第6話 CREATE


  ※※※※


 3月11日(金)10:15

 浜辺ヒデアキは走り続けて息切れして、そして《レッドへリング》から少し離れた、かもめハープを少し過ぎたところにある、リザーブドクルーズの前に立っていた。

 そこに、藍沢テトラが待っていた。海原が見える。全てを呑み込んでしまうような横浜の海は、なんだか、テトラさんによく似ている、と思った。

 彼女はキャットアイタイプのサングラスをかけて、海の向こうを見ていた、が、ヒデアキの足音に気づいてゆっくりと振り返った。

 ――トリィさんか、ジーイさんか。それとも、モノオさんか? 遠くにいるヒデアキにはまだ分からない。

 彼女がサングラスを外した。

 その瞳は、伏し目がちな視線の向こう側で、あらゆる感情を含んだまま真っ黒だった。モノオさんのような怒りも、ジーイさんのような悲しみも、トリィさんのような喜びも全てそこにあり、美しく淀んでいる。

「え――」

 ヒデアキはゆっくりと近づく。と、彼女は微笑んだ。

「キミがヒデアキくん?」

「はい」

 彼がそう返事をすると、彼女は、ブラウンカラーのスニーカーで音もなく歩み寄ってきた。

「ごめんね。あたしたちはみんなキミのことが好きだけど、いちど、自分の目で見て挨拶したかったの」

「? はい」

 灰のダッフルコート。チェックのスカートから伸びるタイツの足取りは淡々としていて、ジーイさんにあった怯えも、トリィさんにあった気遣いも、そこにはない、いや、全部が混ぜ合わさっているみたいだった。


「あたしが藍沢テトラです。

 と彼女は言った。


 ヒデアキは、このとき初めて、藍沢テトラの主人格と顔を合わせた。伏し目がちに宇宙の暗黒系を眺めるような表情だった。

 不思議だな、と思った。初対面だけど、トリィさんやジーイさんやモノオさんの要素が全部そこにあって、懐かしさがある。

「俺は」とヒデアキは言った。「自分のしたことが、余計なお世話だったのかどうか、まだ分かりません。ただ、あなたのことが好きで、あなたに救われて、あなたがもういちど歌を歌う勇気を出すためなら、なんでもやるって思っただけなんです」

「そっか」

 テトラは微笑んだ。そして、レッドへリングの建物のほうを眺める。

「昔、ここで歌ったの」

「そうなんですか?」

「十年以上前だけどね」

 そうして、テトラは視線をヒデアキに戻した。

 ――なんだろう、この目。

 もっと、もっと、彼女に尽くせることがあるならそうしたいと、そう思わせる目だと思った。俺、どうかしてるのかな。

「――久しぶりだから、緊張してるし、怖いよ、ヒデアキくん」

「はい」

「――キミだけのやりかたで、あたしに、勇気を充電してほしい。キミにしかできないの」

 テトラは、さらに近づいた。ヒデアキとの間には、もう10cmもない。互いの息が聞こえる。

 彼は、彼女の瞳を見つめた。

 かつては、自分と彼女はどこかで住む世界が違うと思っていたが、そうではない。

 今の彼女は、有名人のくせに、まるで中学校の部活で全国大会に出るから彼氏に励ましてほしいと、そんなお願いをするそこらへんの少女と同じに見えた。

 ――ヒデアキは、テトラを強く抱きしめた。

「きっと上手くいきます。大丈夫です。大丈夫」

「――うん、ありがと」

「俺は、テトラさんが好きです」

「知ってる」

「俺のチケットの座席番号、BブロックJ列の140です」

 そう言って、ヒデアキは彼女から少し離れると、ちゃんと顔を見た。

「不安になったら、その席、見て下さい。なにがあってもテトラさんの歌を大好きな観客、そこにいますから。歌わなきゃ悲しみます」

「――うん」

 ヒデアキは少し、笑った。なんだか、ちょっとスポ根みたいなノリじゃないか?

「他のアーティストなんか目じゃないくらいに、やっちゃいましょう!」

 それを聞いて、テトラの真っ黒な瞳が、少しだけ湿気を増した。

 そしてその湿気を隠すように、改めてサングラスをつける。

「――充電完了」と彼女は言った。「ありがと」

 それから、彼女はダッフルコートのポケットからホテルの合鍵を出して、ヒデアキに渡した。

「今日は、この部屋に泊まってる」

「えっ?」

 戸惑うヒデアキを、テトラは誘うように笑った。

 魔性だ。

「終わったらそこに来て? ちゃんと歌えたら、ご褒美のキスを、キミからいっぱいもらいたいな」

 そうして藍沢テトラは歩き始めた。ヒデアキは彼女をただ見送る。

 ――がんばれ、テトラさん。

 なんて言えないけれど、でもそう思った。


 こうして《歌わない歌姫》が再びステージに舞い戻った。もう、並の音楽家では彼女に太刀打ちできないだろう。

 ――彼女の歌声は、セカイを滅ぼすことだってできる。

 そういう人種なのだ。

 そしてこのとき、ヒデアキは、自分がこれからどれほど過酷な運命に巻き込まれていくのか、全く分かっていなかったのだ。


  ※※※※ ――Appendix


 さて、他のアーティストたちを紹介するために少し寄り道をしていこう。

 時間を遡り、2月末。

 札幌。

「おっしゃああああ!」

 オルタナティブロックバンド「夜ごと侍らして恥じ入って」のギターボーカル、弁財天スピカは雄叫びを上げていた。音楽の国内三大企業による年末合同ライブ《THE DEAD》への出演許可が降りたからだ。公式サイトのリストにも名前があった。

「はい勝ちいぃ~~!!」

 スピカはさっそく、色んなバンドのアカウントをパブサする。お目当てのバンド「感傷的なシンセシス」もコメントを出している。

 いちおうスタッフの投稿ということになってはいるが、その文面は、明らかにリーダーである篠宮リョウが考えているものだ。

「くくっ、く、シンセシスちゃんも挨拶してるしぃ~!」

 その文面は次のようなものだ。

《本年度末の「THE DEAD」に、私たちも出ることになりました。よろしくお願いします。スタッフの皆様と話し合って、今までにないパフォーマンスも思案中です。どうか楽しみにしていてください》

 固い! 固いなぁ~! しかし解釈一致ィ!!

 スピカはちょっと悶える。

 リーダー兼ベース担当のカケルが、後ろから「楽しそうだな?」と声をかけてくる。

「そりゃ楽しいに決まってんじゃぁ~ん! バカなのぉ? 死ぬのぉ~!?」と、スピカは歓声を上げた。

 スピカは、ライバル視しているバンド「感傷的なシンセシス」のファンというか、そのギターボーカルである九条アヲイの信者なのだ。

「うっはぁ」と、執着心に満ちた声を彼女は漏らす。「やっとあのアヲイ様と同じステージだぜぇ、おいいいぃ~! めちゃくちゃ緊張するんですけどおおおぉ~!!」

 スピカは、ロングヘアを虹色模様に染めてオデコ丸出しのポニーテール、マゼンタのカラコン、そして、耳と唇と舌(あと、おへそ)にいくつもピアスを入れたバキバキのスタイルで有名だが、特に知られているのは、その音楽オタクぶり――というか、ライバルに対する厄介ガチ恋ぶりだった。

「アヲイ様に会ったら、なんて挨拶しよぉ? うわっ、ミレニアム懸賞問題並みの難問じゃねえのこれぇっ!? あっあっ、す、好きな女のコのタイプとか聞いちゃおっかなぁ! いや、これはキショいかぁ? ねぇ、どうしよぉ!」

 スピカがメンバーのカケルに振り向くと、彼のほうはあまり興味がなさそうな様子で、

「ていうか、なんで好きな『女の子』のタイプ?」と訊いた。「アヲイってやつも女なんだから、訊くなら好きな男の人のタイプじゃない?」

「――はあああああああ!?」

 彼の言葉に、スピカは激昂しながら立ち上がる。

「アヲイ様がぁ! 男なんかをぉ! 好きになるわけないじゃぁん! あのアヲイ様が異性愛中心主義に毒されて家父長制度を維持することにしか寄与しないクソオスとの穢れた性加害行為に屈服してしまう可能性があるだとぉ!? はぁ!? それマジ解釈違いだからぁ!!」

 スピカは怒鳴る。マジ早口だ。

 カケルは「ういー、そうですか。さーせん」と受け流した。

 徹底した無気力の態度だ。

 スピカはそんなカケルの反応も不満だが、今は機嫌を直し、とりまアヲイ様との初対面シミュレーションをちゃんと考えるべき! うん! そうするべき! という気分になっていた。

「あたし、今回のライブは《推し事》だと思ってっからさぁ、マジでぇ!」

 スピカはアヲイの画像を見ながら、テンションを高め続ける。――こういう気持ち悪いムーブがライブのパフォーマンスを左右するピーキーなアーティストが彼女なのだ。

「あぁ、アヲイ様に見つめられたら、どうしよう――」

 ワイタッカーエンターテインメント契約、夜ごと侍らして恥じ入って。

 THE DEAD エントリー。

 

  ※※※※

 

 3月11日(金)11:00

 蛇誅羅童子のボーカル、鹿部ノアはホテルで目を覚ました。目を覚ましたのは、他のメンバーがドアを開けて起こしに来たからだ。

 太陽の光がうるさいと思った。

「ノアちゃん、今日が本番よ。起きれる?」

「大事ないよ、あんがとなあ」

 ノアは体を起こした。

「――シャワーは昨日浴びたなあ? ほなら、靴、履かせて?」

 そう言って、ノアは足を延ばす。ギター兼作曲担当のユカリが、うやうやしく跪いてヒールをゆっくり彼女の足裏にはめる。

「なんやのん、もう。ライブて。かったるい。――タバコ吸いたあ」

 ノアの命令に応じて、ベース担当であるテルが、化粧台からラッキーストライクとジッポを持ってきて、うやうやしく咥えさせ、火をつける。

「ノアさん。あの西園カハルと全面対決やってのに、ずいぶん呑気ですやん」

 テルは引きつるように笑った。

「ああん?」とノアは微笑む。「うちがカハルちゃんに勝てるわけないやん。そこは弁えとるよお」

「へえ」

「カハルちゃんは、いっつも、音楽のお勉強いっぱいしとるんでしょお? お利口さんで偉くて、怖いわあ。うちなんか遊んでばっかでなんもしとらんやんかあ」

 ノアはそうして、ふふっと、殺気に満ちた瞳だった。

 ――彼女は要は「カハルはただのガリ勉で、自分のほうが上だ」と言いたいわけだ。

 和人形のように整った顔立ちに、おかっぱの黒髪。小柄で華奢な体に現代風の和服を着崩しながら合わせるスタイル。その声は体躯に似合わず太くて重い世界を堂々と歌うことができる。それがジャズロックバンド「蛇誅羅童子」のカリスマ、鹿部ノアであった。

 西園学派と蛇誅羅童子は、レビュアーに比較されることが増えている。

 おそらく、男を跪かせるような、女帝というか女傑というか、そういうボーカルの雰囲気が似ているから、面白半分に比べられているのだろう。

 ノアはそれが気に入らなかった。もっと、もっと深い場所でノアはカハルを意識していたからだ。

「男の扱いかた、いうんはなあ」と彼女は言い、先ほどまで親しげに話していたテルを見下ろした。彼はまだそこで膝をついている。

 その頭頂部に、ノアは足を持ち上げ、ゆっくりとヒールの踵を下ろして踏みにじった。

 テルは抵抗しなかった。

「自分が骨の髄までイカれてること覚えさして、怖がらせて言うこと聞かせたらええんよ。なあ。それは聴いてくださる皆さんも、メンバーも同じよって」

 その点、カハルちゃんはちと甘いわなあ。

 ノアはそう思いながら、別のことを言う。

「カハルちゃんは結局優しいからなあ。こんな酷いことなんて絶対せえへんわ。なあテル。どや? 今からカハルちゃんとこに行って甘やかしてもらう? うちみたいにアンタを冷たくあしらったり、面白半分に火で焼いたりはせんよ。なあ?」

 そこで足の力を強めた。

 ノアの殺気がさらに深くなる。

「うちのどこが『呑気』に見えたん? なあ、さっさと答えや」

「――すみません、ノアさん」

「『ノア様』やろ。なんべんうちに言わしたら気が済むん? ほら、ユカリも呆れとるやんなあ? 彼氏が情けのうて可哀想やわ、ユカリ?」

「――ごめんなさい、ノア様」

 そこで飽きて、ノアはテルを解放する。ユカリはその間ずっと下を向いていた。

 ――かあいい、ユカリ。とノアは愛おしく思う。

 テルはユカリの彼氏だ、だがそれ以上に、ノアの奴隷だった。ノアの前に立つ人間は、誰であれ、ノアに対して跪く必要があった。男は奴隷になり、女は自分の男を奴隷として献上する。

「カハルちゃんも、好いとう男とかおるんかなあ」

 ノアは楽しそうに笑いながら、ギターケースを背負う。

 ――そいつのことも、うちのもんにしたいわあ。

 そう思った。

 ワイタッカーエンターテインメント契約、蛇誅羅童子。

 THE DEAD エントリー。


  ※※※※


 3月11日(金)12:00

《レッドへリング》3Fの控えスペースに、長尾芸能所属・柊タスクは、おそるおそる足を運んだ。

 初めての場所ではない。

 昨日のリハの時点で、音調整のために顔は出している。だが、それでもこの圧にはまだ慣れないと感じていた。

 ――うへえ、大物しかいねぇ!

 柊タスクの音楽活動は、たぶん、そこらへんでくすぶっているアマチュアアーティストが聞いたら、超がつくほど羨ましがるような順風満帆なものだった。動画サイトで細々と楽曲を公開していた彼は、あるとき急に大手レーベルから声をかけられてしまい、そして今こんな場所にいる。

 ――場違い感すげえわ。

 もう午後からの出番待ちで、控えスペースには、モニター越しにホールを眺めたり、もういちどスタッフと機材の相談をしているアーティストが溢れている。もしこの場にいないとしたら、ただ個別の休憩ルームで待っているということだろう。――それもそれで度胸があることだが。

 心臓が痛い。呼吸が辛い。

 そんなとき、

「緊張してる?」

 と声をかけられた。慌てて振り返ると、ハードロックバンド《キラークラウン》のリーダー兼ドラム担当、斉藤ネネネだった。

 黒のボブカットに黒縁のメガネでシックにキメて、今日はタートルネックの深緑のセーターだ。まだ肌寒い日々が続く。

「え、ええ、まあ――」

「みんなで良いステージにしようね。応援してる」

「ひゃっ!?」

 タスクは変な声が出る。

 ――おいおいおいしっかりしろよ、二十五歳オレ! ここで女性恐怖症が発動したら終わりだ!

「ガ、頑張リマス、ハイ」

「まだちょっと固いかな」

 ネネネは少し笑う。

 ――わ、笑った? 女の人が? オレなんかを見て?

 もしや女神、いや、そんなわけない、陰キャでコミュ障のオレを笑ってるんだ――。

 タスクがフリーズしていると、

 

 そこに蛇誅羅童子の面々が入ってきた。

「うはあ。埃くさあ。やっぱ慣れんわあ。横浜いうても田舎やね」

 ボーカルの鹿部ノアは忌々しそうに歩いてくる。そうして周囲を見渡し、

「なんやの。西園学派のカハルちゃんはまだおらんのん?」

 そう呟いて小首を傾げてから、

「はーあ、はよ来た意味ないわあ。リハんときは顔合わせんかったよって、わざわざあの子に挨拶したくてきたんよお?」

 やれやれという風に和風の黒髪を振って、顔を上げる。

「――ここにいるん、雑魚ばっかやん? 社長さんが言うから出てやっとるけど、しんどいわあ」

 そう吐き捨てた。

 ――ひいいいいい! こえええええ!

 タスクはもう身動きが取れない。た、たぶんオレに対する嫌味だよな。そうに違いない。

 オレ以外みんな売れっ子だし、曲も良いし、ファンもいっぱいいるし! 雑魚なわけないし。ってことは、やっぱオレに対する批判だよなあ。

 うっ、吐きそう――。

 タスクの脳内で、引きこもり時代の前、クラスのカースト上位女子から受けていたイジメがフラッシュバックする。彼の目の前にいる鹿部ノアの顔が、今、あのときの学級委員長の女と同じ顔に見えていた。

 ――た、助けて。女の人、こわすぎる――。

 そのとき、


「雑魚は自分やろがい。西園カハルのオマケもんがよ」


 という声がした。

「ああん?」と鹿部ノアが顔を向ける。

 そちらにいたのは、ミクスチャーロックバンド「サントーム」の作曲兼ベース担当・佐倉タカユキだった。作詞兼ギター担当のユキナガは実の兄。そして、ダンスボーカルの七峰ミチルは二人共有の女だ。

「だっさい方言やめえや。キャラ被っとんねんボケ」

 タカユキが嘲笑うように歯を見せる。

「あらあ、お商売上手の佐倉兄弟もおったんかあ。こら失礼したわあ」

 ノアはにっこりと笑う。

「撤回するわあ。みんな雑魚は言いすぎよって。サントームのお三方は、セールスで苦労しながら努力しはっとるもんねえ。尊敬しとるよお? もちろん。うちなんかマグレで売れてばっかで恥ずかしわあ――」

 明らかな挑発。

 ミチルの顔が引きつっている。兄のユキナガと言えば、我関せずの姿勢で横を向いたままだった。

「すまんのお」と佐倉弟が笑いながら立ち上がった。「アバズレ女の言葉は全部聞こえん耳になってんねん。なあ、隣の兄ちゃん。さっきこの、中学生みたいなチビスケがなにしゃべくっとったか翻訳してえや? ああ?」

「あ?」

 ノアが声を漏らす。隣のテルも黙ったままだ。

「くはっははっ!」

 タカユキは笑った。

「女王様扱いされて調子のっとんのかなんなんか知らんけどな、ボクは、無能の女に見下されんのがいっちゃん嫌いやねん。

 今日でその鼻っ柱ブチ折ったるわ。それまでM男のショボチン咥えてボイトレしとけや、タコが」

「てめえ――」

 ノアの目に殺気が宿る。タカユキは引かない。そんな様子を見て、タスクのストレスがいよいよマッハになりかけたとき、

 

 そのとき。

 控えスペースのドアが再び開いた。

 四人組のバンドが入ってくる。真ん中にいる女は夜型のロングスリーパーなのか、真っ昼間の今でさえあくびをしている。

 インナーだけを染めた長い長髪。サイケ調のメイク。そして黒ずくめのファッションにジャラジャラと威圧的に鳴るアクセサリー。

「――リンドウ、指は問題ないな?」

「ああ」

「ミキヒコ、調子は?」

「ばっちりです」

「タクヤは――まあ、訊かなくても分かるからいいや」

「えっ! オレにもなんか訊いてよ~!」

 西園学派の作詞作曲担当兼ギターボーカルのワンマンリーダー、西園カハルだった。


 タカユキが口笛を吹く。「本命中の本命ちゃんがやっと来たわ」

 西園カハルは彼には注目しない。ただ控えスペース全体を見渡したあとで、「――朴セツナは個室か?」とだけ呟いた。

「ま、いいや。しばらく会えなかったぶんバレンタインのチョコとか用意したんだけど、それは打ち上げで渡せばな」

 そうして、蛇誅羅童子の鹿部ノアの方向を見つめた。

「よう、アタシの好敵手」

「――あは」

 ノアの背中に、ビリビリとした緊張が走る。全ての人間を見下してきたノアにとって、しかし、カハルの音楽だけは別だった。正直に言って、この世で初めて尊敬できると思えた人間は、ノアにとってはカハルだった。

 ――家族も要らん。友達も要らん。男なんか道具になるけど邪魔なだけや。カハルの曲だけが、寂しいうちのただひとつ拠り所や。やから、それ全部乗り越えてブチ壊して、やっとうちが最強になる――。

 そんな風に想っていることを、ノア本人でさえ自覚していない。

 カハルがゆっくりと歩いてくる。

「か、カハルちゃん――」

 ノアは手をあげようとした、が、カハルは彼女の場所を通りすぎた。

「え?」

 カハルはノアの後ろのほうにあるもっと向こう、そこで寝そべっている女が目当てだった。《よう、アタシの好敵手》とカハルが呼びかけたのは、その女であって、ノアではない。

 ノアには全く気づいていない。

 その女は、カーキのジャンパーコートとだぼだぼの赤いセーター。ジーンズにゴツゴツのミリタリーブーツを履いていて、トレードマークの野球帽を自分の顔に乗せたまま眠りこけていた。ベース担当・川原ユーヒチの膝枕。

 まるで男の子みたいな黒の短髪で、その見た目は、どちらかといえば美少年のようだった。

「起きろよ。アヲイ」

「――んあ?」

 寝ぼけたような声で、アヲイは上体を起こす。

「――良い夢見てた」

「そりゃ結構だな?」

 カハルは呆れたような声だ。

「アヲイ、楽しいライブにしようぜ? お前のほうもちゃんと全力で来いよ」

「お? おー、そうだね」

 アヲイは能天気に、ヘラヘラと笑う。

 ノアだけが、置いてけぼりだ。

「な、なあ、カハルちゃん!」

 そう彼女が叫ぶと、カハルとアヲイが二人とも、まるで今気づいたかのようにノアを見た。

 アヲイが「知り合い?」と訊くと、カハルは「え、いや――?」と首を振った。

 なんやの、その反応?

 ノアは少し襟を正して、平常心を保とうとした。

「お騒がせ王子様のアヲイちゃんは知らんやろけど、うち、蛇誅羅童子のノア言います。今は西園学派のライバルゆうか、恥ずかしながらそんな風にも言われてて、頑張ってやらせてもろてるわ」

 そう彼女が言うと、

「へー、すげえ」とアヲイが笑った。「ライバルかあ」

 いけすかんな、その態度。

 忌々しい、と思ったそのとき、

「違うな」とカハルが言った。

 は?

 呆然としているノアをよそに、

「アタシのライバルはアヲイ、お前だけだ。他にはいない。今日もお前のギターを聴きに来たんだ。アタシにとってはな」

 そう言ってポケットに両手を突っ込んだあと、改めてノアを一瞥した。

「悪いな、誰だお前」

 そう言ってカハルは個室に去っていった。


  ※※※※


 3月11日(金)13:00

 浜辺ヒデアキは昼食を済ませて、ゼミのメンバーと合流しながら《レッドへリング》に入った。伊角タエコ、宇野チヨコ、長崎ハスタ、ニモ、ソユル、そして柿ノ木キョウカが先に指定席に座っている。

「遅かったじゃん」とハスタが笑った。

「ああ、まあ色々あって」

 そう言って、ヒデアキも座った。席の順番はこんな感じだった。↓


 キョウカ ソユル ニモ ハスタ チヨコ タエコ ヒデアキ


 タエコが「やっとアヲイちゃんのステージかあ」と上ずった声を出す。「どんななんだろう?」

「さあね」とハスタは頭の後ろで腕を組む。「オレはやっぱり、西園学派が気になるわ。どんなことやってくるのか分かんねえし」

 それに対して、ソユルも乗り出す。「アタシ、スピカが面白いと思う。気になる」

 キョウカはじっとした目で、「ねえ、ヒデアキは?」と訊いた。

「俺?」

「ヒデアキは誰が気になるの?」

「俺は――」

 少し考えてから、本当のことを言っても意味はないなとヒデアキは思った。

「やっぱりアヲイさんの演奏かな。あとは、サントームもなにをやるのか気になってるよ」

 真っ赤な嘘だ。

 ――俺が気になってるのは、藍沢テトラさんが今日、成功するかどうかだけだ。

 頼む。成功してほしい。

 チヨコはパンフレットを畳んでバッグにしまいながら、「うちは断然、トワ様!」と言った。

「うお」とハスタは茶化す。「ここにもトワガールがいたぜ!」

「ええっ? そんな軽いのじゃないし!」

「ははは」

 とヒデアキは笑った。

 ハスタとチヨコは付き合っている。でも、お互いのことをなんでも腹を割って話していて、なんていうか、良いコンビだな、と思う。

 ――俺はどうなんだろう?

 そうやって物思いに耽るヒデアキは、自分のことを疑いの目で見ているキョウカの視線にもう気づいていなかった。

 ステージが始まる前に、タエコがヒデアキの耳もとに唇を寄せる。

「ちょっと休みの前より元気出てきたの?」

「え? ああ、うん」

「よかった。――心配だったから」

 タエコはにっこりと笑った。

「あのさ」と彼女は囁いた。「失恋の傷は、新しい恋で癒すってよく言うでしょ?」

「? そうだね」

「ヒデアキのこと好きな人、きっと身近なところに案外いるんじゃないかな」

 そうしてタエコは、彼の左肩をぽんぽんと叩いた。そこは傷痕になっている場所だ。

「あんまり、自分を粗末にしないでね?」

 ヒデアキは、それを聞いて、なんだかズシンときた。こんな風に心配してくれる友達がいるのに、俺は突っ走ってばっかりだな――と思った。振り返ってみれば、タエコさんには、キョウカさんのことを好きだったときもよく相談に乗ってもらっていた。

 こういうのを大事にしないと、俺、ダメだ。

「ごめん。ありがとう、タエコさん」

 そう言うと、なぜかは分からないが、彼女の頬が少し赤く染まった。

「ねえ」

「ん?」

「タエコでいいよ、ヒデアキ」

 そのとき、ホールが暗転した。タエコの表情が全く見えなくなる。

「それって、どういう――?」

 そうヒデアキが言い終わらないうちに、女性のファンの黄色い歓声で空間が満たされていった。

 チヨコも「きたきた――! おかえり――!」と叫んでいる。

 THE DEAD二日目、レッドへリングコンサートホール。

 トップバッターは問題児のトワだ。


  ※※※※

 

 3月11日(金)13:00

 ヒデアキがトワについて知っていることは、ほとんどない。ただ、数枚のレコードで大物ミュージシャンの仲間入りを果たしたあと、年末大晦日の歌番組に出演し、直後に有名女優との不倫スキャンダルで活動自粛した。

 そういう事実だけはヒデアキの耳に入った。

 出生に関する噂話や、脳の障害に関する誹謗中傷めいたおしゃべりや、無限にネットに流れてくる女癖の悪さや乱暴癖については、いったん無視していた。

 あることないこと有名人って言われるしな、という感じだった。

 けれど、彼の復帰宣言の直後の記者会見は、流石に妙だと思ったのを覚えている。

 トワはマイクとカメラに囲まれて、ただ天井を見上げていた。そうして発言を促されると、

「偉い人が優しい人だったのかな」と呟いた。「また歌っていいことになったから、歌う。よろしく」

 とだけ言って、頭を下げた。フラッシュが焚かれる。

 記者が手を上げた。

「今回のこと、反省はありますか?」

「反省?」

 とトワは反芻してから、顎や鼻の頭をいじって、それからカメラに向き直った。

「結婚している女をおれのモノにしちゃったら、しばらく歌えなくなるって分かりました。これからは、女をおれのモノにするときは、結婚しているかどうか訊いてからにしようと思います」

 異常な回答だった。

「いや、あのねえ――!」という怒鳴り声が、テレビの前のヒデアキにも聞こえた。マイヤーズミュージックの広報担当が「質問は挙手にてお願いします!」と大声を張り上げる。

 別の記者が手を上げる。

「それは、橋本アスカさんが結婚していたと知らなかったってことでしょうか」

 年若い女性記者の声だ。

「え?」とトワが記者のほうを向く。

「ですから」と女性記者が言う。「橋本アスカさんが既婚者だと知らなかった、と、そういう弁明でしょうか」

「誰だ、その女?」

 トワが首を傾げる。

 遠くから「誤魔化してんじゃねえよ!」とか「病気のフリも大概にしろ!」とかヤジが飛んでいるのが分かる。

 トワがその罵声のほうを見る。そして、マイクを手放した。広報担当のほうを眺める。

「ほらね。やっぱり、おれのことなんか誰も分かってくれないんだ。真面目に答えてるのに。――もういい。やめにしよう」

 そうして立ち上がる。

「待って!」と、先ほどの女性記者が怒鳴る。「待ってください!」

「なんで?」

 とトワは振り向いて答えた。

 会場が、しいん、となった。

「おれは赤ん坊のとき、ゴミ捨て場に捨てないでって泣いてた。でも、ゴミ捨て場に捨てられた。――なんであんたは、待ってって言うだけでおれを待たせることができるの。答えろ」

「えっ――」

「あなたの名前――名前はなんていうの」

 質疑応答が逆転した。もう、誰も怒鳴らない。トワを問い詰めない。

 問い詰めるのは、とっくにトワのほうだった。

「わ――私の名前?」と女性記者が訊き返した。

 トワの目が暗くなる。「――自分の名前も言えないくせに、おれを待たせたのか?」

「き、木村奈々子です!」

「へえ――良い名前だ、ナナコ」

 トワが再び記者会見の椅子に座った。

「なんでおれに質問するんだ? ナナコ? 給料が貰えるからか?」

「――あなたのことを知りたいからです。知りたい人が大勢います。ファンだってそうです。そのための義務を果たすためにここにいるんです」

「頑張り屋さんだな、ナナコは」

 トワは優しく笑った。

 そうして、

「――二十世紀に入ってからのピアノは、おれは、プロコイエフのソナタがいちばん好きだ。シュトックハウゼンも気に入ってるけど。今後の曲は、そういうのもヒントにしたいと思ってる。新曲と比べたら新しい楽しみができるかもしれない。ぜひ、あなたにもそう聴いてほしい」

「――は?」

「あと、最近のバンドだと、蛇誅羅童子は自分の魅力を知るのにまだ時間がかかってる感じだ。よくない批評家とかは、ああいうのを実験性と普遍性の融合と言うかもしれないけど。そういうのを中途半端の言い訳にしちゃダメだ。同世代なら、西園学派のほうが好きだ」

「――ちょ、ちょっと! 待って!!」

 女性記者が怒鳴った。

「いったいなんの話をしてるんですか!?」

「? なにって――」

 トワが悲しい、母親にぶたれた幼児のような瞳になる。

「おれを知りたいって言うから、話したんだけど。こういうのは、もっと別の場所で言ったほうがいい?」

 全員が息を呑んだ。

 この男は、とっくに壊れている。

 かろうじて音楽の存在が、こいつに人間という器を許しているだけだ。

 誰もがそう思った。

 女性記者が絶句していると、トワは少し頷いて、「ねえナナコ」と呼びかけた。

「はい?」

「ちゃんと色々話すよ。近くのホテルに泊まってる。場所を教えるから、ナナコだけそこにきていいよ」

「えっ?」

「他のやつらは、ナナコみたいにおれに優しくしてくれなかったからな。そいつらには言いたくない」

 そうトワは喋ってから、

「あ、そうか」と再び自分だけ頷いた。

 女性記者は声が震える。

「どうしたんですか?」

「いや、ちゃんと反省したってことは、やっとかないとなって思って」

 トワは、まるで子どもみたいに歯を見せて笑った。

「ナナコ、結婚はしてる? ――はあ、よかった、ちゃんと訊けた。これで怒られずに済むぜ。――ハハハハハハハハ!!」


  ※※※※


 ステージの上には、黒光りするグランドピアノが置かれてマイクに囲まれている。あとは電子ドラムセット、そしてGibsonのFlying V 2016がステージの中央に架けられていた。

 袖から出てきたトワは、淡い色のデニムに、腕をまくった白セーターのシンプルな格好だった。遅れて、女性が入った。

 トワはだいたい、ライブでは一人か二人のサポートスタッフを招く。今回の演奏では、その肌の浅黒い女がそうだった。

 ――それは、知っている人は知っているが、トワに飼われている女のひとり、ビリーという音楽好きの子なのだが。

 トワはグランドピアノの椅子に座り、とくに挨拶もなく弾き始める。

 音が響き始めた。

 彼は、普段の言動からは想像つかないほど、楽器の演奏については優しかった。子猫をあやすように指を置いていく。ピアノから音が広がり、そして、それがメロディとコードとリズムを暗示したあたりで、

 トワはマイクに唇を寄せて、透明な声で、ゆっくりと歌い始めていった。

 2ndアルバム『トワ』

 第六曲『アサガオ』


 曲目が分かった瞬間、ホールのあちこちから、おそらく彼のファンであろう、女たちの黄色い歓声とか悲鳴とかが聞こえた。男たちの太い拍手も、わずかだが響いている。

 トワは、シンプルなピアノサウンドに乗せて囁くように歌詞を乗せていった。

 歌詞の内容は、比喩的だが、いたって単純だ。

《おれは世界でいちばん寂しい男だ。そんなおれを救ってくれるのは君だけなのに、おれはもう君のことを思い出せない――》

 そういう内容を、象徴詩からの影響を受けたか、やたらとややこしい言い回しで表現するのがこの歌だ。

 喪失自体の喪失。

 ピアノ。

 ぼそぼそとした、透き通った声。

 サビが終わると、トワは鍵盤から指を離す。そして、サポートスタッフであるビリーが、ゆっくりと、電子ドラムを叩き始めた。近年のクラブミュージックを意識している複雑なリズムを、シンプルな音の数で再現する。

 そうして再びピアノと声が曲のなかへ戻っていく。

 歌詞は変わらない、が、声のほうが力強くなった。

《頼むから、おれを救ってくれ。おれを救ってくれ。おれがなにを失ったのか、それさえ失ったおれを、もういちど救ってほしいんだ》

 そんな主旨のサビだ。

 彼の歌に合わせて涙ぐむ観客がいる。おそらく、彼のファンだろう。

 どんなに醜聞があっても、どんなに彼の横暴を目にしても、彼に惹かれる。そういう人々がいるから、彼の音楽はあった。

 普通、歌詞に自分を引き寄せて共感するところで、トワの信者の女たちは、歌詞で歌われる彼の苦悩に自分自身を投げ込んでしまうから。

 トワのピアノが強くなる。彼の、左目だけ静かに泣いていた。

 曲が終わる。

 拍手。涙声。


 トワはビリーに合図して、今度は激しいリズムを刻ませる。そして、タイミングを見計らい、ラップトップにプリセットされたリズムを鳴らし出す。そして、ギターのほうに歩きだした。

 1stアルバム『逢瀬』

 三曲目『仮往生伝試文』

 派手なギターが鳴る。

 スピーカーは最大音量だ。

 キィーーンとする。

 それを、トワは、柔らかく指でつまんではじいていく。ちょっとした雑音も、全てホールに響いた。

 ギターの前に置かれたマイクでは、彼の歌声も、吐息さえ全て拾うほどになっている。ビリーのリズムが厳しくなる。彼の歌がどんどん官能的になっていった。

 それを聴いているチヨコは、

 ――これ、これだよ!

 と思う。

 ずっと遠くのステージにいるはずのトワが、まるで、すぐ近くにいて耳もとで愛を囁いてくるみたいだった。

 ビリーのリズムがさらに変わる。電子ドラムの人工的な轟音が体中に響いていく。そういう音をつくっているのだと分かった。

「あ、ああ――ああ――――!!!!」

 彼の絶叫で、曲は終わる。

 ワンテンポ遅れて、拍手が響いた。ビリーが満足してスティックを置いて、トワは、涙を拭ってゆっくりと立ち上がる。

「トワ様!」という女の声がした。

 チヨコは、これ、やばい系だよ、と思った。

 ――だって、こんなの、聴くポルノじゃん。

 トワは、ウェーブのかかった髪を少しかきあげ、奈落の底のような瞳を晒した。そして、マイクの前にもういちど立ち、

「――ただいま」

 と言う。

 それに対して、女たちの嬌声だ。こんなの、特定の人種は我慢できるわけがない。

 トワは寂しそうに笑った。「これから、色んなやつらがここにくるんだけど――」

 そうして、彼は観客の返事を待たないまま、

「――これからも、おれに優しくしろ」

 と言って、そうしてステージを去っていく。


  ※※※※


 控えスペースをさらに進むと長い廊下があり、そこにひとつひとつ休憩用の個室がある。

 オルタナティブロックバンド《感傷的なシンセシス》のメンバーのうち、篠宮リョウ、野村シシスケ、山本ガロウはそこで休んでいた。ついでに三島モモコもそこにいた。

 備え付けのモニターにはトワの映像。

「はい、ガロウさん、採点しますからノート見せてくださいね」

「うええ」

 モモコに言われたとおり、ガロウはキャンパスノートをひっくり返して彼女に手渡した。

 ――ガロウは今年の初めからずっと、恋人のモモコに勉強を教わっている。緊張が紛れてちょうどいいからと、ライブ直前も問題を解いていた。

 二人の馴れ初めを説明するのは難しい。だからここでは端的な事実だけを語ろうと思う。

 ガロウは中学時代に母親に刺されて以来、ほとんどまともに学校に通っていない。それ以前もサボり気味だったが、母親が逮捕されて病院に入ってからというもの、最底辺の高校に籍だけを置いて新宿で遊び倒していた。

 そのときガロウが覚えたことといえば、自分の金の守りかたと、酒と煙草の味と、ギターの音。そして、下らない女との下らない夜明けだった。

 他方で、モモコは品行方正なT大のリケジョだ。

 ――なんでそんな二人が恋人同士になったのか。その経緯はややこしいから別の機会に話すとして、モモコにとっては、ガロウは彼氏であると同時に、自分にギターを教えてくれた人でもあった、ということはここに記しておこう。

「しかし」とシシスケは言った。「ガロウもずいぶん頑張ってるな。てっきり俺は三日坊主になると思ってた」

「うるせ」とガロウは頬杖を突く。赤ペンを走らせているモモコを横目に見つつ、「会社との契約とか、カネの話とか、そういう小難しい話、ぜんぶリョウとシシスケに任せきりじゃねえか。オレだって、なんかやんなくちゃだろ。だから、まずは、アタマよくなったほうがいいなって」

 それを聞いて、リョウが軽く笑った。「アヲイとユーヒチにも聞かせてやりたいね。そのガロウの言葉」

「同感だ」とシシスケも頷く。「あいつらは逆に、勉強はできるくせに、いつもふざけて俺たちに任せっぱなしだからな」

 ガロウは頭をかく。「ユーヒチはいいんだよ。――今はアヲイと二人きりでいたいときもあるだろ?」

「お前は昔からユーヒチには甘いよ」

 シシスケはそう微笑んで、コーヒーをひと口飲んだ。

 そして、モモコが赤入りのノートをガロウに返した。

「はい! 半分以上正解してて、いい感じです!」

「マジで!?」

 ガロウが喜ぶと、

「残り半分を正解できるようになるまで、いっしょに頑張りましょう! 具体的には、問題への公式の適用だけではなくその応用でしょうね」

 そう彼女は言った。

「応用、応用かあ――」とガロウが唇を尖らせてノートを睨みつける。

 それに対して、

 シシスケが「応用ができないのは、定理や公式を字面だけで覚えていて、原理を把握していないからだ」と言い、

 リョウが「モモコってすごい教えるの上手いんだね。先生に向いてると思う。だってガロウ相手で」と言った。

 ガロウは二人を指差した。「お前ら、心のなかではオレのことバカにしてたんだろ! なあ! 今に見てろよ、オレにはT大生の教師がいるんだからな!」

 そして、モモコが耐えきれず真っ先に笑いだす。彼女が楽しそうに笑って、結局そうして全員が笑った。


 モニターが切り替わる。トワの演奏が終わって、次は弁財天スピカの率いるバンド「夜ごと侍らして恥じ入って」の出番だった。


  ※※※※


 ベーシストのカケルが部屋を開くと、スピカは目を閉じたまま、イヤホンでお気に入りの音楽を聴いていた。モニターに映る他の出演者には、なんの関心もない。

 カケルが黙ってドアの脇で待っていると、スピカが、

「――やはり神盤。アタシの私的ベスト」

 と言いながらゆっくりイヤホンを外した。

 どうやら《感傷的なシンセシス》と、その前身である《ダズハント》のなかから、アヲイボーカル単体の曲だけで自分用のベスト盤を編んで、それを耳に流し込んでいたらしい。

「この私的ベストの良いところはぁ、まずアヲイ様、次にアヲイ様、そしてアヲイ様なんだけどぉ――1時間ぴったりで終わるのも《良き》なんだ」

 スピカは立ち上がる。「こういうタイムスケジュールの調整にも使える。男の歌は聴かん。トワぁ? 誰だねそれは。知らんぬ。アヲイ様の声で両耳を大満足させ、概念的妊娠。アタシは今ッ! 臨戦態勢だあッ!」

「あ、そう」とカケルが無気力な顔で言った。「スタッフとは話をした。いつでもいけるってさ――」

「ハッ!!」

 スピカは叫んだ。

「オッッ――ケイッ!! でぇ――――すッ!!!!」←マジの奇声。

 部屋から出ると、廊下をスーパーソニックでダッシュする。控えスペースにそのままの勢いで乗り込み、他演者みんなの挨拶を全て無視。スタッフの忠告も無視。全力疾走でステージに向かって走っていく。

 観客がスピカの突進に気づき、歓声を上げる。だが彼女には、それはまだ聞こえない。彼女の耳はまだ最推しの声でいっぱいだ。

「うひょおおッ!! アタシをッ!!

 横浜ステージの中央にシュ――――トッ!!!!」

 スピカは野球選手のスライディングみたいに、自分のギターの前に勢いよく滑り込む。

「超ッ!! エキサイティンッ!!!!」

 そして、そのままギターのネックを掴んで起き上がり、直後、特殊な金具のついた腰のベルトにギターを固定して爆音を鳴らしまくった。――スピカオリジナルのサスペンダーつき手作りベルトで、ギターを直に体に装着する。ストラップをかける手間も要らないし、演奏しながらパフォーマンスでぐるぐる回せる優れモノだ。

 技術が最高、というわけではない。だが、彼女のその場任せのパフォーマンスには、人をイカれさせる初期衝動がある。

「お前らぁ!! だれ目当てで来たぁ――――!!」

 他のメンバーが慌ててステージ入りするなか、彼女はマイクで叫んだ。

 歓声が響く。

「スピカちゃんですかぁ――――!?」

 それに対して、おそらくファンだろう、「スピカちゃんでーす!」というハーモニーが聞こえる。

「ッバカァァああああ!!!!」

 スピカがさらにギターを鳴らす。慌ててステージ入りしたメンバーがそれぞれのポジションにつく。彼女は気にしていない。

「アタシの大本命は、感傷的なシンセシスッ、の、ギターボーカル、アヲイ様なんだあ――――ッ!!」

 謎の告白。

 スピカの普段のテンションを知らない一部の観客は、ポカンとしている。その他は苦笑か、絶叫か、あるいは悲鳴だった。

「結婚を前提に! アヲイ様の女にしてくれぇ!! あとお前らは適当に曲でも聴いとけぇ!!!!」

 カケルがリフを鳴らすと曲が分かる。

 夜ごと侍らして恥じ入って、4thアルバム『四面楚歌』

 5曲目『ピースフルお勉強会、大量ミサイルでお腹一杯』


 モニター越しにスピカの絶叫を見ていた《感傷的なシンセシス》の面々は、ただ唖然としていた。

 ガロウが「は?」と言った。

 リョウが「は?」と言った。

 シシスケは我関せず。

 モモコは「え?」と言った。

 そして、個室ではなく控えスペースでそれを見ていたユーヒチは、ただ、呆然としていた。

 同じく、控えスペースにいたアヲイは、隣のユーヒチにしか聴こえない声量で、

「いや、もう結婚してるし――」

 と呟いた。


 個室で手持ち無沙汰にOVATION の ADAMASを手入れしていた朴セツナは、モニター越しに弁財天スピカのパフォーマンスを眺めていた。

「うおお、やべえ」

 思わずそう漏らす。演奏の技術や、楽曲の構成への賞賛ではない。

 彼女のバンドは、今流行りの軽快なリズムにスラングまみれの早口を乗せる、それ自体はよくあるスタイルのものだ。ギターのカッティング偏重も、なにかの信念というわけではなくて――そして、サントームのような計算された商業志向というわけでもなくて――あくまで「そればっかり聴いてきたからそれが好き」という、ある種の天然っぽさすらも感じさせるものだ。

 マネージャの本並は、よくこぼしていた。「今のアーティストには、邦楽だけを聴いて邦楽をやる奴も多いんだとさ。それは日本の音楽市場の成長のおかげかもしれないが、やっぱり、そうやって内側に引き籠ったところに良いものは生まれないよ」

 その言葉には、元バンドマンの本並の気持ちが乗っていた。

 ――本並がそう言うなら、そうなのかなあ。

 とセツナは思う。が、

 それでも、スピカのバンドが輝いているのは、きっとスピカという《人間》が聴こえるからだろうと思った。

 セツナの考えでは、作者と作品は区別できない。――これは、作者が良い人間だったら作品も良いはずだという意味ではなくて、どんなに悪い人間や、下らない人間がつくった作品だとしても、その作品が良いものなら、それは作者の心の底に眠っている良さのおかげなんだ、という意味だ。

 作品を聴くことは、結局、作者を聴くことだからだ。

 ――スピカは吠える。はしゃぐ。病気で狂った犬みたいに騒いで回り続ける。ステージに用意してあったガチの電動ドリルを回してステージに穴を開けるフリをする。

 良いじゃん。

 セツナは、最後には彼女をちょっと好きになった。


 スピカは全三曲をメンバーとともに奏で終えると、

「どんなもんじゃ――――い!!!!」

 と叫んだ。

 拍手が響いた。

 後ろでカケルが呆れたように微笑んでいる。

「愛は地球を救うんだぜ。もし愛が救わないなら、なにが地球を救うんだ。――以上です」

 そう呟いた直後、

「ファック!!!!」

 と叫んでスピカは退場した。


 セツナの付き添いで来ていたマネージャの本並は、

「いや、たしかにすごいな」

 と苦笑していた。そうして、

「セツナはこの次の次だな。――大丈夫か?」

 そう彼女の顔を覗き込んだ。

 セツナは首を振った。「や、やっぱり――まだ慣れないっていうか、緊張はしてるって感じで」

「そっか」

「本並ぃ」

 セツナは手入れしていたギターを架けて、本並に駆け寄って腰に抱きついた。

「ははっ――ったく」と本並は笑った。「セツナはまだ本番前のこれは必要みたいだな」

「うん。必要。――ほんとは歌ってるときもそばにいてくれるのがいい――」

「それは難しいけど、うん」

 本並は彼女の頭を優しく撫でる。

「セツナは今日も成功する」

「もっと言って?」

「セツナは今日、いちばんカッコよく歌えるよ」

「もっともっと?」

「セツナの音楽じゃなきゃダメな奴、いっぱいいるよ」

「どこにいるんだよそんなの」

「――たとえば俺とか」

 セツナはそれを聞いて、嬉しくて、彼の腰に回した腕の力をぎゅっと強くする。

 幸せだ、と思った。

「うん」とセツナは言った。「頑張ってくる」

「おう」

 そう答える本並とセツナは、去年の終わりごろから付き合い始めていた。

 アーティストとマネージャという関係でそんな仲になるのはよくないかもしれない。だけど「――本並は、あたしのマネージャだから優しくしてるだけなの?」と思って我慢できる性格ではなかったのだ。

 こっそり、ひそかに皆に見えない場所で、本並はあたしのことを守ってくれてる。週刊誌もネットもない世界で、ずっと二人だけで――。

 ただ、セツナは、本並から甘やかされているだけの自分を歯がゆく思うこともあった。

 弁財天スピカの次は斉藤ネネネ率いるキラークラウン、そしてその次は新進気鋭の柊タスクだ。朴セツナの出番は五番目、前半部のクライマックスだ。


  ※※※※


 斉藤ネネネがリーダー兼ドラム担当を務めるハードロックバンド《キラークラウン》は、いよいよひとつのスタイルとしては円熟というような演奏をしていた。


 3rdアルバム『KILLER CLOWN LEVEL 3』

 10曲目『SILLY』


 彼女たちのバンドは、アルバムを重ねるごとにセールスを増やし、ファンを獲得してきたが、同時にある種のマンネリズムを批評家から指摘されてきていた。

 ――いつものように上手い二本のギターとボーカル、いつものように熟練したベース、いつものように完璧なドラム。このバンドが与えるのは安心という感情だが、それは、ロックとは最も程遠いものではないだろうか?

 そう書いたのは、まだ若い音楽批評家、瀧千秋という男だった。千秋と書いてセンシュウと読むらしい。

 ――痛いところを突かれた、とネネネは思った。彼女自身がそう思っていた部分を、明確に言語化されたという思いだ。

 だから、3枚目のアルバムでは冒険をしよう、とメンバーに伝えてみたのだが、彼女の焦燥がどのくらい全員に理解できたのか、未だにネネネは分かっていない。

 ――それでも。

 キラークラウンは3枚目のアルバムで、LEVEL XX~のナンバリングを廃止することを宣言した。そしてその3枚目には、ハードロック以外の他のジャンルを多く取り入れて多様性を志そうとした。

 暴れてみせる。

 そういう決意を込めて、今日、ネネネはドラムを叩いていた。一曲目『 SILLY 』は、モダンジャズのスタイルを初めて取り入れたものである。


 個室のモニターで見ていたシシスケが、眼鏡の位置をゆっくり直した。

「――そうか、ネネネか」と彼は言った。「相変わらず無茶なことをしやがるな。まったく」

 それを聞いたリョウが、くい、と顔を向ける。

「前々から聞きたかったんだけど、シシスケはネネネさんとなにかあったの?」

「べつに。同じ高校で、昔は同じバンドだったってだけの話だよ」

「同じバンド? ドラム同士で?」

「いや。あいつは当時はギターだ。いつからドラムに転向したのかは知らん」

「それってさ」とリョウは言った。「ネネネさんはシシスケに憧れてドラムを始めたんじゃないの?」

「まさか」

 シシスケは苦笑した。「俺は誰かの憧れになるようなプレイヤーじゃないよ、まだな」

「私が言いたいのは、そういう技術のことじゃなくて」

 リョウが言いかけようとして、彼の顔を見た。

 シシスケの、そのときの表情を、なんて表現すればいいのかリョウには分からない。おそらく最も近いのは、対等な存在と認めているからこその、厳格なジャッジ。

 シシスケは少しため息をついて、「表面的なジャンルを変えて技術の多様性を示そうというのは、あまり良い選択じゃない」と、それだけを呟いた。

「小説もそうだ。SFだのファンタジーだの、表面的な要素を変えたところで、聡明な読者に読まれるのは作者の本質だけだ」

 キラークラウンは、苦悩のなかにある。そういうことだった。


 首筋の汗をタオルで拭きながら、ネネネはステージを出る。控えのスペースでは柊タスクが体育座りで俯いていた。

「お疲れ様」

 と声をかけると、びくっと震え、彼が上を向く。

「お、お、お疲れ様です――」と言いながら慌てて目をそらす。「あの、えっと、良かったです。演奏。すごく――」

「本当――? ありがと」

 いまネネネの全身にあるのは、べったりと絡みつくような疲労感だけだ。このステージを終えたら、明日からはまた次の仕事だ。曲をつくり、弾き、つくり、弾き――途方に暮れそうになる。

 普通の社会人なら六十代まで働く。あと四十年、ずっと音楽と向き合わなくちゃいけない。

 いま目の前にいる柊タスクという男は、なにに悩んでいるのだろうか。

 誰かに苦しみを取り除いてほしいわけではない。自分の問題点を見つけ、改善案を考え、実行に移すとき、心はいつも独りだ。

 ――ただ、こんな風に暗闇を歩いているのは自分だけではないと、確かめたくなることもある。

 シシスケ。

 シシスケ、お前はどうなんだ。お前は今日、どんな音を鳴らす?

 お前の心はどんな暗闇を歩いているんだ?


  ※※※※


 ――柊タスクは、ネネネが去ったあとでゆっくりと立ち上がる。

 緊張はなくなった。さっさとステージに立ちたい。彼にとっては、日常のほうがよっぽど恐怖だった。スタッフに声をかけられ、サポートスタッフとともに歩きだす。

 歓声が聞こえる。音を出す前の、この時間がいちばんイヤだった。――女たちの、キャーキャーという声が恐ろしい。こんなオレに、どうして色めきたつのだろうか。裏があるとしか思えない。

 Epiphone Rivieraを手にとって、最大音量でかき鳴らしてみせる。

 ――これでやっと静かになった。


 柊タスク1stアルバム『助けてください』

 3曲目『オレの天使がP活で停学くらった』


 最大限に歪ませたギターは、シンプルな4コードしか鳴らさない。そうしてタスクの歌は、ボイストレーニングもなにもないような、男の地声をそのまま張り上げるだけのそれだ。

 歌詞はシンプル。非モテで、オタクで、女の子から虐められる男の子が、それでも純粋な恋に落ちて、最後には必ず裏切られる。

 完全な私小説型のアーティスト――という意味では、朴セツナとよく似たタイプだ。

 彼は中学時代に女子生徒からのイジメに遭い、不登校になった経歴がある。自室に籠もって書きためたのが、大量の歌詞と呪いのノートだ。

 幸せな地獄だった。人とは画面のテキスト越しにしか出会わないから緊張はしない。

 それでも、

「タスクくんのことが本気で好きです。あなたの女性恐怖症をなんとかしてあげたいです」とか、

「タスクくん、童貞だから悩むんじゃない? こんど会えないかな?」とか、

「結局オナニーはしてるわけでしょ?」

 そういうDMを受け取るたびに、恐怖で体の震えが止まらなくなった。

 女が怖い。いちばん怖いのは、女の笑顔だ。オレをバカにしてるに決まってる。

 レコード会社との話し合いは好きだが、プロデューサが万札を渡してきて、「これで女買って、スッキリしてこい。お前そういう経験ないからダメなんだよ」と言ってきたときは、トイレで夕飯ごとゲロを吐いた。

 どうしてオレ以外の男は、女が怖くないんだ? とタスクは思う。

 いちばん不思議なのはセックスだ。

 女に服を脱がされて、体をじろじろと見られ、触られて舐められる――。いちばん無防備な姿を晒す、そんなの想像もできないといつも思う。

 もし彼の容姿が人並み以下のものだったら、少なくとも「女性から存在ごと無視される」という形で救われることができたかもしれない。

 しかし、彼の整った目鼻立ちは、余計に彼を苦しめた。

 ライブハウス帰りの出待ちの女。配信時の五万投げ銭。会社に届くプレゼント(手作りのクッキーとかくるんだぜ!? 食うわけねえだろ気色悪い!)。そういう出来事が混乱に混乱を重ねていく。

 ――過去、自分をいじめてきた女性の存在と、現在、自分に媚びてくる女性が、どうしてもタスクの頭のなかで結びつかない。

 だからギターを鳴らし、声を張り上げる。もうなにも聞こえないように。そうして、ステージの上で爆音に包まれている瞬間だけが、彼にとっては、本当に静かで心地よかった。

 それでも曲を終えると、すぐに声がする。

「タスクく~ん!!」

「タスクく~んこっち見てー!!」

「タスクく~ん彼女にしてくださ~い!!」

 怖い。

 ――オレのことをいじめてたくせに、なんなんだよ、お前ら。

 怖いから、早く次の曲をかき鳴らして、全部忘れてしまおう。早く早く早く、音楽だけの世界に行くんだ。

 ――こういう彼には、ネネネの苦しみは分からないだろうと《僕》なんかは考える。彼女は音楽の海底に潜るために悪戦苦闘をしているが、彼にとっては、音楽だけが呼吸できる唯一の居場所だ。


 柊タスク、同アルバム。

 12曲目『もう歌い手はVtuber抱くのやめろ』


「おれの おれの おれの天使が

 おれの おれの おれの女神が

 今夜も屑男に抱かれてイってる

 おれの おれの おれの世界が

 おれの おれの おれの未来が

 今宵もアナタに笑われて消える

 ああああ!!!!

 お前のマイクラ実況だけが

 おれのオアシスだったのに

 お前の雑談配信だけが おれの救いだったのに!!!!」


  ※※※※


 そうして、レッドへリングでの《THE DEAD》2日目はいよいよ前半戦を終えようとしていた。

 朴セツナがステージ真ん中の丸椅子に座って、OvationのAdamasの膝に乗せて何弦か爪弾く。そうして薄い唇に咥えていたピックを手に取ると、

 マイクに「――歌っていいっすか?」と訊いた。

 歓声。

「あざます」と笑ってから、セツナは「ああ、これ終わったら休憩時間になるので、おトイレとか軽食とかね、各自済ませておいてもろて。あっちのほうに売店あるんで――」

 そこでいちど、セツナは動きを止めた。

「――このあいだ、絶交しちゃった昔の友達に会ってさあ。あたしが100%悪いんだけど、あの、その子が聴いてたらって思うと恥ずいっすね。合わせる顔がないっつか。

 昨日もね、その子が夢に出てきちゃって。あの、だからいつもより緊張してるんですけど」

 そこで、いちどD#mを鳴らした。セツナの曲に頻出するコード。

「えー、マジで歌うんで、知らなかった人も覚えて帰ってください。押忍!」


 2ndアルバム『人間赤点』

 ファーストトラック『先生のこと好きだよホントだもん錯覚なんかじゃないよ(子供だからってバカにすんなよ)』


 いい曲だな、と思って静かに聴いていた伊角タエコは、ふと、近くの席で、

「セツナ」

 と呼ぶ声を聞いた。そちらを向くと、キョウカが座席に着いたままうずくまっていた。震えている。

 ――え?

 タエコは、セツナの歌のなにがそんなにキョウカの琴線に触れたのか分からなかった。どちらかといえば、ゼミで見かけるキョウカの態度からすると、セツナが歌うような歌詞は苦手なはずなのに。

 ――セツナは、他のアーティストなら取り繕って、綺麗な建前に留まるようなラインを平気で乗り越えて、正しくない女の本音でも、それが女の本音なら歌いまくった。

 だから、意識高い系のメディアではよく叩かれていた。

 ワードチョイスの俗っぽさが、リズムに乗り、セツナだけの声に乗って振り絞られて響く。

《キスしてほしい。抱きしめてほしい》

 と歌うべきところで、

《ちょっとなんかおっぱいだって触ってほしいぜ! 先生のエッチ、あたしだけ知っていたい》と歌った。

 ――それがエロッ気ではなく、痛いエグみになる。

 即物的にしか共有できない種類の愛があるからだ。

 キョウカは聴きながら、すすり泣いている。

 タエコは、初めてセツナを知ったが、好きだなあ、と思った。

 自分がずっとヒデアキの恋を応援するふりをして隠していたいやらしい気持ちを、全部代わりに言い当てられているみたいな、いたたまれない歌だ。


 佐倉タカユキがモニター越しに朴セツナを眺める。

「ほお」と彼は言った。「夏のころと比べて、ようギターが上手くなったわ」

「わかるの?」と隣のミチルが聴く。

「昔はもっとヘタウマで魅せてたわ。ま、そういうのは天然やからな、すぐ制御できんようになる。でも」

 彼は眼鏡の位置を直す。

「前半五組のなかで、いっちゃん化けたんはセツナちゃうか? 歌の乱暴さをギターの上手さがなだめて、言い訳にしてない。

 そのぶん歌詞も映えるわ。

 こいつ、ジブンはカハルにもアヲイにも負けてる思うとるらしいけど――大したバケモンやで?」

 ミチルはタカユキの楽しそうな声色を、黙って聴いていた。

「ま、心配ないわミチル」と佐倉ユキナガが言った。タカユキの実兄で、バンドのギター担当だ。

「オレらはオレらのやりかたでええわ。――休憩明けたら、全部塗り替えたろうや」

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