第11話 ALTER


  ※※※※


「こんな物騒なご時世で、よく呑気に音楽なんかやってられるな?」

 通りすがりの老人がそんな風に吐き捨ててきた。

 ギターケースを抱えたモモコは思わず振り返る。となりにいた勅使河原リンネが「なんスかあいつ! 感じ悪うっ!」と憤り、それを九条ヱチカが「まあまあ、変な人はどこにでもいるから」となだめていた。

 モモコは唇を噛んだ。芸能人が巻き込まれた横浜の事件以来、ライブハウスは一斉に自粛ムードになってアマチュアバンドの演奏を受けつけなくなっていた。表参道のステージもそれで中止になった。

 次のザ・ウォールも危ういらしい。

「もう動画配信で頑張るしかないスね~!」とリンネは言っているが、それ以上の息苦しさをモモコは抱えていた。

 私たちがやりたいことって、要らないことなの?

 急がなくていいことなの?


  ※※※※


 浜辺ヒデアキは、しばらく大学を休むことにした。

 あの日、ホテルの廊下で倒れた藍沢テトラは、そのまま救急車で病院に運ばれた。彼もついていった。そして、彼女が個室のベッドで目覚めるまで、ずっとパイプ椅子に座ってそばにいた。

 医者の診断によるとストレス性の気絶で、しばらくすれば目が覚めると言われた。

 その説明を聞いたのは彼だけではなく、途中から病室の入り口と病院玄関を固めていた何人かのスタッフも医者の話に頷いていた。マイヤーズミュージックの職員だ。

 ――護衛だな、とヒデアキは思った。

 そりゃそうだ、テトラさんが被害に遭うのはこれで二度目だ。テレビやネットでも、犯人は無差別な事件に紛れて最初から芸能人狙いだったという説が流れているらしい。もしかしたらあるいは――と思うのは当たり前だった。

 それに、テトラさんの場合は、十年以上前に既に暴力事件の被害に遭ったこともある。それが、今回の事件と関係あるかはどうかはともかく。

「はぁ――」

 ヒデアキが疲労を吐き出しながら背もたれに体重をかけていると、個室の引き戸が開いて――川原ユーヒチが入ってきた。

「ああ、はじめまして」とユーヒチは言う。

 短く切り揃えられた黒髪。目鼻立ちの整った顔。そして左右非対称の虹彩。身長はヒデアキと同じくらい。「――いや、前に会った?」

「事件の前に、横浜のバーの前にクルマ停めてたでしょ?」とヒデアキは言った。「あのとき、ちょっとだけ顔を合わせましたよ」

「ああ、うん」

 ユーヒチは見舞いの品を置いて、壁に背を預けた。

「テトラさんのそばにいるの?」

「ええ、そうするつもりですが」

「――敬語、やめないか? 同い年だし」

 ヒデアキはユーヒチと目を合わせた。彼は、病院そのものの空気が苦手みたいだった。

 ――俺もそうだと思う。母さんを助けなかった場所だ。

「俺さ」とヒデアキは言った。「母さんが病気で死んでるんだ。そのとき、そばにいるのが怖くて、俺がどっかに行ってる間に死んだんだよ」

「うん」

「二度とごめんだ」

 もう目を離さない。そばにいたい人のそばに俺はずっといたい。

 ヒデアキはそう思った。

 ユーヒチは少し微笑み、「アヲイがテトラさんに迷惑をかけたって聞いたから挨拶にきたんだけど――」と言って、iPhone SE2を取り出した。「連絡先、教えてくれないか。彼女が目を覚ましたら、また謝りにくる」

「アヲイさんは、テトラさんを助けにきただけだよ。なにもできなかったのは俺のほうだ」

「それでも、な」

「――ん」

 こうして二人はメッセージアプリのアカウントを互いに登録した。

「――俺も」とユーヒチは言った。「ヒデアキと似たようなことがあった。だから、分かる気がする」

「――そっか?」

 ヒデアキが相槌を打つと、ユーヒチは軽くお辞儀をして廊下へ出ていった。


 ――藍沢テトラが目を覚ましたのは、病院に運び込まれてから16時間後のことだった。

 彼女はゆっくりと両目を開いて、ぼんやりと天井を眺めてから、隣に座るヒデアキに気づいてゆっくりと首を動かした。瞳の感じがトリィさんだ。

「やあ、少年――」とトリィは目を細めた。「心配かけちゃって、ごめん。それに、モノオを抑えきれなかった」

「いいです」とヒデアキは彼女の手を握る。「トリィさんが、テトラさんたちが無事で本当によかった」

 それを訊いたトリィが「ははは」と笑った。

「キミ、ずっと起きて見守ってくれてた?」

「え? はい」

「体力すごいなあ」

 やっぱり、若い男の子って感じだねえ、と、トリィは軽い口調で呟いたあと、

「顔、すっごい疲れてるよ? 私は大丈夫だから、キミもどこかで眠りなさい」

「え、でも」

「ダメ、これはお姉さん命令ですよ」

 彼女はそう言って、握り合っているヒデアキの手を、自分の親指で何度も優しく撫でてきた。

「ありがとう、ヒデアキくん」とトリィは言った。「まいったな、私は尽くされるたびに好きになっちゃうよ?」


 ヒデアキがフラフラとした足取りで病室を出ると、扉の前で待っていた女性スタッフの一人が近づいて囁いてきた。

「近くのビジネスホテルに休憩所を用意しております。あなたと藍沢テトラの関係は、上層部は認知済みです。病院を出たら駐車場右奥にある黒のジャガーFタイプ助手席へ。マスコミの視線には充分注意してくださいね。よければ案内しましょうか?」

「――はい、お、お願いします」

 ヒデアキはたじろぐ。

「承知しました。こちらへどうぞ」

 そうしてパンツスーツでツカツカ歩く彼女のうしろを、ヒデアキはついていった。

 途中、ステッキを持って片足を引きずりながら歩く、ロマンスグレーの紳士とすれ違った。目深なハットで隠しているが、筋痙攣の症状だろう、顔の片方だけが引きつって渋い緊張感のある表情だ。

 あとで知ったが、彼が八木啓だった。


 八木が藍沢テトラに直々に面会に来た目的はひとつ。彼はゆっくりとした動作で椅子に座ってから、藍沢テトラに――トリィに、今後の業務を伝えにきたのだ。

「退院したら関東圏を離れて隠れろ。犯人を取り逃がしたし、奴の狙いがお前だということが確実になった。

 マイヤーズミュージック沖縄支店に話は通してある。

 新曲の制作もそこでするのもいいだろう。ネットラジオの仕事ならすぐに回すこともできる。ただ遊んで時間を潰すだけでも構わない。金は入れる。

 今は、とにかく事件収束に目途が立つまで姿を消せ」

「八木さん」とトリィは起き上がった。「ワガママ言っていいかな」

「お前はずっとワガママだ」

「ヒデアキくんとは、ずっといっしょにいたい」と彼女は言った。「彼の分の旅行代と、いろいろ用意してよ。それなら沖縄に行く」

 トリィの熱っぽい視線に、八木は一瞬目を見開く。

「あの少年がまた巻き込まれても、か?」

 そう彼が釘を刺すと、トリィの瞳が揺れ動いた。


  ※※※※


 黒井サワコはマンションの管理人に警察手帳を見せると、六本木にある瀧千秋の部屋へ足を踏み入れた。404号室だ。

 2LDK。廊下は整っている。リビング・ダイニングには変わったところはなにもなかった。TVとコンポの近くに積まれているのは音楽のCDかライブのDVD。観葉植物。

 キッチンに入る。よく片付いているが、事件前日までに溜まっていた生ゴミがシンクの三角コーナーに残っている。食器洗い乾燥機のなかに皿が数枚。独り暮らしとしては妥当な蓄積。

 棚を開けた。包丁は五本。どれも新品同様に磨かれている。その他、料理器具には拘りがあるらしい、何個か用途不明もの。

 大きめの冷蔵庫には常備菜。ワイン数本。大量のミネラルウォーター。それから食材がそこそこ。冷凍食品やレトルトの類は見当たらない。

 ひとつ目のベッドルームのドアを開けた。こちらにも不審な点はない。読みかけの本が数冊ほど枕に置かれている。セリーヌ『なしくずしの死』とマゾッホ『聖母』。

 ベッドルームにもミニコンポがある。黒井は念のため、機器の電源を入れてディスク取り出しボタンを押した。

 ――なかから出てきたのは、藍沢テトラのデビューアルバム1枚目。しかも復刻前のオリジナル・バージョン。再生途中だったのは、10曲目の『乱射事件』。

 個人的にファンだったのだろうか?

 黒井は刑事としての理性を保ったまま部屋を出て、もうひとつのベッドルームに目を向けた。これまでPC機器も書類も紙束も見つかってはいない。二つ目の寝室を作業部屋にしていたということだろう。

 ――ドアノブを開けて、黒井は電気を点ける。

 壁と天井の一面、そして床に写真が貼り付けられていた。人間の写真だ。どれもこれも被写体は、

 藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ。藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ、藍沢テトラ――。

「あっ――ひ――く」

 黒井は思わず悲鳴を上げそうになるのを、懸命にこらえた。

 私は刑事だ。異常事態に、いちいち動揺するわけにはいかない。

 額と首筋と背中にべっとりとイヤな汗が流れていく。

 写真を確認する。一枚一枚、別の写真だ。複製したものはなかった。長い時間をかけて集めてきたのだろう。

 PCにはロックがかかっている。これは持ち帰ってあとで調べるしかない。

 ファイルを手に取った。これまでの仕事で関わってきた人間の顔・名前・性格・経歴・趣味・特技・会話した内容等が全てまとめられている。仕事熱心と言うには常軌を逸していると思った。

 ――直感を信じろ。これはどう見ても異常だ。

 栞としてハイビスカスの押し花が挟まっている。ページを開くと、柿ノ木キョウカという女子大生の欄だった。添付の顔写真は瀧千秋といっしょに写っている。どこかにオフで出かけたときのものだろう。

 性格:真面目でプライドが高く意地を張り気味。フェミニズムに傾倒。独身主義。一方で弱者に対しては過保護の気質。

 経歴:地元進学校を出てW大文学部哲学科に進学。六平ゼミ所属(欄外の備考――同ゼミに九条アヲイと浜辺ヒデアキも在籍)。僕の紹介で批評誌『アルキメデス』に執筆活動を開始。実家近くの学習塾でアルバイト。

 趣味:音楽鑑賞。推しは? 不明。

 特技:トランプを使った手品。僕も引っかかった。

 会話した内容の覚え書き:旧友である朴セツナに対する未練。僕に対する甘え(備考――本人はそれを自覚できていない。自立することへの強迫観念。軽微な男性嫌悪。なぜ? 両親の夫婦仲は悪くない)

 そして最後の備考欄:操作の必要なし。言葉で好きなだけ騙せる、と書いてある。

「操作?」

 黒井は思わず声に出してしまった。操作って――なんの操作だ。

 ――ウソの動機?

 いったん荒れかけていた呼吸を落ち着ける。

 待て。私は事件に巻き込まれた被害者の家を念のため調べにきただけだが――いきなり本命を当てたんじゃないのか。

 デスクのなかを調べよう。まずは、いちばん下から順に開けていく。

 ――瀧千秋のデスク棚から、ハインリヒ・K・キュルテンの骨董ナイフが大量に発見された。

「――こいつだ!! こいつが犯人だ!!」

 と黒井は叫んだ。


 だが、警察は黒井の報告を聞いても、瀧千秋を容疑者には指定しなかった。

「なんでですか! 青山さん! 見りゃ分かるでしょ、あいつが今まで事件を起こさせてきた張本人ですよ!」

「なあ、黒井――」

 青山は戸惑い気味に署内で黒井をなだめていた。

「――落ち着けよ、お前が見たものはなんだ?」

「なにって、そんなの――」

 黒井は頭が沸騰しそうになる。あのイカれた部屋。それと対照的な、整いすぎた他のベッドルーム。キッチン。ダイニング。見れば分かるんだ! あいつは異常だ!

「藍沢テトラの写真が四方八方に」と黒井は言った。「それに寝室にCDまで持ち込んで流して、毎晩聴いてる」

「そうか」

 と青山は頷いた。

「そりゃまあ、随分熱心なファンなんだな。ストーカーにならなくてよかったよ。俺たちの仕事が増えるしな」

「――は、あ、はああああ!?」

 黒井は声を漏らした。なんで? なんでぜんぜん伝わらないんだ?

「それに、部屋には大量のキュルテンのナイフがありました!」

 黒井が言っても、青山には――自分に任務を命じて自分の職務を評価してくれる青山には――なにも響いていなかった。

「そうだな」と彼は言った。「キュルテンのナイフはごく一部のマニアの間では高値で取り引きされてる。贋作も多いみたいだが、それ自体が人気の証だ。瀧千秋もコレクターだったんだな」

「え、いやっ、違う、違うんですよ! 青山さん!!」

「――なにが違うんだ。お前が見たものと、この事件を結ぶものがどこにあって、お前はどういう法的根拠でそいつを取り調べるつもりだ」

 青山の言葉に黒井は絶句した。

 なんで?

「――藍沢テトラはこの事件に複数回、被害者として関わっています」

「そうだな」

「――犯人たちが使っていた凶器と、瀧がコレクションしていたのは同じ殺人鬼の作品です」

「知ってる」

「――瀧千秋は最初から藍沢テトラだけが狙いなんです。彼女を脅かすためだけの一連の事件なんですよ。だからナイフもあいつが持ってる! 全部!! 青山さん! 違いますか、ねえっ!!」

「で、証拠は?」

 黒井の頭がプツンとキレた。その場にあったゴミ箱を蹴り飛ばす。

「んなもんデッチあげりゃいくらでもできるだろうがよ! 自白させるためならなんでもやりゃいいんだよ! 私がやりますよ! クソ弁護士もカス黙秘権も知ったことか! アイツが吐くまでブン殴れば事件が解決するんだ!」

 青山はずっと黙っていた。黒井は彼に詰め寄る。

「逮捕状、でなけりゃ重要参考人としての任意同行だ! でも任意じゃない、無理やりここに連れてきてやる! アイツは殺人鬼だ! 人間の心なんか持ってないんだ! あの部屋を見たら分かる! ねえ青山さん! あいつは他人を操作できるんですよ!!」

「操作?」

「日記に、ファイルにそう書いてありました」

 黒井は少し落ち着いてから、

「あいつがナイフをこれまでの実行犯に渡してきた。そして実行犯を操作して事件を起こし続けた。狙いは藍沢テトラ、これが真相です。

 青山さん、お願いします、私を信じてください――」

 そうして深々と頭を下げた。

 青山がゆっくりと息を吐く。

「分かった」

 彼はデスクから一枚の紙ペラを取り出して、黒井の前に出しだした。

「あっ、青山さん――?」


 その紙は休暇届だった。


「休め。疲れてんだよ、お前。

 ――こんな事件に、新人なのに付き合わせて悪かったな。でも俺は『深くは考えるな』って言っただろ」

 このときの黒井の気持ちを、黒井自身も思い出せない。

 ただ、叫びすぎてパサパサと渇いた唇のまま、

「申し訳ありません――頭を冷やしてきます」

 と言って部屋を出ていった。


 黒井サワコと沖田レインが共同戦線を張るのは、この直後だった。


  ※※※※


 事件の前まで何度もトリィさんと映画館に足を運んでいたせいだろう。こうやって別の人と新しい映画を見に来ても、ヒデアキは彼女の言葉が聞こえるようだった。

「映画は典型的な死と再生の儀式だね。暗転し、走馬灯としての記憶が流れ、再び明るくなる。人が映画を見るのは、死の予行練習だよ」

 それを聞いて、ヒデアキはトリィの美しい横顔を見た。

 彼女と見るのはいつも小難しい作品だったので、鑑賞後に彼女の解説を聞くまでは、ヒデアキは作品が面白いのかどうかも分からなかった。ただ、彼女の言葉を聞くと自分の見た映像ひとつひとつに意味が与えられ、なにか感動的な景色に出会えた気がする。

 そうして、知的な弁舌に感心しながらトリィの顔を眺めていると、トリィは笑って唇を近づけてきた。

「このあとはお酒にする? それとも、もう我慢できないなら、シーンをひとつスキップしよっか?」


 だけど今は、トリィさんは病院だった。

 ヒデアキは約束どおり、タエコと映画を見に来ていた。

「早く始まらないかなあ」とタエコは笑いながらナチョスを口に運ぶ。「あ、ヒデアキも食べて」

「大丈夫、俺、そんなハラ減ってないし」

「えー、ヒデアキが奢ってくれたのに! 私ばっかり悪いよ!」

「そりゃタエコが美味そうに食うのが悪い」とヒデアキも笑った。「あ、でもジュースちょうだい」

「んー」

 と、タエコは二枚目のナチョスを口に運びながらオレンジジュースを渡してくれた。

 映画が始まる。

 ――作品としてはシリーズものの二作目らしい。一作目がそんなにヒットした印象はないが、根強いファンがいたらしく、主人公を変えて続編がつくられたそうだ。ヒデアキは一作目を見ておらず、

 タエコと会う前にユーチューブであらすじを予習した。マル暴とヤクザの抗争・策略を描いたバイオレンス作品らしい。目の前の二作目も、おおむねそのイメージで進んでいった。

 ヒデアキとしては、心に残るエピソードが複数あった。

 まず、今回の悪役らしきヤクザの話だ。彼は第一作目では収監されていた。出所後は親父の仇を討とうと意気込んでいるのだが、その態度が新しい組長の不興を買い続ける。自分が復讐心に燃えて耐え忍んでいる間に、とっくに自分の組織は敵のヤクザと手打ちを済ませていて、もう武闘派である自分の出る幕はないというのだ。

 ――納得がいかない。悪役はそんな表情を浮かべる。何年もキレ続けてきたのに、いまさら矛を収めるなんてできるわけがない。そんな悪役の暴走が街全体を呑み込んでいく。

 ヒデアキはモノオのことを思い出していた。

 彼はなんて言ったっけ。

《人を憎むってのがどういう気持ちか教えてやるよ》

《許さないのはこっちの台詞だ》

《まだ怒り足りねえな》

 ヒデアキは、モノオさんの口から出てくる言葉は、テトラさんの心の奥にある本音だと感じていた。

 ――俺は、テトラさんを好きだから、モノオさんとも向き合わなくちゃいけないんだ。今度はちゃんと話そう。モノオさんが今はまだ俺を嫌いでも、気持ちを伝える努力をする、と決めていた。

 次に心に残ったシーンは、県警の無能さだ。

 警察が無能なのは単なるリアリティ描写なのだろうと思っていたが、映画の後半では、県警は実際には証拠をダラダラ見逃していたのではなく、意図的に握り潰していたということが判明する。それは、県警上層部の不祥事を握って捜査を進める所轄刑事を牽制するための小汚い手段だったというわけだ。

 無能ではなく、腐敗。――そのことが妙にヒデアキの頭に残る。

 現実の美術館で起きた大規模な騒動、そして今回横浜のホテルで起きた虐殺。なぜ警察にはなんの動きも見られないんだ?

 ヒデアキは人形たちの表情を思い出す。あれは洗脳みたいなものを受けていた。もし、同じようなマインドコントロールが既に警察上層部にまで絡んでいるとしたら――?

 ヒデアキはここまで考えて、やめろ、と自分を落ち着けた。

 こんなものは陰謀論だ。ハンロンの剃刀も言っている。「無能で十分説明できることに悪意を見出すな」。日本の警察が黒幕と癒着した悪の組織? それこそギャグだろ。

 彼はいったん思考を止めて、目の前の映画に集中することに決めた。

 

 作品は悪役が射殺されて終わった。

 エンドロールを眺めながらヒデアキは思う。――俺はこの世を、モノオさんが射殺されて終わる世界にしたくない。


 タエコは映画が終わったあと、ヒデアキといっしょに居酒屋に入った。

「今日はありがと、ヒデアキ」とタエコは笑う。「あのシーンよかったね。車がドカーン、ってなって、人がドババババ! って殺されちゃうやつ!」

「ははは」

 ヒデアキビールを飲んでいた。タエコも浮かれてサワーを飲み干す。

 それからタエコは、

「事件、大丈夫だった? ホテルで巻き込まれたって聞いたよ」

 と訊いてから、あ、ごめんね、もし辛いなら言わなくていいよと付け加えた。

「巻き込まれたって言っても」とヒデアキは笑う。「このとおりピンピンしてるしさ」

「そっか、よかった。暴力描写とかは、その」

「トラウマになってませ~ん。オッケーだよ」とヒデアキはフライドポテトを食べる。「映画はどうせぜんぶ映画だよ」

「――だよね」

 タエコは相槌を打った。でも、なんだかモヤモヤしてきて「ヒデアキ二回目だね、こういうのに巻き込まれるのさ」と呟いてしまった。

「? まあ」とヒデアキは答える。

「ヒデアキばっかり酷いよね。って、アハハ」

 タエコは自分の声がシリアスっぽいことに自分で気づいて、途中で誤魔化した。でも言ったことは本心だ。

 ――ヒデアキみたいな優しい人ばっかり、なんで酷い目に遭うんだろう。最悪な人間はけっこう図々しく生きてるくせにね。そう、彼女は思ってしまった。

 ヒデアキはそれを聞いて「逆にさ」と言う。「いま宝くじ買ったら反動ですげえ当たりこないかな」

「あ、それいいじゃん! やろうよ! 一等当てて海に行く!」

 タエコが陽気に合わせると、ヒデアキは、ハハハッ海かあ――と笑ってもっとビールを飲んでいく。

 もどかしくて、切なかった。それも含めて楽しくて、つまり私はやっぱりヒデアキのことが好きなんだなあ、とタエコは思う。

「あ、あのさ」と彼女は言った。「今日、映画ついてきてくれてありがと」

「え? うん」

「――これ笑い話なんだけどさ、一作目を新宿で見たとき本職の人がいたんだよね」

「えっえっ? 本職? ヤクザってこと?」

「そうなんだよ!」とタエコはジョッキをパン、と置いた。

「もうさあ、こっちが笑わないシーンで『あるある!』みたいな感じで大声で笑うの。すごい怖かった。映画終わって退出になってもちょっとタイミングずらしたよ」

「やば。マジでいるんだなあ」

「それだから、今日ヒデアキいてよかったかな」

「はは、俺べつにヤクザに勝てないよ?」

「それでもいいの! いてくれるだけでありがたいってなんで男の子は分かんないかなあもお! 新しいお酒頼むぜ! ジントニックかもん!」

「ったく、飲みすぎるなよなあ~」


「――あのさ、ヒデアキ、またこうやって二人で会えるかな」


「あー、悪い」とヒデアキは答えた。「四月とか、いや三月下旬からは難しくなるかも」

「――なんで」

 タエコは頭が酔っ払ってぐらぐらしてくる。

「実はさ」とヒデアキは言った。「ちょっと仕事が入ったんだよ。今やってるバイトじゃなくって、就職を左右するやつ。で、だから――予定が難しくて」

「はあー?」とタエコは突っ伏せる。そして店員がジントニックを持ってくると顔を上げた。「聞いてない、そんなの。――あっ、これおいしいよ。この値段なのに」

「そう?」

「ヒデアキもあとで頼もううぇ!」

「分かった分かった。ほんと酔い潰れるなよ?」

「――ヒデアキが忙しくなるのは分かったけど、お休みはあるんでしょ?」

「――それなんだけど」

 ヒデアキはそう言って、新しく届いた日本酒をゆっくり飲んだ。

「沖縄に行くんだ、俺。だから休日はあるけど、ここには帰ってこれなくなる。いつその仕事が終わるかも分からない。とりあえず休学届は出したんだけどさ」

「は?」

 タエコは、なにそれと思った。

 大衆居酒屋のBGMが変わった。

 時空を移動して恋をする昭和のティーンズノベル、そのアニメ映画化の主題歌だった。

 タエコは「みんなには言った?」と訊く。

 ヒデアキは「ハスタにはいちおう。あとソユル。――えっと、他の子には、タエコからお願いできる?」

「――で、電話とかは?」

「できるよ」

 タエコは、頭のなかの脳ミソに氷を当てられたみたいに思考が冷えて、なのに、体全体の気持ちは高まったままで、意味が分からなかった。

 ――ヒデアキに会えなくなるの? なんで? ヒデアキなんでそんなワケわかんないことになってるの? やっぱりキョウカちゃんにフラれたのがショックだからなの?

 タエコは、ただ飲んだ。

 ヒデアキは「帰ってきたら、また映画とか見てまた飲もうぜ。な?」と笑った。

 気休めだ。

 しかも、私を大事な友達だって思ってる気持ちからの気休めだ。

 タエコは口を開いて――ただひと言、じゃあ私も大学休むから連れてって、と――それだけを言おうとして、上手くいかない。

 そのとき、ヒデアキの前に店員が来た。「すみません、ラストオーダーになります」

「ああ、俺は大丈夫です。――タエコは?」

「私も」

 タエコは動揺が落ち着かないままそう答えた。「私も大丈夫です」

 こうして二人だけの飲み会は終わった。友達としての飲みが、友達としての飲みのまま終わったわけだ。

 会計を済ませて(ヒデアキが出したが、タエコは奢ってもらったことも分からないくらい泥酔していた)、ヒデアキが「本当に大丈夫か? 家に帰れる?」と訊いてくる。

「私のこと、心配なのぉ――? ヒデアキぃ?」

「当たり前だろ、バカ! 駄目ならどっかで水飲もう。歩ける?」

「――あ、歩けるよぉ」

 そうして新宿のビルをエレベータで降り、ふらふらしたままのタエコを、ヒデアキが肩を貸しながら歩いてくれた。

 

 そのとき。

「ハジメ! バカ!」という女の叫び声がタエコの右耳に響いた。

「あたしと結婚してくれないんだ! あたしこんなに尽くしたのに! ハジメ、まだあの女のことが好きなんだ!」

 な、に――? タエコはそちらを向く。

 派手な格好をした女が泣き喚いて、店から持ち出したグラスやボトルを、ハジメと呼ばれた男の人に投げつけている。

 ハジメ――谷崎ハジメ――? それは、藍沢テトラのサポートメンバーのひとりだ。

 やっぱり、バンドマンって派手な恋愛するなあ――とタエコは思った。

 酒でびしょびしょになった男――谷崎ハジメ――は、派手な女が繁華街の外のほうに逃げ去っていくのを見ながら、

「まいった、タバコが湿気っちまった」と言いながら柄シャツの胸ポケットを撫でた。そうして周囲の通行人に頭を下げたあと、伊角タエコと、彼女を連れて歩く浜辺ヒデアキとの存在に気づいた。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 とハジメは近づく。そのあとで、ヒデアキの顔をゆっくりと見つめた。


 ――今のハジメにはヒデアキがどう見えているか。

 ずっと好きだった、今も好きな女を横からアッサリと奪っていった男。彼女よりも八歳も年下のチャラチャラした男子大生が、大切なはずの藍沢テトラがまだ入院中だというのに、自分と同世代らしき女子大生を泥酔させ、こんな治安の悪い道を二人で歩いている。

 ――どこにその子を連れ込むつもりだ? ヒデアキ。

 テトラちゃんはお前を信じているのに、お前はどうやってその子と一緒になって彼女を裏切るつもりだ。ガキが、答えてみろ。

 ハジメはそういう私情を全て抑えこんで、なるべくにこやかに話しかけた。

「やあ、ごめんね、お楽しみを邪魔しちゃったか」


  ※※※※


 今にも誰かを殺してしまいそうな――そんな形相を沖田レインは浮かべていた。ポルシェ718ケイマンのレーシングイエローを病院の駐車場に停め、勢い任せにドアを閉める。トワが搬送された集中治療室前に足を運ぶと、既に彼の女たち六人はその場に集まっていた。医者が待っている。

 医者は、やや眠たげな目をしたボブカットの女だった。体に比べて大きめの白衣を身に纏っており、両方の手首が袖にすっぽりと隠れている。

「沖田レインです」と頭を下げると、彼女は「住吉キキだ」と答えた。

「いやあ、大変だったよ。筋組織と骨だけじゃない。いくつかの内臓も完全にやられてて」

「彼は無事なんですか!?」

 そう詰め寄ると、キキは平然と、集中治療室を一望できる内窓を親指で指した。

 レインは窓に張りつき、部屋のなかを見る。

 大きなベッドに横たわる男がトワ――だが、その頭部に取りつけられている呼吸器と脳波測定器で顔は全く分からない。腕にも足にも胴体にも、彼を強引に生かすための管がいくつも巻きついていて、それぞれが部屋のなかの機械に繋がっていた。

「――はぁ?」

 レインは、それしか言えなかった。

「大した肉体だよ」とキキは後ろから言った。「普通ならとっくに死んでもおかしくない。なのにまだ持ちこたえている。意識は回復しないまま、だけどね」

「どうにかならないんですか」

「必要な治療を済ませて、今はモニタリングと定期的な投薬だ。緊急事態が起きたら胸をサバいて直接マッサージする。心臓が止まることだけは避けなくちゃいけないからね。でももう本人次第だ」

 その言葉にレインは我を忘れて振り返り、キキの胸倉を乱暴に掴んだ。

「なんとかしろよ! 医者なんだろ! 金ならいくらでも積んでやる、とにかくトワを助けろ!!」

「残念だが」

 キキは、自分の白衣を掴むレインの手をゆっくりと掴んで引き剥がした。

 ――お前みたいに取り乱す親族遺族なんかこっちはいくらでも見てきたんだよ、というような表情だった。

「医者は神じゃない」

 どんな仕事も神の業には通じない。真の宗教家か、芸術家か狂人でない限りはね。

 レインは呆然として、ただ立ちすくんでいた。

「――これ、誰がやったんだ」

 そして、同じ部屋で座り込み、すすり泣いている六人の女たちを見た。

 ハナコ、ビリー、ミンミ、ニーニャ、アリス。そして、タマキ。

 

 レインは横浜騒乱の翌朝、ホテルで警察に起こされ、ようやく事件の存在を知った。

 そして長い事情聴取のあと、着替えもそこそこに病院まで駆けつけた。

 だから、いつものヒールは履いていない。普段は平均よりも大きい胸にサラシを巻いているが、その余裕もなかった。

「――トワが誰かと戦ったとして、負けるはずがない。あいつは誰よりも強いんだ。薄汚い罠にハメられたに決まってる」

 そこで耐えられなくなり、レインは泣き崩れた。

 そこでタマキが立ち上がる。ミンミが「タマキ、やめなよ」と言うが、彼女は止まらなかった。

「レインさん、ごめん」とタマキが言った。「アタシがいっしょにいたんだよ。なのにトワ様を守れなかった。トワ様にもしもあったらケジメはつけるよ」

「――タマキ」

「なに?」

「トワは誰かを人質に取られたんじゃないのか?」

 そして、もしかしてその人質は、僕だったか?

 レインの観察眼は、タマキの表情から、そのことを察していた――彼女の目から自分に対する恨み節をちゃんと伺えたからだ。

 ――僕がトワの足を引っ張ったのか、と思った。僕はトワに命を救われただけじゃ満足しなくて、トワの足手まといになって、こんな目に彼を遭わせたのか。

 だとしたら、今のうのうと生きている僕の命はなんなんだ?

 ――黙ったままのレインに、タマキは頷いた。彼女は泣いている。


「トワ様は、親友のレインさんがいちばん大事だったから、だから、死なせるわけにいか、いかなくて――だから、あのクソ野郎に――瀧千秋に何回もいたぶられて、最後に笑われながら斬られたんだ!!」


 それを聞いた瞬間、レインの顔から全ての表情が消えた。

 そうして、フラフラと歩くと、その場にあった観葉植物の植木を蹴り飛ばし、

「――ッアアアアアアアア!!」

 と悲鳴を上げながら、椅子や机をいくつも投げ飛ばし、壁に頭突きをして血を流しながらただ泣いて暴れ回った。

 六人の女たちが「やめて、レインさん!」と懸命に取り押さえてくれる間も、レインは我を忘れて叫んでいた。住吉キキは、冷静にその様子を眺めていた。


「アアアア!! こっ――殺す! 殺してやる!! もうどうなってもいい――刺し違えてもお前をこの世から消してやるぞ!! 瀧センシュウ!!!!」


 レインはキキに見逃してもらい(「キミより暴れるヤツも見てるからね。慣れてるよ」と言われた)、病院を出てポルシェに戻った。

 最後にハナコが、後ろから声をかけてくれた。

「あたし信じてるよ。トワ様はちゃんと助かって、起き上がってくれるって。レインさんも信じよ?」

 そんな彼女を見て、

「そうだね。うん、信じるよ。僕も信じる――僕が信じるのはトワだけなんだ」

 そう答えて去った。

 ポルシェに乗ったあと、レインはまず旧い知人の黒井サワコに電話をかけた。

 彼女は都内の刑事をしている。そして今回の連続通り魔殺人事件の担当だったはずだ。

《はい、黒井ですが》

「やあ、沖田レインだよ」

《急にどうしたんですか? ミュージシャンは平日も暇そうでいいですね》

「ミュージシャンなんて辞めようと思ってるよ」

《えっ?》

 レインは、ククク、と自虐的に笑った。「もうどうでもよくなったんだ。僕の生きる意味が今にも消えてしまいそうでね。だから、これからは勝手にさせてもらうつもりだ」

《――そうですか》

「取り引きをしたい」とレインは切り出した。「黒井の捜査資料を全て寄越せ。代わりに僕は君が知りたい情報を教えることができる」

《私の知りたい情報が分かるんですか?》

「瀧千秋が近日出現するであろう場所だ」

 これは本当だった。

 まずレインは、八木に取り入ってある程度の情報を得ている。

 次に、レインは病院を出る前、タマキから当日の状況をざっくりと聞いた。

 ――彼はBMWから藍沢テトラの音楽を大音量で流し、彼女に対する執着心を、たっぷりねちねちと供述したという。

 瀧はいずれ、必ず藍沢テトラのいる場所に辿り着く。だから、今いちばん重要な情報は彼女の居場所なんだ。

 レインの言葉に、黒井はひと呼吸置いてから、

《やっぱり瀧千秋が黒幕なんですね》

 と呟いた。

「その様子だと、黒井も真実に辿り着いたようだね」

《バディからは却下されましたけど》

「――瀧千秋が拘っているのは藍沢テトラだ。そして四月以降の藍沢テトラの居場所は、ごく一部を除いて僕しか知らない」

 マイヤーズミュージック音楽事業部本部長に取り入るっていうのは、こういうところでも役に立つ、とレインは思う。

 ――普段はトワの不祥事を揉み消すのがメインだけど。まあそれはどうでもいい。

 レインの話を聞き、黒井は少し考えたらしい間のあと、

《分かりました。取り引きに応じます》

 と答えた。

「ほう?」とレインは邪悪に笑った。「優等生刑事の黒井さんがこんな風に情報を漏洩していいのかな?」

《べつに》

 黒井のほうも開き直ったように笑っている。

《私もどうでもよくなってきたので。警察としての立場とか、いろいろ》

「へえ?」

 レインはポルシェ718ケイマンを出して大通りに出る。

《瀧千秋が藍沢テトラに近づくなら、そのとき使われるルートは柿ノ木キョウカです。それ以外はありません》

 と黒井は答えた。

「柿ノ木キョウカ? なぜ? 誰だい?」

《彼女は瀧千秋の遠縁の妹で、仕事も紹介されてた大後輩です。オフでも関係がある。そして彼女は浜辺ヒデアキと同じゼミです》

 レインは目を見開いた。

 ――ヒデアキ! 藍沢テトラの新しい男か! ならテトラと同じ場所にいる!

「すごいね」とレインは笑った。「タイミングは分かったよ。こっちはその柿ノ木キョウカとかいうお嬢ちゃんをずっと監視してれば瀧千秋に辿り着けるんだ」

《はい》

「よし、僕の情報を伝えよう」とレインは言いながらハンドルを切る。「藍沢テトラの今後の場所は沖縄だよ。だから、先回りしておくならまずは那覇市だろうね」

《沖縄?》

「一時的な避難だよ。世話の焼ける歌姫様ってわけ」

《はあん》

 黒井は挑発的に笑う。もう刑事としての職業倫理は剥がれていた。

 残っているのは正義感だけだ。

《でも、その柿ノ木キョウカって子をずっと見張り続けるなんて真似できるの? 沖田レインに仲間はいるわけ?》

「――いるとも」

 沖田レインはスマートフォンを確認した。

 トワの6人の女の1人、アリスからメールが来ている。

 ――復讐するなら、あたしたちも手伝うよ。あたしたちも許せない。

 みんな同じ考えか。まあ、そうだよな。

 いいね。

 復讐の時間だ。僕の親友を傷つけた屑がどうなるか思い知らせてやる。昔のようにね。

 レインは黒井と話しながら、さらにアクセルを踏んだ。


  ※※※※


 谷崎ハジメは感情を落ち着けてから、ヒデアキとタエコがどのような状況にあるのか、なんとなく察した。

「あー、ヒデアキくん」と彼は言う。「彼女、だいぶ酔ってるみたいだけど、大丈夫なの?」

「え? ええっと――」

 ヒデアキはそう訊かれてから、改めて彼女のほうを見た。

 タエコはヒデアキの体にぶらさがったまま、はいい、とか、だいじょーぶですよおー、とか言っている。

 ハジメは肩をすくめた。たぶんだけど、このお嬢ちゃんは無意識に飲みすぎたんだろう。ヒデアキに介抱されて家まで送り届けてもらい、なんなら、そのあとも自分のそばに縛りつけておくために。

 いいかい少年。女って生き物は、自分でそう意図していなくても、この程度の「ズル」は身体が勝手に動いてやるものさ。それに気づいて上手くかわすか、冷たくあしらえないなら、二人きりで酒を楽しむのはまだ早い。

 ハジメはそう思って少しだけ呆れた。

「彼女をおうちに送り届けて、しかもこの酔っぱらい具合だ、朝まで面倒を見る必要があると思うんだけど」

 と彼は言う。「ヒデアキくん、それは大丈夫か?」

 ヒデアキの表情が変わる。たぶん、彼女のアパートは相当遠いのだろう。だから、彼女の身を案じるならこの近くで休む場所を探すしかない。そしてそれは、要はラブホテルだ。

 やれやれ、とハジメは思った。どうして彼女が思い詰めたのかは知らないが、いきなりワンナイト狙いってわけか。今どきの子は怖いね。

「そこで、人生経験豊富なおじさんからの提案なんだけど」

 とハジメは微笑む。

「俺のマンションはすぐ近くだ。そこに君たちを招待するっていうのはどうだろう?」


 ハジメは配車アプリを使ってタクシーをその場に呼び、タエコとヒデアキを先に乗せると、自分も乗り込んだ。

「すみません」とヒデアキは言う。「なんか、すごいお世話になってしまって」

「気にしないでいいさ」とハジメは言った。これは本心だった。お前のためじゃない、テトラちゃんのためだ。

 お前の脇の甘さが一夜の過ちを起こしたとして、テトラちゃんは、今度は誰を信じればいい? そういうことを本気で考えていない、いや、経験不足のせいで考えることすらできない目の前の少年に、ハジメはどうしても反感を抱いてしまった。

 テトラちゃんも、なんでよりによってこんな年下の男なんだ。

 年の差恋愛に偏見はない、というか、自分だって八歳下の藍沢テトラと付き合っていたから、人のことはとやかく言えない。でも、男が年上である場合と、女が年上である場合はやっぱり違うだろう? だって、男と女は平等じゃないんだから。

 そうして、タクシーはハジメのマンションに着いた。

 西新宿にある2LDKのマンションだった。

 ハジメはぐったり眠っているタエコの様子を見て、こりゃ大変だと苦笑してから、彼女をお姫様だっこで部屋まで運んだ。ヒデアキもそこについてくる。

 タエコは途中少し目を覚まして、「え――あのっ」と言った。

「谷崎ハジメさん――ですよね?」

「まあね?」

「私――すごい酔っちゃって――」

「ヒデアキくんが俺を頼ってくれたんだよ。お礼を言うなら彼にしてあげて」

 そう言って、ハジメは部屋に入る。いつも遊びに来る下らない女たちを寝かせるための第二寝室に彼女を運び、ベッドに優しく横たえた。近くにミネラルウォーターのペットボトル数本を置く。

 そうしてリビングに戻り、突っ立ったままのヒデアキに微笑みかけた。

「俺は朝まで彼女を見守るから、ヒデアキくんも、ここで好きに過ごせばいい。どうせそのうち遠くに行くんだろう? 東京の贅沢は、味わうだけ味わおうぜ?」

「知ってるんですか? そのこと」

「まあね――トリィから聞いたよ」

 藍沢テトラは三月下旬から遠くに行く。あんな事件のあとだ、しょうがない。

 だけどその付き人にヒデアキを選んだのは心配だった。

 ――お前はそれに足る男なのか?

 ハジメはウィスキーのボトルをテーブルに置き、次にキッチンの冷蔵庫から氷を出して食器棚のグラスに入れると、二人分運んでくる。

「飲み直そう、少年」

 そう言って灰皿を自分のほうに寄せてから、「ああ、ごめん、ヒデアキくんはタバコって平気かな」と訊いた。

「はい、大丈夫です。てか、俺も吸います」

「そうなの?」

「――まあ、テトラさんの影響ですけどね」

 そう言って、彼はカバンからセブンスターとライターを取り出した。

「奇遇だな」とハジメは言って、常備しているセブンスターを出した。「同じ銘柄だよ。気が合うかもな」

「俺は――」

 ヒデアキはタバコを口に咥えて、火をつけた。

「テトラさんがこれを吸ってたから――、それだけですよ。匂いが好きなんです。部屋で吸ってると、あの人がすぐ近くにいてくれるみたいで」

「そうかい?」

 ハジメは微笑んで、自分のセブンスターに丁寧に火をつけて煙を吸った。

 なんだか、それだけで妙にヒデアキへの不信感が消えていく自分に気づくハジメだった。

 ――テトラがセブンスターを愛煙しているのは、ハジメがその銘柄のユーザーだからだ。彼女にタバコを教えたのはハジメだ。

 ウィスキーを氷入りのグラスに注ぐ。

「ヒデアキくん、今回は俺が助けたからよかったけど」と彼は言った。

「女の子と飲むとこういうことがあるんだ。テトラちゃんを傷つけたくないなら、もっと気をつけてくれよ?」

「俺とタエコはなにもないですよ」

「君がそのつもりでもさ」とハジメは言う。

「相手のほうはなにかあってほしいと思ってる。そういうこともあるんだ。そして、傷つくのはヒデアキくんじゃない。ヒデアキくんを信じるテトラちゃんだからね」

「――俺は、でも」とヒデアキは言いよどんで、ウィスキーを飲む。「大丈夫ですよ。全然モテないし。タエコにそんな気あるわけないです」

「ヒデアキ」とハジメは思わず強い口調で言った。「目を見て女の気持ちが分からないなら、それは女を弄んでるのと同じだ」

「え――え?」

「自覚があってそうするならべつにいいさ。俺も人のことは言えない。だけど、優しさと鈍感さを履き違えたら周りの皆を傷つけるぞ。それを伝えたかったんだ」

 そうして、ハジメもウィスキーを飲んだ。

「正直に言うと、俺はヒデアキくんに嫉妬してるんだ」

「――はい」

「だから、せめて良い男と結ばれて幸せになってほしいんだよ。俺が助けられなかった彼女を、お前には助けてほしい。負けるなら良い男に負けたいんだ――こういう気持ちって分かるか?」

「――はい」

「テトラちゃんを幸せにしてくれ。それは、今は、お前にしかできないんだよ、ヒデアキ。これから遠いところに二人きりで行くんだろう? お前だけだ、お前だけが頼りなんだ」

 ハジメはグラスを置くとヒデアキの目をじっと見た。

 ヒデアキもウィスキーを飲み、ハジメを見つめ返す。


 やがて、ハジメはくだけた調子で笑う。

「なんていうか、ハハ」と彼は言った。「――お互い難儀な女に巻き込まれちまったな。ファム・ファタルってやつだ」

 ヒデアキも笑う。「でも、それでいいですよ――俺はテトラさんを幸せにしたい。あのひとを幸せにするためなら、なんでもしたいんです」

 ハジメはそれを聞いて、なんだか切なくて、笑った。

 自分がもう失った純粋を、こいつは失ってないんだ。


 ――さよなら、テトラ。そう思った。やっと思えた。

「よーし! 朝まで飲もうヒデアキくん! 俺たちはもう友達だ!」


  ※※※※


 そんな二人のやりとりを、タエコはずっとこっそりと聞いていた。


  ※※※※


 柿ノ木キョウカは、あれから部屋に籠っていた。バイトはいったん辞めた。書きものの仕事もずっと連絡を取っていない。

 自分の身近なところで事件が起きた、というショックが大きすぎた。あの日、ライブが終わって帰ったあと、アーティストの泊まっているホテルで虐殺が起きた。

 いつもの骨董ナイフだけではない、ピストルも持ち出されたし、それに――凶器は発見されていないが、長身の刀剣も用いられての犯行だったという。

「怖い――」

 キョウカはベッドにうずくまった。

 しかもセンシュウ兄さんは犯人の一人に人質として襲われたようで、あれからずっと彼の行方は分からない。

 いつから世界は、こんなにも暴力的な場所になってしまったんだろう。そう彼女は思った。

 誰かに守ってほしい。別に強い人じゃなくていい。

「俺がいるから、もう大丈夫だよ?」

 と誓ってくれる人なら誰でもいい、その人のそばでぐっすりと眠りたい。あの事件以降、キョウカはほとんど眠れていなかった。

 だけどキョウカのプライドが、意地が、そういう甘えを自分に許さなかった。

「ダメだ、キョウカ、ダメだ」と彼女は自分に言い聞かせ続けた。「こうやって弱ってる女につけこんでくる男がいちばん信用できないんだ――私は独りで生きるって決めた。誰にも甘えないで、独りで生きるように頑張るんだ」

 その気力だけでキョウカは新年度のゼミにも出た。外を歩くとすぐ動悸がして吐きそうになる。だけど耐えなくちゃいけないと決めていた。

 ――ヒデアキはどうしてるんだろう。美術館のときも横浜のときも彼は間近で被害に遭った。なのに彼は平気なんだろうか。平気だとしたらそのコツを教えてほしい。

 たった独りで震えずに生き延びていく術を教えてほしいという思いと、いや、ヒデアキにそんな風に甘えるのはそれこそ間違いだ、という思いでキョウカはズタズタになっていた。

 ――それに私はヒデアキを振ったんだ。


 そうしてゼミに出て、彼女は、ヒデアキが無期限の休学届を出していたことを知った。

 六平教授は「えーと」と言った。

「皆さんの間で連絡し合ってるみたいだけど、改めて。浜辺ヒデアキくんは諸事情で四月からは大学に来ないことになりました。まあ世の中いろいろあるし、ここは彼を応援しようか」

 初耳だった。

 ――なにそれ。みんな知ってたの?

 キョウカはゼミの学友たちへ振り返った。

 ハスタも、チヨコも、ソユルも、ニモも、タイヂも、みんなそれぞれ「知ってる」という顔をしていた。タエコもだ。

「は――?」とキョウカは声を漏らした。「私、知らないんだけど。ヒデアキになにがあったの」

「ええっ?」とハスタが言った。「タエコからは連絡きてねえの?」

「来て、ないけど――」

 そうしてタエコを見ると、彼女は、春休みの間に少し雰囲気が変わったらしくて、両耳たぶにピアスを光らせながら、

「別にいいじゃん」と言った。ほとんど敵意の塊みたいな口調だった。「だってキョウカちゃんはヒデアキのことなんかどうでもいいんでしょ? だから連絡しなかったんだけど。変?」

「え――?」

 キョウカは、ただ茫然としていた。なに、それ?


 ゼミのオリエンテーションが終わったあと、キョウカは急いでタエコに話しかけた。

「ヒデアキになにがあったの? なんで大学休んでるわけ? 事件のせいでなんかあったってこと?」

 それは、彼を心配というよりも、純粋な義侠心だった。

 あんな危ない事件に直接巻き込まれて、普通でいられるわけがない。ただでさえヒデアキは、安っぽいヒロイズムで自己犠牲に走ったことがある。そんなの聞いて、平然とできるほうがおかしいんだ。

 だが、タエコはどこまでも冷たかった。

「へー、それも事件のせいって思うんだ?」と彼女は言った。

「え?」

「キョウカちゃん。ヒデアキにすごい酷いことばっか言っておいて、今度はずいぶん優しいんだね。なに? 捨ててたオモチャが他人に拾われたから惜しくなった的なやつ? それ何様なの?」

「なに言ってるの、タエコ――」

「――やっと分かったんだけど、私ね、キョウカちゃんのこと大嫌いだよ」

 キョウカは頭が真っ白になった。そして、しどろもどろになりながら必死に弁解をする。

「だって、あんな――」とキョウカは言った。「あんなあからさまに好かれてさ、じゃ、こっちの身になってみてよ。私は嫌いなんだよ。そんな目で男に見られるのも全部。見下されてるみたいで。悪いとは思ってるけど」

「――――」

「やりすぎだったとは思うよ。わざとヒデアキを二人きりで誘って告白させて振った。でも、だからなに? そんなに怒られなくちゃダメ? じゃあヒデアキがずっとダラダラ私を好きなのを私は澄ました顔でやりすごせってこと? それこそ冗談じゃないよ。あいつの優しさが癇に障った、それだけ!」

「――――」

「尊敬してるとかなんとか言って、あいつは私の話なんかなんも聞いてなかった! 私が恋愛キライなことなんていつも言ってたでしょ!? そういう女を好きな男ってどんな気持ちなのかなあ? どうせ『俺の真実の愛が伝われば改心してくれる。俺が救ってやれる』とか思ってたんじゃないの!?」

「――――」

「そういうのが、ほんと――典型的な男のマッチョイムズとナルシシズムって感じで、だから私はヒデアキが嫌いなんだよ!! すっごい勘違い男だよ! いちども良いと思ったことない! でも嫌いなヤツを心配しちゃいけないの? 心配だよ、あんな事件あったんだもん。タエコ分かるでしょ!?」

「分かんない」

 とタエコは言った。

「私、ヒデアキに振られちゃったんだと思う。だからキョウカが羨ましい。私、キョウカみたいな美人に生まれたかった。そしたらあの日、私がヒデアキの気持ちを受け止めてた」

「――はぁ?」

 頭がぐるぐるしてくる。

 タエコは「話、それだけ? もういいよ。じゃ」

 と言ってキョウカから離れていった。ずっと心配そうに眺めていたハスタが「大丈夫か? なんか美味いもん食おうぜ」とタエコを慰める。そして、そんなハスタの隣を歩くチヨコが、ちらっとキョウカを見て唇の動きだけで「どんまい」と言った。

 友情の崩壊。

 キョウカが立ちすくんでいると、ソユルがその肩をポンと叩いた。

「気にすることない」とソユルは言った。「こういうの全部、いつか青春って思えるよ。ホレタハレタって言うんだっけ? 日本語で」

「ソユル――私、は、その――」

 ソユルのとなりにはニモも立っていて、うんうんと優しく頷いてくれている。

「でも私も」とソユルは言葉を繋いだ。「キョウカはずっとちょっと酷いと思ってたよ。相手が自分を好きだから、攻撃してこないから、安心していじめてるように見えちゃったよね。そこはサイテーだと思う」

 そうしてソユルはニモを連れて、学舎の奥へと去っていった。

 今度こそキョウカは一人ぼっちになる。


 キョウカに瀧千秋からの電話がかかってきたのは、その夕方のことだった。


 家に帰って服を脱ぎ、部屋着になろうとしている途中でスマートフォンが鳴った。

 iPhone 11 Proだ。

 非通知設定からの着信だ。誰?

 キョウカは通知ボタンを押して耳に当てた。

「――やあ、キョウカさん」

「センシュウ兄さん!?」

 キョウカは思わず大声を上げる。

「ごめんね――」と彼は言った。

「今、どこにいるんですか!? 無事なんですか!? 人質になったってどういうことなんですか!?」

「いっぺんに色々訊かないで――」

 センシュウ兄さんは、きれぎれな呼吸のなかで、なんとか苦笑していた。

「――今は、連中から逃れて、名前を書かなくていい安いホテルに隠れてるよ。もう、あんな事件のあとだからね」

「警察に連絡はしましたか? 早く保護してもらいましょう。私が迎えにいきます!」

「それは無理だ」

 彼はゆっくりと答えた。

「普通は、キョウカさんの意見が正しい。でもダメなんだ。警察は、僕の考えでは、とっくに一部が黒幕に乗っ取られてしまってるよ」

「――え?」

 キョウカは思考を巡らせる。

 美術館の事件のあとも、横浜ホテルの事件のあとも、警察の動きは妙にノロい。いつもなら、それを日本警察の無能として片づけるだろう。だけど、今回は事情が違った。

 黒幕はいくらでも人形をつくれる。もしその人形が警察上層部に食い込んでいたら、遅々として進まない捜査にも辻褄が合ってしまう。

 もちろんキョウカは黒幕の力など知らない。論理的に考えてそうだろうと推測しただけだ。

「僕としては」とセンシュウは言った。「もう警察は信用できないよ。それどころか、僕を犯人に仕立て上げる可能性だってゼロじゃない」

「――なんですって?」

「たぶん、僕が目立ちすぎたんだろう」

 僕は個人的に、この事件を調べていた。そして、ある黒幕の存在に気づいた。その直後に今回の騒ぎが起きて、人質に取られて連れ去られた。

 そうセンシュウは語った。

 だけど、あのロビーのカメラはおかしくないか。他のホテルのカメラは軒並み故障していたのに、僕を映した映像だけ残ってるなんてさ。

「つまり」とセンシュウは言った。「人質に連れていかれるフリをしてまんまと逃げおおせた犯人、そういう存在として扱われる可能性があるってことさ」

「そんな」

「現に、黒井サワコという担当刑事の一人は僕を疑っているらしいよ。自宅に仕込んだセンサーが起動した。彼女は念入りに僕を調べている」

 ――なんなら、自室に細工もされて、状況証拠をでっち上げられてしまったかもしれないな。

 そう彼は言う。

「私にできることはありますか?」とキョウカは訊いた。

「ごめんね」

 とセンシュウは言った。

「本当は、君を巻き込むのはよくないと思ったんだよ。だって――僕には君しか頼れる存在がないけど、君は世間的には、まだ大学生の女の子なんだから」

「そんなこと気にしないでください!」

 キョウカは怒鳴った。

「ありがとう――」とセンシュウは涙ぐんでいた。

 そして、

「幸い、僕を手伝ってくれる人が他にいる。僕は彼らの助けを借りて、直接、犯人を捕らえるつもりだ。最後のピースとして、君の手助けが必要なんだよ」

 と言った。

「犯人を――?」

「目星はついてるよ。まさかとは思ってたけど、筋は通ってるし、今はこの可能性に賭けるしかないんだ――」

 そうして、センシュウは電話口で、


「犯人は藍沢テトラだ」と言った。


 黒幕が藍沢テトラ――? キョウカは、なにも言えなかった。

 いや、でも、しかし、たしかに辻褄が合う。

 藍沢テトラの曲には、まことしやかな噂が流れている。彼女の歌を聴いた人間は、パラレルワールドの夢を見ることができる。

 昔は笑って済ませていた。でも今は、自分が実際に経験してしまっている。

 そして、今回の事件との類似性。ウソの怨恨で被害者を襲い続ける、互いに面識のない実行犯。ウソの怨恨。ウソの怨恨――!

 ――藍沢テトラにもし、ありもしない夢を見させる力があるとして、この事件は簡単に起こせるんだ!

 キョウカは眩暈がしてきた。

 しかも、藍沢テトラには動機がある。

 かつてストーカーに襲われ、キャリアを絶たれたこと。そのせいで同情されるどころか、世間のバッシングを受け続けたこと。

 ――世界を恨むには充分すぎる。全員を自分と同じ目に遭わせたいと思っても不思議じゃない。

 藍沢テトラのストーカーもまた、ありもしない相思相愛を口にして犯行に及んだ。

 同じような思いを他人にさせたいと思ったのでは。なにひとつ身に覚えのない恨みで襲われる被害者という地獄絵図の再現。

 キョウカは唾を呑み込んだ。

「しかも」とセンシュウは言った。「テトラの歌詞にはキュルテンのナイフが登場するんだよ。アルバム未収録で有名じゃないけどね」

 たしかにそうだ、確定じゃないか。

 センシュウ兄さんもそう言ってる。

 ――黒幕は藍沢テトラだ! そう考えれば最近の急すぎる復帰劇も合点がいく! 自分が不自然なまでに騒動の被害者を演じ続けたのも、疑いを自分に向けさせないためなんだ!

「私になにができますか」

「実は」

 とセンシュウは言う。

「どうやら彼女は一人の学生をそばに置いて、今は遠くに雲隠れしてる。たぶん、暴れすぎたことを反省しているんだろう。だけど、その学生の身は危ない。人質になるかもしれないし、洗脳されているかもしれないんだ」

「――はい」

 キョウカは手に汗が浮かんでいることに気づいて、スマートフォンを持ち替えた。

「その学生は、浜辺ヒデアキだ」と彼は言った。


 キョウカは脳がバチバチと火花を上げている自分自身を感じていた。

 ヒデアキ――!

 そうだ、あいつは藍沢テトラと関係がある、なのにそれを妙に隠していた。ぜんぶ合点がいく。ヒデアキはテトラに操られているか性的に篭絡されて、彼女のそばにいる!

 だから大学にいない!

「は、はぁ、はぁ――!」

 キョウカは呼吸が乱れた。怖い。

 ヒデアキは大変な目に遭っている。そして話の流れからして、彼を助けられるのは私しかいない。

「大丈夫? キョウカさん――」

「だっ、あ、だ、大丈夫ですよ。問題ありませんから」

 大嘘だ。

 助けて。誰か助けて。誰でもいい、私のことを助けてほしい――。

 そんな本音をキョウカは抑えつけた。そうして、

「ヒデアキにコンタクトを取って、藍沢テトラをおびき出す。それができるのは私しかいない――そういうことですよね?」

 と確認した。

「うん」とセンシュウは答える。「でも、危険すぎる」

「いいですよ、センシュウ兄さんは、昔から怖がりですから。助けます」

 そう言って、キョウカは自分を奮い立たせるために、無理やり笑う。

「ありがとう」と彼は言った。「僕だと怪しまれる。キョウカさんは同じゼミだろ? 連絡だけでいいんだ。それだけで上手くいく」

「はい」とキョウカは言った。

「大丈夫です。ヒデアキはちょっと前まで、私を好きだったんですよ。彼を誘うくらい、全然できます」

 キョウカは恐怖に打ち震えながら、ただ、それだけをセンシュウに約束した。


  ※※※※


「ふう」

 電話を切ったあと、瀧千秋はため息をついた。

「キョウカちゃん、僕を信頼してるからって素直すぎるな――これじゃあやり甲斐がないよ」

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