第5話 JOIN


  ※※※※


 2月→3月

 結局、浜辺ヒデアキは実家の徳島には帰らなかった。ただ父親と少しだけ連絡を交わして、あとは阿佐ヶ谷でダラダラと過ごし、週三回の家庭教師のバイトに行き――沙凪という名前の大人しい女子中学生だった――気が向くと都内住みの連中と飲んで遊ぶか、藍沢テトラとデートをした。

 今日は高田馬場、長崎ハスタと宇野チヨコが手を振って彼を待ってくれていた。

 そして、W大生なら誰でも知っている。隠れ家のような居酒屋に入った。

 ハスタはウィスキーを飲んでから、

「しかしヒデアキ」と言った。「なんかお前ってさ、ちょっと雰囲気が変わったか?」

「そう?」

「なんて言えばいいか、圧っていうか、前よりも重みがある気がするけど。俺の気のせいか?」

「ああ~」とチヨコも言った。「それ、私もちょっと感じてた系。んー、変な意味に取らないでほしいんだけどさ、なんか、大人の男の人になったって感じ」

「なんだよ、それ」

 とヒデアキは笑う。

「人生の経験値なんか、なんも積んでないよ」

 彼がそう言ったら、

「お前、左肩がもうダメって本当か?」

 とハスタが言った。

「ネットではとっくに特定されてるぜ。美術館の大量通り魔事件で、ひとり、勇敢に戦って刺されたヤツがいるってな。そいつがヒデアキ、お前だろ。画像は拡散されまくってる。隠しても無駄だ」

「――俺はなにもできなかった」

 とりあえず、ヒデアキは正直に喋ることにした。そうして、

「犯人を前にしてさ、無駄な正義感っていうのかなあ。なんかしなくちゃって思って。でも、結果このザマだから、情けないよなあ」

 と、苦笑いをしてみせた。これは半分だけウソだ。

 ――俺は別に正義を気取りたかったわけじゃない。ただテトラさんが傷ついちゃいけないと思っただけだ。つまりエゴだ。

 チヨコがヒデアキの顔を覗き込んだ。

「恨みとか、ない系?」

 そう訊いてきた。

「恨んだら俺の腕が直るのかよ」とヒデアキは笑顔をつくる。「別にいいよ。誰かを恨み続けるのだって疲れるだろ? そういう長期的なの、きっと俺は向いてないし」

 ――だから先のことだけ考えていたい。

 ふと、ヒデアキの脳裏にモノオの表情が浮かんだ。トリィ、ジーイに次ぐ、藍沢テトラの三番目の人格だ。

 ――テトラさんは、恨んでいるんだろうか。十年以上前に自分を襲った犯人を。一方的な好意をこじらせて彼女を金属バットで殴り続けたクソ男を。逮捕後に、罪を償うこともなく命を絶ったストーカー男を。

 恨んでいるに決まっている、とヒデアキは思った。

 だってモノオさんの、あの自分の周りすべてを威嚇するような敵意は、その恨みの産物だ。

 ――ヒデアキは藍沢テトラと知り合ってから、多重人格に関する精神医学の本を本屋で買って、自分なりに色々と調べものをするようになった。

 それによれば、

 多重人格障害は医学的には「解離性同一性障害」と呼ばれているらしい。自分自身の一部を切り離して人格の同一性を保てなくなることからそう呼ばれる。

 そして、解離性同一性障害における人格とは、残酷な記憶を自分自身の心から切り離してそれを別人格に仕立ててしまうことによって生まれる。

 モノオさんは、だから、本物の藍沢テトラさんが担いきれなくなった負の記憶や負の感情の分身なのではないか、と思うようになった。

 もちろん、こんなのは素人判断もいいところで、実際にトリィさんやジーイさんの前で言うはずもない。そもそも、彼女は正規の医者に「詐病」と判断されている。つまり、別のよく似た病気の可能性もあるってことだ。

 でも、考えていたい。自分が考えていたかったからそうしていただけだ。

 ――やっぱり、全員合わせて「テトラさん」って考えるべきなんだな、と彼は思った。

 居酒屋の酒は予想よりも早いペースで進んだ。ハスタもチヨコも口数がいつもより少なくなっていく。

 そうしてヒデアキは、あの夜バーでトリィに口説かれたあと流れのままに抱きしめた彼女の身体を思い出していた。

 焦らないでと言われて、焦らずにいられる彼ではなかったのだ。


 ヒデアキは中学・高校を通じて、肉親を失った悲しみを言語化できないままぼんやりと過ごしてきた。だから生身の女性とセックスするのは、藍沢テトラが初めてだった。

「俺、初めてだから、上手くできないかもしれません」

 そう正直に伝えると、トリィは微笑んで、

「――大丈夫だよ?」と言った。

 人格が変わると性感帯も変わるのだろうか。少なくともトリィが弱いのは耳だということをヒデアキは知った。

 心地いい混乱が彼を襲った。あの美術館でクールに作品を分析していた彼女と、今、目の前でヒデアキのことを欲している彼女は同じ人間だ。

 ただ、服を着ているか着ていないかが違うだけで。

「キミ、ほんとに初めて?」とトリィは言った。顔が赤らんで、声が上ずっている。ヒデアキの腰の動きに合わせて、彼女の息が荒くなっていく。

「私が、ヤキモチ妬かないように、初めてのフリ、してるわけじゃ、ない、よね?」

「なんですか、それ」

 ――トリィさんがヤキモチ? 大人で、カッコいいトリィさんが?

 ダブルベッドの上で二回。

 お風呂にいっしょに入りながら一回。

 チェックアウト間近になってからヒデアキが延長の電話を入れて「ごめんなさい」と言い、服を着たばかりのトリィを後ろから抱きしめながらもう一回。

 ただヒデアキはトリィを抱き続けた。

 ――自分にそんな乱暴な力があるなんて思わなかった。

 怖い、と自分で思った。まるで初めて鉄砲の存在を知った戦国時代の人間のように、自分自身の精力の扱いかたが分からないと思った。

 ――トリィさんが自分の体を求めてくれるからって、それに甘えてこんな力は濫用しちゃいけない。

 ヒデアキが戸惑ったままでいると、トリィが、――いや、ジーイが彼の頬を撫でる。

「これで、もう、ずっと一緒だよね?」

 とジーイは笑った。


 結局、もっと長いあいだホテルにいることになって、ヒデアキはトリィに腕枕をしながら彼女の話を聞いた。

「実は、勇気を出して告白したんだよ。緊張したな」

 とトリィは言った。

「えっ」

 ヒデアキは、彼女のそんな言葉も意外だった。

 トリィは、少しだけいつもの余裕を取り戻した表情でヒデアキを見上げる。

「私はキミよりも年上だけど、だからって、ものすごく経験豊富ってわけでもないし。――あんまりお姉さんぶれなくて、ごめんね?」

「いえ、そんなことは」

 ヒデアキが否定しかけると、トリィは、目線を天井へと戻した。

「キミが大学生って知って、自分の年齢が初めてコンプレックスになってしまった。キミはキャンパスでは、同い年の女の子たちと友だちだったりする。未来の可能性も、夢も、全部これから手に入れる子たちだろ? そのなかには、キミを好きになる子がいるかもしれない。そんなのがライバルって、怖いよ」

 ヒデアキは、トリィの語る内容がただショックだった。

 俺は、いつも自分より藍沢テトラさんのほうが立派で、自分には足りないものばかりだと思ってた。相手が逆に劣等感を持つことなんて、想像もしなかったんだ。

 トリィは目を閉じる。

「それに、私、身長もちょっと大きいし。自分で分かってるんだ」

 藍沢テトラの身長は、日本人の女性としてはやや高い171cmだ。そこに、いつも底がぺたんとした靴を履いているのは、ジーイさんがヒール慣れをしていないからだろうと思っていた。

 実際はそうではない。トリィさんが、自分の高身長にコンプレックスがあるから、そういう靴を好んで履いていたのだ。

 ヒデアキは、ゆっくりと藍沢テトラの体を抱きしめた。

「でも、ほら、キスしやすくて良いじゃないですか?」

 そう言った。 

 彼はこのとき生まれて初めて、自分の身長が181cmあることを両親に感謝したくなった。大切に思っている女の人に、辛い思いをさせない背の高さに生まれることができてよかった、と。

 そうしてヒデアキは、好きな人よりも自分の背が高いことを、なんとなく訓示的に受け取っていた。

 ――俺は、テトラさんよりも、ほんの少しでいいから高い目線でモノを見て、ほんの少しでいいから遠くを見る視界を持っていたい。そして、彼女を傷つけそうな全てのものに対して、彼女より早く気づきたい。

 これは傲慢なのだろうか? それとも、これは結局のところ愛する女性の自由意志を抑えつけたい俺の支配欲みたいなものなんだろうか?

 キョウカさんなら、そんな風に非難するかもしれない。

 ヒデアキは、ただトリィを抱きしめた。それはジーイの体であり、モノオの体であり、つまり、藍沢テトラの体だった。

 ――誰か、誰か、誰でもいい、大切に思う女性を、正しく愛する愛しかたを、正解を俺に教えてほしい。そうヒデアキは思ってしまうのだ。


「しかし、藍沢テトラかあ」

 チヨコの言葉に、ヒデアキは心臓が跳ね上がった。我に返る。

 現実の自分は、まだ居酒屋だ。

 チヨコは、ぽやーっとした感じの顔で、カルアミルクを飲みながらメビウスのメンソールを吸う。

「――藍沢テトラが、なんだって?」

 とヒデアキが訊くと、

「お、ヒデアキも知ってる系? マニアだねえ。けっこう昔の歌手なのに」

「ああ、いや」

 ヒデアキは、まずい、と思った。絶対に動揺が顔に出ている。

 なんとか言い訳を考えようとして、

「親父が実はファンでさ、ちょっとだけ聴いたことあって」

 と言った。

「ふーん」とチヨコは首を傾げたあと、「とにかくさ、藍沢テトラが復帰するんだって。十年以上ぶり! しかも昔のバックバンドで!」

 そこに、ハスタが割り込んだ。「盛り上がってんじゃんチヨコ。すげえ人なの?」

「知る人ぞ知る、って感じだけどね。ずっと表舞台から消えてたんだよ、いろいろあってさあ。でもめちゃくちゃ天才系って感じなんだ~。なんか、ビビビって、自分の過去を揺さぶられちゃう感じ」

「へえ~」

 二人が盛り上がる。

 ヒデアキは、とりあえずほっとして酒を追加注文した。

 ――きっと、ハスタとチヨコの反応が普通だ。有名人が帰ってくるなら純粋にワクワクする。俺だって他の人だったらそういう反応だった。でも今は、なにかもっと切実な気持ちになっている。

 勘違いしてんのか? 本当は、俺があの人に釣り合うわけないのに。

 でも今は、そうやって自分を卑下することも、トリィさんに対して失礼な感じがして、すぐにやめた。

「まあ、楽しみだよな。そういう復活劇みたいなのって。俺もチケット予約してみるか」

 そんな風にヒデアキが心にもないことを言うと、

「はえ?」とハスタが声を出した。「お前ライン見てねえな?」

「え?」

「ゼミのヤツら、全員あとで電子チケット届くぜ。アヲイからの招待状」


  ※※※※


 2月→3月

 市ヶ谷駅から徒歩十分の場所、マイヤーズミュージック東京第二支社はある。そのライブスタジオで練習していた西園学派の面子は、十三時を回ったあたりで昼食を注文した。

 新メンバーの能登ミキヒコは、野菜と穀物を中心とした――というか、それしかないようなメニューを頼んだ。

 しかも、調味料について「もしよければ、それをオリーブオイルで代用できないか聞いてみてください。たぶん対応してくれるお店です」と、スタッフにさらに細かい注文をしている。

 スタッフはメモを取って、スマートフォンを手にライブスタジオを出た。

 水島タクヤは、ほんの少しだけ面食らった。

 もちろん偏食家と言えば、ギターボーカル兼作詞作曲担当の独裁リーダー、西園カハルも大したものだ。ガキ舌というのか、甘味か旨味ばっかり好んで、ベーシスト兼お世話係である鷹橋リンドウが無理やり弁当に野菜を突っ込んでやらないと全く食べたがらない。

 酒も苦いのは駄目だというから筋金入りだ。

 が、そんなカハルを見て慣れているつもりの水島タクヤも、能登ミキヒコの偏執的な注文には少しだけ呆れてしまった。

 まるで、肉、それどころか動物性由来の食品はなにも口にしたくないという感じだった。

 カハルはスタッフが出たあとで、

「おい、ミキヒコ」

 と呼んだ。

「? はい、なんでしょうか」

「お前、ヴィーガンか?」

 と彼女は訊いた。

 それは、挑発やからかいの意図などはない、単なる質問だった。

「はい」とミキヒコは眼鏡の位置を直した。

 ヴィーガン。それは広義には、あらゆる動物性由来の食品を拒絶するスタイルであり、アティチュードであり、ステートメントだ。完全菜食主義。

「もしアタシが聞いてもいいなら、話せ」とカハルが言うと、ミキヒコは少しだけバツが悪そうな顔をしてから話し始めた。

 ヴィーガンにはいくつか種類があると言われるが、ミキヒコはそのなかでも、エシカル・ヴィーガンと呼ばれるスタイルを採用している。倫理的菜食主義。

 主に動物愛護の観点から、動物の商品化そのものに反対し、あらゆる状況における動物製品の使用を自分に禁じる。たとえば、毛皮のコートもダメというわけだ。

 現代社会で狭義のヴィーガンといえば、普通はこのエシカル・ヴィーガンを指す。

 カハルはそれを、黙って聞いていた。タクヤは唖然としていた。

「なんで」とタクヤが言った。「なんでそんな風に思うようになったか、訊いてみてもいいかな。いや、悪い、失礼ならよすよ」

「申し訳ありません、そこは上手く言えないです」とミキヒコは苦笑いした。「なにか動物に関して重く深いトラウマがあるとか、そういう物語はありません。そうではなくて、ただこの問題について勉強しているうちに、自分にとって、よりグッドな選択をして生きていたい、と思っただけなんです」

 ギターと同じですよ。親から虐待を受けたとか、幼少期に性犯罪を受けたとか、そんなお話がなくても、ぼくはギターが好きですし、弾いていたい。同じじゃないですか?

 そう彼は言った。

「えー」とタクヤは頭をかいた。「そうかあ。そう言われると、そんな気がするよなあ」

「ふふ」とミキヒコは笑った。「ぼくがこういう生きかたをしていると知ると、けっこう、からかわれたりするんです。でも、皆さんは笑わないんですね?」

 それに対して、リンドウが箸を置いた。

「仲間のことは笑わない」

「そうだな」とカハルが頷いた。「ミキヒコ、お前のそういう感性の上で、お前のギターがあるなら、お前のその価値観もリーダーのアタシが背負うんだ。べつになにもかも話せとは言わない。だけど、お前が心で思ったことを笑う奴はここにいない。――分かったな?」

 そんな風に彼女は言った。

「――はい」

 ミキヒコが少し俯く。水島タクヤはそれを見て、久しぶりにカハル節が聞けたなあ、と思った。こういうところで、結局優しいんだからさ。

 このところの彼女は、新曲で手こずっているのか、毎日塞ぎ込みがちだった。だけどさっきのカハルはリスナーを前にして威風堂々としている本来の彼女だ。

 能登ミキヒコは「カハルさん、優しいんですね」と言った。「実はもっと怖い人だと思ってましたけど。恋人にもよくそう言われませんか? 実は優しいって」


 ――あ。


 彼の言葉を聞いて、水島タクヤは心臓が止まるかと思った。

 こいつ、さっきまで良い話っぽかったのに思いきり地雷踏みやがったぞ!

 カハルの表情が強張った。そして、

「恋人? なんの話だよ。そんなもんいるか」

 と彼女は吐き捨てるように言った。

 タクヤは気が気ではない。

 そんなカハルの言葉に対してミキヒコは、

「え、カハルさんとリンドウさんって付き合ってるんじゃないんですか? 見てれば分かりますけど」と言った。


 あーあ。言っちゃった。


 彼の言葉を受けて、カハルとリンドウ、両者の動きが完全にストップした。二人とも気づかないようにしていたことを、新参のメンバーがあっさり暴いたわけだ。

 カハルはリンドウを見た。リンドウもカハルを見る。

 リンドウはカハルに片想いをしながら、彼女の音楽活動を優先してそれを封じている。

 そしてカハルはリンドウの想いに気づきながら、わざわざそれを封じてくれている彼の意志を尊重して、気づかないフリをしている。

 二人はそういう関係だった。

 そして、二人以外にはバレバレだった両想いが、この日あっさり露見してしまったわけだ。


  ※※※※


 ちょっと時間を遡ろう。

 鷹橋リンドウはA大学の新入生として、とある軽音楽サークルに入った。偉そうにふんぞり返っている四年生から差し出された登録用紙に名前を書き、そのあと、女の子からの質問責めに遭っていた。

 やれる楽器はベース。持っているのはオーソドックスなFender Jazz Bass。

「リンドウくんって彼女いるの?」

 と二年生の女に訊かれて、

「いえ、俺は」と答える。

 恋人をつくることができないわけではない。ただ、自分にそれは向いていない、とリンドウは思っていた。

 思い出す風景があった。

 幼い頃、リンドウが寝静まったと両親は思ったのだろう――居間で彼の父親は彼の母親を無理やり犯していた。抵抗する母を、父は殴りながら組み伏せていた。

 その暴力に父自身が興奮しているようだった。

 真夜中に目覚めたリンドウは、小学生になったばかりということもあって、目の前で両親がなにをしているのかも分からなかった。ただ、思ったのは、

 ――俺には、こんなやつらの血が流れているんだ。

 ということだった。

 やがて父は病気を患って倒れ、母はそんな父を罵りながら介護するようになった。

 なぜ離婚しなかったのだろう? それは分からない。正直に言えばあんな母親の気持ちなど分かりたくもなかった。

 リンドウが第二次性徴を迎え、父親譲りの低い声と、高い身長を手に入れると、母は息子のリンドウのことも罵るようになったからだ。

「あんただって、自分の女を殴って犯す男になるんだ」

 そんな彼をただひとつ救ってくれたのは、中上ユタカという今は亡きロックスターの音楽だった。家族は素晴らしいとか、男女の愛情は素晴らしいとか、そんな美辞麗句を並べ立てる陳腐な曲にはなんの関心もなかった。ただ、世界の全てをブチ壊すんだと宣言する中上ユタカの歌だけが好きだった。

 そんな彼も高校になると、それなりに女子生徒に好かれるようになって、告白されて、流されるままに恋人をつくった。

 彼としては、大して容姿の整っていない自分が異性にモテる理由も分からなかったが、しかし、彼の猛獣のような体躯と顔面に惹かれるタイプの女も、どうやら世の中にはいるらしいと知った。

 問題はそのあとだ。

 相手の女に誘われてセックスをしたとき、彼は、自分のなかに父親と全く同じ衝動があることを知った。

 ――今、彼女を押さえつけて酷いことをしても、彼女は抵抗できない。俺には、その力が備わっている。

 愕然とした。

 そんななか、相手の女は彼の腰の上で乱れながら叫んでいた。

「リンドウくん! ねえ、リンドウくん! もっとメチャクチャにしてよお! もっと酷いことして!」

 頭が真っ白になった。

 リンドウだって、相手の女の子のことを嫌いなわけではなかった。いや、好きだったと思う。そんな子が、リンドウの力の前で、わけのわからないことを言っている、と思った。

 俺には、と彼は思った。

 ――俺には好きな人などいないほうがいい。俺が誰かを愛したとしても、愛しているからこそ機能する俺の身体の特定の器官が、相手のか弱い肉体を傷つけて汚してしまうことになる。

 母親の言ったとおりだった。俺は父親と同じだ――愛情のなかに暴力の因子が埋め込まれた欠陥品だ。

 それから数週間して、彼は恋人と別れた。そして音楽と勉強にだけ、ますますのめりこむようになった。勉強は学校近くのカフェでやった。家に帰ると、母に罵られるだけの時間で全てが無駄になってしまう。


 そうしてA大学のサークルに入ったとき、リンドウは、およそ恋愛とは無縁の人間になっていた。

「リンドウく~ん」と二年生の女が言った。「今度の歓迎会くるでしょ? お酒は大丈夫?」

 リンドウは彼女の顔を見た。彼女が、自分のことを異性として意識しているらしいことが分かった。

 ――やめてください、と思った。

 俺は貴女が思うような人間ではありません。俺は女性を愛するのに向いてないんです。


 が、そのときだった。

 軽音楽サークルの部室のドアが開いた。

 先輩たちは、みな怪訝な顔をしている。つまり新顔だった。リンドウも、そちらのほうを見た。

 インナーだけを染めた長い黒髪。サイケ調のメイク。体にぴったりと合うような、濃色のTシャツとデニム。上着は革ジャケット。そしてジャラジャラと音を鳴らす威圧的なアクセサリー。

 ――西園カハルだった。

 この日、リンドウは、生まれて初めて、西園カハルと出会った。

 彼女を見て、三年生の男が立ち上がった。

「ええっと、見学に来た、新入生かな?」

 その質問に対して、カハルは返事をしない。ただ、じっとりとした、湿っぽい猛禽類の視線で部室のメンバーをひとりひとり見つめていく。

 で、「おい」と声を出した。「――ベースを一人、ドラムを一人、アタシに寄越せ」

 無茶苦茶すぎる、と誰もが思った。

「あのさあ」と、さっきまでリンドウと喋っていた女が言った。「そういう態度って良くないよ? これから大学生活をエンジョイするならさ、ほら、協調性とかあるでしょ?」

「黙れ」

「は?」

「お前みたいな女に用はない。ベースとドラムに用があるんだ」

 そう言ってから、カハルは二年生の女を一瞥した。――聞き専だの読み専だの言ってキャッキャしてるメス犬は要らねえんだよ、とでも言わんばかりだ。

 そうしてすぐに視線を戻した。このとき、部室は完全にフリーズ状態だった。

 そんななか、リンドウがゆっくりと左手を上げた。

「俺はベースを弾ける」

「へえ」

「だが、俺は一年生で、俺より上手いヤツはいっぱいいるだろ。それでもいいのか?」

「――それもそうだな」

 カハルはリンドウの言葉に頷き、部室の壁に寄ると、その場にあった油性マジックで文字を書き始めた。日時と場所だ。つまり、そこで待っているから精鋭を連れてこいという意味だ。

「ここにアタシはいる」とカハルは言った。

 そして、

「未来を見たいやつだけがここに来い。青春ごっこしたいヤツらは消え失せろ。――いいな?」

 と呟いて、サークルの部室から出ていった。

 ――話によれば、カハルは、同大学の全ての音楽系サークルで似たようなことを連続で続けているとのことだった。

 リンドウはこのとき、奇妙な胸の高鳴りを覚えた。なんだろう、あの光景は。

 それは、彼の思い出を――父親に組み伏せられてなにもできず、あとから恨み節を言って息子を罵って溜飲を下げているだけの惨めな母親を――すっぱり忘れさせてくれるほどの大きな衝撃だった。

 ひと言で言えば、西園カハルは――最強だった。

 最強の女を、リンドウは生まれて初めて知った。


 指定の日時と場所に集まったのは、鷹橋リンドウと水島タクヤだけだった。それを見た西園カハルは、

「お前らを最高の場所に連れていくぜ。ついてこいよ」

 と言った。

 タクヤは口笛を吹いて彼女についていく。リンドウは、なぜか泣きそうになった。

 この日から、リンドウはずっと、カハルのことを音楽家としてだけではなく、異性としても好きだった。

 そして、だからこそ、ずっとそのことを黙ってきていた。

 ――なぜなら、俺は女性を愛するのに向いていないから。


  ※※※※


 そして、現在。

 昼食を終えて、スタッフがプラスチック容器を受け取りに来る。そして、

「なにかあったんですか?」

 と訊いてきた。

 水島タクヤは「いやべつに、なにも? どうしてですか?」と問い返す。

「――なにもないならいいんですけど」とスタッフは言い残して、ライブスタジオを出た。

 そんな水島タクヤに、能登ミキヒコが視線を向ける。

 ――もしかして、ぼく、なにかヤバいこと言っちゃったんですか? という不安げな表情だった。

 バカヤロー!!

 とタクヤは思ったが、しかし彼を責めるわけにもいかない。正直、カハルとリンドウの関係のややこしさを初見で分かれというほうが無理だ。

 カハルは昼食を終えてから、ずっと動きを止めている。だから、先に行動を起こしたのはリンドウだった。

「ミキヒコ、それは誤解だ」と彼は言った。「カハルの恋人は音楽だ、俺たちの前でそう言った。それはこれまでも、これからも変わらない。俺が好きなのは、そんなカハルの夢だ。俺が彼女を下品な目で見ていると思うか?」

「えっ」とミキヒコは声を出した。「女性をリスペクトして愛することが、どうして下品なんですか? カハルさんは素敵な女性ですよ。それはリンドウさんも否定できないでしょう?」

「ともかく」

 リンドウは対話を打ち切った。「そういう話はあとにしよう。今は練習だ」

 そして立ち上がり、

「そうだろ? カハル。新曲を魅せてくれる約束だったはずだ」

 と言った。

 カハルは慌てたように顔を上げた。

「あ、ああ。そうだな。そのとおりだ」


 そして、良いことなのか悪いことなのか、練習自体は非常にスムーズに進んだ。というのも、もしこんな動揺のせいで音合わせすらおぼつかない状態になったら、流石に根本の原因を改善しようと思えるはずだからだ。

 しかし、各メンバーの高い技術が、仕事自体は上手くいくという状況をつくっていた。

 だから、根本から目をそむける。「ほら、ちゃんと上手くいったじゃないか。俺たちは今までどおりでいればいいんだ」。それがリンドウとカハルが感じていることだった。

 少しだけ今までと違いがあるとすれば、リンドウが演奏ミスをしたときのカハルの態度だった。

「おいリンドウ! ボケっとすんな!」

 普段はそう言っていたのに、今は、

「あー、リンドウ」とカハルは言った。「さっきのシメのとき、あれ。その、なんだ、改善しとけ。いいな」

 そして彼女はリンドウと視線を合わせない。

 そんな様子を見たタクヤは、ひたすらに焦っていた。

 ――カハルのヤツ、めちゃくちゃ気にしてるじゃねえかよ!!


 そして解散になった。

 ミキヒコは少しかがんで、タクヤに「ぼく、これからどうすれば――」と囁いた。

 ミキヒコは背が高い。だから167cmの水島タクヤに耳打ちするときは、必然、体を丸めなくちゃいけない。

 タクヤはため息をついた。

「お前のせいじゃねえよ。あんまり気にすんな」

「でも――」

「カハルも言ってたろ? お前のそういう感覚がお前のギターになってるなら、お前の価値観もリーダーのカハルが背負うんだよ」

 そうしてタクヤは歩を速めた。

「お前もすぐ分かる。最強の女についていくっていうのは、まあ楽しいぜ。あいつの夢がオレらの夢だ。リンドウだってそうだよ」

 ミキヒコは少しだけ黙ってから、

「ぼくは、本当にこのバンドに入ってよかったです。タクヤさんみたいな素敵な人もいるから」

 と言った。

「あぁ?」

 タクヤは少し赤くなる。女に好意を寄せられるのは慣れているが、男にそういうことを言われると、ちょっとだけ照れる。

「――飲みに行くか? これから二人で」

 とタクヤは誘った。今夜はカハルとリンドウを二人きりにしたほうがいいと思っていたから、どうせミキヒコを連れてどこかに消えるつもりだった。

 だけど、今は、単純にこのミキヒコっていう、あんまり空気は読めないが、なかなか良い奴であるこの男を気に入っていた。

 ミキヒコも笑う。

「野菜だけのおつまみが豊富なバーがいいですね」


 そうして、カハルとリンドウは市ヶ谷から乗り継いで渋谷に辿り着いた。振り返ると、ミキヒコとタクヤがいない。

「あいつら、どうした――?」

 カハルが怪訝に思っているとラインが届く。《オレら気が合ったから二人で飲むわ! 美女と野獣カップルのお二人はどうぞご自由に~~!》

「はぁ――!?」

 カハルは顔をしかめて、頭をぼさぼさをかいた。

 ――クソっ、調子が狂うな。

 そして、リンドウのほうを振り返る。186cmの巨体、猛獣のように威圧的な強面。それに対して、カハル自身は痩せっぽっちの166cmしかない。

 たしかに、客観的に見れば《美女と野獣》なんて揶揄されても仕方ない二人だった。

「あのな、リンドウ」とカハルは言った。「今日の昼間のことだけどな――」

 すると。

「ミキヒコは良い奴だと思うが、俺やカハルについてちょっと勘違いをしてる」

 とリンドウは言った。「それは、それだけのことだ。俺たちが集中すべきは《THE DEAD》でのパフォーマンスだ。そうだろ?」

「え? あ、ああ――」

 カハルはそんな牽制球を投げられると、次になにを言えばいいのか分からない。

 ――あ? なんでだよ? なんでアタシが、アタシがこんな風に悩んでるんだ?

 そうして視線をそらす。

 本当は、リンドウがアタシをどう思ってるかなんて分かってる。そこまで鈍感じゃないつもりだ。

 リンドウはアタシのことが好きだ。正直、ずっと今まで傍若無人に生きてきたから、男にこんな風に想われるのには慣れてないんだ。

 ――だけど、リンドウはその感情を自分で抑え込んでいた。理由は知らない。相手が言い出さないうちに聞くほど野暮でもない。

 なら。

 アタシにできるのは、そりゃ、こいつが気づかれないようにしている感情を、気づいていないように振る舞うことだ。

 そう思って生きてきた。生活習慣の終わっているカハルの代わりにリンドウが食事を用意して、部屋を片づけて、日々の生活の手続きを代わりに全部こなしても、カハルは、たったひと言、

「リンドウ、お前、アタシのこと好きなんだろ?」

 と言わないようにしてきたのだ。

 だって、

 それを言って、そのあとどうなるんだ。どんな風にすればいいんだよ?

 西園カハルは、ギターも歌声もかなぐり捨てた世界ではただの二十一歳の女の子でしかないが、ファンでさえその素顔を察することはない。

「アタシは」と言った。本当は言っていない。本当は言いたいことを頭のなかで再生しているだけだ。

「アタシは、男とそういう経験がないから、怖がって逃げてるだけなんだよ」


 現実のカハルは黙ったままリンドウを見つめた。だからこの言葉は、誰も知らない。

 リンドウは、少し横を向く。

「少し飲みに行かないか? カハル」

 とリンドウは言った。

 ――なんで、そんな、泣きそうな顔で誘うんだ? とカハルは思う。


  ※※※※


 2月→3月

 北品川。

 谷崎ハジメは藍沢テトラに呼び出されて、小さなライブハウスを訪れていた。正確には、そのライブハウスの入り口が窓から見える、向かいの読書バーだ。

 店内に入ると、会員証の提示を促される。本棚を巡って読みたい本を一冊手に取り、カウンターで貸出記録をつくってもらう。

 そして席につくという流れだ。

 二階からは雑談と喫煙が可能な場所で、テトラはそこで待っていた。小ぶりなテーブルの、外窓を向いた椅子に座っていて、ハジメからは彼女の表情が見えなかった。

 彼女がテーブルに置いているのはエリック・タムの『ブライアン・イーノ』。趣味のいい本だった。

 ハジメが小脇に抱えているのは『失われた時を求めて ゲルマントの方(1)』。

 こっちのチョイスはなんでもよかった。

 ――谷崎ハジメはここに来る前、藍沢テトラから連絡を貰った。

《あたし、復帰することにしたよ。ハジメに早く会いたい》

 えっ、と声が出た。

 直後、今度は音楽事業部本部長の八木啓から連絡が届いた。

《藍沢テトラがイエスと言った。彼女は次の三社合同ライブで復帰する。ハジメ、お前は彼女のサポート奏者に戻れ》

 ハジメは思わず立ち上がった。自分の知らないところで勝手に事態が動き出していた。

 ――そうして、ハジメはここにいる。そういえば、初めて彼女に会ったのもこのバーだった。


 当時、ハジメのバンドはアマチュアバンドとしてそこそこ名が売れていた。パフォーマンスを終えたあと、一人の男にマイヤーズミュージックの名刺を渡されて、

「向かいのバーで話をしましょう」

 と言われたときは、とうとう俺たちにも運が巡ってきたんだと思えた。だから仲間を引き連れてその場に臨んだ。

 そこにいたのは、先ほどの男ではなく、当時から有能なプロデューサとして知られていた八木啓と、左隣の椅子にちょこんと座る十四歳の少女だった。

「お前が谷崎ハジメか?」

 と八木は訊いた。

「はい」

「テトラに今日のライブを含めて、ありとあらゆる場所で素人どもの音楽を聴かせた」

「は、はあ」

「お前の演奏で歌いたいそうだ。谷崎ハジメ、藍沢テトラの天使の羽根になれ。彼女が飛ぶのを助けるのがお前の仕事だ」

 そう八木は言った。「嫌ならいい。また探すだけだ」

 ハジメは、そこで初めて隣にいる少女を見た。まるで嵐の前の真夜中の海みたいな、清潔な瞳を伏し目がちにして黙っていた。


 テトラの歌声を聴いた。譜面を見て、歌詞を読んだ。そして、すっかり惚れこんでしまった。当時、谷崎ハジメ二十二歳、藍沢テトラ十四歳。

 ――このガキは怪物だ。どこで生まれて、なにを食って生きてきたんだ? 俺は、俺たちは彼女の隣で弾きたい。

 そして藍沢テトラは谷崎ハジメのバンドを丸ごとサポートスタッフにして、ステージに立った。

 楽しい時間だった。

 テトラはよく、不安になると「ハジメ、ハジメ」と言って彼の袖をつまんだ。

 彼女は天才だが、天才が傷つかないわけでもないし、不安にならないわけもない。

「大丈夫、テトラちゃん」

 ハジメはテトラの頭を撫でた。年上の男としては、精神的なサポートもやらなくちゃ。俺は、俺たちは、この年若い怪物を飛ばすための羽根なんだ。

 ――その気持ちは、他のメンバーも同じだったと思う。

「テトラちゃんは大丈夫だよ。蹴散らしてやろうぜ?」

 わしわしっとすると、テトラは目を細めた。

「ありがと、ハジメ。ハジメは優しいね。

 ――あたし、ハジメのこと好きだよ?」

「おいおい」とハジメは笑った。「俺は子どもに欲情する変態じゃねえよ!」

「ええっ、ひどい!」

 メンバーも笑う。ハジメがおどけて逃げ出して、彼女が追いかけ回してくる。

 楽しすぎる。

 もし神様に願いを叶えてもらうなら、俺はきっとこう願うだろう。

 ――テトラちゃんと出会った日と、テトラちゃんがあの事件に遭った一日前とを、ずっと、ぐるぐる繰り返してずっと幸せな世界にしておいてください。誰も、誰も傷ついてなかったあの日々を返してください、と。

 幸せはいつも誰かに奪われる。

 藍沢テトラはストーカーから襲撃され、生死の境を彷徨ったあと、心身に変調を来し、生放送のテレビ番組で倒れてからは一線を退いていた。そのとき藍沢テトラ十六歳、谷崎ハジメ二十四歳。

 ――ひとつだけ、後悔がある。

 テトラは十七歳の誕生日にハジメを呼びつけて、いつになく甘えてハジメの劣情を煽った。ハジメといえば、当時はようやく、そのときのテトラが「どのテトラ」なのか分かるようになってきた頃だった。

 そうして、どれだけ彼がテトラを説得してみようとも、彼女の復帰は絶望的だった。

 せめて、セックスで少しでも彼女の傷の痛みが癒されるなら。ハジメはそう思い、誘惑されるままにテトラを抱いた。ただ、相手が未成年であるという事実に少しだけ怯えている自分の保身的な性格は、褒められたものじゃないと思った。

 ――テトラちゃんがこんなに傷ついているのに、俺は世間体のほうが大事なのか?

 ハジメは何度も呼び出されてテトラを抱いた。どれだけハジメがテトラを愛しても彼女の病状はそのままだった。彼は自分の行為が本当に彼女のことを想ってのものなのか、それとも可哀想な事件被害者を慰みものにしているだけなのか、分からなくなっていった。

 そして、あるとき「やめよう」と自分から言い出した。

「こんなことをしていても、テトラちゃんは良くならないよ。だって、歌えないままじゃないか。テトラちゃんを本当に救えるのは、俺なのか――もう分からないんだよ」

 そう彼が本心を言うと、

 いきなり蹴とばされた。

 その力は、女の子の力としては強すぎた。

「てめえもテトラを裏切るのか! オレだって信じてたのによお!」と彼女は男の口調で怒鳴った。

 モノオの人格だった。彼は泣きながら、

「ふざけんな、コラア!」と暴れ回ってホテルの備品を破壊し尽くしたあと、

「よく分かったよ――全員敵なんだな、この世の人間、みんな敵だ!」と叫んでハジメを追い出した。

 ――ハジメはそれからも藍沢テトラを飲みに誘うが、前のように彼女を抱かなくなったし、復帰の話も控えめになった。

 他方で。

 かつて藍沢テトラのバックバンドだった彼らは《オラクルオブガゼル》という別のバンドとしてデビューすることを許されて、そこそこのセールスを上げていた。皮肉なことに売れていた。

 コラボレーション、タイアップ、資本主義、市場原理、充実していた。ハジメたちに商才があったわけではない。テトラを失って心に穴が空いた彼らは、ただ、マイヤーズミュージックの敏腕な営業に従っていたのだ――こだわりがないからこそビジネスとして割り切れた。

 だからこそ、この十年以上ずっと空しかった。

 俺は、

 俺はただの羽根でしかないくせに、自分だけで飛べるふりをしているんだ。

 本当は、テトラちゃんの歌にギターの音を添えている時間だけ、幸せだったくせに。

 ハジメはそう思いながら生きてきた。


 そして、現在。北品川の読書バー。

 藍沢テトラ、二十八歳。谷崎ハジメ、三十六歳。

「テトラちゃん?」

 と彼は呼びかける。絶望的な気持ちだった。

 出てくるのは誰だろう。

 トリィか、ジーイか、モノオって名前の子なのか。ハジメにはもう見分けがつくが、呼び分けるつもりはさらさらなかった。

 彼女が振り返る。


 瞳の色が、テトラだ、とハジメは思った。

 モノオのような、怒りと憎しみに満ちた瞳でもなく。

 ジーイのような、怯えと悲しみに染まる瞳でもなく。

 トリィのような、慈愛と、勇気と、理性をたたえた瞳でもなかった。

 その全てが混ざり合い、真っ暗闇に沈むような瞳になっていた。

 嵐の前の夜の海のように、哀れな船を全て呑み込んで受け入れてしまう、清潔で、凶暴な暗黒の色。

 この伏し目だ、とハジメは思った。

 この業界にそこそこのあいだ長くいると、色んな目の持ち主と出会う。

 たとえば、西園カハルの獰猛な創造性。朴セツナの唐突な反骨心。沖田レインの捻った純粋さ。七峰ミチルの地道な向上欲。

 トワと、それからアヲイの、何物も視界に映さないような透き通った虚ろな美しさ。

 しかし、テトラの目は、全てを見すぎて、見えすぎて真っ暗になってしまった、宇宙系の果てだ。

「久しぶり」とテトラは言った。

「――テトラちゃんなのか?」とハジメは訊いた。もし本物なら、それこそ十年以上ぶりだ。

 ハジメは震えていた。

 ――自分のことを鳥と思い込んでいた羽根が、天使の背に戻ろうとする瞬間だった。

「あたしは藍沢テトラだよ、ハジメ」

 と彼女は言って、にっこりと笑った。

「ちょっと長かったけど、ただいま」

 ――ちょっと?

 ハジメは涙ぐみながら苦笑する。

 ――俺が、どんな想いで待ってきたか分かるかい?

 この十年以上の日々は、まるで「テトラがいないお前はこういう人生だ」という並行世界を無理やり生きさせられてきたようなものだ。

「テトラちゃん――」

 彼はそう言って、感極まって彼女に近づいたが、

「ああ、ごめん」

 とテトラは微笑んでハグを拒んだ。

「おおっと、そうだな、すまない」と彼も謝る。

 そうだったな、

 もう俺はテトラちゃんと恋愛関係じゃない――忘れるところだった。

 彼が恥ずかしさを誤魔化すように笑っていると、

「今は、ヒデアキくんのことが好きでさ、あたし」

 とテトラは言った。

「だからハジメとそういうことをして、彼にヤキモチやかれちゃうのはイヤなの」

 そう微笑んだ。


 ハジメは、

「へっ? ヒデアキくん?」

 と言った。

 

  ※※※※

 

 瀧千秋(千秋と書いてセンシュウと読む)は、六本木の部屋で一人暮らしをしている。

 憎悪の記憶を受け渡す機会が大いに越したことはない。ウソの記憶だ。軽薄なバーやクラブといった匿名の空間で人々と出会えるのは、基本的には都合がいいことだった。

 事件が有名になるほど、次の勧誘は簡単になる。

「最近の通り魔、ちょっとやばいよね?」

 と彼はにこやかに、しかし、相手を心配しているというニュアンスを崩さずに話し始める。

「ねー、みんな同じナイフなんでしょ?」

「実は、俺、いま同じの持ってるんだぜ」

 冗談っぽく伝える。

「うわ、ヤバ!」

 ギャグだと思って、女は笑う。

「アハハ! じゃあお兄さん、今度その犯人になっちゃうんじゃん!」

 下品な笑顔だった。なんでそんなに下品に笑えるんだろう。僕の藍沢テトラの笑顔はもっと美しいのに、同じ女でこうも違うのか。

 どうでもいい。次の人形にするだけだ。

「そうなんだよ。ヤバいだろ?」

 センシュウは銀縁のメガネごしに、女の顔をじっと見つめる。そしてテーブルの下から、レザーケースをゆっくりと手渡した。

「貴女は今度、それを使うんだ」

 センシュウは微笑む。女の目から、少しずつ彼女自身の意志が失われていく。

「それ、どういうことぉ――?」

 彼女の視線が乱れていった。

 センシュウは軽く頬を平手で打つ。

「起きろ」

 その声で女は我に返り、しかし、それまで彼がしてきた無礼は全て忘れていて、「あ――あたし帰んなきゃ」と荷物をまとめはじめた。

「そう? 残念」

 センシュウはにっこりと笑った。

 ――こんな調子で、彼は、次の《THE DEAD》のためになるべく多くの使い捨てを用意していた。


 アパートの部屋に帰ってPixel 6aを見ると、親戚の柿ノ木キョウカから連絡が入っていたことを知る。

「――?」

 もう手直しされた原稿は受け取ったはずだけどな。どうしたんだろう? と思った。

 キョウカから、

《いま、話せますか? ごめんなさい、迷惑ならいいです。忘れてください》というラインが来ている。

 センシュウは少し全身の動きを止めたあと、部屋の虚空を見つめながら、

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」

 と声に出して独り言を呟いた。

 同時にメモ帳のアプリを開く。

 柿ノ木キョウカと書かれたフォルダを開いて、彼女の好きなものや嫌いなもの、交友関係、最近あった出来事の記録に目を通していく。

 ――どうでもよすぎることだから、こうやってノートしておかないとすぐに忘れる。

 で。

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」と独り言を繰り返した。

 自分の喉仏を押さえて、声を調整する。柿ノ木キョウカにとって尊敬と信頼に値する親戚のお兄さん、ライター業務の上司。そういう声に直していく。

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」

 あーあー、テステス。

 オーケー。

 さて、と。

 センシュウは柿ノ木キョウカに電話をかけた。

「あ、センシュウ兄さん?」

「やあ、ごめんね。いろいろ立て込んでて、返事が遅れてしまった」

「すみません、いきなりご迷惑でしたか?」

「まさか、迷惑だなんて。でも、急にどうしたの?」

 そう彼は訊いた。

 キョウカはスマートフォンの向こうで少し黙り、「よく分からないんです」と言った。

「へえ?」

「――前に、指摘してくれましたよね。私が、原稿のなかに関係のないアーティストの話を書いてるって。打ち合わせで」

「うん、言ったよ。でも、それはそれでアリだって伝えたつもり。批判とかじゃない」

「私」とキョウカは言葉に詰まった。

 彼女がそんな風に言い淀むのは珍しかった。

 ――彼女が言い淀む。珍しい。とメモする。

「私、幼馴染がいたんです。もう、絶交しちゃったんですけど。でも、彼女が今はアーティストとして食べてることを知って。すごく立派で。なんだか、私だけ取り残されちゃってるみたいで」

「落ち着いて?」とセンシュウは優しそうに伝えた。「前にも言ったけど、僕は親戚のお兄さんでもあるんだから、悩みごとはなんだって言ってくれていいんだよ。まあ、解決能力はちょっと不安だけどね」

 軽くおどけてあげる。キョウカが合わせるように笑った。笑ってから、

「最近、その子と再会したんですけど」と言った。

「うん」

「それでテンパっちゃって。変な原稿書いて、本当にすみませんでした。――あの、それだけは、ちゃんと謝りたかったんです」

 センシュウは椅子に座る。

「僕は、繰り返しちゃうけど、あれもあれでキョウカさんの味が出てて良いと思うな。批評は、そういう私情も大事だからね?」

「そうなんでしょうか」

「あくまで僕個人の意見だから、全部を受け入れる必要はないよ。そういう読者もいる、って話かな」

「――はい」

 キョウカは、そうして、

「そんな幼馴染の、えっと、ライブチケットを貰ってしまいました。同じゼミの女の子に、その、ライブの関係者がいまして――」

 そこでセンシュウは、ん? と思った。

 ――ライブの関係者? キョウカのゼミに?

 センシュウはPCを操作する。キョウカはW大学文学部哲学科。メモ帳のアプリを振り返った。六平ゼミ。検索するとゼミ合宿のブログ記事がヒットする。画像を保存して印刷。

 そんなセンシュウの行動も知らず、キョウカは、

「私、行くべきかどうか分からなくて」

 と言った。

「そうなの?」とセンシュウが訊く。

 キョウカは、振り絞るように彼に悩みを伝えた。

「今、どんな顔してあの子の歌を聴けばいいか、分からないんです。でも、あの子に動揺して原稿が歪んでいるなら、向き合わなくちゃいけない、と思ってて」

「なるほどね」

 センシュウはそのライブがなんなのか、もう知っている。

 キョウカの幼馴染で歌の仕事を得ているのは朴セツナ。そして、そんな彼女が次に出るのは《THE DEAD》だ。

 センシュウは公式ページを開く。

 既に参加アーティストは公開されていた。

 彼はそこに、藍沢テトラの名前があることも、もう知っている。顔写真がずいぶん昔のものだ。撮影の時間がなかったのか?

「奇遇だね、キョウカさん」と彼は言った。「僕も実はそのライブ、行くかもしれないんだ。《THE DEAD》だろう?」

 センシュウが言い当てると、キョウカはちょっとだけ沈黙し、そうして、

「――なんか、センシュウ兄さんには、なんでも分かっちゃいますね?」

 と、ガラにもない弱気な言いかたをしてきた。

「こうしようよ」とセンシュウは言った。「僕はこういうライブに行くのは久しぶりだからさ、一人じゃ心細いんだ。途中まででもキョウカさんもいっしょだと助かるよ」

「え、私なんか、そんな」

「キョウカさんが頼りなんだよ。はは、頼むよ。インドア派だからけっこう怖くて」

「えー」

 キョウカが少し笑った。

「センシュウ兄さん、それ、ちょっとカッコ悪いじゃないですか?」

「そうそう、僕はカッコ悪いんだよ。――あ、キョウカさんの彼氏にはちゃんと親戚って挨拶するから、そこは安心して?」

「かっ、彼氏なんかいません!」

「はは、冗談だよ」

 センシュウは息を漏らす。それから雑談して、通話を切った。

 ――はあ。

 そうか、キョウカもライブに来るのか。まあ、それはいいか。関係者というのが気になるが、どうせ大した問題じゃないだろう。スタッフのバイトのツテだとか、そんなもののはずだ。いちおうチェックはしておくが。

 センシュウは、椅子の背もたれに身体を預けた。そして、参加リストを再び眺める。

 そこに藍沢テトラがいる。

 ――すごいな。十年以上もブランクがあるのに、きっと勇気を振り絞って復帰するのだろう。あんなに酷い目にあったのに健気に立ち上がったのだ。おそらく、自分ひとりの力で。

 センシュウはテトラの画像を選び、印刷した。

 彼の部屋には、天井と壁にびっしり彼女の画像が貼られている。

「――強いな」

 とセンシュウは呟いた。

「僕の、初恋の女の子」

 ああ。

 そんな風に、必死で立ち上がった彼女を、もういちど捻り潰したら、今度はどんな声で鳴くのだろうか。

 きっと素敵な音楽なんだろう。

 センシュウはスマートフォンをベッドのほうへ投げ出す。もう、キョウカのことは1ミリも頭のなかになかった。

 気分が高ぶってきたので、藍沢テトラが生放送・生演奏の番組で、パニックになって倒れたときの動画を、センシュウは繰り返し再生する。

 ――彼女の悲鳴を再生する。

 ――彼女の悲鳴を再生する。

 ――彼女の悲鳴を再生する。

 とても落ち着く。和らいだ、穏やかな森に寝そべっているような気持ちだ。

 この前は誰かの下らない邪魔が入った。だから、今度は念入りにしようか。

「テトラ、大好きだよ。今度も頑張って必死に逃げなくちゃね?」

 そうセンシュウは呟いた。まるで、回し車のなかで懸命にもがいている小さなハムスターを見つめるような、優しい、そして残酷な気持ちで彼はモニターを眺め続けていた。


  ※※※※


 3月11日(金)10:00

 桜木町駅で降りてちょっと歩いたところに、一部の音楽ファンの間では《レッドへリング》と呼ばれるコンサートホールがある。真夜中でもライトに照らされて真っ赤にそびえたつ、大昔からのデザインそのままの姿が、いつしかそう呼ばれるようになったという。

 最初にそう呼んだのは、中上ユタカという今は亡きロックスターという説があるが、キョウカには詳しいことは分からない。

 ――そこが《THE DEAD》2日目の会場だった。

 マイヤーズミュージック、ワイタッカーエンターテインメント、長尾芸能。この国の音楽を良くも悪くも牛耳る三大レコード会社が合同で行う一大ライブは、全部で三日間に分かれる。

 一日目は新横浜のアリーナで、大きなアイドルグループやポップユニットが派手なパフォーマンスを繰り広げる。

 そうして二日目では、より本格派や実力派とされるアーティストやバンドが、このレッドへリングで轟音を打ち鳴らす。

 三日目では旧浦和市にて、両方の特徴に当てはまらない変わり種のパフォーマンスがなされる。

 ――キョウカが貰った電子チケットは、とりあえず三日分の予約用コードがあったが、彼女は二日目の分だけを登録購入することにした。

 その二日目に朴セツナが出演するからだ。

 奇遇だが、センシュウ兄さんも二日目だけがお目当てらしい。

「センシュウ兄さんが見たいの、誰なんですか?」

 彼女はそう訊いた。ライブの前の高揚感で、普段よりも自分のテンションが高いのが分かる。

「えー、うーん。改めて訊かれると恥ずかしいな」

「私、当ててみていいですか? 西園学派でしょ」

「残念、ハズレ」

 センシュウは楽しそうに笑った。

「じゃ、正解教えて下さいよ」

「うん」

 センシュウは少し眼鏡の位置を直してから、

「実は蛇誅羅童子(ダチュラドウジ)が気になってる」

 と答えた。

「ああ、そっちでしたか!」

「まあ、西園学派も面白いことはやってるよ。でも個人的な好みはそっちかな。蛇誅羅の子たちの歌詞には共感するところがあるね」

「ふふ」とキョウカは笑う。「世間なんかでは《マイヤーズの西園学派、ワイタッカーの蛇誅羅童子》とも言われてたりしていますが、批評家の瀧センシュウ先生はワイタッカーに軍配を上げるんですね?」

「おいおい、キョウカさん」

 センシュウが困ったような笑顔だ。

「あくまでも、僕の好みだってば。――まあ、でも、そうだね」

 そんな風に二人で歩いていると、

 すぐ目の前で、数メートル先で、

 浜辺ヒデアキと鉢合わせになる。

「あ――」

 ヒデアキがこちらに気づいて、一瞬、気まずそうに顔をそらすが、またこちらに向き直って、

「どうも、キョウカさん」と言った。

 キョウカはそういう彼を見て、すぐに不機嫌が湧いてきた。

「ヒデアキも予約枠を貰って、ここに来たの?」

「まあ、うん」

「他の皆は?」

「ちょっと遅れるって言ってた。ていうか、俺が早く来すぎちゃったんだけど――」

 気まずい、と思った。キョウカは、半年ほど前にヒデアキに告白されて振ったことがある。それからずっと良い距離感が分からない。


 ――あの日、二人で高田馬場で飲んでいたとき、キョウカは真っ赤になりながら訊いた。

「ヒデアキ、なんか私にだけ妙に優しくない?」

 いま思うと、そんな質問はしなければよかった。

「えっ」と彼は言葉に詰まる。「そうかな。でも、キョウカさんのことを凄いって思ってるのは本当だよ。尊敬してる」

「は、凄い? どこが?」

「キョウカさんは俺と同学年だけど、もう夢があって、それに向かって頑張ってると思うよ。この前も、雑誌に原稿が載ってたし。それに、ゼミでもちゃんと自分の意見があって、それ、カッコいいなって。――俺はそういうのないしさ」

 ヒデアキは、そんな風に言った。

「本当に?」とキョウカは言った。「なんかヒデアキの優しさって、本当にそうなのかな。私は《君だってどうせか弱い女の子なんだろ》って思われてる気がして、情けなくなる」

「え――いや、それは――」

「調子のいいことばっかり言わないで。本当のこと言ってよ」

 もうやめろ。

 そのとき、そう自分で思った。

 満足な原稿を出せない、仕事が上手くいかない、そんな不甲斐なさを、目の前の優しいだけの男の子にぶつけてスッとしたいだけだろ。

 自分でそう思っていても酔いが止まらなかった。運の悪いことに、その日はなぜかアルコールが回った。

 ヒデアキの目が真剣になる。

「俺が、その、俺がキョウカさんを、尊敬してるのは本当だよ。か弱い女の子だなんて、そんなのは考えたこともない。でも――」

「でも? なに?」

 やめろ、やめろ、やめろ。

「キョウカさんにもしも、弱い場所があるなら、そのために俺になにができるか、考えたいよ。ごめん、なんかすげえ変なこと言ってる。酔ってるのかな――」

「なにそれ?」

 キョウカはジョッキをテーブルに乱暴に置いた。

「私のこと、好きってこと?」

 そう訊いた。

 ヒデアキのことを好きとか嫌いとかじゃない。自分が隠している自分の弱さを、誰かに悟られて、察されて、慮られている、それが我慢できない。

 ヒデアキは少し時間を置いて、

「ごめん、好きだよ。好きです」

 と言った。

「――気持ち悪い」

 とキョウカは吐き捨てた。


 そして、現在。

 キョウカはヒデアキと対面していた。彼の目が少し動いて、キョウカの隣にいるセンシュウを向いているのが分かった。

 キョウカはヒデアキの左肩を眺める。

「タエコとチヨコから聞いた。その傷、酷いの?」

「えっ? ああ、まあ、日常生活には支障ないよ」

「バカみたい」

 キョウカは、彼の左肩に後遺症が残った経緯を聞かされていた。あの連続通り魔事件が起きたとき、彼はたまたま同じ美術館にいたらしい。

 そして、誰かを助けるために襲撃犯ともつれあって、刺された、と。

「はは」とヒデアキは苦笑した。「あのときは、なんか無我夢中でさ」

「安いヒロイズムでしょ?」

「えっ」

「その助けられた人が『私の代わりに傷ついてくれてありがとうございます』なんて無邪気に感謝してくれるとでも思ってるの? ヒデアキさ、自分を大切にしないのは、自分を大切にしてくれる他の全員を傷つけることなんだよ」

「――」

 ヒデアキは少し絶句してから、

「そっか」と呟いた。「俺、そんなの、考えてもなくて――」

 彼が深刻な表情を浮かべると、キョウカは、また言いすぎた、と自己嫌悪に陥った。

 すると。

「僕は君を立派だと思う」

 と、ずっと黙っていたセンシュウが言った。

「他人のために自己を犠牲にするのは、卓越した行為だ」

 センシュウはゆっくりとヒデアキに近づき、右手を差し出した。

「はじめまして。キョウカさんの親戚の瀧千秋と言います。仕事の付き合いもあって今日はいっしょにいたんです」

「? そ、そうですか」

 ヒデアキはセンシュウに握手を返す。

「キョウカさんの学友に勇敢な男の子がいて、僕はちょっと安心したよ。最近は物騒だからね。君みたいな子は個人的に頼もしいな。――はは、僕ならすぐに怯えて逃げ出しちゃうから」

 センシュウはあくまでも爽やかに言う。

 キョウカは、少し混乱した。センシュウ兄さんは、私が乱した空気を執り成したいのだろうか。それとも、根っこは良い人だから純粋に感激しちゃったのだろうか、と思う。

 そうして、ヒデアキのことを見た。

 ここにいるということは、アヲイから貰ったチケットで来たのだろう。有名人たちの、というか、私たちと違って既に独りで生きていける強い人たちの姿を見にきたんだ。

 セツナに取り残されている、私みたいに。

 そう思うと、少しだけ前よりも親近感が湧いた。

 結局私たちはまだ、どっちもガキなんだ。


 そのとき。

 ヒデアキのスマートフォンが鳴った。

「すみません」と彼は言って、端末を耳に当てる。「急にどうしたんですか? もうすぐ本番ですよね? ――大丈夫ですか?」

 ――?

 誰と喋ってるの?

 キョウカが訝しんでいると、少し電波の具合が悪くなったらしい、ヒデアキは、「ちょっと? すみません、うまく聞こえなくて! テトラさん? テトラさん!」と呼びかけていた。

 ――は?

 テトラ? テトラって、あの藍沢テトラ? 十年ぶりに復帰した、あの元・天才と、なんでヒデアキが喋ってるの?

「ああ――クソ」とヒデアキはスマートフォンを切り、そこでようやく、キョウカと目を合わせた。

 しまった、という顔をしていた。

「なんで」とキョウカは訊いた。「なんで、ヒデアキが藍沢テトラと話してるの?」

「ああ、いや、えっと――」と彼は言葉を濁したあと、

「ごめん、ちょっと急ぐ!」と叫び、その場を足早に去っていった。答える時間も惜しいという感じだった。

「え――」

 キョウカは、自分から去っていくヒデアキの背中の向こう側に、まるでセツナが立っているように見えた。キョウカとはなんの関係もない《向こう側》の世界に、彼が去っていくみたいに見えた。

「なんで」と彼女は呟いた。

「なんで、――ヒデアキは《そっち》に行けるの?」

 彼女はそう思った。

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