第10話 DROP


  ※※※※


 遡って、3月12日(土)00:30

 ヒデアキはベッドに裸のまま、左肩にジーイの頭を乗せて仰向きになっていた。

 彼女に言われるままに、何度も犯した。おそらく「犯した」という言葉が適切だと思う。

 暴れそうになる自分の衝動をコントロールするのに必死だったのに、ジーイは何度も、

「もっと」とねだってきた。「ヒデアキくん、もっと、もっと強くして。もっと、酷くしてよお――」

 ――どうしたんだろう。

 戸惑いながら、だけど、もう我慢できないと思った。

 相手の心の在りかたを尊敬して、自分もこうありたいと憧れながら、その身体を快楽の道具みたいに扱えてしまうのはなぜだろう。

 相手の笑顔に差し込まれた優しさや、涙の陰にうっすら兆す悲しみに胸を引き裂かれながら、それでも、その四肢に肉欲をぶつけてしまえるのはなんでだろう。

 なにも分からない、とヒデアキは思った。テトラさんのことだけじゃなく、俺は俺のことをなにも知らない。

 行為が終わると、ジーイはぎゅっとヒデアキを抱きしめてきた。

「ヒデアキくん」と彼女は言った。「『お前は俺のものだ』って言って――?」

「ジーイさんは、俺の」

「違う」とジーイは泣きはらした目で囁いた。「『お前は』って言って?」

「――お前は俺のものだ」

 彼がそう言うと、抱きしめてくるジーイの力がもっと強くなった。少しだけ痛い。

「『誰にも渡さない』って言って?」

「誰にも渡さないよ」

 今度はヒデアキのほうから、ジーイを強く抱き寄せる。

「ハジメさんとなにがあったか、俺は訊かない。話したほうがすっきりするなら、話して。なにがあっても、ジーイは俺のものだよ。絶対」

「ほんと――?」

「うん」とヒデアキは頷いた。

「ジーイのことも、トリィさんも、テトラさんも、俺が守るよ。――卒業後の仕事にアテがあるわけじゃないけど、それっぽいバイト先もあるし。ちゃんと稼いで支えたい。あと、いっぱい料理とかつくってあげたい。だからなにも心配しないで」

 ヒデアキはジーイの長髪を撫でた。

「俺が年下だから不安?」

「ハジメが――」


 それ以降のジーイの話は、あんまり要領を得なかった。

 ハジメって人が、直接なにか言ったわけじゃない。ジーイさんのほうも、きっと、ハジメって人のことを悪く言いたくないんだ。

 要約すると――ハジメさんは、自分の元カノであるテトラさんが、幼い学生の遊びに振り回されているんじゃないかと心配していたらしい。そんな気持ちをぶつけられてしまったテトラさんは――ハジメさんがまだ自分を好きだということと、自分も彼に未練がないわけじゃないということに気づいて、きっとグチャグチャになったんだ。

 ――憶測だが、なんとなくヒデアキはそう感じた。

「俺が卒業できたら、結婚しませんか?」

 思わず、そう口を突いて出た。

「いいの?」

「――俺はジーイたちがいい」

 他に女の人の寂しさに向き合う方法なんか知らない。

 俺の人生を全部あげて、好きに使っていいから、もう泣かないでほしい。

 それしかできなかった。

「ヒデアキくん――」

 その言葉を聞いたジーイが、また泣いて彼の胸板に顔をうずめて、ぽたぽたと涙の粒が肌にくすぐったく落ちていく、

 そんなとき、

 

 バン!!

 

 という打撃音がホテルのドアを脅かした。

「ひいっ」

 ジーイは身をすくめる。ヒデアキにも、なにが起きているか分からない。さらに部屋の向こう側から、バンバンバンバン!! と拳でドアを殴りつける音が聞こえてくる。

「出てこいよ――藍沢テトラあッ!!」

 と怒鳴り声が響いた。女の声だ。

 とりあえず、ヒデアキは慌ててジーンズに足を通した。ジーイにも、さっきまで着ていた洋服を渡す。

「とりあえず着てください! なんかヤバいですよ!」

「う、うん――」

 二人がそうやって準備をしている間も、ドアの向こうの罵声は全く収まらなかった。ヒデアキはなにか武器になるものを探して、なにも見つからない。

 どうする? どうする? どうする!?

 ヒデアキの脳裏には、二月の美術館の事件がハッキリと甦っていた。

 ――今回はその続きだ!

 なんでだよ! テトラさんがなにをしたってんだ!?

 しばらくすると、声がやむ。――いや、違う、ドアの向こうで複数人で話し合っている。

 なにを?

「おい、藍沢テトラ」という呼びかけが聞こえた。さっきとは違った。――男の声だ。

「お前がこっちに来ないから、オレたちのほうから入って行くからな」

 そして、ドアの鍵が――かちゃり、と開いた。

 は?

 ヒデアキが呆然としていると、ドアはゆっくりと開き、そこに三人の男女が無表情で立っている。

 そのうち、一人はホテルマンだった。

 合鍵を使われたんだ、と、分かった。

「!」

 三人はゆっくり部屋に入ってこようとする。どうすればいいか分からない。美術館の事件のときと同じなら、こいつら一人一人の強さは俺の手に負えない。じゃあどうする? 俺を囮にしてテトラさんだけでも逃がすか!? もう、それしかない!

 ――別に俺はどうなってもいいんだ。テトラさんには指一本触れさせない!

 そんな風にヒデアキが顔を強張らせていると、すぐ後ろから、

「どけ」

 という声が聞こえた。と同時に、ヒデアキはグンと肩を掴まれ、部屋の奥のほうへと投げ飛ばされる。

 呆然とする間もないまま、ヒデアキは床に転げ回った。

 次の瞬間、

「ナメてんのか――カス三匹でオレを殺れるとでも思ったか?」

 と、ヒデアキを投げた声の主は吐き捨てる。ヒデアキは曖昧な意識のなかで、それが誰なのかようやく分かる。

 ――モノオさんだ。藍沢テトラさんの、四つ目の男の人格だった。

 彼の特徴は、そうだ、敵意、敵意、敵意、敵意――。

「アアアアアア!!!!」

 モノオが怒鳴り声を上げながらドアに走り、瞬きする間もなく、真ん中の男に飛び膝蹴りを喰らわせる。その勢い余って相手の後頭部がホテルの壁に直撃。膝は正確に鼻と唇の中間を狙い、前歯が全て折れた音がする。

 モノオは着地する。そして振り向き、

「があッ!!!!」

 そうダミ声を上げて左の女の顎を蹴り上げ、次に、その勢いで右の男の頸動脈にかかと落とし。

「あっ――」

「がっ――」

 二人とも、その場に崩れ落ちた。

 モノオは、

「ああああ――ムカつく、ムカつくムカつくムカつく――」

 とその場で地団駄を踏んでから、既に倒れていた女の髪を鷲掴みにして起き上がらせ、

「オレの怒りが鎮まらねえ、なァ、アアアア!!!!」

 と怒鳴り散らしながら、ドアの枠、金具の部分に彼女の顔面をブチ当てた。

 ブチッ、と、鼻の軟骨が潰れた音がしたかと思うと血が噴き出る。

 ――正当防衛にしては、やりすぎだった。モノオは今、自分の攻撃衝動を満たすために好き放題に動いている。

 モノオはもうひとりの男を冷たく見下ろすと、

「お、テメエいいもん持ってんなあ」と笑い、ゴツゴツしたロレックスの腕時計を奪ってナックル代わりに拳に巻きつける。

「ひ――」と男は悲鳴を上げた。「た、たっ、助けて。助けて!」

「あ?」とモノオは青筋を立てる。

「テトラが助けてって言ったとき、お前は助けてくれたのか? なあ!? お前がブチのめしたからテトラは今こうなんだろうが!」

 モノオの言いぶんは破綻していた。彼には、十年以上前の襲撃犯とその他の人間の区別がついていない。

「テトラが苦しんでたときも、お前らはテトラを罵ってたよなあ!! テレビで、ネットで、カス芸人どものラジオでよお!!」

 彼には、テトラを誹謗中傷した人間とその他の人間の区別がついていない。

 モノオにとっては、テトラ以外の人間は全て敵だ。

 そのとき、

 九階のエレベータが開いた。

「ああ?」

 モノオがそちらを見ると、エレベータから出てきた人形は全部で十体。おそらく、今後もっと敵は増えていくだろう。

「こりゃいいぜ!」とモノオは笑う。「ブチ殺してもいいゴミが向こうから来やがる!」

 人形たちが、洗脳のせいだろう、

「許さない――」

「憎い――」

「八つ裂きにしてやる――」

 と呟いているのを見て、

 モノオの表情にさらに怒りが満ちた。

「――憎いだあ? そりゃこっちのセリフだ」

 そうして先ほどの腕時計の持ち主を廊下に引っ張り出し、

「人が憎いっていうのはなあ、こういう気持ちなんだよ! アアアア!!」

 そう叫び、金属製の腕時計を巻きつけた拳を、何度も何度も男の顔面に振り下ろした。手加減がない。頬骨が砕けて、鼻がへし折れて、口の中が抜けた歯の突起によって血だまりになっていく。それでもモノオは拳を止めない。

 人形たちの表情に怯えの色が走った。

 モノオの拳が血でボタボタと濡れる。

「クク、ク――」とモノオは笑いながら立ち上がる。そのとき、もう男の顔面は内出血で巨大なブドウのように紫色に膨れ上がっていた。モノオのほうは、返り血を楽しげに舐めるだけだ。

「人間が憎いって気持ちがどういう気持ちか、教えてやるよ。カスども」

 そうしてモノオは廊下を堂々と歩いた。

「トリィの野郎、生意気にオレを封じ込めやがって。だけどもう自由だ。テトラの敵は、つまり、人間は、オレが殺す。どいつもこいつも皆殺しだ」

 そうして、拳を握りしめた。

「どうした?

 あ?

 刺せるモンならオレのこと刺してみろオラアアアア!!!!

 ハハッハハハッ!! テメエら全員血祭りにしてやるぜ!!」

 こうして、横浜のホテルはさらに惨劇の舞台になった。


  ※※※※


 3月12日(土)01:00

 ヒデアキは慌てて廊下に出た。モノオさんはとっくに十体の人形相手に臨戦態勢。先ほど自分が倒した三体から骨董ナイフを奪うと、

「消え失せろ――」

 と呟いてから一本ずつ投げ刺した。

 十体のうち、先頭を走っていた男の腹部に二本のナイフが命中。そのまま倒れる。人形たちはお構いなしに、倒れた仲間を踏み潰しながら行進を止めない。残りの一本は先頭の老人の左足を潰した。

 それから彼は、自分がブドウみたいにした男の髪を掴み、

「アアアア!!!!」

 と咆哮。そのまま廊下の向こうに投げつける。前衛の三体にぶつかって、彼らは体勢を崩し、うしろにいた奴らもすぐには動けなかった。

 成人男性の平均体重は78キログラムで、投擲の速度と合わさるとそのエネルギー量はちょっとした砲弾になる。

 モノオはゆっくりと集団に歩いていく。

 そして、うろたえている人形たちの顔面を、一個ずつ、腕時計を巻いた拳で、丹念に殴り潰していった。

「オラア!!」と彼は怒鳴った。老若男女問わず。モノオに複数回殴られた人間は、鼻をへし折られ、歯を砕かれ、顎をブチ抜かれる。

「オレの怒りは、こんなもんじゃねえぞ――まだまだ怒り足りねえなあ!! アアアアアアアア!!!!」

 うつぶせに倒れた人形のうち、一体の頭髪を掴んで、力任せに床に叩きつける。黒く、淀んだ血が飛び散った。

「おい、気絶してんじゃねえ。

 テトラは十年以上前になあ、もっと酷い目に遭ったが、頑張って、頑張って生きようとしたんだ――オレのテトラを見習えよ?」

 モノオは歯ぎしりをしながら、ただ暴力だった。

「テトラを見習え!! アアアア!! がっ、あ、コラアアアア!!!!」

 べちゃべちゃべちゃ――という音に打撃が変わっていく。人間は血が詰まった袋だ。何度も殴りつけると、そういう湿気の混じった音しかしなくなるのだ。

 もう人形たちは動かない。

 廊下の床も、壁も、天井も血反吐まみれだ。

 ――なのに、モノオは行動を止めなかった。

「お~し、次はどこに行けばゴミがいるんだ? いい機会だしな。みんな潰してやる」

 どうせテトラ以外の人間は全員敵だ――生きようが死のうが、オレの知ったことか。

 彼の獰猛な表情はそう告げていた。

「この騒ぎを起こしてくれた奴に感謝だな? 復讐心が満たされるぜ」

 ヒデアキは、そんなモノオをずっと後ろから見ていた。

 ――怖い。怖い?

 いや、きっとそういう感情じゃない。

 ――悲しい。そう思った。

 彼は、医者からは詐病だと言われて突き放された藍沢テトラの多重人格障害について、ちゃんと図書館で調べたことがある。

 どんな人格も元々の人格の一部分である。

 精神科医のピエール・ジャネは、これを「解離」というシステムで説明している。人間はあまりに残酷な体験をしてしまったとき、こう思い込むらしい。「これを経験したのは私ではない」。そうして、自分の魂から一部分を切り離して別人格が生成される。

 モノオさんの怒りは、テトラさんの一部なんだ。

 そりゃ、そうだろ。

 なんにも悪いことをしていないのに、ストーカー野郎に襲われ、二次被害に遭って、十年間以上ずっとキャリアを断絶させられた。

 自分だったらどう思うだろう。怒る。憎む。それも、犯人だけじゃなくて、世の中ぜんぶを恨むかもしれないと思った。

 モノオはテトラの心のひとつ。

 俺が好きになった、分かったつもりでいた女の人の、いちばん奥底にあるドロドロとした復讐心の塊だった。

 ――モノオは人形たちの顔を無遠慮に踏みつけながらエレベータに移動していく。

「ダメだ!」

 思わずヒデアキは飛び出した。理由は簡単だ。

 腕時計を巻いた拳の、指関節に痣が浮かんで痛んでいる。

 俺にテトラさんの恨みを抑えつける資格なんかない。でも、そのせいでテトラさんが傷つくのはダメだ!

 ヒデアキはモノオに駆け寄り、その腰にしがみつく。

「もうやめましょう! モノオさん! これ以上やったら逮捕されるのがテトラさんですよ!」

「――浜辺ヒデアキか」

 モノオが静かに振り返る。

「トリィやジーイから聞いたぜ。お前、テトラのこと守ってくれてたんだな」

「え、あの――」

「いい迷惑だな」

 モノオはヒデアキの腹を膝で蹴り上げる。「がっ」と声が漏れて、胃液が逆流しかける。

「お前がテトラを歌わせたんだ。だからこんなことになったんだ。お前、全部、余計なお世話なんだよ」

 ヒデアキは痛みに悶えて、廊下の床を転げ回る。

 モノオはそれを静かに見下ろしていた。

「ジーイもトリィも、テトラも、お前のなにがいいんだろうな? お前、なにもできないだろ? オレがテトラを守る。もうテトラは歌わせない」

「が、あ、は、ああ――」

「なんだそのザマは? 死にかけの小蝿だな」

 モノオは、うつぶせに倒れるヒデアキの肩に足を置いた。そして、少しずつ体重をかけていく。

「ぐ、ああああ」

「骨を砕いてやるよ、身のほど知らずのカスが。お前がいるとオレたちが迷惑なんだ」

「テトラ、さん、は――歌うんだ」

「ああ?」

「モノオさんだって、本当は歌ってほしいんだ!」

「黙れ、ガキが」

「モノオさんは、テトラさんの味方でしょ――俺だってそうだ――俺だって、役に立つことくらいある――今はなにもできなくても、いつか――」

「ハッ」

 モノオは笑い飛ばす。「なんだコイツ? 命乞いか? じゃあ教えてやるよ。無能な味方は敵よりも先に排除すべきだ。――お前のことだよ」

「テトラさんの手を、汚い血で汚すな――あの人の手はギターのための手だ」

「黙れ、もう騒ぐな、ガキが――!!」

 モノオが足を持ち上げて、思いきりヒデアキを踏み潰そうとしたとき、

 もういちどエレベータのドアが開いた。

「なんだ?」とモノオはそちらを向く。「うざってえ。なんなんだよどいつもこいつもよお――」


 エレベータから出てきたのは、感傷的なシンセシスのギターボーカルであり、ヒデアキと同じ六平ゼミ在籍の大学生、九条アヲイだった。

 野球帽に短い黒髪。カーキのジャンパーコート。だぼだぼのセーター。ミリタリーブーツ。

「助けにきたんだけど」と彼女は言った。「なんか空気が違うな?」

「ああ」

 とモノオは笑った。「お呼びじゃねえよ。出てけ、チビガキが!」


  ※※※※


 3月12日(土)01:30

 九条アヲイはいったん天井を見上げ、次にモノオの顔をじっと見つめてから、最後にヒデアキのほうに視線をやった。

「ヒデアキ、大丈夫か」

「アヲイさん――なんで――」

「ごめんね。この人、ヒデアキの好きな人なんだろうけど、いったんブッ飛ばすから」

「――!」

 ヒデアキは、モノオに蹴られ、踏みつけられた吐き気と目まいでマトモな判断ができない。体も動かなかった。

 ――なにもできない俺の代わりに、アヲイさんが、テトラさんを止める?

 まただ。また、俺はなにもできない――。

 モノオが「ん?」と、きょとんとした顔になった。「なんだお前ら、知り合いなのか」

「え、うん」とアヲイは頷いた。「同じ大学の友だちって感じ」

「へえ」

「ヒデアキは美術館のときも、あんたを助けるために大怪我したよ、テトラ先輩。こいつはそういう奴だよ。だから尊敬してる。友人として」

「なるほどねえ」

 モノオは納得したように頷いてから、

「じゃ、これはどうだ?」

 そう前置きしてから、ヒデアキの体を一切の容赦なく蹴り上げた。

「ククク」とモノオは獰猛に笑う。「これでやる気になったかよ、学生ちゃん。さっさとかかってこい」

「――先輩」

 アヲイの目が残酷に冷たくなった。「ビョーキを言い訳にしてキレて暴れてんじゃねえよ。ちょっとシバいてやる」

 ヒュン、と風を切る音がする。アヲイの姿が消えた。

 消えた? ――いや、違うな。

 後ろだ。

 即座に振り向いて右足を上げる。そうして、アヲイの蹴りをノーダメージで受け止めた。――こいつ初手からオレの膝を壊す気で蹴ってきやがったな。

 面白え。

 アヲイの左腕から繰り出される手刀の連続を片手でいなし、もう片手で拳を握る。

「お粗末な体術だな。基礎がなってねえよ、ガキ」

 そうしてモノオがストレートを繰り出すと、

 繰り出す直前、まだモノオが拳を握りしめる前のタイミングで、アヲイは回避動作で後ろに下がっていた。

 結果、ストレートは空振り。

 一瞬、沈黙。

「――?」

 モノオは首を少し傾げる。なんだ、この違和感は?

 こいつ、もしかしてトワ坊と同じタイプか? あの女好きのクソバカと? だとしたら合点が行く。

 ――未来が見えている。いや、心が読めていると言ったほうがいいな。結果は同じだが。

「なあ」とモノオは声をかける。「おまえトワとケンカしたことあるか?」

「え?」とアヲイは答える。「まあ何回か」

「トワと同じだろ、お前」とモノオは言った。「もっとも力そのものはお前のほうが上だな。トワが2秒先ってところを、お前は5秒くらい。違うか?」

「――違わない」

「そこから逆算するに」とモノオは言葉を続ける。「ウソの記憶もお前のほうが豊富だ。心を読める範囲も広いだろ。このホテル全部か」

 アヲイは少し困ったような表情をする。

「――ケンカして集中してると広げらんないっすよ」

「オレと殴り合う前でいいよ、答えろ」

「横浜全部」

 ――横浜全部!?

「ハハハハハ!」とモノオは腹を抱えた。「お前、マジのバケモンだな。まったく、この世に音楽があって良かったぜ!」

「? なにそれ」

 モノオはそれ以上は言わなかった。なので《僕》が代弁するとしよう。

 ――藤子・F・不二雄の傑作SF作品『ドラえもん』の主人公・野比のび太は、銃が規制され戦争も内乱もない戦後日本に生まれて幸せだった、というジョークを聞いたことがあるだろうか。射撃の腕は抜群、どこでも昼寝できて縄遊びも上手い。

 これは控えめに言って、殺し屋に適正がある、と。

 だけど、才能を活かすことが幸せに繋がるとは限らないわけだ。

 ――アヲイやトワの力は、本来、ミュージシャンとしてささやかな成功を得るよりも、むしろ生物兵器として運用されるほうが適している。

 もちろん、本人たちはそれに気づいていないわけだが――。

「待ってやる」とモノオは言った。「今のお前は話にならねえ。雑魚すぎるぜ。カンフーでもなんでも思い出してこい」

「あ?」

「――トワのフィジカルを加味して、お前とトワ、まあだいたい互角ってところだろ?」

「まあ」とアヲイは答えた。これは嘘。実際の戦績は二敗一引き分けってところだった。

 モノオは笑った。

「トワ坊がオレに勝てたことはねえよ。さっさと来い、金持ちボンボンの一人娘」


 アヲイは少し肩の力を抜いて、目をつぶる。モノオはそれを黙って見ていた。

 やがて彼女は瞳を開けて、「よし、行くぞ」と言った。

「さっさと来い。眠てえよ、お前」

 アヲイは全力でモノオに接近して、直前で急ブレーキ。

 右足を上げてモノオの顔、肩、胸、腹の順番で蹴りを連続していく。

 モノオはその衝撃を、体勢を傾けることで最小限のダメージに抑えていった。おそらく、アヲイはそういうモノオの動きも「読んだ」上で動いているだろう。しかし決定打を繰り出せないままだった。

 アヲイにもトワにも共通する、致命的な弱点――読めたとしても対応できないなら読んだ意味がないのだ。

「相手が未来を読めるって知ってんならよ」とモノオは思う。「それを計算に入れて間合いを詰めりゃいいだけだな」

 そして、アヲイが蹴りの足を引っ込めた一瞬の隙を突いてモノオは簡単なジャブを出す。パン! という音が響いた。アヲイの顔に拳が当たった音だ。

 ――分かってても避けられねえだろう?

 人間の体は特定の骨格と特定の筋肉の集合体だ。その動きには必ず「制約」がかかっている。ジャンプして着地した瞬間だけどこにも行けないのが典型だ。オレはその隙を突いてこいつを殴ればいい――掛け算九九より簡単な理屈だぜ。

 アヲイは後ろに下がり、「いってー」と言った。少し鼻血が出る。

「ちょっとまずいな」とアヲイは呟いた。「勝てないかも。こいつ、トワよりマジで強くねえ?」

 ――アヲイのほうはと言えば、ここで戦略を変えるかどうか悩んでいた。最初はテトラ先輩を止める予定だったけど、それが不可能なら、ヒデアキだけ助けるほうがいいな。

《――ユーヒチは他の階で皆を守ってる。

 私がテトラ先輩を止めたいのはワガママだ。そのワガママで他に負担をかけるわけにはいかない》

 アヲイがぼそぼそ呟いていると、

「やめだ」とモノオは言った。「お前はオレに勝てねえよ。つまんねえ。オレは外に出て好きにやるから、お前はヒデアキ連れてさっさと失せろ」

「え――」

 アヲイは両拳をほどく。

「その様子だと、どうせユーヒチって男の話も無視して来たんだろ? ああ? さっさとどっか行って、人助けの善人ごっこやってろカス。なんならオレがその優男ブチのめしてやろうか」

 モノオがそう言うと、アヲイの顔に少しだけ《怒》の色が浮かんだ。

 ――ん? とモノオは思った。なんつうか妙だな。

 オレがユーヒチを悪く言ったとたん、急に強くなった気がするが――。

 ああ、そういう仲だったっけ? じゃあそれを利用させてもらおうか。

 モノオは笑う。

「ユーヒチとかいうよお! 顔しか取り柄のないクソベースのショボチン野郎のとこにさっさと行けよ! って言ってやったんだオレは! なあ!!」

「てめえ――」

「雑魚だろう、あの男。今だってお前のオッパイが恋しくて泣いてるだろうな。ククッ――お笑いだよな、レインのアホから聞いたぜ。ナクスとかいうバカガキが死んでず~っと自暴自棄に生きてきてよお、今度はテメエみたいイカレ女が生き甲斐なんだとさ。あのカスチンポ野郎はよ!」

「黙れよ」

「自分の男を傷つけられるとキレるんだろ? 分かりやすいなアヲイ! もっと怒ってみろオラ!! オレの怒りはそんなもんじゃねえんだ!! さっさと全力で来いカス!! それともユーヒチとかいうクソザコのポコチンを慰めることで頭いっぱいか? アア!? どうなんだよ!? アヲイ!!」


 ブツッ、と音がした。ように聞こえた。


 アヲイが切れた音だ。

「てめえの――」とアヲイは言った。「てめえの薄汚え口から、二度と私のユーヒチの名前を出すな」

 ――お望み通り殺してやるよ。ゴキブリ野郎。

 モノオが瞬きする間に、アヲイはダッシュで真正面に移動していた。

「お――!」

 モノオが咄嗟に対応する前に、その首筋にアヲイの上段回し蹴りが入っていた。

「――ハハ!」

 モノオは笑う。やっと本気になったのかよ、このメスザル! 早え! ぜんぜん見えねえ!!

 急いでガードをする前に、アヲイはすぐに足を引っ込めて、――いや、引っ込めない、空中でもう片方の脚を上げている。

 モノオの顎が蹴り上げられた。

「アアアア!!」

 アヲイが完全に理性を失っていた。もう、最初の目的など忘れている。

「ユーヒチのことなんつった!! もっぺん言ってみろコラア!!!!」


  ※※※※


 遡って、3月12日(土)00:30

 レッドへリング1号館最上階、モニタリングルームのリクライニングチェアに八木は座っていた。

 ――ペギンとスンハが失敗した。おそらくもう生きてはいないだろう。

 なぜだ。拳銃一丁のチンピラ相手なら余裕で制圧できる程度の訓練は積ませていたはずだ。

 仮に瀧に襲撃の情報が漏れていたとしても、それだけでは今回の結果に繋がり得ないだろう。瀧本人に大した実行力がないのは分かっている。

 では、なぜ?

 ボディガードの存在。襲撃係をつくりだせるように、防衛係もつくれるということか?

「――で、追撃はどうする?」

 これは八木の独り言だった。

 同じルートの情報漏洩を避けるためには、今すぐ手下の連中に指示を出すことは避けたい。だが、そうこうしているうちにも瀧は逃げていく。

 態勢を立て直すか、四の五の言わず追撃するべきか。

 八木が一瞬迷ううちに、部屋に一人の女が入ってきた。マイヤーズミュージック側の従業員ではない。裏側の人間だ。

「すみません、八木本部長」

 彼女は骨董ナイフのレプリカを構えた。「瀧センシュウ様の真実に気づいた者には消えてもらう必要があります。彼がこれからも心穏やかに生きていくためには、あなたが犠牲になるのが最善です」

「そうか、君がスパイだったか」

「ええ――そうですね」

 八木は大人しく両手を上げていた。

「俺も老いたな」と八木は言った。「姑息な王将をこんな些細なミスで詰め逃すとは」

「負け惜しみはあの世でお願いしますね。まあ、せいぜい安心するといいですよ。あなたの愛する一ノ瀬ユージが待っていますから」

「ははは」

 八木は笑った。「ユージがいるのは天国だよ。俺は同じ場所には行けない」

「そうですか」

 そうして女は骨董ナイフを逆手に持ち、八木に駆け寄ろうとした。

 ――が、

 すんでのところで、その腕を闇の中から何者かに捕まれ、関節をキメられるとその場に崩れ落ちた。途方もない腕力。

「――君は誰だ?」

 どうやら助かったらしい、そう思いながら、暗闇のなかで八木は問い質した。

「俺は端役だから記憶にないか?」と相手は言った。「いかにも表現者を使い潰す企業側、ってところだな。まあいい」


 その声を聞いて思い出す、

 彼はプログレッシブロックバンド「西園学派」のベース担当、鷹橋リンドウだった。


「なぜ君がこんなところにいる」と八木は問う。

「さあな」とリンドウは素っ気ない返事だった。「俺は阿呆だからリーダーの言うことに従うだけだ。あとはそいつに聞いてくれ」

 彼はそう言って、押し倒した女をロープで縛りつけたあと、スマートフォンを八木へと手渡した。通話はオンになっている。

 八木は耳もとにスマートフォンを当てた。

「もしもし」


《ご機嫌よう、我らがフィクサーどの?》


 と電話の主は答えた――その声は西園カハルだ。

《まあ間一髪だったみたいだな。あとはリンドウに従ってそこから逃げてくれ》

「待て」と八木は言った。「なぜお前がこのことを知っている。襲撃も、その失敗も、俺の場所も、どこから掴んだ?」

「ハッ」

 カハルの笑い声はいつも凶暴だ――八木のアタマからすっぽりと抜けていた、ある意味ではアヲイよりも厄介な存在だった。

 ――アヲイはイカれている。だが、カハルは正気のままで常識外だった。

「そりゃまあ、アタシが名探偵だからかな? どいつもこいつも手がかりを残しすぎだ。だから、推理パートはスキップだぜ?」

 そう彼女は言った。

 八木が戸惑うなか、リンドウは肩をすくめる。

 ――こういう女なんですよ、すみませんね、とでも言いたげな表情だった。


  ※※※※


 そして、廃倉庫。

 凛は刀を抜いたままトワに近づく。普段は鞘に納め、体の後ろに刀身を隠すようにして接近するところだが、おそらく、今回そうする意味はない。

 間合いは既に見切られているだろう。あるいは、こちらが抜く前に太刀筋は「読まれて」しまうだけだ。

 ――だから、

 凛は直前で銃を抜いて攻撃姿勢を変えたが、そのようなフェイントも効果は薄い。

 ――トワは間合いを数歩こちらに詰め、凛がトリガーを引く前に右手首を軽く左拳で小突いてくる。

 近い。

 発砲。弾丸は腕ごと軌道を外され、天井のどこかを撃ち抜いて消えた。凛はさらに刀を振り下ろす、が、そちらは警棒でガードされる。

「ぐっ!!」

「無策か?」

 直後、トワの蹴りが凛の胴体を吹き飛ばした。

 強い衝撃が脳に走る。痛みは事前に薬物で鈍らせているから問題はない、が、このままではジリジリと不利になるだけだ。

 とにかく武器だけは手放してはいけない。空中を舞いながら、凛は拳銃をタマキに向けた。

 ――これはどうだ!?

 あっちの女は「普通」なんだろう!?

 二度発砲する。タマキはすっと体を縦向きにして――標準的な回避動作だ――廃倉庫のあいだに複数立ち並ぶ柱の陰に隠れた。

 外した――。

 受け身を取ってコンクリートの床をゴロゴロと転がりながら、凛は次の攻撃のための行動を必死に考える。その間に、もう一体の人形がトワに襲いかかった。

 上段回し蹴り、左ストレート、右、中段突き、と攻撃を繰り出していく、が、トワには全く当たらない。そうして彼は、

「二対一も無駄だ」と呟いた。

 最後の一体が、トワと人形の戦うライン左側から近づいてナイフを繰り出す。それを弾くために再び警棒が振るわれた。

 徒手空拳の人形に対応するため左手の拳と、ナイフの人形に対応するために右手の警棒が同時に使われる。

 これ以上の防御、回避手段がない一瞬。

 

 今だ!

 

 凛は起き上がり、拳銃を構えてトワの脳髄に狙いを定めた。引き鉄を引くまでの時間はおよそ0.5秒。

 ――今度は避けようがないだろう? トワ。

 このチャンスのために、凛は今まで作戦を『忘れて』無策で振る舞い、そして直前になって『思い出す』ようにプログラムされていた。

 瀧千秋の――お兄様の力によって。

 トワが心を読むなら、その心をお兄様に書き換えられていればいい――そうすれば秘密は漏れないのだ。

 どれだけ未来が見えても、お前自身の肉体は常に物理的な制限つきだ。いきなり三本目の腕が生えてきたりはしない。

 発砲。

 だが。

 トワはその直前に上体をそらし、すんでのところで弾丸をかわした。そして、勢いそのまま後方転回し、二体の人形からも距離を置く。

 さらに発砲音。今度は凛の銃ではなかった。柱から出てきたタマキの二丁のツァスタバが、まずは徒手空拳の人形を仕留めていた。

「がっ」

 人形が倒れるとき、ナイフ持ちのほうに驚愕の表情が浮かぶ。

 ――それをトワは見逃さなかった。

「瀧の力の弱点はそこだな」と彼が思う心の音が、ホテルのときと同じように凛の脳髄に流れ込んでくる。

「常にリモートコントロールで操れるわけじゃない。相手の記憶だか感情だかを捏造して、あとは自律的に、勝手に動いてもらうだけだ。――しかも時限式かスイッチ式だ。作動するまではそのまま日常生活に潜伏させなくちゃいけない。だからある程度、元々の人格は残しておく必要がある。――そうだろう」

 つまり、こいつらはもう助からないが、同時に情緒はたっぷり残っている。

 だからおれにも動きを読まれるし、驚いて、怯えて、怒って――動きを鈍らせるんだよ。

「カネにものを言わせて本物の殺人マシーンを雇う八木さんのほうが合理的ってことだな」


 全力で投げられた警棒が、ナイフ持ちの額を割った。


 もう、四体のうち二体がやられた。しかも残ったうちの一体は完全に瀧のボディガード用。

つまり残ったアタッカーは凛だけだ。

「瀧」とトワが言った。「お前、自分の力を根本的に勘違いしてるよ。おれなら操ったヤツにカネを集めさせた上で、暴力手段は本格的な連中をそいつに買わせりゃいいだけだ」

 人形に直接ぜんぶやらせたいのはただの趣味だろ。そんな趣味を、こんな緊急時にも貫く必要はないんだ。

 凛は操られているだけのガキだ。不意打ち以外だったらペギンもスンハも負けなかっただろうにな。

 ――そうトワは言った。

「――くそ」

 彼女はもういちど銃を構えるが、

「動くんじゃねえ!!」

 そう叫ぶタマキの自動小銃が彼女のすぐ横を撃ち抜き、完全に戦意を折った。

 ――負けだ。

 凛は大人しく銃を放り捨てた。

 トワは凛に近づき、「悪く思うな。お前に他意はない」と囁いてから、両腕を掴んで丁寧にパキパキと折っていく。

「! ――あッ」

 薬物のおかげで痛みはない、が、もう本当に戦えないことが分かった。

 両足も縛られた。

「さて、もう辞めるか? 瀧」とトワは言った。「それとも残ったボディガードでまだ続けるか」

 彼の声に観念したのか、瀧千秋はボディガード役の女とともに倉庫の隅から出てきた。

「凛」と瀧は言った。「君はこんなバケモノを相手によくやったよ。自分を責めなくていい」

「お兄様、すみません」と、うつぶせにされたまま凛は言った。「負けは負けです。なんなりと処罰を」

 タマキが表に出てきて、瀧の胸に照準を合わせたまま歩み寄る。

「僕は気にしないでいい、って言ったんだよ凛。だいいち、君が勝てるとも思っちゃいなかった。それは最初から計算済みだ」

「――え?」

 凛はゆっくりと瀧を見上げた。彼の表情が見えない。大切な、大好きなお兄様の顔が、ちょうど月が雲に隠れた闇のせいで分からない。

「――凛、僕はただ、君がクルマの逃亡劇も含めて、ちょっと時間を稼いでくれればよかったんだよ。実際、上手くいった。僕たちが弱者に見えれば見えるほど、敵は判断を見誤るんだ」

 そして、瀧は、雲が切れて月明かりが差し込むなかで、

 ニタニタと――この世の邪悪そのものみたいな笑顔を浮かべていた。

 トワが足を止める。その表情に初めて――それは、トワとしては本当に珍しいものだったが――焦りが浮かんだ。

「瀧」とトワは言った。「そういうことか」

 凛には全く分からない。そういうこと? そういうことって、どういうことだ?

 スマートフォンが鳴った。瀧のPixel 6aだ。

「出てもいいかい? トワ。僕の本命の作戦成功の報告かもしれない」

 トワは返事をしない。瀧はボタンを押した。ビデオ通話アプリだった。その画面をトワとタマキと、そして、ついでに凛にも見せびらかす。


 ――画面に映っていたのは、眠り続ける沖田レインだった。


「く――くくく、く」と瀧は笑った。「あ、あはは、はははははははは!!」

 タマキの顔から血の気が引いた。

 ――やられた。トワに狙われてからコイツは作戦を変えて人質を確保。そのための時間稼ぎを、アタシたちはずっと、有利に事を進めているつもりで許していたんだ。

 凛の表情も強張ったままだ。

「トワく~ん」と瀧センシュウは粘着質な猫なで声を上げる。「大事なんだろ、この女が。ん? さっさと凛を解放してその場に跪け」

 ――勝負のケリがついた。


  ※※※※


 いつからだろう。沖田レインのことを思い出せなくなったのは。

 トワはときどき、ぼんやりとそう思う。

 ただ、目の前に赤い長髪の、切れ長の瞳をした鋭い顔つきの人が立っていたり座っていたりすることがあって、そんなとき、

「あんた誰だ?」

 いつもそう訊いた。本当に分からなかったんだ。

 そうすると、その人はいつも一瞬だけ泣き叫びそうな顔をしてから、ふっと笑うか、あるいは大声で笑って、

「僕は沖田レインだよ」

 と自己紹介してくれる。

 ――そうして思い出す。沖田レインは、おれのたった一人の親友だ。

 どうして忘れていたんだろう。どうして忘れてしまうんだろう。そう思った。

 だって、レインは、おれのたったひとりの親友だっていうのに――。

 トワが彼女と初めて会ったのはボーリング場だった。もっとも「彼女」という代名詞は不適切かもしれない。

 彼女の心には性別がない。そして、そのことと関係するかどうかは分からないが、彼女には性的欲求も恋愛感情もなかった。

 その事情が、レインの心に暗い影を落としていた。見るだけで分かった。

 ――トワは、そのときホッとした。

 おれよりも孤独な生きものがいる。この世界で寂しいのはおれだけじゃない。おれよりもずっと辛いのに歯を食いしばって生きているやつがいる。

 そんな風に、彼は、後ろ向きにレインに救われた。

 レインと遊び回った。ワルをやった。不良を殴り、無礼な店から万引きして、酒と煙草に酔いどれた。トワについてきた女たちもレインには一目置いていた。

「おれ、脳がイカれてるんだ。生まれつき」とトワはあるとき告白した。「もうチビのころのこと、なんも思い出せないんだよ。これからも忘れる」

「ハハ! いいじゃないか」

 とレインは笑った。「脳ミソがイカれてるのは、僕だって同じだよ、トワ。引け目に思うことはないさ。マトモな奴らは全員敵さ」

「おれがいつかお前を忘れたらどうする――?」

 トワはそれを訊いたとき、初めて「怖い」と思った。こんな親友のことも、おれはいつか忘れる?

 おれに同情したやつはたくさんいた。おれを怖がったり、逆に憧れてきたりしたやつもたくさんいた。

 でも、同じだけ孤独を分かち合えたのはお前だ。おれの脳ミソから、お前だけはいなくなってほしくないんだ。

 トワがレインを見ると、彼女は少し泣きそうな顔をしてからすぐに笑顔に戻る。

「大丈夫だよ」

 そうレインは言って、また高笑いをした。そんな彼女と彼のやりとりを、ハナコと、タマキと、ビリーが微笑ましく眺めていた。

 そんな青春がアルコールを溶かしてハイライトの火を消していく日々だ。

「何度だってもういちど親友になろう、トワ。君がどうかは知らないが、僕には君しかいないんでね」

 その言葉が、どれだけトワの心を救ったことか。そのことさえトワ自身が思い出せなくなったのは21歳のときだった――。


 そして、現在。

 トワは瀧のスマートフォンを見る。沖田レインは横浜のホテルで横になったままだ。そこに人形は――三体だ――ナイフを突きつけながらこちらに通話をかけていた。

「いつでも始末できます」

「いいね」と瀧は答える。「僕が合図をするか、三分以上返事をしなかったら殺していい。それまでは待機するんだ」

「承知しました」

「ありがとう、時雨。君は優秀だ」

 瀧はそうして、視線をトワに戻した。「――沖田レインが君の親友だよ。思い出したかな?」

「――おかげさまで」

 トワは警棒を捨てる。そして「タマキを傷つけるな。銃をなくしたら、お前の脅威じゃないだろ?」と言う。

 瀧は「お前の心がけ次第だな」と微笑んだ。

 トワはタマキを見る。彼女は歯を食いしばりながらホルスターを全て解いた。そして、凛の両足の拘束を丁寧にはずす。

「申し訳ない」と凛は言った。「こういう作戦だとは私も知らなかったんだ。いや、忘れさせられていたのか――? 本当に、なんて言ったらいいか」

「お前のお兄様とやらは、マジのクソ野郎だな」とタマキは吐き捨てる。

「お兄様の侮辱はするな」と凛は凄む。「悪いとは思うが仕方ない。ルール無用だったはずだ」

「そうかよ、クソ」

 タマキは凛を立たせた。

 瀧はトワに合図をして、彼を跪かせて、両腕を頭の後ろで組ませた。

「本当なら」と瀧は言う。「すぐにでも逃げなくちゃいけないんだ。じきに八木のほうの追手が来る」

 だけど――と瀧は言葉を続けた。

「トワ、君に一発殴られた恨みは晴らしておこう。でないと無関係の人間をまた何人も八つ当たりで殺しそうだしな」

「そうか」

 トワは瀧を睨む。「やるなら早くしろよ。レインとタマキは傷つけるな」

「人間ぶるなよ、ガラクタ野郎が」

 そうして、瀧はトワの顔面を容赦なく蹴りつけた。

 トワの体が転がる。血反吐が飛び散る。瀧は人を殴ったり蹴ったりすることには慣れていない。彼を蹴り上げたあと「おっとっと――!」と体勢を崩した。

 トワはゆっくりと起き上がり、また同じポーズをする。跪いて両腕は頭の後ろ。

「くく、く――」と瀧は笑った。「そんなにこの女が大事なのか? トワくん」

 そうして何度も、何度も、何度も、何度も、何度も瀧はトワの顔面を蹴り続けた。鼻と口から血が垂れ流れ、頬は腫れて、元の造型をとっくに失っている。

「レインは女じゃない」とトワは答え、ぺっ、と血を吐いた。「男でもない。レインはレインだ」

「おいおい!」と瀧は笑う。「そいつはこの雌犬の下らない性自認の話だろ!? 僕が言ってるのは、こいつのカラダの使い道だよ!!」

「あ?」

「――お前の態度次第では、こいつを死ぬよりも屈辱的な目に遭わせていい」

 瀧は眼鏡の位置を直した。

 その言葉は明らかに、性的暴力を仄めかしていた。

「こういう沖田レインみたいな人間が、自分の性別が『女』でしかないって屈辱を暴力とともに思い知らされるのはどんな気持ちだろうなあ、トワ?

 親友の尊厳を守りたいなら、もっと、もっと、もっと従順になるんだ、僕にさあ――!」

 そして、もういちどだけトワの顔面を蹴り飛ばした。

 彼の体がさらに跳ねて、コンクリートの床を転がる。

「お兄様!」と凛は叫んだ。自分がどうして叫んだのかは分からない。

 ただ、もうこんなのは見ていられない、と思った。

「どうしたの、凛?」と瀧はにっこり笑った。「ああ――もう彼らと遊ぶ余裕はないということかな。うん、凛の言うとおりだね?」

 そして、ボディガード役の人形に「刀を拾って? 聖里伽」と命じた。

「は~い」と、ボディガード役は――聖里伽は頷き、凛の愛刀を握る。それからタマキを一瞥して、「悪く思わないでねえ? 追いかけられるのも面倒だしい、こういうやりかたで済ませちゃうからさあ」

 と笑い声を上げながら、

 聖里伽は、トワの腹部に刀剣を深く突き刺した。

「ぐっ――!」

 彼の口から血が溢れる。

 刀を勢いよく引き抜く。パパパッ、と、鮮血が飛び散った。そうして、トワの胴体を、彼女は肩から腰にかけて斜めに一刀両断した。

 トワはなにも言わず崩れ落ちる。

「あ、ああ、ああああ――!!」

 タマキの声が震えた。聖里伽は首を振って「早く車に乗せて病院に運べばあ? もうセリカのお兄ちゃんのこと、追いかけてる場合じゃないでしょ?」

 と言った。

 ここでトワを完全に始末したら、タマキは自分の命も惜しまず攻撃してくるだろう。瀧個人の生存を考えた場合、そのほうがリスクも高い。どうなるか予想もつかない。ならば一縷の望みを見せ、いちど退かせてしまうのが得策だ。

「まあ――」と聖里伽は邪悪に笑う。「もうコイツの命の保証はできないけどねえ?」

 タマキが必死の形相でトワに駆け寄る間、凛と瀧と聖里伽は意気揚々と廃倉庫から去っていった。

 ――こうして、連続通り魔殺人事件の黒幕たちは、完全に姿を消した。


  ※※※※


 同時刻。横浜のホテルで、モノオはアヲイの首根っこを左腕で掴み、廊下の壁に磔にしていた。

「くそが!」

 と、モノオは悪態をつく。

 テトラの体の唇の端が切れて血が流れていた。口のなかで鉄の味がする。いくつかの手足の骨、それと内臓が痛え。ちょこまかサルみてえに動き回って手間取らせやがる。

 ――だが、もう終わりだ。

「悔しいか、アヲイ?」とモノオは笑った。「てめえが全力出してもここまでだ。オレの勝ちだぜ」

「がはっ!」

 アヲイは必死にモノオの左腕に両手でつかまって、自重で首をしめて窒息しないようにしている。両足で壁を上向きにバタバタと蹴って必死に落ちないようにしていた。

 ――先読みの力に頼りすぎだな、こいつ。対応さえ間違わなけりゃ敵じゃない。

 将棋と同じだよ。何手先まで見えるかは別に本質じゃねえんだ。結局は、指し合う段階じゃ一手一手にしかならねえんだからよ。

 キレたあとは動きが多少早くなったらしい、が、逆に読みのほうが鈍くなったと見える。あとはガキの喧嘩だった。

 ついでに言えば、一発一発の打撃が軽すぎる。無防備に数発受けちまっても無問題なのが致命的だな。

 モノオは自分が冷たい顔になるのを自覚する。

 ――てめえになにが分かんだよ、アヲイ。そう思った。オレの気持ちも、テトラの気持ちもなんにも分からねえくせに、しゃしゃってくんじゃねえ――潰すぞ。

「あ、ぐ、けほ」

 アヲイがモノオをなけなしの力で蹴ってくる。なんのダメージもない。そりゃそうだ。蹴りを繰り出す足、じゃないほうの軸足は必死に壁を掴んで自分の体重を支えている。

 そんな状態で、マトモな足技が出せるわけがない。

「うぜえ、やめろ」

 モノオはそう言って、右腕でも首を掴む。そうして、両腕の力でそのままアヲイを空中にぶらさげた。もう壁を蹴って自重落下は防ぐことはできない。アヲイの足はバタバタともがくだけで、どこにもヒットしなかった。

 ――オレにじわじわと呼吸器官を潰されて終わるだけだよ、お前。酸欠まであと何分だ? 待ってやる。

「アア、アアアア――!!」

 アヲイは叫ぶ。

「ヒデアキ、逃げろ――!」

「――え?」

 倒れたままのヒデアキが顔を上げる。そんなことを言われたって、コイツはまだ足もふらついてろくに動けないだろ。そういう部分を蹴り飛ばしてやったんだから。

「こいつ、お前のことも潰す気だ! お前の好きなテトラ先輩じゃない! 早く逃げろ!」

「そんな――」

「ユーヒチが、ユーヒチがっ、な、七階でっ皆を守ってる! そこへ行け――!」

 それに対して、モノオは「へーえ」と声を上げた。

「七階に行けばお前の男も殺せるのか? いいな、次はそこへ行こう。オレは幸せな人間はどいつもこいつも大嫌いだからな」

「テメエ!! クソ!!」

「幸福な人間は嫌いだ。アタマんなかお花畑で人を踏みつけることしかしねえ。

 不幸な人間も当然嫌いだ。お門違いの嫉妬心で他人を叩くことしかできやしねえ。

 つまり人間はみんな嫌いだ。――テトラ以外の人間は、全員どいつもこいつも敵だ」

「ハッ」

 アヲイは最後の力で嘲笑う。「じゃあ、お前は、どっちなんだ」

「あん?」

 アヲイは、自分の首を絞めるモノオの手を見た。さっきまでアコースティックギターを爪弾いていたテトラの体の手が、人を殴り続けた内出血と外傷でボロボロになっている。

「テトラ先輩を守りたいくせに、なんで、お前が傷つけてんだよ? ――矛盾だろ?」

「喋んな」

 モノオの絞める力が強くなった。アヲイは両手で爪を立てながら、必死にその腕にしがみついた。

「う、ぐ、うううう!!」

 アヲイは、意識を落としてたまるものかという気持ちだけで、なんとかその場に留まっている――そんな感じだった。

「お前、お前はぁ!!」とアヲイは叫んだ。「自分が要らないヤツになるのが怖いから、藍沢テトラを閉じ込めて歌えないようにしてるだけだ!! バーカ!!」

「黙れ!!」

「ヒデアキは歌えるって信じたんだ!! それのどこが迷惑だ!? 答えろ、クソ野郎!! テメエが十年以上やってきたのはただの束縛だ!! 心配だとかなんだとか思ってるみたいだけど、そんなもんお前の支配欲だ!! くだんねえ猜疑心だ!!」

「黙れって言ってんのが聞こえねえのか!? クソッタレのボケが!!」

 モノオは歯ぎしりする。その両目から涙がボロボロとこぼれ落ちる。

 モノオは、モノオという人格を借りてテトラの心の闇を叫んでいるだけだ――そのことがアヲイに分かった。アヲイに分かったということが、モノオにも伝わった。

 ――やめろ!!

 オレの中に入って来るな!!

 アヲイは、

「疑ったまま愛するなんて、できるもんか!!」

 そこまで怒鳴ると、次第に力尽き、脳にも酸素が回らなくなってきたのだろう、急に抵抗する力が弱くなっていく。

 ――が。

 同時に、モノオを激しい頭痛が襲った。

「あ、ぐ――ああああ!!」

 彼はアヲイの首から手を離し、自分の頭蓋骨をかばいながら転げ回った。

「ああ!! がっ、ああ――!!」

 アヲイのほうは急に解放され、床に崩れ落ち、四つん這いになりながら何度も咳き込む。その間にも、モノオの頭痛はさらに激しくなっていた。

「あ、ああ――クソ!! いたい――!!」

 ヒデアキがやっと立ち上がれるようになり、彼に駆け寄っていく。

「モノオさん――モノオさん!?」

「痛い――やめて――」

 

《――痛い、痛い、いやだ、殺さないで、あたしがなにしたっていうの――ごめん、ごめんなさい、謝ります、謝りますから――。す、好きになる、頑張って今から好きになりますから、もうぶたないで――!》


 ――それは、ストーカー襲撃犯にバットで何度も殴られた痛みのフラッシュバックだった。

 モノオは叫んだ。

「ああああああああ!!」

 そして、モノオはそのまま崩れ落ち――瞳のありかたがテトラに一瞬だけ戻る――気絶して横になった。


  ※※※※


《次のニュースです。昨日11日深夜、神奈川県内のホテルにて複数人の男女が刃物を持って暴れ、宿泊客および従業員に怪我を負わせる事件が発生しました。一時期は宿泊客の半数が避難する騒動になり、怪我人は病院に搬送されましたが、三十一名が重軽傷、また七名の死亡が確認されました》


《同時多発通り魔事件を起こした容疑者男女は全員、善意の協力のもと現行犯で逮捕されましたが、警察の調べによると互いに面識はなく、また、容疑の認否認および動機についても供述が異なることなどから、昨年12月から続く、一連の連続通り魔事件との関係があると見て捜査が進められております》


《一連の連続通り魔事件との関連について、使われた刃物に関連性が見られた一方、今回は反社会組織から持ち出されたと思しき旧ソ連製拳銃が用いられていたことから、警察は、事件に便乗した暴力団組織同士の抗争もあったとの見方を示しており、合同の捜査本部によるさらなる調査が待たれています》


《事件当日の現場ホテルでは、近場で行なわれたメジャーアーティストの合同ライブが行なわれており、被害者には当ライブの関係スタッフ、およびアーティストが多数含まれていたとの事実から、今回の事件は、有名芸能人を初めから狙った組織的・計画的犯行だったのではないか、との疑いもある中での捜査となります》


《現在、病院への搬送が確認されているのは、シンガーソングライターの藍沢テトラさん、および、ロックバンド「感傷的なシンセシス」のギターボーカル・九条アヲイさんです。

 ――また、事件現場から離れた横浜廃倉庫からソロアーティスト・トワさんが搬送され、現在、意識不明の重体となっています》


《ここから、事件当日のホテルロビーの監視カメラの映像および音声となります。ご視聴には充分ご注意ください》


《「うるさい!」

 発砲音。

 「キャアアアアア!!」

 「駐車場に道を開けろ、こいつのアタマを吹き飛ばすぞ!」》


《人質と見られるのは、当日宿泊客だった音楽評論家の瀧千秋さん。現在も行方不明となっており、犯行グループの中心人物に連れ去られた可能性が高いと見て捜査が進められております。拳銃を持った少女については、昨年4月の練馬区一家惨殺事件で独り生死不詳となっていた長女・森山凛乃さん17歳と同一人物と目されており、警察は広く情報を募集しているとのことです》


《また、同日深夜に発生した神奈川県内の大規模な停電およびインフラ機器の故障については、事件との関連性は低いとの判断が――》


 ナクスはそこでテレビの電源を切った。

「――ん」

 彼女は軽く息をつく。そこは新宿駅によく似た広い無人駅で――現実の風景によく似ているが、現実ではない。死者の国だ。

 死者は必ずこの駅に辿り着く。下り電車に乗ってこの世の幽霊になるのも、上り電車に乗って消滅してしまうのも自由だ。

 ナクスは、ずっとそこに住んでいる。

「アヲイ、あばれすぎ。たいへんだったよ――」

 でも、アヲイがやったことも、テトラさんがやったこともちゃんとかくしたし、あとでほめてよね?

 彼女はそう思いながら、唇を尖らせた。

「ぶう」

 そう言って拗ねてから、ナクスは真顔に戻って立ち上がった。ロリータファッションのスカートが揺れる。

「――だって、いきてるひとたちのことは、いきてるひとたちがかいけつしなくちゃだよ? ほんとうは」

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