第12話 WHERE
※※※※
家主であるトワがまだ帰ってこない、浅草のタワーマンションの一室。
ニーニャはPCのサブディスプレイ数枚を睨みながら、マウスホイールを動かしていた。――画面には、柿ノ木キョウカの部屋が映されている。安価の監視カメラと盗聴器は彼女たち家族の留守を狙って、ミンミとビリーが取りつけたものだ。
ビリーは先日、
「こちとらトワ様に拾われる前は、殺し以外の悪事はだいたいやってるからね。空き巣の要領と同じでいいなら任せてよ」
そう言った。彼女の顔は憤怒に満ちていた。奴に報いを受けさせるためならなんでもやる、そういう表情だった。
――そんなの、あたしも同じ気分だよ、とニーニャは少し笑った。
モニターでは、柿ノ木キョウカが自室に帰ったあと、呆然とした表情のまま服を脱いでいく。たぶん部屋着に着替えるのだろう、と思って眺めているとミンミが後ろから、
「華奢だけどスタイルいいね~?」
と、オッサンみたいな軽口を叩いてくる。「この子、だいぶモテるんじゃない?」
「どうだろうねえ。アリスはどう思った?」
と、ニーニャはボイスチャットで訊いた。
アリスは大学生のふりをして、昼間ずっと柿ノ木キョウカを尾行する役だ。
「今日、友だちとケンカしてたよ」とスピーカーからアリスの音声がする。彼女はまだ外にいた。
「恋愛関係のトラブルっぽかった。全部は聞こえなかったけど、相手の好きな人をすごく酷い振りかたしたみたいな、そんな感じ?」
「ほ~お」とニーニャは言った。まあ、美人さんっぽいもんねえ。ちょっと気が強そうだけど、そういうのも今どきの男の子には人気なのかな?
「そこらへんの交友関係を漁ったら、瀧の野郎にもう少し早めに辿り着けるかもねえ。引き続きよろ~」
「任せて?」
アリスの声も暗い。「仇討ちだもん、ちゃんとやるよ」
「うぃ」
ニーニャはマウスを動かし、カメラの拡大率を変えてキョウカに接写する。不謹慎だけど、楽しくなってきた。
「さてさて、お嬢ちゃ~ん?」とニーニャは言う。「ちゃんと餌の役割やってくんなきゃ、お姉さん怒っちゃうぜえ~?」
そのキョウカは下着姿のままスマートフォンで誰かと話している。
――誰とだ?
キョウカの顔色が見る見るうちに変わっていく。そして、
《センシュウ兄さん!?》
と彼女は叫んだ。
――おいおい、いきなりビンゴってやつ?
キョウカは瀧千秋(らしき人物)と会話しながらデスクに走ってノートを開き、なにごとかを記録していた。罫線のない完全白紙型のノートに、マインドマップの形でメモするタイプらしい。
が、ホイールを動かしても文字までは見えなかった。
「くっそ、じれって~な~」
思わず愚痴る。
そのとき、マンションのドアが開いた。ハナコとタマキが夕ご飯の買い出しから帰ってきたみたいだ。
「どう? ニーニャ」
タマキはニーニャの後ろからモニターを覗く。「柿ノ木キョウカに動きはあった?」
「今まさに。誰かと話してる。センシュウ兄さんって呼んでたよ」
「――いよいよ一網打尽のチャンスかもね」
ニーニャは思わず「いやあ、そんなすぐには上手くいかないでしょ~?」と軽口を叩こうとしたが、キョウカは電話を切ったあと、血相を変えてまた外出用の服を着始めた。
また出かけるらしい。
「えええ――」とニーニャは言った。「もうガチじゃん」
そして、急いでアリスのイヤホンへ通話スイッチをオンにした。
「キョウカが移動するよ。顔がマジ。瀧千秋らしき人物と通話。なんか思い詰めてる。引き続き尾行よろ!」
「おっけー」
――作戦の話し合いで、尾行役はアリスのほうから名乗り出てきた。
「あたし、足音の小ささは自信あるよ。ちょっとでも家で音を立てたらママにぶたれたし。誰にも気づかれないと思う――ガチめにエスティント(※エスティント=やっと聞こえる程度の強さで、ごく弱くを意味する音楽用語)」
ビリーが口笛を吹く。
ミンミも頷いた。「アリスはあたしたちのなかでも小柄なほうだし、年下だから大学でもバレないね。お願いできる?」
アリスは「うん」と答えてから、部屋の隅で落ち込んでいるタマキの肩に両手を置いた。
「トワ様はみんなのトワ様だよ。ひとりで抱え込まないで。みんなで仕返ししよ?」
家族だもん――とアリスは笑った。
なんか、いちばん新人のアリスがそう言ったのが、ニーニャは嬉しかった。やっぱり、アヲイがマンションを訪れてから彼女は変わった気がする。いや、彼女だけじゃなくて、あたしたちみんなが。
家族。そう、家族なんだ。あたしたちは。
そして当然、家族の敵は全員の敵だ。トワ様の仇は、あたしたち六人みんなの敵だ。
ニーニャはアリスに尾行を任せたあとで、今度は沖田レインに電話をかける。
「レインさん、そっちはどう?」
「問題ないよ。いまホテル。ビデオ通話できるけど」
「じゃ、繋ぎますか」
映像をオンにすると、沖田レインが海人の黒いTシャツを着て、半ズボンを履き、扇子で顔をあおいでいた。サングラスに、麦わら帽子。
――いや、バリバリに沖縄観光楽しんじゃってるじゃん!
ニーニャは笑った。
「お、ウケたウケた」
と沖田レインも笑い、帽子を脱いだ。
「藍沢テトラは沖縄本島に到着してからいろいろ観光中。今は久米島でのんびりしてる感じだね。浜辺ヒデアキくんっていうウブで健気な男子大生とイチャイチャしてるよ。ねえ久米島って知ってる? 海めっちゃキレイだったよ!」
「ああ、もう、はいはい」
「というわけで、僕も今は久米島にいる」
ここは監視には最適の島だ。車で1時間以内に1周できるし、島の皆さんはみんな親切でコミュニティのネットワークも堅牢。
つまり、逃げ場はどこにもない。
「空港さえ見張っていれば、瀧の刺客もすぐ分かる。そっちは黒井サワコって知り合いに任せてるけど」
「ほお~?」
「――ここで確実に迎え撃ちたいからね。ヤツも、ヤツの味方も」
レインは真顔に戻った。
「たとえば、離島のボートを夜中にパクった観光客が不慮の事故で海に沈んだ――そんな事件が起きても誰も疑わないと思うよ?」
それを聞いてニーニャはゾクッとした。
レインさんはマジだ。マジで殺す気だ。
――この人は昔からそうだ。狂ってるのはトワ様のほうだけど、正気のままずっと隣に立っているレインさんのほうが怖い。
「――レインさん」とニーニャは言う。「キョウカのほうが本格的に動き出したよ。瀧千秋がもういちど色々おっ始めるかもね? 藍沢テトラから目を離さないほうがいいと思う」
「へえ――」
レインは狡猾に笑った。
「そりゃ面白い。いよいよリベンジ戦の始まりだ」
「勝つ算段はあるの?」
「――企業秘密かな?」
そうして、最低限の連絡を終えてレインは通話を切る。
レインは「終わったよ?」と言って、後ろに立っていた殺し屋に微笑んだ。
サラン、ジュンギ、クォンヌク、シオン。
全員黒服だった。――葬式のつもりかな?
「ペギンとスンハの仇は俺たちが討つ。あんたら日本人の助けを借りる気はない」
そんな風に彼らのリーダー、サランは静かに呟いた。うなじを刈り上げたベリーショートで、ハイライトの強いメイクにパープルのピアスを下げた女だ。
「あっはっは! これは頼もしいね!」
レインは大声で笑ってから立ち上がり、サランの手を固く握った。
「よろしく頼むよ。八木さんが引退したら、僕が次の《帝国》の王だからね?」
※※※※
その間。
沖縄の日々は、少なくとも浜辺ヒデアキにとっては、これまでの喧騒が全部ウソだったみたいに平和だった。
時間を遡って、三月中旬。
まず、彼は東京の病院で、トリィから相談を受けた。
これまでの事件は明らかに彼女を標的にしている。ほとぼりが冷めるまでは東京を離れたほうがいい――そういう話を音楽事業部本部長から受けたそうだ。
「本当なら」とトリィは言った。「私が狙われてるんだから、私だけ離れたほうがいい。キミを連れて行ったら巻き込むことになると思う」
「はい」
「それに、いつまで向こうにいるかは分からない。大学も休ませちゃうし、就職に響くかもしれない。そのあたりは会社のほうで助けてくれるらしいけどね」
トリィが言うには、ヒデアキの就職先が危うくなったときのために、企業のほうはテトラのマネージャ兼世話係、かつ事務という仕事を確約しているらしい――つまり、だから安心してテトラのそばにいろということだった。
「でも」とトリィは呟く。「それって、キミの人生ぜんぶ貰っちゃうみたいだろ?」
こんな、人格もバラバラで、復帰したばかりで成功できるかどうかも分からない歌手に、キミはずっと縛られるのかな。
トリィはそう言ってヒデアキを見つめた。
「俺は」とヒデアキは言う。「前にジーイさんに言ったんです。結婚したい、って」
「うん」とトリィは微笑む。「それはジーイの心から聞いたよ」
「えっと、その、だから」とヒデアキは口ごもって、そして言った。
「俺はもう、人生ぜんぶあなたに使うつもりですから、そんなこと気にしないでください。俺を連れて行きたいなら――そう言ってください」
そうして、トリィの手を握る。
「俺はいっしょに行きたいです。トリィさんと、ジーイさんと、テトラさんと。
それから、もちろんモノオさんとも」
ヒデアキがそう言うと、トリィはきょとんとしたまましばらく黙って、やがて、くすくすと笑った。
「――そっか。うん、分かった。じゃあ、言います。
いっしょに来てください。大好きなヒデアキくん」
それから、ヒデアキはまず大学に休学届を出した。
そして今のアパートも引き払い、家庭教師のアルバイトも頭を下げて辞めた。
いつ東京に帰れるか分からないなら、家賃を払うのはバカげていた。東京を発つまでは、マイヤーズミュージックが用意したホテルで暮らした。
(ちょうどそのころ、彼は学友のタエコと映画を見に行ったのだが、もうこの件について語る必要はないだろう)
そして、約束の日が来た。
3月21日(月)
春分の日だった。
待ち合わせの空港ロビーに立っていると、うしろからぎゅっと抱きしめられた。振り向くと、ジーイさんが笑っていた。
「ヒデアキくん、びっくりしてる?」
「しますよ、そりゃあ」
「えへへ。ごめんね?」
ジーイさんの荷物はかなり大きい。
ギターケースもある。そういえば、作曲はアコースティックギターでやるって言ってた気がする。長旅だし、音楽活動もするんだろうな。
ジーイはウェリントンタイプのサングラスをずらしてヒデアキを見つめると、「水着も買っちゃった――着いたらいっしょに泳ご?」と言った。
――水着。
えっ!? 水着!?
ヒデアキは、脳内で色々とアウトな情景が浮かぶ前に煩悩まみれの思考を全部シャットアウトだ! バカ! 俺のバカ!!
――落ち着けって。なんで動揺してるんだよ。テトラさんの裸はもう何回も見たろ? 今さら水着がどうしたんだよ。なに恥ずかしがってんだ俺は。
――いや、やっぱり水着は、なんかこう、意味が違くないか!?
ヒデアキは思わずジーイから目をそむけ、そのまま立っていた。
「? どうしたの? ヒデアキくん」とジーイが覗き込んでくる。「もしかして泳ぎ苦手とか?」
「いえ、全然そんな」
ヒデアキは上手く取り繕おうとして、「ただジーイさんの水着姿を想像して照れてしまって顔を直視できなかっただけですけど」
と言った。
沈黙。
――やば。つい本音が。
ジーイの顔が赤くなり、すぐにギターケースで脇腹を小突かれた。わりと数回。
「すみません! 違うんです!」
「――ヒデアキくんって前から思ってたけど、けっこう、すごいエッチだよね?」
「え、エッチだと、やっぱり、ダメですか?」
「んん」とジーイはむくれた。
「――全然エッチじゃないよりは、いいけど」
と彼女は言った。
会社が予約していたチケットを受け取り、荷物検査を受けてからゲートをくぐった。ジーイさんを連れて指定席に乗り込むと、彼女が音楽プレーヤーを渡してくる。
「え?」
ヒデアキがそちらのほうを向くと、もうジーイではなかった。
真っ黒な瞳。テトラさんだ。
「飛行機、好きなんだ。ちょっと怖いけど」
と彼女は言った。トリィさんよりも、ゆっくりと、そして実のある知識というよりも、感覚的な言葉を並べていく感じだ。顔を見なくたって、そこで区別できる。
「――どうしてです?」とヒデアキは訊く。
「――離陸すると――」
そう言ってテトラは手をかざす。「もう地上のことは関係なくなるの。なにも関係ない。そして、着陸までは、あたしたちはずっと自由」
ここによく似た場所を、あたしは知ってる。棺桶っていうんだ。空中と地下の違いはあるけど。
「棺桶に似てるから怖い、ってことですか」
「ううん」
テトラは笑う。
「棺桶とは違う。地上に降りたとき、別の人間に生まれ変わって、別の世界に降りちゃうんじゃないかって。それがちょっと怖いな」
「テトラさんは、テトラさんですよ」
ヒデアキは、いまテトラが言っていることは、トリィの映画の話に似ているなと思った。映画館は死の予行練習。そんな話をしていたっけ。
飛行機が動き出す。そして、少しずつスピードを上げて行った。鉄の翼が空気を受け止めて揚力に変え、ジェットの暴力を借りて空に旅立とうとする。
女声のアナウンスが流れた。シートベルトはしばらく着用不可欠だ。
テトラは「落ち着いたら、その曲を聴いてみて」と言いながらプレーヤーを指差す。
――旅立ちのときはいつも曲を聴くけど、今日はキミといっしょだから、ちゃんと選んだんだよ。
そうテトラは言った。
そうして、飛行機が空に浮かぶ。腰がフワリと浮いて、ヒデアキは、やっぱりこの感覚は慣れないと思った。こういうのは地元の徳島から上京したとき以来だ。
ちょっと縮こまる。
隣を見ると、テトラはシートに背を預けて目を閉じ、天使の光明を浴びるみたいに微笑んでいた。
――シートベルトのランプが消えてから、またアナウンスが流れる。沖縄までは長旅になるから、しばらくしてから子供向けの映画を機内で流すらしい。
ヒデアキは音楽プレーヤーを起動して、曲を流した。
John Lennonの「(Just Like)Starting Over」だった。
Our life together is so precious together
We have grown -- we have grown
Although our love is still special
Let’s take a chance and fly away somewhere alone
あたしたちの人生はすごく大切だよ。二人は成長した――成長したの。
この愛だって特別だけど、ねえ、博打を打ってどこか遠くに飛ぼうよ。
It’s been so long since we took the time
No-one is to blame
I know time flies so quickly
But when I see you darling
It’s like we both are falling in love again
It’ll be just like starting over -- starting over
ずいぶん時間をかけちゃったね。誰のせいでもないよ。
あたしは知ってる、時間ってものすごく早いんだって。
でも大好きなあなたを見つめて、まるでもういちど恋に落ちるみたい。
それは、新しい門出のときだから。
Everyday we used to make it love
Why can’t we be making love nice and easy
It’s time to spread our wings and fly
Don’t let another day go by my love
It’ll be just like starting over -- starting over
毎日あたしたちは愛を育んできたけれど、もっと素敵に、気安くなろうよ。
翼を広げて飛び立つとき、あたしの気持ちは無駄にならないで。
それは、新しい門出のときだから。
Why don’t we take off alone
Take a trip somewhere far, far away
We’ll be together, all alone again
Like we used to in the early days
Well, well, darling
二人だけで出発しよう。遠く、遠く離れたどこかを旅しよう。
あたしたちはいっしょだよ。またぜんぶ二人きり、初めて出会った頃みたいに。
ねえ、ダーリン。
It’s been so long since we took the time
No-one is to blame
I know time flies so quickly
But when I see you darling
It’s like we both are falling in love again
It’ll be just like starting over -- starting over
Look out.
ずいぶん時間をかけちゃったね。誰のせいでもないよ。
あたしは知ってる、時間ってものすごく早いんだって。
でも大好きなあなたを見つめて、まるでもういちど恋に落ちるみたい。
それは新しい門出のときだから。ねえ、見てごらん。
Our life together is so precious together
We have grown -- we have grown
Although our love is still special
Let’s take our chance and fly away somewhere…
Starting over
あたしたちの人生はすごく大切だよ。二人は成長した――成長したの。
この愛だって特別だけど、ねえ、博打を打ってどこか遠くに飛ぼうよ。
スターティング・オーバー。
うん、そうだな。とヒデアキは思った。
テトラさんの気持ちが、音楽といっしょに流れ込んでくるみたいだった。
東京はもう遠い。暴力と、喧噪と、爛れた性欲にまみれた街が。
――こうして二人の沖縄滞在が始まった。
※※※※
浜辺ヒデアキと藍沢テトラが那覇空港に降りると、「めんそーれ」の看板が見えた。ようこそ、を意味する沖縄弁らしい。
――沖縄弁と言っても、それは他の方言とは成り立ちが異なると言われている。
方言が、かつての関西圏や現在の関東圏を中心にした、標準的な言葉遣いから派生したものであるのに対して、沖縄弁はなによりもまず、かつて日本とは別にあった独立国家としての言語のノリが残っている、と。
テトラは看板を見上げて、何度も「めんそーれ……」「めんそーれ?」と言っていた。
そして顔をヒデアキのほうに戻して、「なんか、いいよね」と笑った。
「んー、はい」とヒデアキも曖昧に笑った。
そして空港に着いた二人は、マイヤーズミュージック沖縄支店の老夫婦に迎えられた。
「いやあ、パソコンで見たとおりの美人さんですな」と夫のほうが微笑んで、うやうやしく、テトラの両手を優しく握る。
そんな夫の手のひらを、奥さんのほうがピシャリとはねた。
「セクハラだよ、今の世の中だと」と、手短な注意だった。「で、そっちの男の子は誰?」
「は、はい」
ヒデアキは姿勢を直す。「会社の命令で来ました。テトラさんの運転手兼マネージャの浜辺ヒデアキです。徳島出身。W大学在籍です。よろしくお願いします――」
そうして深くお辞儀をして右手を差し出す。
それに対して、奥さんのほうが「おう」と、平手でパチンと応えてくれた。
彼女は夫のほうに「あんた、こっちの子には握手しな」と言う。
夫のほうが少し慌てて「――おうおう! ヒデアキくんな! よろしく!」とヒデアキの手を取る。
「車あるから、ホテルまで行こうか!」
スズキのジムニーXGの後部座席に乗って、ヒデアキとテトラは沖縄本島の大地を揺られていた。
なんだか、空が突き抜けるように青い。鳥が高く飛ぶためなのか。いや、海原に飛び込んで仰向けに波に揺られたときに、人々が泣けるためだろうか。
気質の違いのせいだろう、植物は太い幹を中心に幅広く葉を広げて、太陽の光を全身で浴びるかのようにどっしりと根を下ろしていた。
建物の並びすらも、本土とはノリが違っている、と思った。
「すげえ――!」
ヒデアキが目を輝かせていると、夫のほうがハンドルを切りながら笑う。
「坊やは、沖縄は初めてか?」
「え? はい! すごいです。メチャクチャ綺麗だなあって」
そう騒いでから、ヒデアキは、
「――って、ごめんなさい、なんか失礼ですよね」
と照れ笑いをする。
夫のほうの表情が少しだけ曇った。
「――なにが失礼なんだ? お前がここ褒めたんだろ? なにが失礼だ?」
助手席の奥さんが少し緊張する。テトラもそれを察して黙った。
――あとでテトラは知ったが、夫のほうには、第二次世界大戦における沖縄本土決戦での集団自決の記憶が血筋として残っているらしい。自分の生徒たちを集めて手榴弾で諸共自爆したのが、彼の叔母に当たる。
「えっと」とヒデアキが言った。「俺は観光客って立場で呑気に景色とか褒めてるけど、それって薄っぺらいなあって思って」
「ふうん?」
「だって、俺だって地元を『素朴でいいね』って褒められたら、『お前になにが分かるんだよ。めちゃくちゃ不便に決まってんだろ!』って思っちゃうよなあって――あ、俺、徳島なんですけど」
ヒデアキがそう答えると、夫のほうが、一瞬だけ虚を突かれたような表情をして、
「――そうか。そりゃなあ」
と言った。その返事に、奥さんのほうが胸を撫で下ろした。
沖縄のことを歴史の色眼鏡で見ないヒデアキに、老夫婦は安堵していた。
テトラもほっと息をつく。
――どんな土地にも、固有の怨恨がある。その情念と上手く付き合えないなら、そこには住めないという種類の呪いが。
そうして四人は那覇市付近にあるマイヤーズミュージック沖縄支店に進んだ。
奥さんのほうはちらっとテトラのほうを振り返り、「あの子、ただの付き人じゃねえんだろ?」という表情をした。
「ええ、まあ」
という表情をテトラも返す。――でも。
「今でも分からないんです。彼に自分の全てを委ねてしまいたいのか、それとも彼を飼い犬のように甘やかしてあげたいのか」
そう思った。
※※※※
那覇市。
マイヤーズミュージック沖縄支店に車が停まる。そこは本当に小さな事務所で、老夫婦によれば、話をするアーティストも本土在住の二~三人くらいだった。
というか「支店」だ。支社の屋号も貰っていない。
ここで国内の各拠点を整理すると、
東京本社、第一・第二・第三支社、札幌支社、名古屋支社、大阪支社、福岡支社、そして沖縄支店、になる。
駐車場から歩いてガラス戸を開けた夫のほうが、デスクに座ってThinkPadを起動する。
「お二人がしばらくここにいるってのは、八木くんから聞いてるがね」と彼は言った。「どこらへんに泊まりたいとか、どんな風に過ごしたいとかあるの?」
「ああ、えっと」
ヒデアキはテトラのほうを見る。
彼女は麦わら帽子にサングラス、赤のシンプルな半袖の丸襟にジーンズを合わせていて、見えている肌には丁寧に日焼け止めを塗っていた。
ぼーっとしている。
四月なのにこの気温の高さだ、慣れるには時間がかかるのだろうか。
そう思っていると、
「待ってね、みんなの意見を聞いてる」
そう彼女は言ってから、しばらく目を閉じて沈黙した。
奥さんのほうが冷たいサンピン茶を来客用テーブルに置く。
三分後、テトラは目を開けて、
「一週間くらいは本島にいたいかな。そのあとは静かな離島がいい。道場があるとこ」
そう、ゆっくりと言った。
老夫婦がじっとテトラを見る。夫のほうがノートPCから手を離す。
「八木くんの言ってたことは本当だったか」と呟いてから、「全員に出てきてもらうことはできるか? 無理ならいい。顔を見ておきたい」と冷たい目で言った。
いや、全員テトラさんなんだから顔はみんな同じだと思うけど――とヒデアキは思ったが、しかし、黙っていた。この人がそう言うなら、それがいったんここのルールだ。
「分かりました」とテトラは微笑んで、来客用の椅子にゆっくり座った。
もういちど目を瞑る。
まず、トリィが来た。――瞳が違った。
「――せっかくだから歴史資料館や博物館、美術館を見て回っておきたいね。それから世界遺産も」
次に、ジーイが来た。おろおろと周囲を見回してから、奥さんに促されて話し始める。
――ただし、ヒデアキのほうを見ながら。
「キレイな海で泳いでみたい、かな。あと、水族館も行ってみたいけど。あっ、おまじないみたいなスポットってありますか? 他は、おいしいものが食べられたら、いいですけど」
最後に、モノオの番なのだが――彼は顔を出さない。テトラがいったん目を開けて、 「すみません。四人目は出てきたくないそうです」 と申し訳なさそうに言った。 夫のほうはそれを聞いて、少し悲しそうに「そうか」と呟いた。
ヒデアキは、
「モノオさん、俺はモノオさんと話したいですよ」と言った。
「ヒデアキくん?」と、テトラは呆気に取られる。
「しばらく俺たち、ここで暮らすしかないんです。強引かもしれないし、迷惑かもしれないですけど、俺は、モノオさんとも仲良くなりたいって思ってます。――だから、まあ、出てきてくれないと寂しいですけど」
「ああ? うるせえガキだな?」
テトラの口調が急に変わる。
いや、テトラさんじゃない――モノオさんに変わっていた。
「道場のことを言い出したのはオレだよ。文句あんのか?」
そう言って彼は立ち上がった。
「こんなクソみてえな田舎に連れてきやがって。なにが面白えんだ。それもこれもヒデアキ! てめえの余計なお節介のせいだってのを忘れんなよ!!」
「――はい」
「――クソ」
モノオは乱暴に椅子に座り直し、足を組んだ。ぎこぎこと体ごと揺する。
「レズ風俗とかねえのかよ? オレは身体が女だから、そこでしか発散できねえぞ?」
あまりの変貌に、奥さんはピンと緊張姿勢を保ったままだった。
夫のほうは苦笑する。
「テトラさんに相談して、オーケーなら地図を送ってやる」
「――話の分かるジジイだな」
とモノオは笑い、セブンスターを咥えた。それからヒデアキを見て「おい」と言う。
「お前、テトラの付き人で来たんだろ? 火よこせ」
「えー、はい」
点火。
モノオは景気よく吸い込み、事務所のなかに煙を吐き出す。
「道場は、指定の日を貸し切りにしてくれ。道着も買いたい」
それから彼はヒデアキを見た。
「お前、美術館でもホテルでもなんにもできなくて、自分のことをどう思った?」
「――それは」
「オレのことをトリィが抑え続けてたら、お前、ホテルで死んでたぜ? まあ、トリィが取り乱してくれたからよかった。美術館でお前が傷ついたのを思い出して動揺しちまったみたいだな。だから、オレも久しぶりに暴れられたけど」
それから、心底不機嫌そうにモノオは灰皿にセブンスターを押しつけた。こんなことオレだってやりたくないんだという表情だ。
「――テトラを守りたいなら、ちょっとは強くなれよ。オレがゼロから鍛え直してやる」
そう彼は言った。
「少なくとも、オレの三割程度になってくんなきゃ安心して任せらんねえ」
ヒデアキはその言葉を聞いて、少しだけ、ほんの少しだけモノオが自分に心を開いてくれているのを感じた。
「――お願いします。俺を強くしてください」
※※※※
で。
沖縄本島での滞在は二週間ほどになった。最初にレンタカーショップに行き、トリィの気に入ったSUVのハンドルをヒデアキが握った。
まず、トリィが行きたい世界遺産を全て見て回るのに二日以上かかった。首里城、今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、識名園、斎場御嶽、玉陵、園比屋武御嶽石門――。
そして、歴史資料館・博物館・美術館を見て回る。それぞれの資料館や博物館は、どれも同じ歴史を教えてくれた。
沖縄の、かつて独立国家だった琉球王国としての歴史。そして中国に支配され、やがて日本に服従するまでの歴史。第二次世界大戦における米国軍との本土決戦と占領を経て、再び日本に返還されるまでの、長い歴史だ。
なんだろう、と、ヒデアキは思った。
――彼は中学生のころを思い出した。
思想の強い社会科教師が、アウシュヴィッツ強制収容所の映像を見せてきた。元々はNHKの番組らしいが、そこでは、人間がゴミのように扱われていた証拠がフィルムに全て残っていた。
教師は言った。「気分が悪くなったら、もちろん、教室を出ていってもいい。本当はこういう歴史をぼくも教えたいわけじゃないよ。もし、人類の歴史が暖かくて穏やかなものばかりだったらね。でも、教師として教える義務があると思ったから見せるんだ。保健室の先生には伝えてあるから、無理だったらちゃんと手を挙げてください」
結局のところ、途中で泣き出して出ていったのは女子生徒ひとりだけだった。他の生徒はなにもシリアスに受け止めなかった。
ヒデアキも当時は同じだった。
「俺の母さんが死んだときのほうがショックだった。だってこんな映像、ただの歴史じゃないか。でも、俺の母さんは歴史なんかじゃないんだ」
そう思っていた。
そんなヒデアキでも、今、沖縄の歴史を見ながらウッと胸の詰まるものがあった。
――平和祈念資料館のとある大部屋には、かつて戦争で犠牲になった子供たちの写真が、びっしりと壁一面へと貼り付けられていた。まるで遺影の群れだ。
「――――」
ヒデアキはなにも言えない。
トリィはそれを黙って眺めていた、が、ようやく口を開いて、
「暴力は、いつも理不尽に、そして唐突に人間から幸福を奪う」
と言った。そうして写真のひとつを、いたましい様子で指さした。喜屋武ミヤコという名前だった。
「この子は十四歳という若さで、投降を拒否してアメリカ兵に撃ち殺されている。将来の夢もあっただろうし、好きな人もいたかもしれない。それが、あるとき、彼女にはどうしようもない事情による銃弾で奪われた」
そういう悲劇をどう受け止めればいいのだろうか。その人が、その人としての人生を全うできなかったという事実に。
トリィはそう言うと、すっと、両瞳から涙を流した。
ヒデアキは、
――まずい、と思った。トリィさんは、今たぶん全てを受け止めすぎている。
慌てて彼女の手を握って、
「でも、トリィさん、ここにあるのは全部むかしの戦争で、ぜんぶ終わったことですよ? 俺たちとは、もう、なんの関係もないことなんです」
と言った。
トリィはヒデアキを見て、「――そうだね」と呟く。
そうして、深く息を吐いて、
「この世界には、深く刻まれた傷が多すぎて、その全てが癒えることは永遠にないんだ」
と言った。
国立新美術館のときとは違う。トリィさんは、明らかに目の前の展示物に没入してしまっている。どうしてだろう――犠牲者がかつての自分と同じ、十四歳の子供だったからだろうか。
「私はそういうとき、ちょっと暗い気持ちになる」
「――はい」
「ごめんね。――もうここは出ようか。感傷に浸りすぎるのも死者に失礼だし」
自然とトリィは手を伸ばしてきたので、ヒデアキはそれを握って歩き始めた。
彼女はこんな場所に来て自分が傷つくことを予想できなかったのだろうか? いや、きっと分かっていて、それでも必要だと思って来たんだろう。
そういう人だ、そういう人たちだ。
――世界全部の傷つきなんて、俺なんかに分かるかよ。
ヒデアキは資料館を出る。
――俺はテトラさんの傷だけで精一杯なのに、テトラさんは、というか、テトラさんのなかの皆は、もっと遠いところを見ているんだ。
クリエイターって、そういう人たちだ、と彼は思った。
で。
トリィが色んなものを見て回る期間中、食事をするときだけはジーイになった。
――ゴーヤーチャンプルー、タコライス、ニンジンシリシリ、ソーキソバ、ラフテー。
八重山そば、ソーミンチャンプルー。ジーマーミ豆腐。テビチ、アンダンス―、ミミガー、ヒージャー。海ぶどう、グルクン唐揚げ。ちんすこう、サーターアンダギー、チンピン。
サンピン茶とシークワーサージュース。
ジーイは顔を火照らせて「おいしい~!」と言った。
あと、ほっぺたおちる~! も言った。
それ言う人マジでいるんだ、とヒデアキは思った。
特にシークワーサージュースはホテルのロビーでも好きなだけ飲めるので、ジーイは「もう一杯だけ! もう一杯だけ!」と紙コップをサーバに差し出していた。
それから、美ら海水族館のガラス張りになっている大きな壁の前ではしゃいで、売店でかわいいグッズを買うジーイだった。
色んな料理店で食べ終えたあと、お店の支払いをジーイはだいたいクレジットカードで済ませていたが、ときどき、「すみませんね、うちは現金だけなんです」というお店があって、
「あ、えっと、はい」
と言ってジーイはグッチの財布からピン札を抜いてそのまま出した。
「えへへ、ヒデアキくんにごちそうしちゃった!」
「ははは――」
笑うしかない。
「それにしても」とヒデアキは、車までの夜道を歩きながら訊いた。「けっこうブランドもののバッグとか、お財布とか持ってますよね? 好きなんですか?」
「あ、ええとね――」とジーイは笑う。「ハジメさんが毎年買ってくれるの。で、捨てるのもったいないし使ってるだけだよ?」
「え、へえ――」
「ブランドとか、よく分かんないもん。あたしは全部無印良品でいいくらいなんだけど」
そう言いながら、ジーイはサンダルの底をケッタケッタ鳴らして歩いた。
ヒデアキは思う。やっぱりハジメさん、ここ最近までずっとテトラさんのこと好きだったんだろうな。じゃなきゃそんなことしない、って――。
微妙な劣等感と不思議な気持ちが同時に押し寄せる。なんでテトラさんって、ハジメさんじゃなくて俺のことがいいのかな。
いや、だって、俺が女だったら普通にハジメさん一択じゃん。俺にはなんにもないよ。テトラさんへの気持ちじゃ誰にも負けないって、なんでもやれるって、そういう気持ちしか俺にはない。
そんなヒデアキの感情を知らず、ジーイは「ねえ、見てみて」と夜空を指さした。
星々の光がプラネタリウムと同じくらいの解像度で輝いていた。どれがどの星座の星なのか、調べたらきっとすぐに分かるだろう。
「すごい」とジーイは言った。「こんなの東京じゃ見れない」
「ですね」とヒデアキも言う。
「空気が綺麗だからかな」とジーイは言って、「や、街の明かりが少ないからなのかな?」と首をかしげた。
ははは。
空の美しさは空のものじゃなくて、それに感動する人間の心だった。
「ジーイさんの気持ちが綺麗だからじゃないですか?」
そう思ったけど、不器用な自分には似合わないから言わない。
ヒデアキはただ、
「ホテルに帰ったら、この星空を見ながらお酒でも飲みませんか? 俺、いい星座アプリ知ってるんです。カメラで撮ったらどんな神話なのか教えてくれますよ」
と言った。
「うん! それいいね!」
とジーイは無邪気に笑う。「泡盛も買ったもんね、それ二人で飲みながら話そ?」
「はい」
そうして、ヒデアキはジーイを後ろから抱きしめる。
「えっ、もう――」
ジーイさんが照れているけど、ヒデアキにはもう関係なかった。
――俺、この人たちのことが好きだ。ものすごく好きだ。理性なんか1ミリも制御できるもんか。
「今、俺はめちゃくちゃしたいです――まずは星座の話からですけど」
「うん――」
ジーイは赤い顔のままでヒデアキに振り向く。
――こうして二人が出会ったのが、エヴリアリの物語だったわけだ。
※※※※
エヴリアリ。
それは、現代音楽家のヤニス・クセナキスによるピアノ独奏曲である。以下、引用。
「1973年に作曲され、アメリカ合衆国のリンカーンセンターでマリー・フランソワーズ・ビュケによって初演され、演奏家や聴衆の激しい賛否両論を招いた問題作となった。
全曲に渡って16分音符のパルスで統一されている。
樹形図を用いて蛇のように長い線的構造を算出するため、(クセナキスの)従来の作風よりもはるかに「旋律」的な作品に仕上がった」
そのタイトルは、公海とメドゥーサの二つを同時に意味するとも、あるいは単純にメドゥーサの姉エウリュアレを意味するとも伝えられている。
海。女神。男性を虜にして石にする邪悪な怪物。
――テトラは海を見ながら、少しずつ曲の構想を固めていった。
途中で、テトラとヒデアキは離島に移った。宮古島、石垣島、そして久米島――。
それぞれの島に固有の文化の残り香があり、そういうときはトリィが顔を出した。たとえば、街のなかに人頭税石を見つけた。身長がその石を超えたら納税しなければならないという石だ。
「すごいね」とトリィは言った。「生々しいよ。私がこの石を越したときは何歳だったのかとか、考えてしまうね」
そうして、ジーイは水着に着替えて海に出た。まるで人魚のドレスみたいだ、とヒデアキは思った。草花模様のトップスは肩を出しつつちゃんと袖まであり、セパレートのスカートがひらめく。
――グラビアアイドルっぽい水着とか妄想していたことはなかったことにします。ごめんなさい。
「ヒデアキくんもおいで」と彼女は言う。
彼のほうは、ただハーフパンツ型の黒の水着に、白のTシャツを合わせただけだった。
「サンダル、脱いじゃだめですよ」
と言ってジーイに追いつく。
沖縄の海は、サンゴ礁の残骸や貝殻のかけらが多くて、裸足で泳ぐのはちょっと危ない。
「うん」とジーイは悪戯に笑ってから、水をばしゃっとヒデアキにかけた。
「うわ! そんなんお返ししますよ!」
ヒデアキも水を返す。
日焼け止めがなくなりそうになると、ビーチに戻って、彼女の体に丁寧にクリームを塗った。
水着のホックの部分が面倒くさくて、ヒデアキはそれを外してから、彼女の背中を白いクリームの手で撫でた。
「お魚さん、たくさんいたよねえ」とジーイは言った。
「はい」
「潜ってて目を開けたら、すごい大きいのがいてちょっと怖かったよ。ね?」
「はは」
「――ヒデアキくん、緊張してない?」
「どうして?」
「――あたしの身体、好きにしてるから」
ジーイはそう言って、ちょっと笑いながらヒデアキのほうを振り返る。
「ジーイさん」とヒデアキは苦笑いする。「俺のこと、エッチって言いましたけど、ジーイさんもけっこう誘惑しますよね?」
「え? してないよ」
「してます。すげえしてる」
「してないってば。え、なんでそんなこと言うの?」
「あ、動かないでください。ちゃんと塗れないから」
「もおお、だってしてないもん誘惑とか。してない」
「じゃあ無意識なんだ?」
「えー、違うよ。――あ、トリィは、誘惑してるかも?」
「はいはい、人のせいにしないで。みんなエロいですよ」
「え~」
そうして二人で無人の海に入って、波に揺られながらキスをした。押しては返す水の勢いを感じながら、ジーイとヒデアキは腰のあたりまで海に沈んだ状態で、何度も抱き合って唇を重ねた。
――もどかしい、とヒデアキは思ってしまう。早くホテルに戻って愛し合いたい。こう思うのは不純なのだろうか。
沖縄の海水は、日本本土のそれよりも塩分が強い。テトラさんの肌は、大丈夫かな。真っ白で、人より弱そうだから少し気になってしまう。
海辺の近くにはシャワールームがある。そこで洗い流そう。
――鍵はかけられるのかな?
「ジーイ」とヒデアキは言った。「ごめん、好きすぎて我慢できない。いい?」
「――うん」
ジーイは真っ赤な顔で頷いてから、少し微笑んだ。
「ヒデアキくん、エッチの前は敬語忘れちゃうの、可愛くて好きだよ?」
久米島では、今までと違い、ホテルを二部屋取った。それまでは一つの部屋で、トリィさんの講義を聞くか、ジーイさんと甘いものを食べるか、あるいは、ベッドのなかで体をいじり合った。
――テトラさんは部屋に機材を持ち込んで、
「新曲をつくりたいの」
と言った。「だから、一人の時間がほしい」
「え――」
ヒデアキは最初の数秒だけ戸惑ってから、そうだ、クリエイターと恋愛するってこういうことだ、と思い直して頷いた。
彼女を愛するということのなかに、彼女に寄り添うだけじゃなくて、彼女を独りにしておくことも含まれている。
「俺、そのあいだどうしましょう?」
ヒデアキがそう言うと、テトラは笑った。
「じゃあ、はいこれ」
そうして手渡されたのが、なかなか高価なアコースティックギターの、Martinの000-28だった。
「キミも、なにか弾けるようになってみてほしいな」
「え――」
こうして、ヒデアキは思いがけずギターを練習するようになった。久米島のホテルで、テトラが作曲する間だけのことだ。
歴史的な建築物に感動するトリィの時間や、美味しい食べ物を頬張ったり、海で遊ぶジーイの時間を除けば、テトラさんはずっとぼーっと景色を眺めて歩いているだけだった。
隣のヒデアキのことも構わず、
「待って」
と言ってスマホを手に取ると、録音アプリを起動して唐突に鼻歌で歌い始めたりした。
周囲に人がいるかどうかは関係なかった。だから、テトラが歌い終わってアプリを止めると、ちょうどそこを通りがかった人たちが拍手したり、口笛を吹いたりした。
テトラは深くお辞儀をする。
――俺たち、ヤバい犯人から逃げて隠れるために沖縄に来たのに目立っていいのかな、とヒデアキは思ったけれど、それは口にしなかった。四角四面にルールを守っていたら、それこそ息が詰まってしまう。
「なんていうか、曲のアイデアとか溜めてるんですか」
「うん」
ヒデアキの問いにテトラは静かに頷いた。
「思いついたこと、1秒も逃したくないから」
「へえ――」
ヒデアキはテトラの美しい横顔と、素朴な久米島の風景のコントラストを感じる。
「テトラさんが作曲してるところ、俺、同じ部屋で見ててもいいですか? 邪魔はしないです。ちょっと気になって」
「――面白い提案だね? でも、もちろんいいよ」
夕方、だが、作曲作業は難行していた。
テトラは頭を抱えて、昼間に録音した歌を再生してはデータ削除を繰り返す。
「だめ、ありきたり」
削除。
「流行りに媚びすぎてる」
削除。
「こっちは古いノリに任せすぎ」
削除。
「あー、全然ダメ」
削除。
「これ歌ってたときのあたしブチのめしたい」
削除。
「ちょっと良いって思ったけど、よく考えたらこのフレーズってYesのClose To The Edgeだった」
削除。
「ああもう、きっと沖縄って場所が悪いんだよ。ぜんぶ沖縄のせい」
削除。
「お前才能ないんだからもうやめろー、ばか」
削除。
「ていうか自分の歌のための作曲なんて十年以上ぶりだもん」
削除。
「――なにが良い曲で、なにが悪い曲なのか分からなくなってきた」
削除。
「大学出ときゃよかった、って、よく考えたらあたし高校も出てないし」
削除。
テトラはしばらく椅子の背もたれに体を預けたあと、不意に立ち上がり、
「ちょっと風に当たってくる」
と言った。
ヒデアキは黙ってついていく。
夜の久米島はずっと静かだった。ヒデアキは決して話しかけない。テトラの頭のなかではぐるぐると作曲のための思考が渦巻いているはずだ。それを邪魔しちゃいけないと思った。
「――星座」とテトラは言った。
ヒデアキは後ろから彼女を見つめる。
「――ヒデアキと出会ったから、あたしは今、ここにいる」
「はい」
「全部偶然。あたしがあの日、ヒデアキくんに拾われなきゃ、こんなことにならなかった。たとえば、ヒデアキくんを好きな女の子が大学とかにいるとして――」
「いないですよ」
「黙って聞いて。――いるとして、その子と上手くいっていたら、やっぱり、あたしたちってこんなことにならなかった」
そうして、テトラは星空を見上げた。その視線が、ジーイさんとは違った。トリィさんが資料館で遺影の群れを見つめていたときとも違うと思う。
ただ全てを受け止めるのではなくて、残酷に切り分けて自分の糧になるものだけを探り当てようとする、本当の創作者の目だった。
「――エヴリアリ」
とテトラは言った。
「曲のタイトルは、『エヴリアリの群青』にするよ」
テトラはそう言うと、やっとヒデアキのほうを見た。
※※※※
タイトルは決まったものの、制作作業は難行したままだった。
藍沢テトラの、1日に吸うタバコの本数が少しずつ増えていく。
「ちょっと泳いで頭冷やしてみる」
と言ってホテル中庭のプールによく行くようになった。ヒデアキはプールの隅に浸かってそれを見守っていた。彼女が部屋に戻ると、
自分も自分の部屋に入ってギターの練習をする。持参のノートPCを立ち上げて、ユーチューバーのギター講座を眺めながら弦に触れた。
――テトラは外食に出るのも億劫がるようになった。ホテルの食事か、ヒデアキが買ってきた弁当で済ませてしまう。
うーん、と思って、ヒデアキは彼女の部屋に入った。
「テトラさん、あの、俺ちょっと外で――」
「うるさい! 黙れ!!」
怒鳴り声。
テトラは机に突っ伏して、頭を抱えながら、ひとつの音も生み出せていなかった。アイデア用のノートはぐしゃぐしゃだ。
途中まで書いて破り捨てた紙キレも床に転がっている。灰皿は吸いかけのタバコでいっぱいだった。
――すぐに彼女は我に返った。
「あ、ごめ、ごめん、ヒデアキくん――おっきな声出しちゃって――」
「――――」
ヒデアキはすぐに気を取り直し、
「俺、ちょっと外に買い物に行ってきます。なにかあったら電話で呼んでください。――それだけ伝えたくて。邪魔してすみませんでした」
そう言ってホテルから出た。
後ろから「あ、あのヒデアキくん――ごめん、ほんとごめんね? ごめんなさい」というテトラの声が聞こえたから、振り返ってちょっとだけ笑顔を見せた。
「大丈夫です。テトラさんが音楽に本気なこと、俺、ちゃんと分かっていたいんで」
これは本当だ。
地元のスーパーに出ると、ネットで調べたレシピどおりの食材を、とりあえず失敗のケースを見越して五人分ほど買ってみた。
直販の農産物もあって「すげー」って感じだった。
そうだ、時間はたっぷりあるんだ。
だったら、ひとつひとつ、俺がテトラさんのためにできることを増やしていこう。
そこでヒデアキが思い出したのは、テトラの自宅の、ほとんど使われていないキッチンだ。たぶんテトラさんは料理をしない人だろう。だったら、俺がつくってあげたい。
――自分ひとりの自炊だと、そんなにレパートリーを増やす気にならないんだよな。どうせ自分しか食わないし、自分の体のことはけっこうどうでもいいし。
ヒデアキは、ジーイが美味しそうに沖縄料理を頬張っていたことを思い出す。
「俺もつくりますか。まずはゴーヤーチャンプルー!」
男は料理が上手いと婚期を逃すという言葉があるけれど、あれはどうなんだろう。
でも、俺はテトラさんと結婚したいんだから、一般論は関係ない。
俺は俺の気持ちでしか生きたくない。
「おー」と、レジ打ちのおばちゃんが笑った。「最近ずっとここにいるね? 海とか」
「ええ、まあ」
「この買い物なに? 自分でつくってみるの?」
「はい」とヒデアキは笑った。「ここの料理めちゃくちゃ美味しかったんで、帰る前には形だけでもつくれるようになってみたいんですよね」
「へ~え」
おばちゃんは目を柔らかく細めた。
「お兄ちゃんがわざわざつくるんじゃなくて、いつもいっしょに歩いてる、あの美人さんにつくってもらえばいいのに。分かってるって、姉さん女房との新婚旅行なんだろ?」
そうおばちゃんは言ったが、ヒデアキはそれについては笑って誤魔化して済ました。
――あの人はもっとすごいものをつくるんですよ。あの人の音楽は人生を変えるんです。
でも、それは言わない。
そうしてホテルに帰り、キッチン備え付けの調理器具を取り出した。
――いっぽうのテトラは、ヒデアキに怒鳴ってしまったショックで、なにも手につかなかった。お気に入りの音楽をノートPCで再生して、終わると、もういちど再生する。そうすればアイデアが湧いてくるかもしれないし――と言い訳しながら、
本当は、なにも考えていない。自分がデビューした十四歳の頃、どんな風に曲をつくっていたか、もう体が覚えていないのかもしれない。あのときはただ色んなものが洪水みたいに降ってきて、それを捕まえればよかったんだけど。
今はどれだけ追いかけても、捉えきれない波にじわじわと体力を奪われているみたいだ。
――と、
ドアをノックする音が聞こえた。机に張り付いていた体を起こして部屋を開けると、ヒデアキがそこに立っていた。
あ、だめだ。なんか無性に泣きそうになる、と思った。
「あたし――」とテトラは言った。「昼間はイライラしちゃって、怒鳴っちゃって、ごめんなさい。本当にごめんね。も、もうしないから――」
「え、はい」
「許してほしい――です」
ああ。
愛している、と自分の心で思った。
トリィのときの気持ちも、ジーイのときの気持ちも、テトラのなかに流れ込んで、今はただ怒られるのが怖くて、呆れられるのが不安で、だから、目の前の人が、大好きだ。
「嫌わないで――ください」
そう言えたあと、結局はポロポロと泣いてしまった。
テトラの状態で泣いたのは、久しぶりだったと思う。
もっと昔は、恐れることも悲しむことも全部ジーイに押しつけてきたのだ。なのに、今はテトラのままで泣ける。
だんだんと、自分たちの人格が混ざり合っていくのを感じた。
――もしかしたら沖縄のこの旅で、みんな、自分のところに帰ってきて消えてしまうのかもしれないと思った。
ヒデアキはゆっくりテトラを抱きしめると、
「俺はぜんぜん気にしてません。でも、ちゃんと謝ってくれるのを聞けなくて、勝手にいなくなってて、すみませんでした」
そう言うと、
「俺の部屋に来てみません? 美味しい夕食、用意してますから」
と微笑んだ。
「え?」とテトラは瞼を指ですくいながら、ちょっとびっくりする。「ヒデアキくんの部屋にごはんあるの?」
「俺がつくったんで、食べてください。ちょっと苦いのなくして、甘めの味つけにしてみました。――気に入ると思って」
テトラはひとくち食べて、「おいしい」と思った。
「うん、これ、すごくおいしい」
「よかったです!」
「これ、あたしに食べさせたくて外に出てたの?」
「はい。――ああ、お酒もどうぞ」
「ヒデアキくん、本当に怒ってない? そういうのはちゃんと言ってね?」
「テトラさんがなにしたって、俺は怒んないですよ」
「――なんで?」
「え? そんなの大好きだからじゃないですか」
「――そ、そう」
テトラは泡盛を飲んで、顔の火照りを誤魔化した。
この子、ちょっと無自覚にぐいぐい来るところがある。だけど、その勢いに負けて、いつの間にか音楽活動の復帰までして、気がついたらこんなところにいるあたしもあたしだなあ、と思った。
参ったなあ。
思えば、テトラは、トリィやジーイのときにしかヒデアキとセックスしたことがない。わざと避けていたわけではない。とはいえ、テトラである自分自身のときに彼に抱かれてしまったら、彼をどんな風に想うようになるのか、怖かった。
もっと彼に依存してしまって、そんなとき、彼に愛想を尽かされてしまうのが不安でたまらない。
そうならないって保証が――ずっと彼がそばにいてくれるって保証が欲しい。
――ヒデアキくんはきっとこう言うのだろう。「不安に思うのは俺のほうですよ、だってテトラさんは凄い人だから」
違うよ。違うんだ。
あたしのほうが、不安なんだよ。
あたしのほうが、本当はなにも持ってない。
音楽しかないんだよ。
今は、その音楽さえおぼつかない。
ヒデアキくんに、あたしが、縋ってるんだ。
キミが優しいから、甘えちゃってるんだよ。
――食後、二人で皿洗いをしながら、テトラは「今日はもう作曲の作業は休もうかな」と言った。
「それもいいですね」とヒデアキは言う。「休憩だって仕事って言いますし」
テトラは、ほんの少しだけアレを言う勇気が出そうになって、でも言えなくて、
「じゃあ、テレビで映画でも見ようよ」と笑った。
本当はしてみたいんだけど、ヒデアキくんはこういうのを断ってまで抱きしめてくる子じゃないって知ってる。
そういうのも含めて、可愛い子だな、って思っちゃってる。
ちなみに見た映画は『ディナーラッシュ』だった。いちばん好きな映画は『オールドボーイ』だけど――十五年間監禁されていた男が復讐を誓うアクション映画だ――気軽に見れるサスペンス映画をチョイスしてみた。
恋愛モノでもあり、仕事モノでもあり、バイオレンスたっぷりのサスペンスでもある、そういう贅沢さが良いと思う。
こうしてテトラの作曲作業は一向に進まないまま、モノオのために指定貸し切りにされた道場の日がやってきた。
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