発入れてみろ。それまでに十回オレに殺られたら、ただの足手まといだ、さっさと東京に帰れ」
モノオはそう言った。
防具をつけ、ヒデアキは構える。モノオは両脚を開いただけで両手はぶらさげたままだ。
「じゃあ、行きます」
「――さっさと来い」
それを眺めていたサランは、沖田レインから聞いていたヒデアキの左肩の怪我が、どの程度回復しているのかを悟った。全快しているが後遺症のせいで、おおよそ以前の半分ほど。まだ肩より上には上げられないし、握力や腕力は通常の三分の二程度だろう。
――ギターを弾くのに苦労はしないが、顎を正確に撃ち抜く拳は出せない、そんなところだな。
そうして、サランは、たとえヒデアキになんの後遺症がなくても、自分に負ける程度には弱いということも察した。
これは技術や腕力の問題じゃない。必要なのは技じゃない――この男にはそもそも「人を傷つける」ということが致命的に向いていない。
無意識のストッパーだった。
――こいつ、なんのためにここに来たんだ?
「ああああ!」
ヒデアキはモノオに距離を詰め、軽い左拳で牽制してから右を繰り出す。が、モノオはそれを足裁きだけでかわした。
咄嗟にヒデアキは、彼が避けた方向に突き蹴りを出す。
――バカ! 慌てすぎだ!
ヒデアキが空ぶった蹴り足を畳に戻す直前、モノオは、
「ほらな、このタイミングだよ」
そんな表情でステップを変えて距離を詰め、まだ体勢の安定しないヒデアキの肩を、勢いよく掌で押し出した。重心の問題だ。どこをやられると倒れざるを得なくなるかをモノオは熟知している。
「え――」
それだけでヒデアキはいったん後ろに受け身を取った。
一瞬間が空く。
「なんだ、さっきの――すげえ」
ヒデアキが感心したのも束の間、モノオは容赦なく彼の顔面に向けて踵を振り下ろしていた。
「うあっ!」
ヒデアキは全身を横に転がして緊急回避し、慌てた様子で起き上がる。そのまま受けていたらヤバかった。
「てめえヒデアキ! バカが!! 死にてえのか!!」
モノオが怒鳴った。
「オレが待つと思ったか? テトラを狙うゴミどもはお前が行儀よく起き上がるまで待つのか!! ああ!?」
「――――」
ヒデアキは、なにも言い返せない。
「スポーツやってんじゃねえんだ! さっきのお辞儀のときも思ったがよお、オレは能天気な武術家だのお遊びのボクシングお兄ちゃんだのを育てたいんじゃねえんだよ!! 殺す気で来い!!」
「殺す気、で?」
「オレのことがムカつかねえのか? じゃあ言ってやろうか。
――神棚にお辞儀? バカかよお前。そんなオママゴトやってるてめえが雑魚なんだから、てめえの師匠もせいぜい小遣い稼ぎのためにガキを騙すクズだったんだろうな」
沈黙。
沈黙。
「――たしかに」
ヒデアキは構えた。
「俺はモノオさんと仲良くなりたいですけど――でも、心のどこかで怒ってる部分はあるんでしょうね。ただの、強いだけのチンピラじゃないですか」
「ハハハハハ!」
モノオは笑った。
「そう思うんならブン殴ってみてえだろ? 来いよ! それともオレに負けたあとテトラに慰めてもらうか?」
それでもヒデアキの怒気に満足行かなかったのか、モノオは次に、心底侮蔑したような表情で言った。
「――マザコンだもんなあ、お前。早死にした母親がそんなに恋しいか? だから年上のテトラがいいんだろ?」
その瞬間、ヒデアキの視界から光が消えた。目の前が真っ暗になった。
音もなくなった。
気づくと、モノオの顎に右ストレートを入れていた。
グローブ越しに音が鳴る。
それ以外は静かだ。
「ああああああああ!!!!」
自分の声だ。
自分の声じゃないみたいだ。
揺れたモノオのみぞおちを、ヒデアキは蹴り上げる。
モノオの体が一瞬だけ宙に浮かんだ。
脳髄に完全に血が上っている。
なにも考えられない。自分にこんな力があったなんて信じられなかった。
力が湧く。
力が湧く。
力が湧いてくる。
もうどうでもいい、今までのなにもかもどうでもいい。
こいつを地獄までブチのめしてやる。
そんなムードだ。
「ああああ!!!! モノオォ!!!!」
ヒデアキは、蹴り上げられたモノオが着地すると同時に側頭部を両拳でラッシュした。
モノオがガードした瞬間に空いた脇腹、
それを回し蹴り、
モノオがさらに後ろに吹き飛んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
ヒデアキは我に返ると、すぐに後悔した。
――なにやってんだよ、俺! モノオさんでも、体はテトラさんだ! こんな風に挑発されたからって感情的になって、マジで、バカなのかよ俺は! いったいなにやってんだ!
だが、
モノオは特に深いダメージを受けていなかった。ひとつひとつの殴打の前に、その衝撃を最小限に抑える動作を常に入れていたらしい。
――それは、ヒデアキがモノオに一発も有効打を入れられていない、ということを意味していた。
「ま、即席の茶番にしてはよかったな?」とモノオは言った。「本気でキレてたろ?」
「え――」
ヒデアキの頭はすぐに冷静になる。
演技?
そういうことか。
そんな演技に、俺は本気で怒って――なんてことしたんだ。
だが、モノオはそれを見て表情を曇らせる。
「そこで頭が冷えて怒りを忘れるってのは、もうオレには一発も入れる気がないってことになるぜ?」
「えっ、いやっ、それは――」
「まあ、三割程度ってほうのノルマはクリアだ。いつでも今の状態までブチ切れられるようになっとけ。
あとは一発のほうだが――」
そうモノオは言うと、ぐいっと、足捌きのテンポをずらして実際より急に距離を詰めてくる。
「あっ」
とヒデアキが言う前に、その顔面にグローブ越しのストレートを決めた。
「見込みはナシだ」
そうモノオは言った。
――残りの時間は、ただ、ヒデアキが一発も入れられないまま、ただいたぶられて十回ほど畳に打ちつけられるための時間だった。
※※※※
ヒデアキは道場のビニール畳に仰向けに倒れた。昼食直後にはここに来たはずなのに、少し太陽が傾いて影を伸ばしている気がする。
――何時間やってたんだろう。
なにも分からない。決定打を五回喰らって残機が残り半分になってからは、とにかく、攻撃を受けないことに集中していたと思う。
とにかく逃げ回るうちに、なんとか打開策を見つけられないものかと考えていた。だって、テトラさんを置いて東京なんかに絶対に帰りたくない。
そういう逃げと避けの時間がいちばん長かった。
そして残り二発になると、やぶれかぶれという感じで、とにかくラッキーパンチが当たってほしいと願いつつ、拳を繰り出した。
――結果として、あっさり畳に転がされていた。
これで十回死亡だった。
試験は不合格。
「ダメなんだな。やっぱ、俺――」
ヒデアキはそう呟いた。
モノオはそれを冷たく眺めてから、防具を外し、グローブを脱ぐと、後ろでひとつにまとめていた茶髪をほどいた。彼にもうっすらと汗が浮かんでいる。
「おい、ヒデアキ」とモノオは言った。「テトラは今日から短くて三日間、長けりゃ一週間はベッドから動けなくなる。その間のことはなんとかしろ」
「えっ?」
「――長くオレになりすぎただけだよ。お前さ、すげえしつけえ」
そう答えると、モノオは自分の頭を指差す。「反動だ。いつものことだけどな」
そうしてヒデアキの近くの壁に背をあずけて、あぐらで座った。ため息をつく。
「ったく、だから女の体は不便で嫌いだ」
それを聞いたヒデアキもぼんやりと思い出す。
――横浜ホテルでモノオさんが大暴れしたあと、テトラさんは意識を回復しても、しばらくの間ベッドに横になって退院しなかったんだ。
反動。
――あとで聞いたが、モノオさんが強いのは、人格交代の副作用による脳内薬物の分泌で、テトラさんの身体性能を理不尽に強化しているからだ。そうして、それが彼女の体に過大な負荷を強いている。
当たり前だった。男の暴力を無理やり女の肉体で再現しているのだ。
こと格闘において、それは器のほうが耐えられなくなる。
「なんで」とヒデアキは言った。「なんで、そこまでして俺なんかに付き合ってくれたんですか?」
「その前に、ひとつ答えてくれ」とモノオは言う。「お前さ、テトラのどこがいいんだ」
え?
なんだ、その質問。恋バナか?
「どこ、って、訊かれても――」
「オレが言うのもなんだが、こいつ、すげえ面倒くさい女だろ。
――わざと悪く言うぜ?
うじうじ言って歌は歌わねえ、つくらねえ、だからって音楽業界を出ていく気もねえ。
実際、性格もそんなに良くないんだよ。
本当は、男に甘えたくてしょうがない――マジだぜ?
そのくせ料理もできねえし生活もだらしねえし中卒だから教養も偏ってる。どうだ?」
モノオはヒデアキの顔をじっと見た。
「それにお前に比べたら、もう言うほど若くない。お前みたいな無限の可能性はもうこいつにはないんだよ」
ヒデアキもモノオを眺めた。
彼が彼の人格を借りて言ってるのは、きっとテトラさんの心の奥底の本音だ。だから今は怒りが湧かない。きっとさっきの挑発にしても、本当は不安の裏返しなんだ。
「お前さ」とモノオは言った。「大学で大人しく同学年のガキと楽しく恋愛してりゃよかったのに、なんでテトラなんだ。――オレに答えろ」
そう訊かれると、ヒデアキは答えに詰まった。
――なんで俺はテトラさんが好きなんだろう。
トリィさんの頭脳に惹かれた? ジーイさんを悲しみから守りたかった? モノオさんの怒りを捨て置けないと思った? それともテトラさんの歌に結局は心を奪われたのか?
あるいは、日常生活や、あるいはセックスのなかで積み重なっていった彼女の匂い、肌触り、囁いたり喘いだりする声、そして甘えるような目つきに、本能で従わされてしまったのか。
全部そのとおりだという気もするし、違う気もする。
それに、言語化したくないとも思った。俺がテトラさんのことを大事に思う気持ちを、誰かに簡単に分かるような形にしたくない。
「分からないです」
そう答えると、モノオは道着の帯をゆるめ、体の汗を軽く拭いてから、
「オレは昔、ハジメのことを信じてた」と言った。「こいつならテトラを幸せにできるんじゃねえかって。
でも、アイツは遠いところに行った。テトラを嫌いになったんじゃなくて、好きなまま苦しんで距離を置いたんだよ。それが辛かったんだ、大昔のテトラは。
お前も、いつか、なあ、ヒデアキ。テトラを重荷に思って逃げ出したりしないか? だって、それが男としては普通だろ。あいつは――それだけが怖いんだよ」
モノオはそう言ってから顔を背けた。ヒデアキは、やっと疲れがとれて起き上がる。
俺は好きの理由も上手く言えないままだ。なんにもできないままだ。なのに、テトラさんのことを安心させる小手先の言葉だけがほしくてしょうがない――そうやって彼女がホッとするたった1秒だけを俺は無限に積み重ねたい。
永遠を誓える力もないなら、瞬間と瞬間を、ずっと続けていたい。
「俺は、なにがあってもテトラさんのそばにいます」
そうヒデアキは言った。「テトラさんが寂しいとき、辛いとき、俺にできることは全部やります――なんにもできなくたって、できることを見つけます」
「そうかよ?」
モノオは振り返る。
そうして彼は深呼吸してから、しばらくして、
ククク――と声を漏らし、自分の頬を指でつついてニヤニヤと笑った。
「やっぱ、この顔が気に入ったのか? あ~? まあ美人だもんな~?」
「えっ! いや、それだけじゃないですよ!」
ヒデアキは思わず赤面する。テトラさんの顔でそういう表情ってズルいだろ!
「ハハハハハ!!」
モノオはひとしきり腹を抱えて笑ったあと、
「おい、手を貸せ。右手でいい」
と言った。
ヒデアキがそのとおりにすると、彼はその手を掴んで自分の頬に触らせたあと、軽めに甘噛みした。たぶん、ファイト・バイトの再現だった。
「――これで一発だな、ヒデアキ?」
「え」
「――オレは疲れた。もういい。車に乗せてさっさとホテルまで連れてけよ?」
そう言うと、モノオは帯を完全にほどいてロッカールームまで歩いて行った。
――で。
たしかに、モノオの言うとおり、藍沢テトラはそれから五日間はホテルのベッドから出ることができないほど酷い筋肉痛に悩まされてしまった。
ヒデアキは食べやすい沖縄料理をつくると、彼女のもとに運んでいく。
彼女が「いた、いたたたた――」とうめきながら体を起こしてヒデアキの手料理を頑張って食べ終えると、
「もう、無理。しばらく動けないから」
と言ってベッドに横になった。
彼女がトイレに行くときは肩を貸す必要があったし、お風呂に入るときは安全のためにいっしょに入った。そんな感じだった。
ヒデアキは、ただ、モノオに言われた言葉を思い出しながら彼女に尽くす。そして、横になったままのテトラに乞われてベッドの近くでギターを練習した。
「いいね、素朴な音。キミの気持ちと同じ」
「それ、褒めてます?」
「褒めてるよ。あたしの好きな男の子の心と同じ音って言ってるから」
「――そ、そうですか」
こうして、テトラの新曲が出来上がるよりも先に、ヒデアキのギター練習がいったん終わった。通しで曲を弾き語れるようになったからだ。
もちろん、テクニックなんてない簡単なストロークだったし、歌声は音程に沿って感情を乗せてはいるが、プロのアーティストと比べたら話にならないレベルだ。
でも、別にいい。
――俺はプロじゃないから上手くなくていい。テトラさんの気に入ることができたらそれでいいんだ。
こうして彼がアコースティックギターを鳴らしながら歌ったのは、Oasisの『Stand By Me』だった。
教本を読んでいて、ふと目に入り、最初に歌詞が気に入った曲だった。
こんな歌詞だ。
Made a meal and threw it up on Sunday
I’ve got a lot of things to learn
Said I would and I’ll be leaving one day
Before my heart starts to burn
日曜日、料理をしたけど吐いちゃったよ。学ぶべきことはたくさんあるんだ。
俺の心が焦げ始める前には、いつか出発するつもりだよ、前も言ったけど。
So what’s the matter with you?
Sing me something new
Don’t you know the cold and wind and rain don’t know
They only seem to come and go away
貴女を悩ませるものはなんなの? 新しい歌を歌ってよ。
知ってるだろ。冷たい雨風はなにも教えてくれやしない。ただ通りすぎるだけなんだ。
Times are hard when things have got no meaning
I’ve found a key upon the floor
Maybe you and I will not believe in
The things we find behind the door
なんの意味も見つからない日々がキツいんだ。俺は床に落ちてた鍵を見つけたけど、
ドアの向こうで出会う色んなこと、たぶん俺も貴女も信じることができないと思う。
So what’s the matter with you?
Sing me something new
Don’t you know the cold and wind and rain don’t know
They only seem to come and go away
貴女を悩ませるものはなんなの? 新しい歌を歌ってよ。
知ってるだろ。冷たい雨風はなにも教えてくれやしない。ただ通りすぎるだけなんだ。
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows
Yeah, nobody knows, the way it’s gonna be
そばにいて。今後のことは誰も知らない。そばにいて。今後のことは誰も知らない。
そばにいて。今後のことは誰も知らない。そばにいて――そうだよ、誰も知らない。
これからのことは誰も知らないんだ。
If you’re leaving will you take me with you?
I’m tired of talking on my phone
There is one thing I can never give you
My heart will never be your home
出発するなら、連れていってよ。電話で話すのはウンザリなんだ。
譲れないことがひとつだけある。俺の心は、貴女の帰りを待つ家になんてなれない。
So what’s the matter with you?
Sing me something new
Don’t you know the cold and wind and rain don’t know
They only seem to come and go away
貴女を悩ませるものはなんなの? 新しい歌を歌ってよ。
知ってるだろ。冷たい雨風はなにも教えてくれやしない。ただ通りすぎるだけなんだ。
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows
Yeah, nobody knows, the way it’s gonna be
そばにいて。今後のことは誰も知らない。そばにいて。今後のことは誰も知らない。
そばにいて。今後のことは誰も知らない。そばにいて――そうだよ、誰も知らない。
これからのことは誰も知らないんだ。
The way it’s gonna be, yeah
Maybe I can see, yeah
Don’t you know the cold and wind and rain don’t know
They only seem to come and go away (hey, hey)
ねえ、今後どうなるか。俺は分かるかもしれない、そうだよ。
知ってるだろ。冷たい雨風はなにも教えてくれやしない。ただ通りすぎるだけなんだ。
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows the way it’s gonna be
Stand by me, nobody knows
Yeah, God only knows, the way it’s gonna be
そばにいて。今後のことは誰も知らない。そばにいて。今後のことは誰も知らない。
そばにいて。今後のことは誰も知らない。
――そばにいてほしいんだ。誰も知らないんだよ、
これからどうなるかは、神様だけが知ってるんだ。
こうして、沖縄の日々が過ぎていった。
※※※※
ヒデアキがギターを弾き語りながら、ずっとテトラのそばにいると、いつの間にか彼女は眠っていた。エアコンは効いているから、冷えないように、掛け布団はかけ直してあげようかな。
「おやすみなさい、テトラさん」
ヒデアキは微笑んで、アコースティックギターを持って自分の部屋に帰った。
そうして自室のPCを立ち上げると、通話用アプリケーションの通知で、大学の柿ノ木キョウカから連絡が来ていることに気がついた。
――キョウカさん?
どうしたんだろう? ヒデアキはアプリを起動して、メッセージを読んだ。
「ヒデアキ、休学ってどういうこと?」
と、そこには書かれていた。
えっ?
ヒデアキはわけが分からなくなる。キーボードを打つ手が早くなる。
「四月から就活関係の仕事で、東京を離れることになったんだ。タエコに連絡をお願いしたんだけど、知らなかった?」
「知らない。私、タエコに縁を切られちゃったし」
「――なんで?」
「ね、本気で言ってるの? それ」
「どういうこと」
「――もういい。ちょっと話せないかな? ごめん、私もいろいろ参ってて。どうしたらいいか分からない。話を聞いてほしい」
キョウカはそう送信してきた。
――え?
なにがなんだか分からなかった。タエコとキョウカさんが絶縁? なんでだよ? 俺の知らない間になにが起きてんだ?
「うん、もちろんいいよ」
ヒデアキはオンライン通話を接続した。
キョウカの顔が画面に映った。背景は、たぶん自室のそれじゃないと思われる。どこかのレンタルルームを借りているのだろう。狭いし、殺風景すぎた。
そうして彼女の表情はどこか、色々な物事に怯えることに疲れ切っているようにも見えた。
ヒデアキもカメラをオンにする。
「いったいどうしたの?」と彼は言った。「東京でなにがあったの?」
「その前に確認させて。ヒデアキ、今、どこにいるの?」
その言葉を聞いて彼は軽く苦笑しそうになる。「どこにいるの?」。それじゃまるで『ノルウェイの森』のラストシーンだった。
「え? ――あー」
このとき、ヒデアキの頭には、自分の居所を隠そうというつもりは全くなかった。
――だって、相手はずっと大学でいっしょにいた友だちの柿ノ木キョウカさんだ。
「沖縄にいるよ」
「――そうなんだ?」
「いいところだと思う。海も景色も綺麗だし、料理も美味しい。歴史的なことはガイドさんに教わったりしててさ――」
「藍沢テトラさんといっしょにいるんでしょ?」
キョウカは遮るようにそう訊いた。
ヒデアキの心臓が跳ねる。
――たしかに、テトラさんと俺の関係がキョウカさんにバレてしまう瞬間はいくらでもあった。だから、今そんな風に訊かれてしまうのは奇妙なことじゃない。
「うん、そうだね」
と彼は答えた。
「マネージャの仕事とか、そういうことでいい?」
「当たらずとも遠からず」
ヒデアキはそこまで答えてから「タエコとなにがあったの?」と訊いた。
しばらく経つと、イヤフォンの向こう側で、軽めの涙声が聞こえた。
「分からない」とキョウカは言った。
「タエコさ、ヒデアキのこと好きだって」
「え、えっ!?」
「わ、私が冷たい振りかたをしたのが、許せないんだって言われた」
ヒデアキはキョウカに振られたとき言われたことを思い出す。
《気持ち悪い》
《好きっていうの、要するにセックスしたいってことでしょ? ずっとそういう目で見てたんだね?》
そりゃ、傷ついたかと言われれば傷ついたと思う。
なんでそこまで言われるんだろうって。
でも理不尽だとは俺は思ってない。
俺は未熟だし、女の子は自分の気に入らない愛情に対して攻撃的になるってことくらい知っていたし。もう気にしていない。
なのに、それに対してタエコは怒っている――。
「タエコはヒデアキのことが好きだったんだよ! ずっと好きだったって! 私も知らなかった! 知ってたらあんな言いかたしないよ!」
とキョウカは言った。
「なのに、私に遠慮して、で、ヒデアキが振られて傷ついたから、だから今すごく怒ってるって――。私の視野が狭いのは謝るよ、謝るけどさあ、じゃあ、じゃあどうすればよかったの!?」
そう言ってキョウカは泣いていた。
その表情を見ていてヒデアキは改めて思う。
――キョウカさんは、自分が女の子を傷つけてしまうことだけはイヤなんだ。だから、今こんなに取り乱しているんだ。どうしようもなく。
でも、俺にできることはなにもないんだろうな。
「キョウカさん」とヒデアキは言った。「タエコには俺からも話すよ。俺がタエコの気持ちに気づかなかったのも良くなかったし。だいたい俺が、昔キョウカさんを好きになったのが原因でしょ? 二人はなにも悪くないじゃん。だからちゃんと話して、もうみんなで忘れたほうがいいって」
「――ヒデアキ」
「えっ? はい」
「ワガママ言っていいかな?」
「なんですか?」
「会いたい」
え、とヒデアキは思った。
「俺、ずっと沖縄にいるんだけど」
「知ってる。私も、こんな感じで色々あったしさ、ゴールデンウィークあたりにどっかに行きたいなあ、って」
そうしてキョウカは力なく笑う。
「せっかく沖縄観光の先輩がいるんだから、色々案内してほしいんですけど――」
「ええ、いや、でもなあ」
「えー」
キョウカはちょっと笑う。「ヒデアキ、やっぱり離島のほうがいいんでしょ?」
「え? まあそうだよ。水族館とか博物館は本島がよかったけど、海の綺麗さとかごはんの美味しさとか考えたら、やっぱ離島に行くのがいいかな」
「宮古島とか最高そうだよね?」
「そうだね」
「石垣島とかどう? ちょっと気になってるんだけど」
「うーん、どうかなあ」
※※※※
キョウカは島の名前を言いながら、ヒデアキの現在位置を探っていた。
――ヒデアキ、なんで分かんないの? あんたは今、藍沢テトラに騙されてんだよ!?
そうだ。今は、私にしかヒデアキを助けられない。
私がヒデアキを助けるんだ――だって、助けられる人は助けたい。
ヒデアキとの通話を続けながら、彼女はそう思っていた。
※※※※
柿ノ木キョウカを尾行していたアリスは、彼女がレンタルルームに消えていくのを見届けてから近くのビルの陰に入った。
「なんでわざわざ――」とアリスは言った。「連絡のためだけに移動したの? 自分の家ですればいいのに」
『そういう子、けっこういるみたいだけどねえ』とニーニャが答える。
オンライン通話で背景に自分の部屋を映したくなかったりとか。
そのためにダミー背景の設定機能があるのだが、それが不具合で一瞬だけ消えてしまう可能性は否定できない。
神経質すぎるかもしれないが、柿ノ木キョウカは、そういう神経質すぎる人間なのだろう。
「――だったら、カメラをオフにしないの?」
『今回はヒデアキくんから情報を引き出したいんじゃないかな?』
だから、誘い出すにしても泣き落とすにしても、使えるものは使う気なんじゃないかなあ。たとえば、自分の容姿の美しさとかね。
彼が今どこにいるのか。藍沢テトラといっしょに行動しているのか。雑談を装って、キョウカは聞き出そうとしている、ということだ。
『アリス』とニーニャは言った。『タマキが車でアリスのGPS位置に行ってる。キョウカが出てきたら彼女を確保して合流しといてね』
「合流?」
『保護だよ』
――キョウカはヒデアキから情報を引き出して、瀧千秋にそれを伝えたら、もう彼にとっては用済みになる。そのあとどうなるか分からない。
それを聞いて、アリスはスマートフォンを握りしめた。
――キョウカちゃんは、あたしと違って勉強できるし、住む世界はぜんぜん違う。
でも、いっしょだ。悪い男の人に騙されて、酷い目に遭おうとしている。
だったらどうする? あたしはトワ様に助けてもらえたから無事だっただけ。アヲイと関わったから自分の気持ちに正直でいられただけ。
だったら、キョウカを助けたい。
そう思って、再びレンタルルームのある雑居ビルに目を移した。
そのとき。
一人の女の子が、ゆっくりそこに入っていくのを見た。
違和感は全くないはずだった。普通の人間が見れば。
しかし、かつて赤羽のヤクザ絡みな風俗店でチンピラ相手の風俗嬢をしていたアリスの目にははっきりと分かる。
――あの女の子から、《死》の匂いがする。
「あの子――!」
『どうしたの?』
「いまレンタルルームに入った女の子だけど、すごく怖い感じがする。
片目を隠した黒のセミロング。女子制服のブレザー姿。すごく重そうなバッグ。
――キョウカが危ないかもしれない。ちょっと行ってくる」
『え、なに。いきなりどうしたの』
そうやって二人が会話しているところに、
《あああああ!?》
と、割り込む声が聞こえた。運転中にハンズフリーフォンで参加していたタマキだ。
《アリス!》とタマキが言った。
《その特徴ビンゴだ。そいつがトワ様を斬った奴だよ!》
「えっ」
《敵だ!!》
――あの夜、トワ様に瀕死の重傷を負わせた女。
瀧千秋のボディガード役に回って、最後は凛の刀で彼を刺し、斬り倒した女。
タマキも、アリスも、ニーニャも、彼女の名前はまだ知らない。
彼女の通称は聖里伽という。凛と同様、どこかの一家惨殺事件の唯一の生き残りという形で行方不明になっていた女子高生だ。
もちろん、それは凛や聖里伽こそが犯人であり、そのあと瀧千秋に拾われて脳をいじられたという意味なのだが。
まあそんな情報はどうでもいい。
――トワ様の敵だ!!
アリスはそう認識すると、即、鞄からニーニャ特製ガスガン(FNブローニングハイパワーモデル)を取り出してレンタルルームに歩を進めた。
『ちょっと待った、アリス!』とニーニャは叫ぶ。『アリスのほうが危ない! もうキョウカは見捨てるよ! 作戦はおしまい!』
「聞こえない!!」
――目の前にいたのがトワ様の敵だ! あたしたちみんなの敵だ!!
アリスは頭に血が上ると他のことは考えられない。トワの六人の女たちで、いちばん暴走癖があるのがアリスだ。
――ブチ殺してやる!
※※※※
ヒデアキはキョウカと通話しながら、オリオンビールの缶を開けた。沖縄ではよく飲まれている酒だ。
「与那国島とかも、なんか、よさそうだよね」
そうキョウカが言うのを聞きながら。
――ん?
と思った。
タエコの話で動揺していて気づかなかったけど、俺、もしかして尋問されてないか?
キョウカさんの傷心に付き合っているつもりでいた。だけど、なにか、違和感がある。
キョウカさんはこういう風に、探るような話しかたをする人だっけ? いや、違うな。探るとして、その目的はなんだ? なにを探りたい?
ヒデアキの疑問になんの根拠もない。あるとすれば、半年以上前の片想いだ。
「ヒデアキ、どうしたの?」
「ああ、いや――まあ、どこも回ったけど、全部いろいろよかったよ。もちろん、本島の世界遺産もめっちゃすごくて」
話を合わせながら、ヒデアキのなかで疑念が膨らんだ。
――俺の知っているキョウカさんは、自分の意見をはっきりと言い、知っていることを知っていると言い、知らないことは率直に教えてほしいと訊く。そういう人だった。
全部がストレートの剛速球で、よく研がれたナイフみたいに綺麗だった。そうだ、そういうところを俺は好きだったんだ。
少なくとも、こんな、婉曲的な喋りかたはしない。
「キョウカさん、もしかして、俺がどこにいるか知りたいの?」
思わずそう訊いてしまう。
予想される答えは、次のどちらかだ。
その一、完全否定。「は? そんなわけないでしょ。なに言ってんの」
その二、完全肯定。「うん、教えて。だってそこが良いからそこにいるんでしょ?」
そういう風に抜き身で他人とぶつかれるのが、周囲の評判はどうあれキョウカさんの良いところだと俺は思ってたんだっけ。
そう思って、少しだけ驚いた。
――俺は、昔、キョウカさんを好きだったことをこんなに冷静に思い出せるんだ。もう痛くないし、辛くもないんだ。
世界は人間の意志でつくられている。あとはただのデータだ。好きだという意志が消えれば、データだけが残って客観的に扱えるようになる、というわけだ。
だが、キョウカの答えは予想のどちらでもなかった。
「ああ、そうなのかも。一人旅ってちょっと心細いもんね? 助けてくれる友だちがいる島がいいと思って」
そう言った。
一人旅がちょっと心細い、だって?
ヒデアキは自分の違和感に確信を持った。
今、キョウカさんは自分の意志で喋ってるんじゃない。
たとえ操作された人形じゃなくても、自分の本心で動いていないなら、それは誰かに操られているのと同じだ。
「キョウカさん、誰に言われて俺のこと探ってるんだ」
そう訊いた。
訊いてから、まずい、と思った。
キョウカさんを裏で動かしている奴がもしいるとして、その黒幕がヤバいヤツなら、「柿ノ木キョウカは対象に疑われるような会話しかできない」と黒幕に思われて、どういう風に彼女が扱われるか分からない。
――画面のキョウカは動揺していた。
「え? なに? 急になに言ってるの、ヒデアキ」
分かりやすい。
もともと嘘をつくのに向いていないんだろう、キョウカさんは。
恵まれた環境に生きている人は、本当のことだけ堂々と言って生きていられるからだ。嘘は、マイノリティやサバイバーが身に着けざるを得ない処世術だから。
「キョウカさんは」とヒデアキは言葉を繋げる。「俺がどこにいるのか知りたいんじゃなくて、テトラさんの居場所を知りたいんじゃないの?」
「えっ――」
「それって、誰に頼まれたの?」
「な、なんで? なんでそう思うの?」
「藍沢テトラさんが沖縄に来たのは、美術館と横浜のホテル、ふたつの場所で事件に巻き込まれたからだよ。黒幕は明らかに、テトラさんを標的にしてる。だから、そいつが捕まるまで東京にいられない。
で――なんでキョウカさんがテトラさんの居場所を知りたがるんだ?」
そう言ってから、しかし、流石のヒデアキでも思い至る名前があった。
――瀧千秋。
横浜のホテルの事件以降、彼は犯人グループに連れ去られて行方不明ということになっている。そのせいでキョウカさんが落ち込んでいるとも思っていた。だって、キョウカさんと瀧は遠縁の親戚で知り合いなんだから。
THE DEADの前に顔を合わせたから知っている。
――でも、逆だったらどうだ?
瀧千秋は人質のフリをして現場から逃げた。なんでそんな目立つ真似をしたのかは知らない。たぶん予想外のアクシデントもあったんだ。
予想外のアクシデント? ヒデアキの脳裏でニュースの映像が流れる。それはホテルから遠く離れた場所で意識不明の重体になっていたソロアーティスト・トワだった。
そういうことか!
トワが瀧千秋の凶行に気づいて追い駆けた。そして瀧は人質のフリをして逃げ出したあと、逃亡先で準備を整えてトワの始末をした。
そうして今は被害者を装いながらキョウカさんにコンタクトを取って俺から情報を出そうとしている。
なんで?
簡単だ。
――藍沢テトラがヤツの目的だからだ!
ヒデアキは、次の可能性に思いをめぐらせる。キョウカさんが俺からテトラさんの情報を引き出したとして、そのあとは?
もし俺の予想が当たりなら、瀧千秋は今まで何十人も殺害している。つまり、用済みになったキョウカさんを生かしておく慈悲なんかには期待できないんだ。
「逃げろ」
そう言った。
「キョウカさん、落ち着いて聞いて。キョウカさんは、瀧千秋って人からの指示で俺と連絡してる。そうでしょ?」
「――は?」
「いい? 黒幕は瀧千秋だ。だから藍沢テトラの居場所を知ろうとしてる。その道具にされてるんだ、キョウカさんは。でも用済みになったら終わりだ。今すぐそこを出て逃げて。早く」
ヒデアキとしては、冷静に言ったつもりだったが、
――逆効果だった。
「ふざけないで!!」と彼女は怒鳴った。
「道具にされてるのはあんただよ、ヒデアキ! 犯人は藍沢テトラ。あの歌の力でぜんぶ説明がつくんだよ! あいつには世の中を恨む理由なんていくらでもある!
ねえ、ヒデアキ騙されてるんだよ! 逃げなくちゃいけないのはヒデアキなんだよ!」
そう言われてヒデアキは目をつぶった。
――なるほど、そういう風に吹き込まれてるのか。
たしかに、タチの悪いことに筋は通ってしまう。瀧千秋犯人説よりも説得力があるのが恨めしかった。
尊敬できる人に言われたら信じてしまうかもしれない。
でも、デマはデマだ。
「俺さ」とヒデアキは言った。「たしかにキョウカさんを勝手に好きになって迷惑をかけたことはあるよ。でもさ、けっこうそれ以外は品行方正っていうか、誰にも迷惑かけたことないし、大学の講義を共産主義者の過激派が邪魔したときとか、体を張って阻止したりとかしたこともあると思うんだよ」
「なに言ってんの?」
「――いっかいだけでいいから俺を信じてよ! とにかく全部あとで聞くから、今すぐそこから逃げるんだよ! バカ!!」
「バカはヒデアキでしょ!? 藍沢テトラみたいなのに騙されちゃって、あのひとがヒデアキのなんなの!?」
「俺は――!」
そのとき。
キョウカがいるレンタルルームの扉が開いた。彼女の背後にあるドアだから、ヒデアキのモニターでもそれが見える。
一人の女の子が入ってきた。片目を隠した黒のセミロング。女子制服のブレザー姿。重そうなバッグ
『な~に? 失敗? もお』
キョウカがそちらを振り返る。「え?」と、呆けた声を出した。「鍵、閉めてたはず――あの、誰なの?」
『男の子ひとり誑かせない女なんか要らな~い。ここからはプランBね? お兄ちゃんからの命令だよ』
そう言うと、女の子は容赦なくキョウカに飛び掛かり、一瞬で制圧してしまった。
そうしてキョウカの髪を鷲掴みにして起き上がらせると、その細い首筋に骨董もののナイフを突き立てていた。
――ハインリヒ・K・キュルテンのナイフだ。
「聖里伽でえす。はじめましてえ、ヒデアキくん」
そう女の子は言ってから、ヒヒ、ヒヒヒヒヒ、と、引きつるような笑い声だった。
――両親から「笑うな」と殴られ続け、正常な笑顔を浮かべられなくなった後遺症だということを、今はキョウカもヒデアキも――聖里伽本人さえ知らない。
「ヒデアキくん。キョウカちゃんのことを今でも大事な友だちだと思うなら、今すぐ藍沢テトラの居場所を言ってね? じゃないと、この女をセリカがどうするか分からないよ?
――このナイフをあそこに突っ込んじゃうとかさあ?」
「は? やめ、やめろ!」
ヒデアキは思わず立ち上がって怒鳴った。もちろん、なんの意味もない。彼は今、藍沢テトラを守るために沖縄にいる。だから、キョウカを助けることはできない。
キョウカは、先ほどとは打って変わって、恐怖に歯を鳴らしながら身動きすら取れない。
「ねえねえ、ヒ~デ~ア~キ~く~ん?」
聖里伽は、引きつるように笑い続けた。
「テトラちゃんさあ、どこにいるのかな~?」
※※※※
「キョウカさんを解放しろ」とヒデアキは言った。冷静さを保てなくなったら負けだ。「彼女は関係ない」
「ひ、ヒヒ――ヒヒヒ――」
聖里伽は笑い続ける。
「本当に関係ないなら、こんな女は見捨ててテトラちゃんを守ればいい。でも、ヒデアキくんはお友だち想いだから、そんなことできないよね?」
そうしてキョウカの髪を、ぐいっ、と、さらに強く引っ張り上げた。細く、真っ白な首筋がさらけ出される。
「キョウカちゃん、どこまで聞き出せた? 瀧お兄ちゃんはせっかちさんだから、さっさと仕事してほしかったんだけどお――」
「お、お兄ちゃんって――?」
キョウカは涙を流しながら震える。「どういうこと? あ、あなたセンシュウ兄さんのなに――? どうやってここに入ったの――?」
それに対して、聖里伽の表情は一瞬でキレる。
ガン!
と、キョウカの頭を部屋の壁にぶつけて、また戻した。そしてもういちど、
ガン!
とぶつけて黙らせる。
「なに質問してんだよお! 訊いてんのはこっちのほうでしょ!? なんですぐ答えないのお!? なんで意地悪するのお!?
なんでみんなセリカに意地悪ばっかりするの!! パパもママもなんでセリカに意地悪するの!? あなたもセリカのママと同じなのお!? ねええええ!?」
激昂。
聖里伽はひたすらキョウカの耳もとで怒鳴り続けた。モニターの向こうにいるヒデアキにも聞こえる。酷い音割れだ。
――こんなに騒いでるのに、なんで誰も駆けつけてこないんだ? レンタルルームのドアは開けっぱなしだろ。
まさか。
ヒデアキは直感する。
こいつ、もう店の他の人間、みんな始末してるんじゃないのか。それならマスターキーも使い放題だ。
「ごめんなさい」とキョウカは泣く。
「ごっ、ごめんなさい。ごめんなさい。こ、怖い――」
「はあ? 怖い思いをしたのはセリカだよお?」と聖里伽はなじるように言う。「だって意地悪されたのセリカのほうだよねえ? セリカが酷いことされたのに、なんで酷いことしたほうが怖がってるのお? 変だよねえそれ被害者はセリカだよねえ? ねえ?」
「す、すみません、こ、怖がりません」
キョウカは鼻をすする。
「ひ、ヒデアキと、あ、藍沢テトラは沖縄にいるって言ってました――!」
「沖縄の、どこ?」
「――ごめんなさい。まだ、分からないです」
「なんでそんなに仕事が遅いのお? わざとだあ? セリカを困らせたくてわざと遅くしてんだあ? ねえ!! わざとだ絶対わざと意地悪してるんだよ! ねえ!!」
キョウカは下唇を噛みしめた。たぶん、悲鳴を上げそうになる本能を必死でこらえているのだろう。そこから血が一筋流れていく。
聖里伽は、ぐるっ、とヒデアキのほうを向いた。
「ヒデアキくんは、こんな女と違ってセリカに意地悪しないよね? だってセリカ可哀想だもん。セリカに優しくするよね?」
「分かった」とヒデアキは答えた。
とにかくこの状況からキョウカさんを解放したい。こんなの酷すぎる。
「分かった。言う。言うから」
「沖縄の、どこにいるのお? ヒデアキく~ん」
「――宮古島」
嘘だ。本当は久米島だ。
「宮古島?」
「そう、そうだよ」
「へえ、宮古島なんだあ。教えてくれてありがとお」
聖里伽はにっこり笑ってから、
再びノータイムでキョウカの頭を壁に打ちつけた。
「なんでセリカに嘘つくのお!? ねええええええええ!!!!」
「やめろ!!」
嘘がなぜバレたのか、ヒデアキは分からない。
――当然だ。バレたわけではない。聖里伽は答えがなんであれキョウカを傷つけて念押しに拷問する気でいたのだ。
理由はない。聖里伽はそういうやりかたが気に入っているのだ。
「みんなセリカに嘘つくんだあ!! みんなセリカに意地悪するんだあ!! パパもママも嘘ばっかり嘘ばっかり嘘ばっかり嘘ばっかり!!!! ヒデアキくんもセリカのパパと同じなんだあ!!」
「待て、待って、分かった! 分かったからやめろ!」
ヒデアキが叫ぶと、聖里伽は荒れた呼吸を整える。
「分かったのお?」
そうして、穏やかに微笑む。
「分かったってことは、ヒデアキくん、もうセリカに意地悪しないんだよねえ? えっ、優しいねえ。すごく優しい。優しい男の人、セリカは大好きだよお?」
そして、泣きじゃくるキョウカを冷たく見下し、ゴミをポイ捨てするように手放した。
「こんな意地悪な女は、し~らない。セリカ、大好きなヒデアキくんとお喋りするんだあ」
ヒヒヒ――。
「セリカのパパはね、酷かったんだよお。思春期の娘と父親が『そういうこと』をするのは普通のことなんだ~って、セリカにずっと嘘ついてたのお。毎晩毎晩そういうことさせられたんだよお?
なのに、ママは助けてくれなかった。逆に、セリカにいっちょ前に女としてヤキモチ妬いてさあ、クソババアのくせに、セリカのこといじめてたのお。ねえ――酷いよね?」
そこまで言ってから、セリカは「あれえっ?」と自分の頭をトントンとつついた。
「あっ、ごめんねえ。これセリカの記憶じゃなくってえ、――凛の記憶だったあ!」
「――はあ?」
「お兄ちゃんが脳ミソをグチャグチャにいじってくれたから、自分の本当に辛いことは思い出せないんだあ。お兄ちゃんのおかげでね、今すっごく幸せなの!」
ヒデアキは、セリカの話をちゃんと聞いた。
つまり、この子も操り人形だ。
悪いのは瀧千秋ただ一人なんだ、そう思った。
「それが、本当に幸せか?」
「え? 幸せだよお? 本当の記憶なんて辛いことばっかりだもん。あ、ヒデアキくんもセリカを幸せにしてくれるのお?」
「お、俺は――」
「沖縄のどこにいるのお? 会いたいよお」
ヒデアキは拳を握りしめる。
――ダメだ、俺は、テトラさんを危険に晒すようなことは言えない。
でも、キョウカさんを見捨てる選択肢も選べない。
クソ、どうしたらいい? なんて言えばいいんだ?
押し黙るヒデアキを見て、聖里伽の顔がどんどん曇っていく。
「なんで教えてくれないの? ヒデアキくん」
「待て、待ってくれ。待ってください」
「もしかしてセリカがこの女になんにもしないと思ってるのお? このナイフで。
ふざけてる?
じゃあこの女の指を一本ずつ切り落とすから、喋りたくなったら勝手に喋ってください。
もういいよ。どうでもいい。やっぱりヒデアキくんもセリカに意地悪するんだあ?」
「やめろ。やめろ!」
「ああああ!! セリカに命令しないでよお!! パパみたいにさあ!!!!」
そうして彼女がキョウカの左腕をデスクに押しつけ、ナイフを振り上げた、
そのとき、
ヒデアキの部屋に藍沢テトラが入ってきた。
いや、テトラさんじゃない。この瞳の感じはトリィさんだ。
「――私たちは久米島にいる」
トリィはそう言った。
「私たちがいるのは久米島だ。どうかな? これで満足だったら、今すぐ彼女を解放してほしい」
突然のお目当てに、聖里伽は動きを止める。
「――あ、藍沢テトラ?」
「正確には違うね」
トリィは微笑んだ。交渉の際に重要なのは、優位性を失わないこと。
「彼女は関係ない。それに、今後の交渉に関する利用価値も鑑みれば、彼女は無傷のまま解放すべきだ。違うかな? きっとキミの《お兄ちゃん》も同じ意見のはずだけど」
「久米島――久米島――」
聖里伽が戸惑っている間、トリィはヒデアキの肩に手を置く。
「――私たちのせいで、キミの友人も巻き込んじゃったね。本当にごめん。今は彼女を助けるのが先だ」
「トリィさん、俺は、俺は――」
「そんな顔しないで? なんとかなるよ」
トリィはにっこりと笑う。そうして、モニターの聖里伽に向き直った。
「なんなら、いま電話で確認するといい。キミのお兄ちゃんにね」
「――い、言われなくたって」
聖里伽はスマートフォンを取り出す。そして、瀧千秋に繋いだ。なにかを小声で喋っているらしい。
そうして、トリィに向き直った。
「必要な情報は得ました。もうここに用はない。撤退するし、キョウカは解放します」
「そうかい?」
トリィはニヒリスティックに笑った。
「ただ」と聖里伽は言った。「お兄ちゃんがお前と話したいらしいよ、藍沢テトラ。ビデオ通話をここに繋げてやる。せいぜい命乞いでもしてみるといい」
「慈悲深いね」
トリィが返事をする間、ヒデアキは、聖里伽の口調が全く定まっていないことに気づいていた。
――もしかして、記憶をグチャグチャにいじられて、人格そのものが不安定なのか。瀧千秋の部下はみんな、そういう状態なのか?
最悪だ。人間をなんとも思っていない。
やがて、ビデオが繋がる。
『やあ、藍沢テトラ――』
瀧千秋の声だ。
「正しくは、その人格のひとつだよ。瀧くん」
『――知ってるよ。酷い目に遭って、君の心はバラバラなんだろう? こんな醜い僕に愛されたばっかりに、本当に可哀想だね』
恍惚に満ちた声色だ。
『やっと――やっと、僕のほうをちゃんと見てくれたね? 藍沢テトラ――』
ずっと待ってたよ、僕の、僕だけの初恋の女の子。
――変態のサイコ野郎は、そう囁いた。
『これから準備して会いに行くね? それを済ませたら、日本にもう用はない。僕は消える。最初で最後のデートの申し込みだ』
「キミにちゃんとしたエスコートができるとは思えないけど?」
『大丈夫だよ? 安心してほしい。
ちゃんと怖がらせてあげるからね――。君はただ震えながら僕に助けを求めればいいんだ。勇敢で素敵な君をどうすれば跪かせることができるか、しっかり分かってる。この十四年間、そのことだけ考えてきたんだ。頭のなかは、君に対する残酷で嗜虐的な妄想でいっぱいだ。こんど、全部、現実の君に吐き出してあげるよ』
それが瀧千秋の言葉だった。
つまるところ、宣戦布告だった。
※※※※
瀧千秋と藍沢テトラが必要最低限の会話をしたあと、通話は切れた。キョウカは、その間、体ごと崩れ落ちてなにも考えることができなかった。
――あんなセンシュウ兄さんの声、初めて聞いた。
ずっと騙されていたんだ。ヒデアキの言ったとおりだった。利用されていたのは最初から私のほうだったんだ。
そうして、キョウカは思い出した。
小さい頃、親戚の集まりで初めて出会ったセンシュウ兄さんを。
すらりとした長身。眼鏡の奥の、爽やかな笑み。
十歳ほど年の離れた彼は、彼女にとって、初めて出会った「自分よりも物知りな大人」だった。
彼女の気難しい議論に冷静に耳を傾けてくれた。常に穏やかに彼女の主張を受け止めてくれた。
それも全て演技だったのだ。彼の心の底にあったのは、ただの暗黒だ。
「嘘だ――」
キョウカが呟くと同時に、聖里伽が立ち上がる。
「じゃあ、セリカはもう行くねえ。お店の人たち、みんな死んじゃってるからさあ、通報とかは勝手にどうぞ?」
「え――」
「だって、要らなかったし」
彼女があまりにあっさりと言うので、キョウカは、一瞬言葉の意味が分からなかった。
「――どうして?」と、それだけ訊いた。
「なにがあ?」
「どうしてそんなに、他人の命を軽く扱えるの?」
「なにそれえ?」
聖里伽は首を傾げる。
「他人の命を重く扱ったら、みんなセリカを重く扱ってくれるの?」
そして、ふっと、寂しそうな目をした。
「なんにも知らないキョウカに教えてあげるね。――虐げられる側でいたくないなら、この世界では、虐げる側に回るしかないんだよ」
だから、酷い仕事をいっぱいさせてくれるお兄ちゃんが大好きなの。これは本心だよ。
と、彼女は笑った。
――そんなの絶対に間違ってる、とキョウカは感じた。
「キョウカは、まだ生かしといてあげる。じゃあ、せいぜい大学で楽しく暮らしてね。
ああ、でも、もしヒデアキくんと久米島で会えなかったら、八つ当たりでゼミの連中もろとも全員切り刻んでやるから。ひとり残らず。
だって会えないなんて意地悪だもん、当然だよねえ?」
「――――」
キョウカはもう聖里伽に返事をする気も起きなかった。
私の知らないところで、こんなに簡単に人の命が奪われる世界がある。もう、どうすればいいか分からない。なにも考えたくなかった。
聖里伽は「頭、ぶっちゃってごめんね?」と、謎のタイミングで謝罪してから、すいっ、と、ドアのほうを向いてレンタルルームを出ていこうとした。
その瞬間だった。
「動かないで。動くと撃つよ」
第三者の女の声がした。聖里伽はモーションをストップさせる。
「ゆっくり手を挙げてキュルテンのナイフを捨てて。余計な真似をしたら撃つよ」
また声がした。聖里伽はその指示に従いながら、「なんで?」と言った。
「足音、聞こえなかったんだけど?」
「あたしの足音は誰にも聞こえない」
そして、声の主は「キョウカ、立って。歩いて。他の部屋やカウンターのほうは絶対に見ちゃダメ、ここから出ていって」と言った。
――味方?
キョウカは声のほうを向いた。銀髪のロングヘアの女の子。左手と首と右足に巻かれた包帯(たぶん本当に怪我をしているわけではない。そういうファッションだ)。
その手に持っている拳銃は、FNブローニングハイパワーモデルだ。実銃? あるいは改造ガン?
「――だ、誰っ?」
「アリス」
彼女は手短に答えた。そうしてアリスは、「もうすぐ通りに車が着く。そしたら、それに乗って。全部が終わるまで、キョウカのことはあたしたちが保護するから」
そう言った。
「待ってよお」と聖里伽は口を挟む。「別にこっちも、キョウカをこれ以上傷つける気はないんだよ? だってせっかく人質としていくらでも再利用できるんだし――」
彼女が言い終わる前に、アリスは発砲した。
弾丸が聖里伽の二の腕を貫く。パパパッ、と血が壁に飛び散った。
「許可なく無駄口を叩かないで」とアリスは言った。
――次はケツの穴増やすぞ、コラ。
その脅しに対して、聖里伽は痛みにうめいたりしない。おそらく、薬かなにかで痛覚を遮断しているのだろう。
アリスはくいくいと銃で指図した。「瀧千秋の部下、あなたも車に乗ってもらう。マンションであたしの仲間が待ってるよ。みんなあなたに恨みがある。せいぜいどんな目に遭うか楽しみにしててね」
「酷いよお」
聖里伽は、そう言ってヒ、ヒヒヒ――と笑った。
「なんで可哀想なセリカに意地悪するのお?」
「はあ?」
アリスは嘲笑した。
「自分が世界でいちばん不幸だとでも思ってるの? 調子に乗んな。こちとら、みーんな地獄なんか見飽きてていちいちビビってらんないのばっかだよ」
こうして。
タマキのプジョー5008が到着すると、キョウカはそれに乗って保護され、聖里伽も両手足を縛られたあと後部座席に乗せられた。アリスはそれを見送ってから、警察が現場に到着する前に日野を去る。
あとのことはマイヤーズミュージックの汚い連中に任せればいい。
「仇討ちはしたよ、トワ様」
そう呟いてから、アリスは街の陰に消えていった。
※※※※
次の瞬間、プジョー5008に大型トラックが横から突っ込んだ。
※※※※
瀧千秋の女、時雨はトラックから降りると、はあ、と息を吐いた。
――聖里伽は仕事を楽しみすぎる癖がありますね。だから、こういうなんでもないところで失敗しちゃうんですよ。ほんとに困ったものです。
真面目な凛とは大違い。
そうして、横転しているプジョー5008にゆっくりと近づいた。運転手のタマキは頭から血を流したまま気絶している。
助手席にいたキョウカは、命からがらという体で、ドアを開けて道路に転がっている。
――この子はどうでもいいでしょう。もともと生かしておいたほうが都合がいいという命令ですし。なんの脅威でもないから殺す必要もありません。
時雨は後部座席のドアを開けて、聖里伽を引きずり出した。
「大丈夫ですか? ポンコツさん」
「頭がぐるぐるするかなあ――?」
「本当に世話が焼けますね」
時雨は聖里伽の拘束を解く。「ここには長くいられませんし、さっさと逃げますよ。じきに沖縄行きです」
「了解~」
「凛の骨折も、ほぼ治りましたよ。まだテーピングは必要みたいですが、戦闘には問題なく使えます」
「いいね」
そうして、聖里伽はうっとりとした表情を浮かべる。
「ヒデアキくん、待っててねえ――ヒデアキくんは優しい男の子だもん、絶対にセリカの体をいっぱい幸せにしてくれるよね?」
※※※※
瀧千秋との通話を切ったあと、トリィはその場に崩れ落ちた。ヒデアキは慌てて彼女の体を抱き止める。
「大丈夫ですか!?」
「んん――まだモノオの反動が残ってる。無理しちゃったかな。ベッドに運んでくれると嬉しい」
「俺たちの居場所が相手にバレました。今から逃げる準備をしますか?」
「それは、あんまりグッドな作戦じゃないね」
ヒデアキにベッドまで運ばれながら、トリィは喋った。
――もし久米島に到着した瀧千秋が私たちを見つけられなかったら、そのときは、八つ当たりに島民を犠牲にするだろうね。最悪の場合、さっき解放したキョウカやその家族や友人も全員犠牲になるよ。
「――だから逃げる選択肢だけはありえない」
トリィはそう答えた。
「じゃあ、どうしますか?」
「迎え撃って、ここで決着をつけるしかない」
とトリィは言った。
「ヒデアキくん、ここは覚悟を決めよう。もともと狙われてるのは私たち藍沢テトラだけなんだ。責任は私たちにある。ほかに迷惑はかけられない。あいつらをここで止める。それはきっと他の誰にも任せられない」
「それじゃあ、トリィさんが危ないですよ」
「そうだね?」
――でも、他人を危険に晒すよりは自分を危険に晒すほうがマシだろう?
トリィはそう言った。
「ね、ヒデアキくん、私が思うに――」と彼女は言葉を繋いだ。「瀧千秋が黒幕として、あいつは私たちに拘る理由がきっとなにかあるんだ。そういう因縁は、こっちで断たなくちゃいけない」
だから、お願い。
これは、私たちの人生の精算なんだ。他人には任せられないよ。私たちテトラの問題なんだからさ。
ここで、恨みも、呪いも、全部晴らしてテトラは次のステージに旅立つ。その手助けをするために、私は、トリィは生まれてきたんだよ。ジーイも、モノオもね。
そう彼女は息も絶え絶えに言う。
「だから、ヒデアキくん、私たちを助けて」
「――はい」
「ね、大好きだよ」
とトリィは微笑んだ。
「ねえ、知ってるんだ。この旅が終わったら、私たちは消えてテトラとひとつになる。ジーイもモノオも、自分たちが消えることを察してる。ひとつに帰るんだ」
「はい」
「でも、この気持ちはキミに残っていてほしい」
私の気持ちを、テトラの気持ちのひとつってだけじゃなくて、ちゃんと『藍沢トリィ』の想いとして覚えていてほしい。もちろんジーイのことも、モノオのこともね。
私が消えても、キミがそれを覚えてくれていたら、私はたぶん、寂しくないからさ。
「分かりました」とヒデアキは答える。「俺は、トリィさんのことをずっと忘れません。永遠に、一生、ずっと覚えてます」
「――嬉しいね。少年。キミに会えてよかった。
こんなロクでもない世界でも、生まれてきてよかった。テトラに、感謝、だ、よね?」
そう呟いて、トリィは気絶した。
その身体を、ヒデアキはずっと抱きしめていた。
数日後、藍沢トリィは消滅した。
消滅? 違う。
あるべき場所に戻ったんだ。テトラさんの心に。
そうして、新曲が完成した。
どうしてこのタイミングなのかは誰にも分からない。
藍沢テトラの新曲『エヴリアリの群青』が、なぜ今ここで完成したのか――。
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