第7話 COMMIT


  ※※※※


 灰原紅(ローマ字でBではなくⅤのヴェニだ)が桜木町駅に降りたとき、既にTHE DEADの二日目の《レッドへリング》は前半戦を終えていた。

「やばいやばい――」と彼女は慌てる。「完全に寝坊しちゃったよ――」

 せっかく、ユーヒチさんから良い席を空けておいてもらったのに。

 会場に駆け足。

 コンサートホールのある建物――そこがレッドへリングという俗称で呼ばれている――に辿り着くと、会場から観客が出てきて、それぞれ談笑したり、後半戦に向けて用を足しに行ったりしているのが分かった。

「休憩時間――そっか、完全に前半戦おわっちゃったかあ――」

 息が切れて、がっくりきてしまう。

 昨夜、楽しみにしすぎてあんまり眠れなかったのがよくなかった。

 せっかく、施設の子たちも――琥珀も菫も葵も――景気よく有給を許してくれたのに。

「はあぁあぁ~~――」

 そう立ち止まっていると、

「おっと」

 そう声が聞こえて、瞬間、歩いていた観客のひとりに体がぶつかっていた。体勢が崩れる。

「え、わ、わ――!」

 ヴェニがそのまま倒れてしまう、直前に、少しだけがっしりとした腕が彼女の体を支えた。

「え?」

 見上げると、

 オルタナティブロックバンド、《感傷的なシンセシス》のベース担当、川原ユーヒチがそこに立っていた。

 スクエアタイプのサングラスをかけて、顔を隠しているらしい。

「よかった、ヴェニ、来てくれたんだ」

「ユーヒチさん!?」

 彼女はびっくりして大声で彼の名前を呼び、直後、やっちゃった、と思った。その場に散っていた観客のうち何割かが、

「マジで? シンセシスのユーヒチ!?」

「ファンです! ファンです!」

「なんで外に出てんスかあ!?」

 と騒ぎだす。

「参ったな」

 とユーヒチは笑った。

「ごめんなさい、私のせいで」

「大丈夫だよ。ヴェニ、ちょっと走れる?」

「え? はい」

「じゃあ会場に近道だ」

 そう言って、ユーヒチはヴェニの手を握ってその場から駆け出した。もちろん、ヴェニが追いつける程度のペースで、関係者用の裏口に回っていく。

「あ、あわ、あわわわ!」

 ヴェニは慌てる。こんなことがあるの?

 彼らはレッドへリングの裏口ドアを開け、入り、ゆっくりと閉じる。ここまで来ると観客は騒いでこない。

「ちょっと冒険だったな」

 ユーヒチはそう言ってサングラスを外した。左右の瞳の色が非対称だ。

 ヴェニは急に申し訳なくなる。

「私、あの、うっかり寝坊しちゃって。それで、こんなことになっちゃって」

「うっかりはおそろいかもな」

「へ?」

「俺も、アヲイ用の軽食を事前に買い忘れてたから、慌てて外に出たんだ。売店でもいいけど、せっかくの横浜だしさ。良いもの買おうって」

「――あははは!」

 ヴェニは笑った。

 そうして、二人で廊下を歩きだす。

「その調子だと、アヲイさんとも、上手くいってるんですね?」

「うん、おかげさまで。俺が甘えすぎてるのかもしれないけど」

「軽食忘れちゃうくらいに、ですか?」

「はは。うん」

 廊下をずっと行くと、立ち入り禁止の看板を挟んで、観客用の待ち合いに合流する。

「あの」とヴェニは言った。

「なに?」とユーヒチが聴く。

「――皆さんの成功を祈っています。今日だけじゃなくて、ずっと、もう皆さんのファンなので」

「――ありがとう」

 ユーヒチは、両手を丁寧に合わせるヴェニの耳に、少しだけ顔を寄せた。

「最近は物騒な事件も多いから、気をつけてほしい」

「え? はい」

「上手く言えないけど、なんか、他人事じゃない気がして不安になっちゃって。――ライブが終わったら群馬に帰るの?」

「あ、いえ、昔の友達が鎌倉のほうにいるので、そっちに泊まろうと思ってます」

「そっか、よかった」

 ユーヒチはそこで微笑みながら手を振った。

 ヴェニも手を振る。

 ユーヒチが背を向けて去っていくのを、ヴェニはしばらく眺めてから、彼が完全に視界から消えるのを待ったあとで、

「ああああ――!」

 と悶えた。

「し、心臓に悪い。――あれ奥さんよく安心だなあ」


  ※※※※


 七峰ミチルは自分自身について語ることが少ない。他人に話すこともそうそうないし、己の心に話しかけることも少なかった。

 ――そういうものが、生まれつきあまりなかった。話してもつまらないだろうし、自分の内面で突き詰めたいことも別にない。

 だから自分は凡庸な一般人だと思っている。

 バンドのメンバーである佐倉兄弟が、個室のソファに座る彼女を迎えに来た。

「スタッフと話がついたわ。行くで」

 そうタカユキは笑い、

「調子は平気か? ミチル。いつもどおりでええよ」

 とユキナガは顔を覗き込む。

「――大丈夫、ちゃんとやれるから」

 ミチルは少し微笑んでから立ち上がった。

 控えのスペースで待ちながら、タカユキが調子の良い笑顔でミチルの顔に唇を寄せる。

「ボクらの次の蛇誅羅童子の連中なあ、XXXXXXXXっていうパフォーマンスやるらしいわ。何ヶ月か前からネタは知っとったが、ホンマらしいで」

「へえ」

「天才様はカッコええこと考えるわ、ホンマに。ボクはそういうん大嫌いや」

「あたしも」

 ミチルも軽く笑う。「鹿部ノアさん、だっけ――あの人きらい。失敗しちゃえばいいのにね?」

「おうおう」と、タカユキはさらに笑顔になる。「ミチルちゃん、言うようになったなあ! さっすが、ボクの惚れこんだアイドルやわ! 愛しとるで!」

 そうして、

「まあ、音楽の質いうんが、世間の評価や売上とはなーんも関係ないこと、あの世間知らずの女王様に分からせたるわ」

 タカユキはそうやってひとしきり笑ったあと、真顔になって姿勢を戻す。

 兄のユキナガが二人を振り返った。

「ほんなら、まあ、凡人の戦いかたってのを、皆に見せましょ」

「うい」とミチルは言った。「準備OK」


 ミクスチャーロックバンド、サントーム。

 ミチル合流後1stシングル『Mrs. Satisfaction』


 個室でドリンクを飲んでいた弁財天スピカは、思わずモニターに振り返った。

「おっ、ミチルちゃんじゃん!」


 ショートボブの髪を新緑に染めたミチルが、ダンスライトのなかで蠱惑的に踊りながら、囁くようにセンセーショナルな歌詞を歌い上げていく。

 佐倉兄弟のギターベースも、その声を決して邪魔しない。サポートのドラムもその原則を理解している。旧サントームになかった艶を、新ボーカルであるミチルが綺麗に埋めている形だ。


 ――ええか? 今後の《売り》はミチルや。それを活かすためだけに演奏せんかい。

 音楽で自己表現する奴はカスやろ。聖歌隊は自己表現で歌ったか? 葬送のダンスを踊る辺境の民族に自己主張はあるか?

 音楽は純粋な儀式や。その本質は自己の滅却やろがい。

 タカユキはかつて、ミチルの前でサポートスタッフにそう言った。

 ミチルはそれを聞いたとき、目から鱗が落ちるような思いだった。

「あたし」と彼女は言った。「色んな人に言われた。お前はカハルやセツナと違って自分の夢がない。情熱がない。目指すものがないって」

「ほお?」

「アヲイにだって、あると思う。そういう感情」

「ミチルちゃんは、それが悔しかったんか?」

「悔しくもないのが、辛かった」

 そうミチルは呟く。

「あたし、音楽で表現したいことなんて、なにもないんだと思う。ただ、踊るのが楽しくて、歌うのが楽しくて、それだけ。――自分だけにできることとか、考えたこともなくて」

「それでええよ」と彼は言った。

「人類生まれてからウン万年も経ってんで? もうどこに創造が残っとんのや? この世のどこに、ジブンにしかできない音楽がある? んなもんないわ。あとはゆっくりコピー&ペーストで死を待つだけや。それで不満あるか?」

「で、でも――」とミチルは抗う。「じゃあ、なんでタカユキは音楽やるの」

「カネ」

 と彼は答えた。

「金?」と、ミチルは呆気に取られる。

「金稼いで、名前売って、良いもん食って良い女とオメコする。ほんで、死んだら《無》や。人生はそういう死ぬまでの暇つぶし以外になんかあるか? それができないから無能の皆さんネットで阿呆みたいにピーチク囀っとんのやろ?」

 ミチルは、そこまで断言するタカユキを、上手く言葉にできなかったけれど、

 ――生まれて初めて、この人についていこうと思える相手を見つけた。

 ずっとミチルを否定してきた価値観を、彼が笑い飛ばしてくれたから。


 今、彼女は歌う。踊る。歌詞に心なんて籠めない。そのほうがみんな勝手にエッチに聴いてくれるってテクで知ってる。


 ――かつて、前所属バンドである《ミチル&ローユァン・デジタルハックバンド》が解散したとき、周囲は佐倉兄弟がミチルを引き抜いたせいだと思っていたが、本当は違う。ローユァンが芸術志向に走ってミチルのことを捨てて、他に拾う人がいなかっただけだ。

「お前さ、本当はなにをやりたいんだよ」

 ローユァンは去り際に、そう言った。

「あたし?」とミチルは言う。「あたし、あたしやりたいことなんて――べつに――」

「オレが欲しかったのは相棒なんだ。いっしょに音楽を考えてくれる。自分の夢を見せてくれる。目標を示してくれる、そんな相棒だ。――お前さ、なんにもないなら普通に生きてろよ」

「待って、待ってよ、ねえ――」

 そうしてミチルは捨てられ、

 佐倉兄弟に拾われたわけだ。

「ええやん」とタカユキは言った。「やりたいことなんもないなら、ボクらの方針で頑張ってもらうで」

「――それでも、いいの?」

「おう」と、タカユキはミチルの手を取った。「――夢ないヤツが勝つとこ、見たいわ」


 ――あたしにはなんにもない! 綺麗な理想も、悲惨な過去もない! なんにもない凡人のあたしがさ、あたしが、カッコよくなれたら、それがいちばんカッコいいよ!

 ミチルは踊り、歌った。

 ――曲は三分足らずの、短いアップテンポのロックナンバーを矢継ぎ早にぶつける。ソシャゲのタイアップで知られている、既に有名な小品の佳作を歌い続ける。原作ゲームのファンが盛り上がる。そういう小さい爆発を少しずつ起こしていく。

「ええか? 曲はメシ屋のテーブルと同じや。大事なのは回転率。すぐに終わって次も聴ける、これ。四分でもう長いわ。寝かす気かい」

 いつだったか、タカユキは理論を語った。

「メロディの大事な点はスピードと歌いやすさ。スピードはハナタレの中坊でも凄さが伝わるし、歌いやすけりゃカスのチンポ歌い手が勝手に宣伝してくれる」

 そうしてタカユキが兄のユキナガを見ると、彼はあくびをしながらこう言った。

「歌詞でいっちゃん大事なのは替え歌のしやすさやわ。それで馬鹿が流行らしてネタになる。あとは死だのセックスだの適当に歌えばメンヘラのオメコ共が勝手に沼るで?

 ――ええか、これが商売や」


 気持ちいい!

 ミチルはステージでキレイにターンをキメて、汗を飛ばしながら最後の歌を終えた。

 ――どや! これがボクら凡夫どもの生存戦略や!


  ※※※※


 ――むひゃふひゃおいひい!

 アヲイが肉まんを頬張りながら、「むちゃくちゃ美味しい」と言った。大きくひと口で行ったので、頬が横に膨らんでいる。

「そっか。よかった」

 とユーヒチは笑う。

 長いあいだ控えスペースでユーヒチと二人きりだったアヲイは、後半戦からは、個別の休憩室のほうに移動していた。

 シシスケも、ガロウも、リョウも、二人が共同の控えスペースでなにをしていたかは訊かない。――ガロウの言うとおり、今はこいつらだけで二人になりたいときもあるだろう、と半ば察していた。

 が、

 モモコが「アヲイ先輩、なんで前半は控えスペースにいたんですか」

 と訊いた。

 ガロウは、おいっ、と思った。そこは掘り下げなくていいだろ!

 アヲイは肉まんを呑み込んでから、胸をとんとんと叩いてペットボトルに口をつけたあと、「なんか、みんなの顔見てたんだ」と答えた。

「顔? みんなの?」

「演ってる人たちがどんな気持ちなのか、なんとなく流れてくるから」

 その答えに、ガロウの背筋がちょっとだけ震える。

 これだよ、これこれ。アヲイの変なところは――。

 ――こいつ、他人の気持ちの分かりかたが、オレたちとはちょっと違うんだ。

「あ、いや」とアヲイが首をひねる。「流れてくるっていうか、広がっていく感じ?」

「へえ――」

 モモコはなんとなく受け入れているようだった。

「で」とシシスケはノートを閉じる。「なにか収穫はあったか?」

「まあね」とアヲイは笑った。「カハルのギターは、もっとすげえくなってると思う」

「蛇誅羅童子の鹿部ノアはどうだ?」

「えっ?」

 アヲイは、そんなの覚えていないという表情だった。

 隣にいたユーヒチが「ほら」と耳打ちする。「アヲイとカハルが話してたとき、カハルのライバルだって名乗った子がいたろ?」

「ああ――」と、アヲイが膝を打った。頭からスポンと抜けていたらしい。

 が、その直後に、

「あの子がカハルのライバルって、誰が言ってんの?」と、無表情に訊いた。「なんか――あんまりそういう感じはしなかったけど」


  ※※※※


 同時刻。

 鹿部ノアがステージに立ち、ライトアップを待った。

「――行こかあ」


 蛇誅羅童子、3rdアルバム『傾国』、

 第5章「生長(上)」

 第6章「生長(下)」

 第7章「開花(上)」


 テルのギターが鳴り、それに合わせて、ユカリのドラムが複雑なリズムを鳴らし始める。

 ――蛇誅羅童子『傾国』は、架空の中華風の国家を舞台にした叙事調のアルバムだ。ひとりの、美少年とも美少女とも言えない人間が生まれ育っていくなかで、彼、あるいは彼女に狂って内政が乱れていく様子を物語る。

 第5章~第7章は、そんな傾国の美少年が、児童虐待じみた教育のなかで性の手ほどきを受けたあと、次第に両性具有の毒婦になっていく様を描くパートだった。

 そんな彼、あるいは彼女の物語を歌い上げるのが鹿部ノアの声だ。

 彼女の声音域は、常人の何倍もある。幼女の裏声から成人男性の怒声までを使い分け、それぞれに登場人物の感情を乗せて歌うのがノアのスタイルだった。

 ベーシストのガクも、第二ギターのデンマーク人ラースも、全員が彼女の先天的な歌声のために奉仕する。

 そうするのがバンド全体の商業的方針だからではない。

 そうしなければこの場で楽器を弾く意味がないと感じているからだ。

 ――男も女もたぶらかす術を得た傾国の美少年は、やがて、次代皇子最有力候補をめぐる抗争に足を乗せ、暗躍する。

 皇子を愛する二人の女は――どちらも実権を得たい貴族の愛娘だったが――気づいた頃には、この主人公の足下に跪いて宮殿の床を舐める奴隷になっていたのだ。そうして、皇子も性的に屈服していく。

 そんな退廃的で反道徳的な物語は、やがてアルバムの最後では主人公の破滅とともに終わるのだが――蛇誅羅童子は、そんな結末まではここでは歌わない。

 ノアはかつてステージ準備期間に笑った。

「みんなが大好きなとこだけ歌わんかあ?」

 見せ場だ。曲も盛り上がり、歌詞も独自性を増していくこの局面、この局面を魅せてこその蛇誅羅童子や。


 ――と。

 そんなノアたちの意気込みは、

 失敗に終わったわけではない。が、いつも以上の手ごたえを、なぜか得られなかった。

「――あえ?」

 なんで? なんでや?

 みんな――なんか「これはこれでええんやけど、なんか欲しかったもんとは違う」そんな顔しとる――。

 ノアは焦りを抑える。落ち着け、落ち着け――誰のパフォーマンスも間違ってない。うちの歌にも乱れたとこはなかったやろ。

 なら、なんでや?

 ――うちが、うちだけが、あの西園学派のライバルやったはずなのに。

 ノアは最後まで、プロフェッショナルとして歌い続けながら観客の顔を観察していた。

 そのときの観客の顔を、ノアなりに翻訳すると、こうだった。

「さっきまでファストフードたらふく食ってたのに、今すぐ高級料理は味わえねえよ」


 休憩室のモニターで鹿部ノアの焦燥ぶりを見ていた佐倉タカユキは、

「くっ、はははぁっ!」と笑った。

 隣にいるミチルも、胸のすいたような顔だ。

「チビカスのボンクラお嬢ちゃんが、ええ気味や!」

 タカユキは――、

 久しぶりに狙いどおりに獲物を捕らえた、そんなワルの笑顔を浮かべた。

「金持ちのパパちゃんとママちゃんには、国語の家庭教師ちゃんはつけてもらえんかったんかなあ? ことわざでなあ――『悪貨は良貨を駆逐する』言うねん――ボケが!!」


 ノアは苦しむ。

 ――くそ! くそ! なんでや! 今日はうちがカハルちゃんに勝つ日だったのに! 負けないのに!

 流石はプロ、という感じで、ノアはメンバーとともに完璧なパフォーマンスを終了。

 だが、観客は彼女が望むような反応とは程遠かった。

 ――わざとだ。こうなるように、サントームはわざと仕組んだんや。

 こうなるように、わざわざ自分たちのステージをタイアップ曲のファストソングで固めてきた――。


「ほーら」とタカユキは笑った。「ボクたち悪貨の勝ちやで。なあミチルちゃん、どう思う?」

「うん」

 ミチルは少しだけ時間を置いてから、モニターに向かって、

「ざまーみろ! ドS気取りのクソ女!!」

 と叫んだ。

 ――楽しい!

 凡人にはこういう勝ちかたもあるんだ、アハハ! ――ミチルはワルに染まった、でも、清々しい笑顔だった。


  ※※※※


 ノアは悔しさを胸に抱えたままステージを去り、メンバーとともに控えスペースに戻る。そしてそこで、西園学派の四人組と鉢合わせになった。

「カハルちゃん」

 彼女の呟きに対して、西園カハルはなにも言わない。

 ――もう、とっくに終わった、うちの勝負。

 そう思うと無性に情けなくて、やるせない。

「――恥ずかしいとこ、見せてもうたわ。なんかカッコ悪いわあ」と、恥を隠すようにノアは笑った。

 が。

「なにが恥ずかしいんだ?」

 と、カハルは訊いてきた。

「えっ?」

「アタシは良い演奏だと思ったよ。――名前、知らなくて悪かったな。鹿部ノア」

 カハルは、真っすぐな目線でノアにそう言った。

 同情で言っているのではない、と分かる。

 だって、カハルちゃんは、音楽では絶対にウソは言いひん。――観客のウケもなんも関係ない、ほんまに良えと思ってくれて言ってる。

 それが余計に辛くて、ノアは返事を言えなかった。いま口を開いたら、あかんわ、うち変な感じになる――。

 だから、黙って去ろうとした。

 その背中に、

「なあ」とカハルが呼びかけてきた。「ひとつ訊いていいか?」

「――なに?」

「国中の権力者を誑かした美少年は、アルバムの最後どうなるんだ?」

「――ははっ」とノアは笑った。「国といっしょに滅亡やわ。人を愛することを知らん、支配することしかできんバケモンは、そうなるんよって」

 ドラム担当のユカリが、心配そうな視線でノアを見ているのを感じた。それも苛立たしかった。

 ――なんでユカリなんかがうち見下せんの? ――と、そうやって、誰かからの心を全て上下関係で感じてしまうのがノアだ。

 そういう生きかたは、簡単には変えられない。

 西園カハルはそんなノアに、ただ、

「国といっしょに自分を滅ぼすくらいなら、誰かに『助けてくれ』って、『生きるのを手伝ってくれ』って、そう言えたらよかったのにな」

 と、言った。

 なんそれ?

 ノアは返事をせず控えスペースを出ていった。そうしてユカリとテルの二人が、カハルに深いお辞儀をしてから彼女ついていき、消えた。


 スタッフが西園学派に近寄る。

「機材の準備は整っています。演奏は三十分です」

 それに対して、能登ミキヒコが答えた。「ありがとうございます。いろいろ積んじゃってすみません」

 そうして、カハルに向き直る。

「準備オーケーです、カハルさん、僕たちはいつでもいけます」

「ああ」

 カハルはゆっくり顔を上げた。

「セトリは甲乙丙いろいろ考えたが、こういう流れだしな、丙で行く。あと1曲目と3曲目を交代。2曲目はテンポを落とすぞ」

「どのくらい?」とタクヤが訊くと、

「観客次第だ、そのときのアタシの演奏に合わせろ。それからリンドウとミキヒコ、強めで行け」

 とカハルは言った。

 男たち全員が「了解」という顔をする。

 ――彼らにあるのはただの絆の強さではない。もちろん、リーダーへの奉仕の感情だけでもない。

《俺たちの技術と才能はこういう注文にも問題なく対応できる》

 という圧倒的な自負と使命感だ。

 そうしてカハルは、

「お前ら、振り落されんなよ。アタシが連れていく。ついてこい」

 と言った。

 ステージの中央に歩を進めて、漆黒のGibson Les Paul Customをアンプに繋ぎ、肩にかけた。騒がしい歓声が聞こえる。

 女たちの黄色い悲鳴だ。男も混じっている。

 ――大本命中の大本命と言われる、西園学派のステージだ。

 水島タクヤが、背後に大ドラと多数のパーカッションを揃えた巨大ドラムセットに腰を下ろす。

 鷹橋リンドウは、立て掛けられたウッドベースにはいったん目もくれず、近くのMusicman StingRayを身につけた。

 能登ミキヒコはエフェクターに囲まれた丸椅子に座り、TokaiのSEBモデルLCを両腕で囲った。

 そして、ステージの中央には、なぜか無人のキーボードが鎮座している。


 西園学派の1曲目は、

『探究パート1 ~quartet.ver~』


  ※※※※


 トワは個別の休憩ルームで、ビリーにゆっくりと抱かれていた。

 彼女は極度の恥ずかしがり屋で、男に目隠しをつけて、椅子のアームに両手首を固定してから自分が上に跨るスタイルではないと、性的に満足できない。

 トワも、そんなビリーを可愛いと思った。好きなだけ、おれを犯してみろ。

「ああ、トワ、好きだ、好き――ねえ、あたしの演奏よかった?」

「最高だぜ? お前をサポートに選んでよかったよ」

「あは。嬉し」

 ビリーは何度もトワの無防備な唇にキスをする。トワは抵抗しない。しないし、今はできない。そういう状況も面白かった。

 ――そうして、何度目かの射精を迎えたころに、部屋のドアがノックされた。

 ビリーが「誰?」と訊くと、

 廊下の向こうから「僕だよ、沖田レインさ」と声がした。

 ビリーは服を着て、トワの拘束を外してからドアを開く。

「あー、ごめん、邪魔しちゃったかな」

 そうレインは笑いながら言った。

「大丈夫、もう楽しんだから」とビリーは笑みを返す。

 トワはきょとんとしていたが、ビリーにレインを紹介し直されると「ああ――そうかレインか」と頷き、ズボンを履いた。

 レインが部屋に入り、ソファに腰を下ろす。

「こっちも1日目のステージの後始末が終わったところさ。ちょっとトワのいる2日目が気になってね、様子を見にきたってわけ」

「そうか」

「蛇誅羅童子はどうだった? 僕はちょっと気になってたけどね」

「今やってるよ。モニターつけるか」

 そうしてレインは蛇誅羅童子のパフォーマンスを見て、最初は感心していたのだが、次第に眉をひそめていく。

「この、こいつらの前、誰がやってた」

「サントーム」

「なにか奴ら仕掛けたってわけか。えげつないね?」

 レインはフンと鼻を鳴らし、ソファに深々と腰を下ろした。

「まったく、順番の綾だね。サントームの次が西園学派だったら、蛇誅羅童子の代わりにカハルが餌食になったかもしれないよ」

 とレインが言うと、

 トワは真剣な目で、「それはないよ」と言った。

「なぜ?」

「西園カハルなら観客の顔を見て、その場で最適なパートを選ぶ。スタイルを選ぶ。場合によっては曲目も変えるだろう」

 そして、そんな彼女の選択に、メンバーの男たちは即時対応できるはずだ――と、トワは言った。

「なるほど」とレインは返す。「蛇誅羅童子のノアはそういうアジリティがなかったわけだ。これは技術の差ってわけかい?」

「おれの考えでは、違う」とトワは答える。

「というと?」

「格の違いだ」

 ――西園学派は別格だ。あいつらは他のアーティストとは妙に次元が違う。

 そうトワは、不思議そうに言った。


 西園学派が最初に選んだのは、デビュー当時から散々演奏されている定番ナンバーだ。だが、ギターが二本に増えたことで、その響きは何重にも変わってくる。

 能登ミキヒコの指が残像を生む。

 彼が寸分狂わず複雑怪奇な高速ピッキングを繰り出すおかげで、カハルはギターのもうひとつの側面――ティラノサウルスのように咆哮する、歪な機械音を遠慮なく鳴らすことができる。

 そして、彼らの音を包むように、リンドウのベースは今までにない重低音を響かせるスタイルだ。

 タクヤのドラムが笑う。これは――楽しすぎる。

 今になって思えば、オレたちはカハルに色んな音を任せすぎていたんだろう。ギターという楽器が可能にする、その凄まじさの全てを。

 その一部をミキヒコの指に委ねたカハルは、やっと、本気で自分のやりたいプレイに専念している。その勢いについていけるのは、きっとリンドウだけだ。

 ――これが今の完成形だ。いや、違うのかな?

 タクヤには分からない。

 カハルがギターを掲げて、マイクに向かって、

「このまま行くぞ、二曲目!」

 と言った。ドラムは止まらず、ただ、リンドウがベースを下ろして近くのウッドベースに歩いていく。

 カハルもギターを手放して、置き去りだったキーボードの前に腰を下ろした。

 西園学派、2曲目、それは、彼女たちにとってはほとんど異例と言ってもいいラブソングだった。

『歓待』


  ※※※※


 個室で休憩していたネネネが起き上がった。

「カハル、鍵盤やれるの? いつから?」


  ※※※※


 西園カハルの耳には、観衆が湧いているのが分かる。それはそうだ。表舞台でギター以外の道具を使うのは初めてだからだ。

 ――アタシはべつに、ギターしか弾けないなんて言ったことはいちどもないぜ。

 そうして指を勢いよく鍵に振り下ろしてフリーの間奏。ずっとタクヤが叩き続けていたドラムが、少しずつ、彼女のミドルテンポに合わせていく。ミキヒコは頷くとエフェクターを踏んで、音色を変えた。そして、リンドウの、ゴツゴツした太く逞しい指がコントラバスの弦に触れ、

 勢いよく、

 ハジいて、

 グルーヴを奏でていった。

 カハルはそこに主旋律を当てる。ピアノはギターと同じ時期に始めた楽器だ。目をつぶっても弾ける。

 ミキヒコのギターが優しく、まるで、上質な肉料理の上に香り爽やかな薬草を添えるように、音を乗せる。

 そうしてカハルが歌うのは、普段の楽曲群からは想像もできないくらい、純粋な恋愛の歌だった。

 ――今までずっと不器用に生きてきたから、好きがどういうことなのか、分からない。突拍子もない行動で、君を怖がらせるのが怖い。玄関ドアの外側で、震えながら家主の迎えを待っている気分だ。

 そんな歌だ。

 ――盗っ人だと思うなら、追い返せばいいだろう。そう考えるのがきっと正しい。なのに、私は、君に間違えてほしい。気の迷いでドアを開けて、飢えきった私にパンをひとかけらくれるだけでもいい。

 そういう君の拙い優しさを、それこそ愛だと、勘違いしたまま幸せに死ねたらいい。だから、君が意地悪な家主で、私を身ぐるみ剥いだとしたって、もう後悔するひまなんかないんだ。

 そんな内容を彼女は歌った。

 カハルの声はギターの凶暴性と同様、普段はドスの効いた声で全力を振り絞るように歌うが、この歌を歌うときだけは、なぜか、泣きそうな心細い声で叫んだ。

 音響の空白に、リンドウの深いウッドベースが染みていく。このバージョンで演るのは初めてだ。今までは3人編成で、愚直にかき鳴らしていたロックナンバーを、しっとりとしたものに変えていく。

 歌詞の意味が違ってくる。

 純粋の裏側に劣情が漂う。

 まるで、ドアを開ける行為が、なにかの隠喩になってしまうように。

 そうして、観客席から女のすすり泣きが聞こえた。

 

  ※※※※

 

 シシスケは黙ってモニターを見つめながらノートにペンを走らせる。

 

  ※※※※

 

 そうしてカハルが歌いながら思い出すのは、あの日のことだ。

 あの日。

 リンドウに誘われてバーに入ったカハルは、とりあえず度数の高い酒を二人分頼み、すぐに飲み干した。

 ――ミキヒコの失言のせいじゃない。せいじゃないが、アタシはきっと「いつまでリンドウの気持ちを無視すればいいんだろう」と思ってるんだ。

 リンドウに口説かれたら、受け入れるか?

 ――それすら分からない。

 リンドウのことが好きか?

 ――好きという言葉の意味が分からない。

 セックスをしてみたいと思うか?

 ――分からない。

 じゃあ嫌いか?

 ――嫌いじゃない。気に入ってる。

 なら自分の男にしたいと思うか?

 ――そんなことは考えたこともない。

 じゃあ、お前は、急に出てきた馬の骨に、リンドウをあっさり篭絡されても、それで平気なのか?

 ――いいや、平気じゃない。

 カハルは強い酒を注文して、リンドウに飲ませた。自分も飲んだ。ラッキーストライクに火をつけて、ゆっくりと煙を吐く。

「なあ、リンドウ」

 いよいよ良くない酔いが回ったタイミングで、カハルはその日、切り出した。

「お前が言いたくないことは、アタシは聞かない。でも言いたいことがあるなら、アタシは聞く」

 そうして、リンドウの目をじっと見据えた。ほとんど睨んでいた。

 ――どっかで、変わらなきゃいけないんだ。

 リンドウは怯えたように目をそらし、さらに酒を追加して、とうとうなにも飲めなくなって、最後はテーブルに両肘を突いて、大きな、野性的な両手のひらで自分の顔を覆っていた。

「俺、は――」

「おう」

「きっと、怖いんだ」

「そうか」

「――俺が、ただの醜いケダモノだって、カハルに知られることだけ――怖い」

 リンドウは言った。自分のことが嫌いだから、死ぬのさえ怖くない。でも、カハルを傷つけてしまうことだけは耐えられない。

「そうかよ」

 リンドウ、そんなに悩んでたのかよ。そう彼女は思った。

 ――ああ、くそ。

 アタシは毎日の部屋の掃除も料理も雑務も全部こいつにやらせて、その上さらにアタシは、コイツがしょうがないヤツだから救ってやろうって自惚れた気持ちでいるのか?

 違うだろ!

 そうじゃねえだろ、バカがよ!

 こいつにアタシがどれだけ勇気づけられてるのか、こいつは知らねえんだ!

 助けてもらってるのは、いつだってアタシだ!

「怖いっつうなら、アタシだってそうだよ」

 とカハルは言った。

 リンドウは両手の警戒を解いた。カハルは腕を組む。


「お前が勇気を出せるまで、そばにいてやる」


 そう彼女が言うと、彼は首を振る。

「――いや、そんなことはいい――だって、カハルは」

「黙れ」

 カハルはリンドウの胸倉を掴んだ。

「アタシが決めたんだ。いいな? こうやってウダウダやってるのがもうムカついてきたんだ。お前は頭のてっぺんから足の爪先までアタシのもんだ。

 お前になにもかも訊く気はない。お前が言いたくなったら話せ。――その代わり」

「その代わり?」

「――もしお前が立ち上がれたら、その両脚で、今度はアタシを連れていってくれ」

 そういう風に言った。

 きょとん、としたリンドウの表情が、まるで熊のぬいぐるみみたいで、カハルは急に恥ずかしくなる。

「ああ! もう! うぜえ! ――だいたい二十越えて処女なのがもうコンプレックスなんだよ!!」

 そう怒鳴ってカハルはリンドウを解放した。

「コンプって、いや、それは――」

 と言う彼の声を遮る。

「こっちも真剣な悩みなんだよ! 茶化すな!!」

 たぶん西園学派の熱心なファンだって、こんなカハルの劣等感は知らないだろう。別にそれはいい。

 つまるところ、結局、アタシたちは、ステージを降りたら普通の人間で、そして、そういう人間として生きていくだけだ。


 アタシだって、普通の悩みくらいあるさ。

 ――それを素直に歌えたのは、どうしてか。ミキヒコにギターを任せたからか。それともあの日に、リンドウと飲み明かしたからだろうか?

 どれも間違いで、どれも正解だ。

 ただ言えるのは、この日、西園学派の歌う珍しく拙いラブソングは、後日、そのままヒットナンバーになったということだった。


  ※※※※


 谷崎ハジメは、普段は胸元を開いたガラもののシャツを着て腕をまくり、髭をたっぷりとたくわえた彫りの深い顔に、長い髪を後ろ手でひとつ縛りにしている。

 それは、オラクルオブガゼルのリーダーとして、そういう立ち振る舞いでセックスアピールをすることも重要だと知っているからだ。

 しかし、今日の彼は違った。

 レッドへリングに到着する前に髪をばっさりと切り、美容師に追加注文して、濃く強い髭を丁寧に剃り落としてもらう。服装は黒のYシャツに黒のジャケット。白ネクタイ。

 ――十年以上前、藍沢テトラのバックバンドをしていたときと同じスタイルに戻したというわけだった。

 今日はステージで目立たなくていいから、その点は気が楽だった。テトラちゃんが今日のポイントマンで、俺はバックアップだ。

 昔のように、テトラちゃんの歌声をギターで支えることに専念すればいい。

 ――本当は、ずっとそうやって生きていたかった。なのにできなかった。

 どれだけ自分の率いるバンドが売れても、評価されても空しいだけだった。俺がいたかったのはテトラちゃんのバンドであって、俺のバンドじゃない。

 ――ふう。

 ハジメは息を吐いた。

 十年以上ブランクがある彼女だ。ステージでどんなトラブルになるか分からない。そのときは、彼女を降ろす。それも仕事だ。

 彼女のために必死に祈りたいところだが、神などいないから祈りはどこにも届かない。結局、全ては人間様の運と実力だ。

「行くか」

 自分のバンドを1日目のアリーナで成功させ、その後片付けも済んだあとで、2日目後半、谷崎ハジメはレッドへリングの関係者専用入口から入っていった。


 ちょうどその頃に、西園学派は三曲目に入っていた。リンドウが再びエレキベースに腕を通し、カハルは、素手でマイクを掴んだ。

 ――『存在のRuf』。アルバム未収録だが、これもライブの定番になっている曲だ。彼女たちは今回、定番曲を新メンバーの新アレンジで魅せることに集中している。

 楽器の演奏から解放されたカハルの歌声は、レコーディング版以上のパワーをたたえていた。そして、いつもならカハルが弾いていたギターのフレーズは、ミキヒコが代わりに行う。

 ――カハルのギターとは別の解釈だ。人間の存在論的不安と覚悟を歌う歌詞が、力強さではなく、寄る辺なさへの優しさになる。

 そのコントラストによって、ただでさえ強いカハルの怒声がさらに際立っていった。

 マイクスタンドを、彼女は右足で蹴飛ばした。そして体を屈めて、ああ、あ――と、振り絞るように歌う。そうしてスタンドからマイクを外し、ステージを歩いて聴衆に近づいていった。

「楽しいか!!」と叫んだ。

 人々の嬌声。

 こういうパフォーマンスは、西園学派としては異例だ。ミキヒコは微笑み、余裕の姿勢で、ヘヴィメタルバンドも真っ青になるような高速ピッキングを難なく弾きこなしていく。

 カハルが演奏を任せるわけだ、と誰もが思った。

「アタシたちが!」と彼女はマイクにがなる。「この四人が、西園学派だ!!」

 そしてマイクのスイッチを切り、

 踊り出した。


 モニターで見ていたミチルが、「え――!?」と声を上げる。佐倉兄弟も驚きを隠せなかった。

「こいつ――」とタカユキが苦笑う。「今まで我慢してたタマ、いくつあんねん――」


 ミキヒコの強く歪んだギターのなかで、カハルは踊り、ときどきバンドを見て、指揮者のように指を振って演奏を確認する。最後にスタンドにマイクを戻し、ドラムが加速するなかで、叫び声をあげながら金属棒に両足を挟んでステージに倒れ込むように体を傾け、ギリギリで上半身を起こした。

 そこで演奏も終わる。

 ――拍手。

 カハルは額の汗を拭った。そしてメンバー全員の顔を見て、次にホール全体を見ながら、

「辞書持ってたら書き足しとけ。『最強』って言葉は――アタシたちって意味だ」

 そうしてスタンドを蹴り倒し、去っていった。リンドウが苦笑しながらついていき、ミキヒコは深々とお辞儀をする。そうして、タクヤが「みんな愛してるよ!」と叫んだ。


 こうして、残りのアーティストは二組だけになった。

《感傷的なシンセシス》

《藍沢テトラ with オラクルオブガゼル》


  ※※※※


 ヒデアキは、音楽のライブに来たこともこれが初めてだったからか、ただ圧倒されて、なにも言えなかった。

 西園学派が去ってから、周囲を見る。

 タエコと目が合った。

 彼女が少し唇を噛んでから、「ねえ、ねえ、次。アヲイちゃんが出るね?」と言う。

「え? ああ――」としか返事はできない。

 今まで出てきたの、なんていうか、すげえ、天才ばっかりって感じだった。

 ここに、同じ大学の同じゼミに通う九条アヲイが出てくるというのが、頭では理解できても、心の底では納得できないでいる。

 ――あいつ、そんな、やっぱ、すげえやつなんだ。

 それはテトラさんもそうだけれど。

 なんていうか、

 向こう側にいるあの人たちと、こちら側にしかいない俺たちの間に、実はなんの違いもない、という事実を上手く呑み込めないでいた。

 ソユルは感激して泣いている。そういえば西園学派は韓国でも人気のアーティストで、朴セツナと抱き合わせで、ガールズパワーというくくりでファンを増やしているらしい。

 その朴セツナも圧巻だった。

 ハスタはただ、楽しそうにしている。

 そうして、キョウカさんは。

 キョウカさんは、セツナのステージで取り乱すように泣いていたのとは打って変わって、冷静そのもの、きちんと対象の音楽を聴き逃さないように前傾姿勢だった。

 ――ああ。

 やっぱり、俺、キョウカさんの生きかたはカッコよくて尊敬する。

 ああいう風に作品に向かい合うって、俺はできない。

 ――だから、振られたときはショックだった。告白なんてしなけりゃよかったと今でも思う。

 きっとキョウカさんは、俺なんかとは比べものにならないような、素敵な男性と結ばれるんだろうな。たとえば昼に出会った、瀧センシュウさんって人みたいな。

 でも、同時に、これはネガティブ思考だとも思った。

 ――俺が卑に屈したら、俺に優しくしてくれるテトラさんを侮辱するみたいで、なおさら無様なんだ。

 だからヒデアキは、この悲しい気持ちは誰にも言わないでおこうと決めた。


 そうして、感傷的なシンセシスのメンバーはゆっくりとステージに入った。

 山本ガロウという、ウルフヘッドの金髪の男がまずは入って、Gibson Explorer Blackoutを身に着ける。次に来たのが篠宮リョウというベリーショートの女で、2台のシンセサイザーの前に立った。

 野村シシスケという短髪銀縁眼鏡の長身の男がドラムセットの椅子に腰を下ろす。

 そして、川原ユーヒチだ。

 ――あの人が、アヲイさんの旦那さんか。たしかに、カッコいいな――。でも、なんだか、深い悲しみに溺れないように、たったひとつの命綱を掴みながら生きているような男だと思った。

 ユーヒチはRickenbacker 4003に肩を通し、軽く、細長く骨ばった指で弦を軽く弾き、音を確かめている。

 ――ん?

 アヲイは?

 ユーヒチの手の甲の浮き上がった血管の筋、その色気を眺めながら、誰もが気がついた。

 ――ギターボーカルのアヲイがいない。

 ヒデアキは首を傾げた。なんでだ? なんで、まだ来てないんだ?

 しかも、

 シシスケは電子ドラムを叩き始めた。プリセットで、ひとつ叩くと細かな鼓動が連続して鳴り響いていく。

 そこにユーヒチがささやかなベースを当てて、楽曲に秩序を与えていく。

 響きを豊かにしていくのは、ガロウの繊細なギターと、リョウのシンセサイザーだ。


 感傷的なシンセシス、メジャー後1stアルバム『意識の流れ』 

 4曲目『ポロックの花火』

 インストゥルメンタルだ。


 ――いや、いい音楽だ――だけど。

 アヲイは? アヲイはどこだよ?

 そのとき、背後で、ホールの観客用のドアがゆっくりと開いた。

 誰か、今さら遅れてきたのか? と思う。ドアが閉まり、光が消えた。

 その遅刻者らしき人物は、ゆっくりホール観客席中央の幅広い通路を歩いていく。カーペットをブーツで踏みしめる足音だけが聞こえた。

 そして、

「ああ、ヒデアキたち来てくれたんだ?」

 と、その遅刻者は静かに笑った。

 ――え? ――え?

 ヒデアキはそちらを見た。


 そこに、観客席の側に、九条アヲイが立っていた。


「え、いや、アヲイ――?」

 ヒデアキが呆然としたまま呟くと、アヲイはそれに対しては返事をせずマイクを持って、

「おっしゃ行くぜェ横浜ァ――――!!!!」

 と叫んでから走り出した。観客全員が中央通路に向き直る。そこに、猛スピードで駆けていく人影がある。それがアヲイだ。

 なんてこった、とヒデアキは思った。

 こういうパフォーマンス、そりゃ聞いたことあるけど、マジでやるのか? と思った。

 女の子の悲鳴が聞こえる。そうだ、アヲイはカハルに並んで、同性ウケの強いアーティストだ。

 彼女の速度がさらに上がっていく。カーキのジャンパーがアメコミヒーローみたいにひるがえる。そしてステージの手前で、思いきりジャンプし、ステージの中央に着地した。


 歓声。拍手。悲鳴。

 ――これがロックスターだぜ、という振る舞いだ。

 演奏は続き、テンポを上げてさらに盛り上がっていく。その間、アヲイは、着地して立ち上がった仁王立ちの姿勢のまま動かない。

 ずっと観客に背を向け続けて爆音に身を委ねている。

 シシスケのドラムが激しさを増し、追随してユーヒチのベースが重く固くなっていき、全ての音が臨界点を突破した瞬間、

 アヲイは振り返った。

「よお、待たせたな――ようやく真打登場だぜ!!」


  ※※※※


 谷崎ハジメが個別の休憩ルームに入ると、ソファに座ってうずくまっていた藍沢テトラが、はっと顔を上げた。

「遅れてごめんね、テトラちゃん」

 彼は隣の椅子に座り、「他のやつらは?」と訊いた。

 テトラは寂しげに笑って「出番の前までは、あたしを一人にしといてくれるって」と言った。

「親切なのか不愛想なのか」とハジメは苦笑した。たぶん、みんな戸惑っているのだろう。

 君たちも、十年以上前の交友関係や、趣味の繋がりや、ビジネス上の交流、そういうものがいきなり復活したら面食らうはずだ。

「な、テトラちゃん」と彼は言う。「つらかったらいつでも降りていい。でも、それまで、俺は君を支えるよ。そういうことでいいかな」

「うん」

 テトラは頷いてから、不意にハジメを見て、

「イメチェン? なんか、いつもと違うよ?」

 と笑う。

「昔の俺たちみたいだろ」

 とハジメはおどけた。半分は冗談だ。

 もう半分は?

 ――もういちど本当に、あの頃みたいに戻れたらと思っているんだ。

 そうして、部屋のモニターからは、《感傷的なシンセシス》のステージが流れていた。

「すごい」とテトラは呟いた。「さっきのカハルちゃんって子も良かった。でも、こっちは、それともなんか違うね」

「というと?」

「カハルちゃんは音楽を愛してるけど、アヲイちゃんは音楽に愛されてるんだと思う」

 音楽を愛している人間は、音楽を憎んだら、離れるしかない。でも、愛されている人間は、どれだけ音楽を嫌って離れようとしても、音楽のほうが離してくれない。

「へえ」とハジメは頷いた。「なるほどね。それは分かるかもしれない」

「ねえ」とテトラは向き直る。「あたしは、どっちだったんだろう?」

 ハジメはテトラの真っ黒な瞳を見つめた。

 彼女は、十年以上の歳月を経て、二十八歳になっていた。綺麗になった。一方、俺は社会的には成功した三十六歳のおじさん。

 ――ハハ。

「テトラちゃんは」と彼は言った。「愛されてる。だからみんな、こうやって集まったんだ。違うかい?」

「ん――」

「ヒデアキって彼氏も来てるんだろ? 頑張ってカッコいいところ見せようぜ」

 そうハジメが言うと、テトラは「ん」と、声を漏らして頷くだけだ。

「そういや」と彼は飲み物を口に含んだ。「彼氏はどんな仕事の人なの? 同じ業界の人とか?」

「ああ、うん」とテトラは、慌てたような様子だった。

「彼は、学生してる」

「――へえ。それはいいね。人生は勉強さ。いっぱい学んでテトラちゃんを支えてくれるよ」

 ハジメは頭の後ろで腕を組みながら、学生、ふーん、学生ねえ、と、もの思いに耽った。有名大学の博士課程とか? あるいはどこかの企業で研究員でもしているのかな?

 立派な男で安心した。

 ハジメの頭のなかには、いまテトラが愛している男が、彼女より八歳も年下の大学生である可能性なんて、まるきりなかった。

 もし、その事実を知っていたら――。

 ハジメはこう思っただろう。「若い男の、いっときの火遊びに弄ばれて傷つくのはダメだよ。そいつが将来ずっとテトラちゃんのそばにいるのか?」

 そして、こうも思ったはずだ。

「だったら、もういちど俺とやり直さないか――?」


 アヲイがピックを弦に当ててギターを鳴らすと、今日のギターのなかでいちばん強い、歪んだ、耳ざわりになるギリギリ手前の騒音が響いた。

「行くぜ」

 彼女のシンプルなリフに、ガロウが上乗せするようにメロディを合わせていった。シシスケのドラムは、どこまでも正確に鼓動を捉えていく。

 そうして、ユーヒチのベースが、あまりにも重い。下腹部に響くような低音で、バンド全体を支えている。

 そんな個々人のスタンドアローンを包み込むのが、リョウのシンセサイザーだった。

 アヲイはマイクに上唇をつけて、ぼそぼそと、囁くように歌い始める。

 体の感覚が、また、少しずつ広がっていく。

 この前は、東京の街全部を自分の体みたいに感じることができた。そうアヲイは思う。

 もっといけるか?

 横浜の、海も、空も、この感覚で全て、呑み込んでいけるのか?

 彼女は歌いながら聴衆の顔を見つめた。恍惚としているのが分かった。

 ――オッケー。

 そっちがその気なら、全部、私の中に流れ込め。

 もっと、もっと大きく。広がって。もっと、皆の心を私に聴かせろ。五秒ズレた並行世界の記憶が、海馬に流れ込んでくる。

 遠慮はナシ。――アヲイは頭を振りながらギターを闇雲にかき鳴らした。

 ガロウがニヤリと笑って、さらに繊細な音をアヲイの暴音に合わせていく。感傷的なシンセシスの本領発揮だ。

「ユーヒチ、来い」

 そうアヲイが小声で言い、ユーヒチは頷くとマイクに向かって、

 ――ラップパートを披露した。

 リズムに合わせてベースの弦をはじき、同時に、リョウの書いた韻律を唇で刻んでいく。コンプレックスプール時代にボーカルを務めていた彼ではあったが、このスタイルは初めてだった。


 ――いつだったか、リョウとシシスケが曲について話し合っていたとき(そのとき、ガロウはモモコからの宿題を解いていて、アヲイとユーヒチは将棋を指して遊んでいたのだが)、

「そういえば」とリョウが言った。「ユーヒチの音楽の趣味って、あんまり聞いたことがないかも」

 ガロウは見れば分かるけど、ユーヒチってあんまり、そういうところで我を出さないし。

「ああ」とユーヒチは生返事をしながら飛車を打ち下ろす。「なんかヒントになるかな。作曲の」

「まあね」

 リョウは椅子の背もたれに体を預けた。「続けていくためには、少しずつ、変わっていかなくちゃいけない。私ひとりの脳ミソも、限界あるし」

 そこにアヲイが割って入って、

「ユーヒチ、カラオケだとめちゃくちゃブラックミュージック歌うじゃん?」と言う。

「そうなの?」とリョウが訊いた。

 ユーヒチが駒台をいじる。「フレーズの研究で聴いてる。インプロのために、手数は増やしておきたい」

「ふうん」

 シシスケがノートを閉じた。

「今度五人で遊ばないか? そういう最近の価値観の開示も兼ねて」

「いいねえ」とアヲイが笑った。「最近、ユーヒチめっちゃラップ上手くなったんだよ」

 そこで、ガロウとシシスケとリョウが、一斉にユーヒチを見た。

「マジかよ?」「それは初耳だ」「なんですぐに言わないの?」

 同時砲火だった。

 ユーヒチは――彼にしては非常に珍しいことだが――顔を赤くして横を向き、

「ごめん、ちょっと恥ずかしくて――」

 と答えた。

 アヲイはキョトンとしたあと、大声で笑った。


 そして、現在。

 ガロウはステージ全体を見ながら、ユーヒチのフロウに身を委ねる。

 ――な~にが「恥ずかしい」だよォ、大将!

 めちゃくちゃカマすじゃねえか!

 ユーヒチのラップパートが終わると、すぐアヲイのボーカルに切り替わる。

 歌詞の内容は抽象的で、男女の恋愛にも聞こえたし、男同士の友情のようでもあるのだが、要するに、約束の場所に向かおうとして辿り着けない者と、待つしかない者の物語だった。

 こういうのは、リョウが得意とするモチーフだ。世界のどこにも自分の想いは届かない。ただ、この作品は、届くはずの想いを待ち続ける側を描いているのが珍しい。

 ラスサビでアヲイが声を張り上げる。その壊れそうなボーカルをオク下から支える、いつものユーヒチだ。

 ――2曲目、『印象派の愛』のアレンジバージョンだった。


 そして、アヲイは全身の感覚が研ぎ澄まされていくなかで、

 ――あ、そうか。

 と思った。

 八木のおじさんは、この日のために、私を下手に動かしたくなかったんだ。ユーヒチの言うとおり、そのためにいっぱい仕事を与えてきた。

 透き通った感覚のなかで観客席を静かに眺める。

 ――連続通り魔殺人事件の黒幕は、このなかにいる。


  ※※※※


 八木は会場全景を見渡せるモニタを見つめながら、ステッキを握りしめた。

 かつて、俺にはユージだけがいればよかった。なのに、あいつが死んだあともこうして生きている。悲しみも枯れていった。

 ただ、ユージと、ユージを俺から奪ったあの女の間にできた一人娘を、どう捉えていいか分からない。

 ひとつ言えるのは、あの娘、アヲイを危機には晒したくないということだけだ。

 ユージが生きていれば、きっとそうしたからだ。

 八木は側近のスタッフに「もうすぐ感傷的なシンセシスのステージが終わる。そのあと、ボーカルのアヲイを呼べ。話がある」と言った。

 数年前の脳梗塞で、彼の半身には未だに麻痺が残っている。片足は満足に動かないし、顔の片方は、筋痙攣で引き攣って、常に左右非対称の表情だ。

 ――俺は生きていたい。ユージの一人娘に対する拘りを俺は捨てられない。

 なにしろ、あいつの種だ。

 そう思いながら八木はゆっくりと歩き、近くのソファにおそるおそる腰を下ろす。

 スタッフが彼の脇に来て、

「あと1曲で感傷的なシンセシスの舞台は終わります。私が個別の休憩ルーム前で待ちますので、八木本部長はここでお待ちください」

 と言う。

 ――生物は、なぜ、有性生殖というシステムを生み出したのだろう。

 より効率的な進化のためか? しかし、効率的な進化とはなんだ?

 個別の命そのものには、目的も意味もないのに。次の世代のために新しい命を紡ぐ、その動機はなんだ。

 ――いや、いい。

 謎を解いたところでユージはいないのだ。あの女と墓の下で眠るだけで。

「――今日で忌々しい事件は終わらせる」と八木は呟いた。「ユージの一人娘を危険には晒せん」


  ※※※※


 感傷的なシンセシスのステージは、いよいよ最後の3曲目に突入していた。その歓声が舞台裏にまで聞こえてくるなか、藍沢テトラと谷崎ハジメはソデの控えスペースに進む。

 ――テトラちゃんの顔が、見るからに緊張していた。

 緊張? いや、違う。もっと深刻ななにかだ。

 そうハジメは思う。

 ハジメは、感傷的なシンセシスの曲はまともに聴いたことがなかった。が、いま耳にして、なるほどテトラちゃんが気に入るわけだと思う。

 音楽の歓びに満ちている。

 個々人のスキルが、全員ソロアーティストの域に達するバンドは数少ない。そんな連中は、だいたい各人が我を強く出して瓦解してしまうからだ。

 まるでビートルズみたいに。

 ――しかし、このバンドは、そういう危うい絆を複雑な友情で支え合って、保ち合っているように見えた。

 それは、あくまでワンマンリーダーのカリスマが全てを支える西園学派とも違う。

「いいじゃないか?」とハジメは呟いた。「――まだまだ発展途上だけどな」

「うん」

 テトラの返事は短い。

 ――舞台では、アヲイが即興でギターをかき鳴らし、さらに歓声が大きくなっていくのが分かる。技術的な上手さは否定できないが、それ以上に、「こんなに暴れ回るヤツが次になにをするか予想もできない」という状況がオーディエンスの興奮を促進する。

 スタッフが近づいてきた。

 ハジメはスタッフとテトラの間に壁をつくるように立ちふさがる。

 ――話を聞くのは俺だ。テトラちゃんが、今日、どういう状況かお前も知ってるだろ? 黙ってそっとしときゃいいんだ。

 そういう目線を投げた。スタッフは狼狽えながら、「次の機材の準備は完了しました。そのまま行けます」と言った。

「オーケー」とハジメは微笑む。「ありがとね? お仕事お疲れ様」

 そうして、隅に座っている他のサポートメンバーに目をやる。全員、現在、オラクルオブガゼルの奏者だ。――かつてテトラのバックバンドで、彼女が消えたあと結成した余りモンの皮肉な売れっ子バンド。

 ――オサム、マスジ、アンゴ。

 テトラは全員を見つめる。

「みんな、今日はありがと」

 それに対して、オラクルオブガゼルのメンバーは各々の返事を返した。

「水くせえこと言うなよテトラちゃん!」

「オレら、テトラちゃんのためなら北方領土にだって駆けつけっからよ」

「よく勇気出せたね、偉いよ。あとは僕たちを信じてほしい」

 テトラは彼らに微笑んだ。

「ごめんね、おねがい」

 そうして、最後にハジメを見た。

「不安になったら、ハジメのギターに耳を澄ませる――14歳からずっと習慣だったけど」

「そうだね」とハジメは頷いた。「まあ、魅せてやろうぜ。本物の歌姫ってやつがどんなもんなのか。さっきまでの演者にさ」

「あはは――」

 テトラが笑ったそのとき、

 感傷的なシンセシスのインプロビゼーションが終わり、割れるような拍手と歓声が会場を包んだ。


 ――会場。

 人がいる。人、がいて、あれっ?

 テトラの視界が歪んだ。人、どんなんだっけ。そうだ、ちゃんと思い出さないといけない――聴いてくれる、人、人、人。

 テトラは、かつて生放送中に発作を起こした、あのときの観客の顔を思い出す。


《詐病だろ? 同情を引くためにそこまでするかね?》

《多重人格とか中二病かよ。医者も否定したんだろ?》

《ていうか際どい曲も歌ってたじゃん? そんな風に金稼ぎしといて、ストーカー怖いよ~、は通じないでしょw》

《ある意味被害者だよな、犯人も。魔性の女にとりつかれちまったんだよ。生き残った魔女は、これからも男をたぶらかして音楽で儲けっぱなしだよ。狂ってない?》

《14歳でこんな曲思いつくってどうなんだろうね。家庭環境がイカれてたのかな? 母親が売春婦とか》

《いや、ありゃ生まれつきだよ》


「あ、あ、ああ、あ――」

 テトラは頭を抱えてうずくまる。ハジメは慌ててしゃがみこみ、彼女の肩を抱いた。

「テトラちゃん? テトラちゃん! 大丈夫か!」

「はぁ、はぁ、はぁ――」

「しっかり息して。大丈夫、大丈夫だよ」

 ハジメはテトラの背中を優しくさすりながら、周囲の状況を見渡している。

 テトラは、ただ、

 ――怖い。と思った。

 藍沢テトラが音楽活動を辞めたのは、ストーカー襲撃犯による傷害事件のせいだと思われているが、実際は違う。事件後の彼女に対するバッシングで、リスナーを、オーディエンスを信じられなくなってしまったのだ。

 ――みんな、敵みたいに見える。誰か助けて。怖いよ。

 同時に、ハジメは、

 ――もう充分だ。テトラは降ろそう。

 と考えていた。

 今までステージに挑戦する勇気も持てなかったんだ。舞台袖まで来れた時点で、称賛すべき進歩じゃないか。彼女は充分やった。もうやめていいさ。これ以上は残酷すぎる。

 そう思ってハジメは顔を上げる。スタッフを呼ぶためだった。

 そんなハジメの服を、テトラが掴んだ。

「ま、まっ――て――」

「でも、テトラちゃん」

「やれ、る――やる、から――」

 息切れが酷い。おそらく胸に手のひらを触れれば、動悸も最悪になっていることが分かるだろう。

 こんな状態で歌えるわけがない!

 ハジメは、しかし、最後は彼女の意志を尊重するしかない。

「――分かった」

 ハジメは彼女の肩を抱き、ゆっくりと立ち上がらせた。

「どうしたって無理なら、俺の目を見て。そしたらボーカルは交代する。テトラちゃんは、それを気に病むことはない。いいね」

「――うん」と彼女は頷き、「ありがとう。ハジメ」と消え入りそうな声で言った。そうして、次に、

「あたしね」と言った。「ずっと、ハジメに言えなかったことがあるの」

「やめなよ、そんなの。縁起でもない」

「――ハジメは後悔してるかもしれないけど、あたし、ハジメを好きになったことは、後悔してない。したことないよ、一度も」

 そう言ってテトラは、やっと自分の足で立てるようになった。

「歌う」

 そう呟いて、よろよろとテトラは歩き始める。

 と。


 向かいから、感傷的なシンセシスのメンバーが降りてきた。

 テトラとアヲイの視線が合う。

「いいステージだったね、アヲイちゃん」とテトラは笑う。

「どうもです、先輩」とアヲイは頭を下げた。

 そして、テトラをじっと見つめた。

「――なに?」

「歌えますよ」

 そうアヲイは言った。


「どんな歌でも聴いてくれる人、テトラ先輩にはいるじゃないですか、1人――だから、歌えます」

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