第4話 MERGE
※※※※
2月3日(木)13:30
新宿西口のカフェで、柿ノ木キョウカは緊張した表情で座っていた。向かいの席では、白いタートルネックの男がゆっくり原稿を読んでいる。
男の名は瀧千秋(千秋と書いてセンシュウと読む)。キョウカとは遠縁の親戚で、ゼミのOB、そしてバイトの上司だった。
バイト。
キョウカはとある批評雑誌へ定期的に論考を寄稿しており、その原稿料が、今ではいちばんの収入源になっている。週4日入れていた塾講師のアルバイトを、だから最近は週2日に減らしていた。
そして、そんな書きものの仕事を彼女に紹介してくれたのがセンシュウというわけだった。
彼は原稿を読み終えた。
「うん、今回も面白かったよ」
「――ありがとうございます」
その批評雑誌、《アルキメデス》は今度の特集号で、とある映画監督について取り扱う。彼は少しスランプに陥って短編映画ばかりを発表している時期もあったが、今度は満を持して大手からの長編フィルムとなるらしい。
そしてそれが、どうやら、あのお騒がせバンド「感傷的なシンセシス」のボーカルギター、九条アヲイを主演に据えるというのだ。
寄稿依頼が来たとき、最初のうち、キョウカは少し難色を示した。
「アヲイと同じ大学にいるから書けというなら、それはイヤですよ。なんだか学友を売るみたいですし」
「違うよ」とセンシュウは苦笑した。
「そもそも噂話の段階で飛ばし記事を書くのはマスコミの仕事だ。僕たちは批評家だよ? 正しく事実に基づいて、でも、創造性のある解釈で観客の手助けをする、それが役割。事実をないがしろにして安易なメロドラマしか書けない新聞記者の連中とは真逆の存在さ」
センシュウは、声色こそ穏やかで物静かだが、話している内容はなかなかに攻撃的で、なにか有無を言わせないところがある。キョウカはそこに四割の恐れと、六割の共感を抱いていた。
――センシュウ兄さんも、世の中のこと嫌いなんだ、やっぱり。
「僕が」と彼は言う。「原稿をキョウカさんに頼んだのは、キョウカさんが常々ジェンダー論やクィア理論に依拠した論を展開しているのを知っているからさ。たしか、卒業論文もそれでいくつもりだろ?
知ってのとおり、この監督は数々の賞を獲っていて人気もある。立派なものだ。だけど、そのストレートな女性描写にはいつも賛否両論が寄せられているよね?」
「存じています」
「そんな監督の作品は、キョウカさん、きみという若いフェミニズムの書き手にどう見えるか。編集長はそこに関心があるんだ。もちろん、僕自身も、キョウカさんの鋭い分析を読みたいと思ってるんだよ」
そうして、センシュウはにっこり笑う。
それに対して、キョウカは縮こまった。
そんな経緯で書かれた批評の初稿を、新宿西口のカフェでセンシュウに読まれている。要するに、それが今のキョウカだった。
「でも、らしくないね――」とセンシュウは呟いた。
びくっ、と、背中が震える。批評だって作品で、自分自身の産物だ。どんな指摘も、結局は身を切られるように辛くなった。
「悪口じゃないよ?」とセンシュウは言い、神経質な彼女をなだめるように笑顔をつくる。そして、
「普段と違って、言葉に浮ついた熱がある。それに、本筋とは無関係に、ポピュラー音楽について語るパートが300字ほどね。これ、どうしたの? 今までのスタイルとは少し違っていてビックリしたけど」
そう、彼は言った。
痛いところだった。
その部分は、たしかに、キョウカが朴セツナと再会して情緒不安定になりながら推敲していた部分だった。キョウカの心の、いちばん柔らかくて悲鳴を上げる所。そんな箇所を刺激された状態で、きっと、普段よりもラフな文章を書いてしまったのだ。
恥ずかしい。
「もしかして」とセンシュウは言った。「なにかあったのかい?」
「いえ! そんなことは! そんなこと言い訳にならないです!」
キョウカが思わず慌てると、彼はますます苦笑いだ。
「僕は悪口じゃないって言ったよ? これもこれで良いなと思う。それに、まあ、僕は親戚のお兄さんでもあるから、たとえ言い訳だってちゃんと聞くよ。それでキョウカさんの頭が整頓つくならね」
彼が微笑を浮かべると、キョウカは、
「それじゃあ、センシュウ兄さんに甘えてるみたいで、情けないです。もう二十歳なのに」
と下を向いた。
センシュウは眼鏡の位置を直す。「人は甘え合って、支え合って生きていく、そういうものだとは思わない?」
「私は、そうは生きられません」
彼女はいよいよ彼に目線を合わせられなくなった。
センシュウは少し窓を見てから、
「分かった。第二稿を、数日置いてから送ってよ。そちらの出来を見て方針を決めよう。僕は今のままでいいけど、書き手が不満なら、それは止めない」
と答えた。
キョウカは下唇を噛む。セツナは、セツナは今度のライブにも出演する。自分ひとりの歌声で、お金を稼ぐ。なのに私は、いったい何者なんだろうか。親の収入で大学に通って、親戚の助言で原稿を直す私。
どうして、こんなに悔しいんだろうか。
――早く独りきりで生きられる力がほしい、と、
彼女はそう思った。
不意に、センシュウが「えっ?」と声を上げた。Pixel 6aの端末でタイムラインを眺めている。通知が来たらしい。
「どうしたんですか?」
「びっくりしたよ。また通り魔の事件だってさ。今度は美術館。何人も暴れ出したっていう話だね」
「――え」
胸がざわざわする。
「警備員1人重体、観覧の大学生、1人重傷」
そんな風に記事を読み上げながら、センシュウは、少しずつ表情を曇らせていく。
「あと、複数名の襲撃犯はみんな、善意の何者かによってブチのめされて気絶したってさ。――死亡者はまだ確認できていないらしいね」
キョウカは震える。
「どんどん怖い世の中になりますね」
「キョウカさんも気を付けたほうがいい。もし気を悪くしないなら、僕が送ろうか?」
「忙しいセンシュウ兄さんに、迷惑かけられません。大丈夫ですよ」
キョウカは意地を張ってそう答えたが、本当は、すぐにでも誰かにそばにいてほしかった。そして、そんな風に思う自分の弱さがいちばん嫌いだった。
だが、
このときセンシュウは、目の前にいるキョウカに、全くなんの興味もなかった。
――死者がいないだと? どういうことだ? そんなヤワな記憶をあいつらゴミどもに植えつけてやったつもりはないがな。
使えないな、と彼は舌打ちを押さえるのに必死だった。
誰だ? 誰が僕の趣味を邪魔した――?
せっかく十年以上ぶりに、あの愛おしい、可哀想な藍沢テトラちゃんを苦しめてあげることができたかもしれないのに。
目の前で大切な男をズタズタにしてやることで。
――まあいい。
邪魔者は探す。言いなりになる人形はあとからいくらでも補充が効く。探して消す、そうすればいい。なにしろ僕は最強だからな――。
センシュウは、このとき、自分を邪魔した人間が九条アヲイだったことを知らなかったし、それどころか、やがて自分が追い詰められていく覚悟もなかったのだ。
※※※※
2月4日(金)~2月6日(日)
美術館から自宅に逃げ帰った藍沢テトラは、そのままうずくまって動けなかった。そんな彼女がやっと我に返ったのは、浜辺ヒデアキの父親、浜辺辰臣氏から電話がかかってきたときのことだ。
Pixel 5の画面を見ると、液晶に「ヒデアキくん」と表示されていた。
ヒデアキくん! 無事だったんだ!
藍沢テトラは――というか、トリィは大喜びでスマートフォンを手に取った。だが、そこから聞こえてきたのは彼女お気に入りの純朴な少年の声ではなく、なにか、毎日の生活に疲れ切ったような男の声だった。
「藍沢さんですか?」
「――どなたですか」
彼女がそう訊くと、
「突然のお電話、すみません。ヒデアキの父です。息子のスケジュール帳を見て、彼のケータイから連絡しています」
と男は答えた。そうして男は、ヒデアキが今は東京の病院にいること、今は眠っていて意思疎通も取れないこと、そして、藍沢という女性と美術館に行く約束をメモに残していたので、もしや、と思ったことなどをゆっくりと伝えてきた。その話しかたは、落ち着いて聞かせるというよりかは、もう本人がそのスピードでしか世の中と接していない、そういう感じだ。
「――行きます」とトリィは言った。
翌朝、彼女は病室の手前でヒデアキの父親と会った。
ヒデアキの父親、辰臣は、スーツに灰髪の似合う男だった。
おそらく実年齢より、刻まれた皺は多くて深い。中年を越したあと、心労でめっきり老け込んだ証拠だ。
トリィはゆっくりと頭を下げる。
辰臣も会釈を返した。
「ヒデアキはここで寝ています。入院費と治療費を振り込むことはできますが、明日には仕事にも戻らなくてはなりません。あいつのことを、――あいつのことを独りきりにするのは気が引けたもので、恥ずかしながら連絡した次第です」
「いえ」とトリィは言った。「彼は私の命の恩人です。なのに、どの病院にいるのかも分かりかねましたから、お父様のお電話には、大変感謝しております」
「美術館で事件があったことは知っています。――が、なにがあったのかもよく分かりません」
辰臣はため息をつく。トリィは思い出した。ヒデアキくんとお父様はあまり良い関係ではない。彼が地元の徳島ではなく東京の大学を選んだのも、そのことが少なからず関係しているだろうと思う。
――だけど、息子の大怪我には駆けつける。そういう距離感なのか。
羨ましいな、とトリィは思った。彼女の主観では、良い父親だった。
「失礼ですが」と辰臣は言った。「藍沢さんは大学のお友達ですか?」
トリィは上手く答えられない。私とヒデアキくんの関係はなんだろう。私が彼の優しさに甘えているだけかもしれない。
それにしても、辰臣は藍沢テトラの姿を見て、元・有名歌手だなんだと騒がない、そこが助かった。それはたぶん、テトラが無名の存在になったからというだけではなく、もともと辰臣という男が音楽に興味がないからだろう。
業界にいると忘れがちだが、文学にも音楽にも美術にも興味がない人なんてたくさんいる。むしろ、そちらのほうが多数派だ。
そこは、表現者が自惚れてはいけない部分だった(もちろん多数派に媚びろという意味ではないが――)。
トリィは「街で知り合ったんです。お友達ですよ、ヒデアキくんとは」と答えた。ウソではないが、本当のことも言ってない。
辰臣は再び頭を下げる。「病院には、あなたの面会は自由にしました。私はあいつの良い父親ではない。その資格はない。あいつも心細いでしょうから、ときどきこの部屋に遊びにきてやってください」
そう言った。
――もどかしいくらいに不器用な父親だ、とトリィは思った。父親であることに資格なんて要るものか!
トリィは真っすぐに辰臣を見て、
「彼が目を覚ますまでそばにいます」
と、そう宣言した。
このときトリィはなんとなく察した。ヒデアキくんは、今回の件でなんらかの重い傷か後遺症を負わされている。辰臣さんは医者からそれを既に知らされている。でも私の前ではそれを言わないつもりだ。
なぜなら、ヒデアキくんはそれを隠すからだ。私がそれを知ったら気に病むかもしれないと思って。そして、御父上はそんな息子の意志を察して尊重しているのだ。
良いお父さんじゃないか、とトリィは思った。
そして、そんな風にバレバレである不器用なところが、きっと、ヒデアキくんの性格に遺伝したんだろうとも感じる。
――こうしてトリィは病室に入って、ヒデアキが眠ったままのベッド脇にある椅子へと腰を下ろした。怪我のない右手のほうをささやかに握り、優しく指で撫でる。
「まったく、振り回されているのは私のほうだよ」
そう呟くと、トリィはヒデアキの右手をゆっくりと軽く持ち上げて、
手の甲に軽くキスした。
「ジーイを、私たちを、守ってくれてありがとう。
――無責任なお礼にするつもりはないよ。キミの体に傷が残るなら、それを半分だけ背負わせてほしいと思う」
キミの重荷にはなりたくないから、キミが消えろと言うなら、どこかへ消えるよ。それでも、いっしょにいたい。
トリィは、ぽつぽつと呟き続けた。それが本心だった。
そのとき。
ヒデアキが眠りのなかで、少しうなされたみたいに顔をしかめた。そして、なにか唇を動かしている。
「どうしたの? 少年」
トリィは体を傾けて、耳を寄せた。ヒデアキに意識はまだない。が、
「――歌っ――て――」と聞こえた。
トリィは目を見開いた。
彼は、もういちど、かすれた声で言った。
「歌って――く――だ、さい――テトラさん――」
「ヒデアキくん?」
彼の手を握る彼女の指が、少し強くなる。
「も、ういちど――歌っ――て――」
それはズルいよ。ヒデアキくん。
――歌うしか、ないじゃないか。そんな風に、こんなタイミングで言われてしまったら。
藍沢トリィは、いったん病院を出た。近くの喫煙所でセブンスターを吸っていると、スマートフォンに連絡が来る。
――マイヤーズミュージック音楽事業部本部長、八木啓だ。
《テトラ、エントリーシートの締め切りが近い》
「そう」
《――これが最後のチャンスだ。THE DEADには出ないつもりか?》
藍沢トリィは――いや、
本来の藍沢テトラは、スマートフォンをきつく握りしめた。
――8歳も年下の男の子が、こんなにも勇気を出してくれたっていうのに、それでもあたしは、未だに怯えながら呑気に生き長らえているつもりなの?
「出ますよ。歌えばいいんでしょ?」
――そんな風に藍沢テトラは伏し目がちに呟いた。
トリィでも、ジーイでも、モノオでもなくて、
テトラがそう答えたのがこの日のことだった。
藍沢テトラ。
THE DEAD エントリー。
※※※※
2月4日(金)~2月6日(日)
担当刑事の黒井と青山は、複数の襲撃犯が気絶から目覚めたタイミングで、事情聴取を開始した。場所は都内の病院である。
まず、最初の対象は北川亜希子だった。彼女は茫然自失とした様子でベッドに横たわっている。
――これまでの連続通り魔の特徴からして、たぶん話を聞いてもロクな情報は得られないだろう。そう分かっていても、いったん手続きを踏む、それが静的な組織のダルさというものだった。
――特定の誰かがバカというわけではなく、人は群れるとバカになるので、企業も政府も無意味な手続きだけが増えていく。そういうものだ。
黒井は椅子に座る。
「北川さん」と黒井は言った。「今回の事件を担当している黒井サワコです。貴女を検察に送る前に、いくつか質問します。いいですね?」
「――はい」
北川亜希子はぼーっとした様子だ。黒井は袋に入った血まみれの骨董ナイフを取り出した。
「これは貴女が持っていたナイフです。間違いないですか?」
「――はい」
「どうしてこのナイフは血まみれなんでしょうね? 分かりますか、北川さん」
「――私が、人を刺してしまったからです」
「では、容疑を認めるということですね?」
「――無関係の人を襲ったことは、申し訳ないとは思っているんです。本当に刺したかった相手は一人だけだったはずなのに」
「関係があってもなくても、普通は人を刺しちゃダメなんですよ。それは理解できますよね?」
黒井はナイフをバッグにしまったあと、簡潔にメモ帳に記録する。
北川は黒井を見た。「あの女は、今どこなんです?」
「誰のことですか」
「私が殺そうとしたあの女のことです。他になんかいますか?」
黒井は顔を上げた。そして、
「今は事情聴取の最中ってことは分かりますか? あんまり下手なことを言うと裁判で不利になりますよ。殺意を認めたことになってしまいますから」
「別にどうでもいいですよ。私の人生は、あの女のせいでメチャクチャになったんですから――」
「怨恨による犯行ですか?」
黒井は声の調子を落とし、静かに聞く耳を持つ。
北川はゆっくりと頷いた。
「あの女が、私の夫を奪ったんです。私、夫の収入の低さは気になりませんでした。愛し合う夫婦ですよ、当然ですよ。――なのに、本当はあの女が私の夫から金を巻き上げていたんです。そうやって私のことずっと笑ってたんですよ」
「夫の不倫による恨み、ですか?」
「まさか!」と北川は声を荒げた。「不倫なんて言葉を使ったら、私の夫も悪いみたいじゃないですか。違うんですよ、刑事さん、あの女は男をたぶらかして、言いなりにして、マインドコントロールしているようなものです。洗脳ですよ。夫だって被害者なんです――」
黒井は北川の言い訳を充分聞いてから、バッグからファイルを取り出した。
「――北川亜希子さん。32歳。株式会社アドルノソリューションの社員。勤務態度はとても真面目です。無遅刻無欠勤。浮ついた噂も全くない、そうですね?」
「はい」と北川は頷く。「私には夫しかいません。次の恋愛だって考えられません」
「いや北川さん、あなた独身ですよ」
そう黒井は言う。
北川はカッとした様子で黒井に振り返る。
「だから言ったじゃないですか! 夫をあの女に奪われて離婚したんです! だからあの女を許せないって何度も言ってますよね! 私!」
そんな彼女の怒鳴り声を聞きながら、黒井はファイルを閉じた。
「北川さん、あなたに婚姻歴はありません。そんな記録はないんです」
と黒井は言う。
「は?」と北川は呟く。虚空に、寂しく声が響いて消えていった。
黒井は首を横に振る。
「北川さんはいちども結婚したことがない。だから夫を奪われるはずがありません。だって、ないものが奪われるはずないですから」
「そんなわけ――!」
北川が声を荒げようとすると同時に、黒井は、女刑事特有のドスのきいた低声で遮る。
「夫の名前は? 彼とはどこで知り合いました? プロポーズの言葉はなんですか? 彼を奪ったその女の名前は言えますか? フルネームで」
「――あ、う、あ?」
北川は視線をウロウロ泳がせる。
――言えない。
北川亜希子は、愛する夫の名前も、彼を奪った憎き女の名前も知らなかった。初めから存在しないのだから、当たり前だった。知らないものは言えない。
混乱した様子の北川を放置して、黒井は立ち上がる。
「精神鑑定が裁判で行なわれます。まあ――従来どおり正常と判断されると思いますが」
黒井は屋上に出てタバコを咥えた。相棒の青山シンジ先輩は先にそこに立っていて、コートのポケットに手を突っ込んだまま、淀んだ東京の冬の空を眺めている。
寒さでキンとなっても、どこか不潔な感じがするのがこの街の空気だった。
あるいはその汚れは、黒井の心が勝手にそう思っているだけかもしれない。
青山が振り返る。短く刈られた黒髪。日焼けした肌。左の頬の、唇の端から目尻にかけてパックリと引かれている傷跡。
「他の奴らの話も聞いてきたが」と彼は言った。「どいつもこいつも今までと同じだよ。被害者に恨みがあるからやった、だが、その恨みはただの妄想だ――」
「骨董ナイフの件は?」
「なんたらキュルテンの?」
「ハインリヒ・K・キュルテンです」
「――それも従来どおりだ。『誰かに手渡されたが、誰に渡されたのか覚えてない』。こればっかりだ」
青山は笑った。
黒井サワコはピースの煙を吐いた。「そいつが何者なのか、少しでも手がかりがあれば進展もあるんでしょうけど」
「おいおい」と青山は言う。「そいつをなんの罪で引っ張れるんだ。せいぜい、街中でナイフを渡しただけ。銃刀法違反の軽い罰金で終わりだ」
「でも、そいつが原因なのは明らかじゃないですか」
「司法の場に出せるのは近代科学様のお眼鏡にかなった証拠だけだよ。呪いとか魔法の類を現代社会は受けつけませんってさ」
黒井は横を向く。
「――あの美術館のカメラも異常でした。複数の襲撃犯はいつの間にか《誰か》に倒されていた。でもその《誰か》の記録は全くない。今回の事件と関係あるのでは?」
「黒井よ」と青山は呟く。「俺たちの仕事はなんだ」
「それは、犯罪者を捕まえて市民の平和を守ることでしょう?」
「違う。ただ手続きに従って書類を起こしてあとは検察に任せることだ。――あまり抽象的に考えすぎるな」
青山は微笑んだ。
「俺の死んだおふくろは、定年で引退するまでずっと看護婦だったが、そういう仕事を続けていると、ときどき《出会う》ことがあるって言ってたよ。
昨日死んだはずの患者が廊下に立っていたとか、誰もいない病室からナースコールが届いたとか、あるいは不意に、ああこの患者は三週間後に死ぬなと思っていたら本当にぴったり三週間後に死んだ、とかな」
そういうやつに、長く生きてると出会っちまうものだよ。と彼は言った。
「青山さんは、それを聞いてどう思いましたか。やっぱり幽霊はいるんだって信じたりとか?」
「――いや、深く考えないことにした。おふくろもそうすると言ってた。これがこの話の肝心な部分だ」
青山は黒井に歩み寄った。
「この件、あんまり深く考えるな。違和感があっても首を突っ込みすぎるな。警官としての職務を全うしたらあとは家に帰って寝る、いいな。――変な風に踏み外すなよ」
「じゃあ、この事件を解決するのは誰なんですか?」
「さてね」
青山は苦笑する。冬の風にネクタイが揺れた。
「それこそ《超能力者》とか《名探偵様》の出番だと俺は思うがね――?」
※※※※
同時刻。
九条アヲイは誰かに呼ばれた気がして振り返った。
「――春が来るかなあ、そろそろ」
同時刻。
西園カハルは実家に電話をかけていた。
「オヤジか? 悪い、オヤジの書斎にある本をこっちに送ってくれ。。
――ハインリヒ・K・キュルテンを扱ったことのあるノンフィクションを全部だ」
※※※※
2月6日(日)
阿佐ヶ谷のマンション。藍沢テトラの家。
「納得できっか! ボケが!!」
モノオは口汚く叫びながら、その場にあったギターを床に投げつけた。
「オレが眠ってるあいだに、なにがあった? なんでテトラが復帰するって流れになってんだ? ああ!? 勝手に話を進めやがって!!」
そうして、部屋の三面鏡にある自分の顔を睨みつけた。
「トリィ、てめえだな。てめえがまたテトラを焚きつけたんだろ? そうだろ!? いつもいつも余計なマネしかしねえ!!」
「すごい言いようだね」
三面鏡の左の鏡に映った顔が、現実のモノオとは無関係に唇を動かして喋った。要は、それがトリィだ。
「私は」とトリィは言った。「たしかに、できることなら、テトラにもういちど立ち上がってほしいと思ってた。その点で、モノオと基本的な方針が違うことは認めるよ。とはいえ、私は今回はなにもしてない。テトラ本人の意志だよ」
「――あぁ?」
モノオはトリィを威嚇する。
「だとしてもてめえが止めることはできたろうが!」
「テトラの意志を無視して、か? それこそ私にはできない」
「テトラがこれで変な気を起こして『もういちど歌います』なんて言って、そのとおりにやらせてみろよ? それで傷つくのが結局はテトラだ。違うか? そういうのは無理やりにでも止めてやるべきなんだ! オレは間違ったこと言ってるか!?」
「価値観の違いだね」
「価値観の違い? 違うな。バカか、そうじゃないかの違いだぜ、トリィよぉ――!」
トリィとモノオは、それから黙ったまま睨み合う。
すると、三面鏡の右側から、
「――け、ケンカしないで――二人とも――」
と、今にも泣きそうな幼い声が聞こえてくる。モノオはすぐにそちらを向いた。
ジーイだ。ジーイが、三面鏡の右側で、両耳を押さえながら怯えていた。
「わりいな、ジーイ」とモノオは謝る。モノオはジーイと話すときだけ、まるで小動物を撫でるような、細やかな部分まで優しさと甘さの行き届いた声をした。
「ジーイを悪く言ったわけじゃないぞ、それは分かってくれるよな?」
「う、うう――」
「ジーイだって、もう辛いのはイヤだろ? ジーイからもトリィに言ってやってくれよ。テトラはもう歌わないほうがいいんだって」
ジーイは、モノオの優しい声に釣られて顔を上げる。
「――モノオ」
「どうした? なんでも聞くぞ、言ってみろジーイ」
「――あたしも、テトラに歌ってほしい」
「あ?」とモノオは言った。
なにかがおかしい、とモノオは思った。オレたちは十年以上ずっと三人でテトラを守ってきたのに、なんでこんなに噛み合わなくなってきてるんだ。
べつに屁理屈屋のトリィはどうでもいい。だが、ジーイまで態度を変えちまったのはいったいどういうわけだ?
誰のせいだ。
「ジーイ、もういちど言ってくれないか? テトラにどうしてほしいって?」
「あ、あたしも――」とジーイは両手で髪をくしゃくしゃにしながら、ちょっとずつ言葉を繋いでいく。「またテトラに歌を歌ってほしい。それができるなら、そうしてほしい」
「なんでだ。答えろ」
モノオはそう問い詰めてから、自分の声があまりに冷たいことに自分で怯えた。
どうしてだよ。オレはジーイを怖がらせたくないのに――!
「悪いな、ジーイ」とモノオは笑顔をつくった。
とにかく安心させなきゃ。ジーイはバカだし怖がり屋だ、すぐ心を閉ざしちまう。こんなヤツに優しくできるのはオレだけ――そうだ、オレだけがテトラを守るんだ。
世間はカスだ、社会はクズだ、世界はゴミだ。
そうだ、オレがいなくちゃダメなんだ、テトラには。
モノオはそう思いながら、
「ジーイ、どうしてテトラに歌ってほしい? オレにも理由を教えてくれよ」
そう、努めて和やかに訊いた。
ジーイは両耳から手を放した。その間、トリィはなにも言わない。
ジーイは、
「ヒデアキくんが、言ってくれたから」
と呟いた。
――は?
モノオの心のガラスに、バキバキと割れる音がする。
「あ? ヒデアキが?」
「ひ、ひっ、ヒデアキくんは――あたしたちに歌ってほしいって言ってて――あたしたちの、命の恩人で――だからさ、だからあたしも――もういちどテトラに――」
歌ってほしいの、と、ジーイが言った瞬間、
モノオは三面鏡を思いきり拳で殴りつけた。
「ジーイ!! てめえ!! なに調子いいこと言ってんだコラア!!」
情緒のタガが外れる。暴れ回るモノオに対して、ジーイはただ悲鳴を上げながらうずくまった。トリィも声を荒げる。
「モノオ! よせ!!」
「――うるせええああああ!!」
トリィが映った三面鏡の左側を、モノオは蹴り飛ばす。木製の枠が壊れて、床に砕け散った。
息が荒い。
モノオは肩で呼吸しながら、「クソ――!」と、ただ悪態をつく。
「ジーイまでイカれちまったのか? クソクソクソ! どいつもこいつもどうなってんだ! カスが!!」
ちょっと仲良くなっただけのバカガキに色ボケして、大事なこと忘れやがって。
オレたちにとっていちばん大事なのはテトラだろうが。なんで分からねえんだ!?
「――クソ、浜辺ヒデアキ――!」
モノオは憎々しげに呟いた。
だいたい美術館の件だって、オレを表に出しておけば最初から問題はなかったんだ。
それを横からしゃしゃり出て、弱いくせにヒーロー気取ったチンポコ野郎がケガして後遺症が残ったって、そんなもんこのオレの知ったことか!!
モノオは苛立ちが収まらない。
彼はそのまま、床に転がったギターを壁に叩きつけて、完全に破壊してしまう。散らばる金属音。
「――余計なことしやがって――!」
こうして、藍沢テトラの脳内では、しばらく不協和音が鳴り響くことになった。
※※※※
2月→3月
ヒデアキに関して言えば、後遺症の重さに比べて、傷そのものの治りは医者が驚いてしまうほど早かった。
彼は都内の病院で目を覚まし、まず、朦朧とした意識のなかでひとりの少女と会った。ベッドの横にある椅子にちょこんと座った、身長150cmもないような小柄な女の子だ。
ひどい癖っ毛を大量のヘアピンでとめていて、甘ったるいロリータファッションからは、合成着色のキャンディみたいな匂いがした。
「おはよう」と彼女は言った。「そろそろおきるとおもって、あいにきちゃった」
ヒデアキは、少女には全く見覚えがない。
「君は誰?」とヒデアキは訊いた。もしかして、彼女は死神かなにかだろうか。実は俺はとっくに美術館で死んでしまって、ここはあの世だったりするのだろうか。
彼がそう思っていると、少女はくすくすと笑った。
「きみのうで、すごくひどいことになってるね?」
「ああ――」
「なおしてほしい?」
少女はかがんで、ヒデアキの瞳をゆっくり覗き込む。
「君は治せるの?」
「きみが、まひるのながれぼしにおねがいするならね」
「なんだ、そりゃ」
少女は右手の指を二本立てた。
「ひとつめ。きみのけがをなおす。こういしょうものこさない。ふたつめ。きみのけがをなおさない。こういしょうものこる。かわりに、べつのおねがいをかなえてあげるね」
選択肢だ、とヒデアキは思った。
少女は微笑んで「どっちにする?」と訊いた。「どっちもできるんだけど――」
「俺の怪我は俺の責任だから、治さなくていいよ。自然な回復を待つし、後遺症があったって受け入れる」と彼は答えた。
「ふうん」
「代わりに、別の願いを叶えてほしい。できるならだけど」
「できるよ?」
少女は、がちゃがちゃした歯並びを見せて笑った。
ヒデアキは、彼女の名前も知らないし、これはきっと夢のようなものだと思ったが、それでも少女のことを魅力的だと感じた。
変な気持ちだ。
「――テトラさんは歌を歌える。でも、心がひどく傷ついていて、今はそれができない」
「うん」
「もしも彼女にそれが必要なら、彼女に勇気を与えるだけの力が、俺はほしい」
ヒデアキはそう言った。願いごとにしては、もしかして大きすぎる夢だろうか。だけど、他に神頼みしたいことも別になかった。
俺は俺のためじゃなくて、あの人のために祈りたい。
「――だいすきなんだ?」
と少女は笑う。
「そうなのかな?」とヒデアキは言う。今の自分の気持ちが単純な恋愛感情になるとも思えなかった。だいたい俺は、今でも結局、キョウカさんに対して未練がましい想いがないとは言えない。
中途半端な男だ。
だから分からなかった。たった数日でこんなにあの人にのめりこんでいる自分のことも、あの人のことも。なにもかも。
少女はゆっくりと頷く。「きみのこと、ちょっときにいったから、おまけしてあげるね? そのうで、すぐによくなるよ」
「えっ?」
そうしてヒデアキは夢から覚めた。
瞬き。
さっきまで少女が座っていた椅子には、少女の代わりに藍沢テトラが座っていた。――こうして彼は現実の世界に帰ってきた。
「ヒデアキくん!」
そう彼女は涙ぐんで、ヒデアキの体にしがみついた。
この声の感じは、ジーイさんだ。――なんか、もう判別つくようになってるの自分でも不思議だけど。
「俺は大丈夫です、ジーイさん」
彼はそう言って、泣きじゃくっているジーイの頭を撫でながら「大丈夫です、俺は大丈夫――」と囁き続けた。
※※※※
大丈夫、大丈夫って、いったいなにが大丈夫なんだよ。お前、これからどんどんもっと酷い目に遭うんだぜ?
※※※※
ヒデアキは、まず主治医の説明を受けた。物憂げな垂れ目に、ボブカットの茶髪、そして、だぼだぼの白衣の袖にすっぽり両手が隠れている風変わりな女医だった。
「やあやあ、浜辺ヒデアキくん」と彼女は言った。「私は住吉キキ。きみの主治医ってことになるね。手術は大変だったよ、本当に」
「はあ――」
「ズタズタになった神経はいくつか繋がらなかった。自然治癒でも元に戻るのは難しいだろう。つまり、君の左腕は、以前のようには動かせない。肩から上にあげることはできないし、握力とかも、ずっと低くなる。いずれ受け入れるべきことだから先に言ってしまうけどね」
「そうですか」
ヒデアキが頷くと、キキは少しだけ意外そうにした。
「君は、案外あっさり納得するんだね?」
「ここでゴチャゴチャ言ったって、腕がよくなるわけじゃないんでしょう?」とヒデアキは答える。「それに、俺はバスケ選手ってわけでもないし、生活に支障がないなら別にそれでもいいですよ」
「フゥン――」
キキは少し考え込むような仕草をした。「思いきりがいい――いや、それとは少しだけ違うな。君は、自分自身を粗末に扱う傾向があるようだね。まあ、男の子ってやつは多かれ少なかれそうだが――」
「包帯が取れるのはいつですか?」
「まあまあ、そう焦らないでくれ。そういう経過観察も込みで会いにきたんだからさ――」
で。
住吉キキが驚いたのは、彼の腕の傷が、ほとんどもう塞がっているということだった。
彼女は「ええっ!」と言った(マジで本当に声に出して言った)
ヒデアキが不思議に思うなか、キキは伝えた。あと一週間したら包帯は取っていいし、退院していい。そして、リハビリの運動は定期的に行うこと。
「すごいなあ」とキキは言った。「もしかして君、アヴァロンの鞘を体内に宿したりしてるのかい――?」
「は?」
「あ、ごめん。ジェネレーションギャップだった。今の二十代には通じないか。忘れて」
こほん、とキキは咳払いをした。
「なにか心当たりはあるかい? 君のこの驚異的な回復について」
「俺はべつに、なにも――」と彼は答えた。
ただ、夢の中で死神みたいな女の子には会いましたよ、とは、ヒデアキは伝えなかった。
退院して家に帰ると、父親からの手紙が郵便ポストに入っていた。どうやら、入院費とか治療費は父が振り込んでくれていたらしい。
「親父――」
ヒデアキはXPERIAを取り出し、電話をかけようとするが、やはり勇気が出なくて、メールで「お金、ありがとう。左腕のためにゆっくりするから帰省は難しくなるかも」と送信した。
父親からは、
「そうか。とにかく無事でよかった」
と、ぶっきらぼうな文面だけ届いた。
――まったく、親父もよくよく変わらないよな。
そう思った直後、
追加で父親から、
「母さんだけでなくお前まで死んだら、俺はどうすればいいか分からなかった。生きていてくれて助かる」
とメールが来た。
――その言葉に、どんな感情を抱けばいいのか分からなかった。ヒデアキはとりあえず首を振って、今度は藍沢テトラに連絡を入れた。
「看病、ありがとうございます。俺はもう大丈夫です」
すると、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
《もしもし、トリィだよ。ジーイもキミと話したかったらしいんだけど、電話は緊張しちゃうらしくてね。私が出ることになった》
「あれから無事でしたか?」
《おかげさまでね。でも、私たちの話はあとでいいよ。それよりも、君の腕の怪我について知りたい》
ヒデアキはスマートフォンを握り直した。
「ああ、別に大したことはなかったです。もう退院しましたし。医者は驚いてましたけど」
《ヒデアキくん、嘘は言わないでほしいよ》
トリィの声は真剣だった。
《私たちがキミを巻き込んだ。だからキミの怪我については私たちに責任があるんだ。正直に言って?》
「怪我は俺の責任です。トリィさんやジーイさんが気に病むことじゃないです」
そうだ。
俺が弱いのが悪いんだ。
あのとき、俺は美術館で誰かに助けられた。そいつの強さは普通じゃなかった。俺にもそういう強さがあればトリィさんは今みたいに自分を責めなくてよかったんだ。
悔しい。
弱いことが、こんなにも悔しいなんて知らなかった。
《――キミも強情だね、少年》
トリィは少し態度を和らげた。《以前のキミと今後のキミで、できなくなったことを教えて。私はキミと仲良くしたいから、それを知りたい。いいかな?》
「――はい」
それからヒデアキは、自分の腕に残った後遺症についてきちんと説明をした。結局、彼女の優しさに乗って、俺は俺のことを喋っている――それが情けなかった。
俺はテトラさんたちに優しさを返すだけでいいのか。本当は、もっと、なにかしたいはずなのに。
トリィは黙って話を聞き終えたあと、
《ねえ、ひとつ笑い話をしていいかな》
と言った。
「なんですか?」とヒデアキが訊くと、
《すごいことなんだけど》
私たちは、藍沢テトラは、キミに恋をしちゃったみたいなんだよ。
――そうトリィは言った。
返事はいつでもいいよ、私が勝手にキミのことを好きってだけだからね――そんな風に彼女は言って、ヒデアキは頭が真っ白なまま通話が終わった。
ぼけーっと、部屋に突っ立っていた。
「――頭を切り替えないと、ええと」と彼は自分に言い聞かせるように呟く。「そうだ、久しぶりに風呂でも入るかな」
そうして自分の服を脱ごうとして、
左腕が肩から上へと持ち上がらず、上手くセーターを脱げなかった。
「――ああ、やっぱり、ちょっと不便だな。これ」
彼はそう言って苦笑いを浮かべた。
季節は巡る。
トリィさんと渋谷の映画館で小難しいイラン映画を見たり、ジーイさんと原宿でクレープを食べたり、そんな風にして、ヒデアキの2月は過ぎ去っていった。そして全国規模アーティストたちの3月の祭典、《THE DEAD》が近づいてきていた。
新宿のバーでヒデアキと飲みながら、トリィは、
「私たち、もういちど歌おうと思う」
とヒデアキに言った。
「どうして?」と彼が訊くと、
「キミが怪我で気を失っていたとき、私たちを寝言で励ましてくれた。そして、私たちはキミが好きだ。理由はそれだけだよ」
「あの、俺は」
「いいんだよ、焦って返事しないで?」
トリィは悪戯っぽく笑う。
「私たちが勝手に好きで、勝手に片想いしてるの。迷惑だったらそう言って。だけど、変に責任みたいなものを感じたりして、急いで結論は出さないでほしい。心から通じ合いたいから、私たち」
トリィは目を細めた。
ヒデアキは、上手く言葉を返せない。
「それでいいんですか? トリィさんは」
「――平気だよ」
だって、キミに出会うまでに十年以上かかったんだもん。今から数ヶ月待ったって、一年待ったって、私たちは大丈夫だよ。
彼女がそう言ったとき、バーのマスターは酒を探して後ろを向いた。そうして、彼女はその隙を突くかのようにヒデアキの唇に唇を合わせた。
その仕草は、まるで古代の魔術みたいだった。
ヒデアキが呆然としていると、顔を離して頬を赤らめる彼女は、トリィからジーイに変わっていた。
これだ。この人格の切り替えの仕組みだけ、今でもヒデアキにはよく分からなかった。
「あたしも大好き、ヒデアキくんのこと。いっぱい、あたしのこと守ってくれたから、すきなの」
ジーイは微笑んだ。
そうして、このバーから歩いてそう遠くない距離に、そこそこの値段がする、豪奢なホテルがあることをヒデアキはぼんやりと思い出していた。
※※※※
2月→3月
皆は温泉や銭湯って好きかい? 実を言うと《僕》はちょっと苦手意識がある。ゆっくりと浴槽につかること自体は好きだけど、でも、あの「男湯」「女湯」って仕切りを目にすると、心が凍って、頭がぴくりとも回らなくなってしまうことがあったよ。特に、思春期の頃はそうだった。
だって、まるで「ここから先は男の世界」「ここから先は女の世界」と言っているみたいじゃないかい?
だから、うん、そこに《僕》の世界はなかった。
修学旅行とかは地獄だった。高校からはどうせサボることにしたから、どうでもよかったけど、中学の頃はこれでも社会に馴染もうとしていたんだよ。
「先生――」と当時の《僕》は言った。「入浴時間ですが、僕だけ、寝室そなえつけのシャワー室を使っちゃダメですか?」
「どうした井上? 具合でも悪いのか」と先生は心配そうに言った。良い先生だった。ただ《僕》のことをちっとも理解できないってだけで。
その先生の顔を《僕》はもう覚えていない。
「なら井上、教師の入浴時間があるから、そのとき体調が戻っていたら入るといいぞ。それも無理なら、明日はゆっくり休もうか。残念だけど、まあ、金閣寺も清水寺もどこかに逃げたりしないよ。楽しみを大人になるまでとっておくっていうのも良いもんだぞ」
先生は笑う。
違うんです、先生――。《僕》は、《僕》は男でも女でもないから、どっちのお風呂にも入れないんです――。
《僕》はおそらく、その日は、それを勇気を出して伝えたのかもしれない。いや、本当のところどうだったのかはちょっと曖昧だ。
そして先生は、少し悲しそうな顔をしたあと、教師用の笑顔に戻って、《僕》の頭をわしわしと撫でた。
「それは井上の感受性が豊かなおかげだよ。恥ずかしいことじゃないぞ。井上は、音楽の授業がすごいって奥宮先生も褒めてたからなあ。でも井上の友達は、井上といっしょに風呂に入りたいんじゃないか?」
先生は穏やかに、常識を説いてきた。
辛かった。
「――僕に友達なんかどこにもいないですよ!!」
《僕》は、
要するに、井上理絵実という名前の沖田レインは、
そんな風に優しい大人の手を振り払って、旅館の外に駆け出して、強引に連れ戻されて、みんなに迷惑をかけてムカついて――そして――高校生になる頃には学ランを着る問題児になっていた。
笑うだろ。だから《僕》は温泉や銭湯が苦手なんだ。
で、だ。
そんな沖田レインが、箱根の温泉街を訪れたのは、だから人生で初めてのことだった。客室露天風呂がついている最高クラスの部屋に、何週間も泊まってダラダラと過ごしているヤツがいる。そいつがレインの親友で、レコーディングであれ、ライブであれ、仕事の連絡はもっぱらレインの役割だ。
そいつは、メディアではトワと呼ばれている。デビューから数年の時間と数枚のCDで人気アーティストの仲間入りを果たし、大晦日の公共放送で歌を歌って国民に知れ渡った直後、既婚女優とのセックスがバレて半年間も干されていた男だ。
幸い、今は復帰を果たしているが、世間からの風当たりはまだ強い。
もともとトワには奇行癖や暴力癖があり、そのバッシングはしばらく止まないだろうと思われた。天才を常識に当てはめて引きずり降ろそうとするのがこの世界の腐った道徳なのだ。
そんななかで、まことしやかな噂さえ囁かれている。
――トワは父親不詳であり、女子高生がゴミ捨て場に捨てた遺棄児童。
そして彼は、発見が遅れたせいで脳に重篤な障害が残っている。いわく、長期的な記憶を保つことができず、短期的なやりとりを除けば、実は場当たり的なことしか言っていない。そして、その代わりに、ありもしないウソの記憶に脳を汚染されている――。
レインは首を横に振って、温泉街を歩き始めた。
問題は、そういうトワをめぐる荒唐無稽な噂が、全部事実ということだった。
客室露天風呂がある最高級クラスの部屋を沖田レインが訪れると、ベランダの向こう側で、一人の男と六人の女が楽しそうにお風呂に入っていた。みんな素っ裸だ。
男の名前がトワ。190cmを超える長身に、引きしまった筋肉質の体、ウェーブのかかった髪、彫りの深い整った顔。そして、この世の奈落のような、光を映さない瞳。
六人の女たちは、そんなトワが特別に囲っている女たちだ。
眼鏡で仕切り屋のミンミ。
優しい、運転手のタマキ。
気だるいゲームオタクのニーニャ。
銀髪にファッション包帯のアリス。
日焼け肌、バイセクシャル、音楽好きのビリー。
――そして料理番のハナコ。
トワは沖田レインを見て黙って首を傾げた。先に声を上げたのは女たちだった。
「あ、レインさんだ!」「わー、レインさんも温泉に来たの~?」「ここのお湯、マジで最高ですよ~」「レインさんも早くはやく、脱いで脱いで~!」「え、ちょっと狭くならないかな、大丈夫?」
レインは、はっはっはと笑った。
トワが六人の女たちを見て「知ってるヤツなの?」と訊いている。
やっぱり、トワはもう僕のことを覚えていない。
ミンミが「トワ様の親友のレインさんでしょ?」と言ってくれる。
トワはレインを見て「あ、そうか――久しぶりだな、レイン」と微笑んだ。
レインは、バッグを床に置いた。コートも脱ぐ。
「僕も入っていいんだろ?」とレインが言ったら、六人の女たちが黄色い歓声を上げた。
――参ったな、こういう風呂なら苦手じゃないぞ。
服を一枚ずつ脱ぎ、レインは裸になる。
「でもトワ」とレインは――彼女は言った。「僕の体を見て欲情するなよ。僕たちは親友だからな。――君が覚えていなくてもさ」
「はあ?」
トワはとぼけた声を出した。
「お前は女でも男でもないだろ。なに言ってんだ?」
そう言った。
レインはそんなトワのことを――たとえ、自分を覚えていなくても、昔のまま、僕を救ってくれたときのままでいるのだと思えた。
「あっはっはっは! そのとおりだね!」
レインは笑った。
――だって、昔、僕の性別を理解してくれたのは、トワ。君だけなんだから。
レインは勢いよく湯船に飛び込んだ。水しぶきが六人の女たちにかかる。――レインが悪ガキの顔でゲラゲラと笑ってみせると、トワも不良の面構えで笑っている。女たちの声がする。
ああ。こういう風呂なら《僕》だって苦手じゃない。
まったくさ。
こうやって少しずつ《僕》を救っちまうんだよ、このトワって野郎は。
※※※※
こうしてトワとレインと六人の女が長い風呂から上がって、それぞれ浴衣になると、宴会広場に向かった。懐石料理が予約済みだ。
トワが「おれはハナコのメシのほうが好きなんだけど」と言う。
はにかむハナコに、
「まあ、ハナコもゆっくりしたいだろ? ここにいる間は皆で贅沢しようぜ」
そうトワは微笑んだ。
女性を複数人囲って、粗暴に振る舞って、かわるがわる当番制で彼女たちを抱いているトワだが、彼女たちは皆ひとり残らず、望んでトワのそばにいる。それぞれにトワに拾われた経緯があって、トワから離れない事情があるからだ。
理解できない人間には永遠に理解できないだろう。
しかし、いずれにせよ真実なんてものは万人に開かれたものではなく、限られた、選ばれた人にしか理解できないのだ。分からない奴には死ぬまで分からない。
さて。
そんなトワたち八人が廊下の突き当たりを曲がって、ゆっくりと階段を降りると、
そこに、川原ユーヒチとアヲイ(旧姓:九条)がいた。
トワたちとアヲイが鉢合わせになった。全員浴衣だ。
「なんだ? お前」
とトワが言い、
「げえーっ!? トワ!?」
とアヲイが言った。
宴会広場で味の薄い(上品とも言う)料理をつまみながら、アヲイとトワは向かい合わせになっていた。
六人の女たちは、アヲイの恋人、というか夫であるユーヒチに興味津々になって、彼を囲い込むように座りながら顔を覗き込む。レインだけ少し離れた距離で値段の高い日本酒をちまちま飲んでいた。
「なんでトワがここにいるんだよ」とアヲイが訊く。
アヲイとトワは、ひと言で言えば似た者同士だった。トワはそれに気づいてアヲイに言い寄り、それに対してアヲイはトワを振ったという経緯がある。そのときちょっとしたいざこざもあったので、アヲイはトワのことが苦手だった。
――だが、トワのほうはそれを全く覚えていない。
「べつに」とトワが答えた。「おれの女たちが仕事を始めた。家庭教師も雇って何人かは大学に行くために勉強し直してる。おれがこいつらを労わってなにが悪い?」
「――そういうことなら、いいけど」
「そういうお前は、ここでなにしてるんだ」
「映画監督も来てるんだ。打ち合わせだよ」
アヲイがそう答えると、トワは「へえ」とだけ答えてビールを飲んだ。
「八木さんから聞いた」と彼は呟いた。「女優もやるんだってな。まあ、やりたいならやればいい。おれの知ったことじゃない」
「そのことでトワに相談があるんだ」
アヲイは身を乗り出す。
「演技ってどんな風にやればいいの?」
「おれに? 相談?」とトワが首を傾げる。
アヲイは「うん」と頷いた。「正直、あんまりトワには頼りたくなかったんだけど。いろいろあったし」
「? 覚えてないな」
「だけど、トワが言ってた『おれとお前は同類だ』っていうのは、まあ、そのとおりなんだと思う。だからトワの俳優経験を聞きたいと思ってる」
「おれ、映画に出たことあったっけ?」
「2本の映画とドラマ1本とCM1本」
「ああ――」
こういう二人のやりとりを、レインは努めて我関せずの様子で受け流していた。
ユーヒチのほうもアヲイの仕事を邪魔する必要はなかった。ただ、今は、六人の女たちからのすごい質問責めに対応しているだけだ。
不意に。
ガクン、と、トワがうなだれた。まるで電源が落ちたように首の力がなくなり、畳を見つめているだけみたいになった。
「トワ――?」とアヲイが訊く。と。
トワが、今までとは全く違った表情で顔を上げた。そうして、
「『マキ!』」とアヲイを呼んだ。
もちろん、アヲイにマキなんて名前はない。
この世界では。
トワは頬杖をついて、まるで、ドラァグクイーンのような話しかたで、
「『いったいどうしちゃったの? アンタ、何かにつけて生意気なコだけど、理由のない反抗はしないって思ってたわよ』」
と問い詰めた。
異変に最初に気づいたのはレインだった。トワが、なにか妙なことをしている。
「『理由のない反抗?』」
とアヲイは笑うと、その場にあった刺身をひとつ口のなかに放り投げた。
「『ジェームズ・ディーンかよ』」
アヲイの言葉に、レインが凍りつく。今までのアヲイとは、表情が違う。なにか、もっと別の人生を送ってきたからそうなった、みたいな感じだ。
トワもアヲイも、別人だ。
そのタイミングで、ユーヒチがパンと両手を叩いた。「もういいだろ、トワさん。そのへんにしてください」
アヲイは我に返った。
「――あ、あれ?」
トワが微笑みながら手酌でビールを注いだ。
「悩むなよ。アヲイ」と彼は言った。「おれたちはもともと他人の人生も生きられる。わざわざ演じる必要はないんだ」
――他人の人生を想像するのは、自分の人生の並行世界を生きるのと同じことだ。アヲイはおれと同じで、それができる。だからいちいち複雑に考えるな。
それが演技に関するトワからのアドバイスだった。
「――」
アヲイは少し呆然としていたが、やがて瞳に光が戻っていった。
「ああ、そうか、なるほどな」
そうしてユーヒチのほうを見て、
「止めてくれてありがと、ユーヒチ。ちょっとノート取るから、皆と飲んでて?」
と言って立ち上がり、宴会広場を抜け出した。
――と思うと、もういちど戻ってきて、
「ここ味が上品すぎてダメだ。コンビニでポテチとサワーお願い。あとコンドームも」
と小声で囁いた。
そして、再び宴会広場から走り去っていった。小声で囁いたと言っても、近くにいた六人の女たちには丸聞こえだった。ユーヒチは女たちの熱い視線を浴びながら苦笑を浮かべるしかない。
トワのほうは、
「あれであいつは大丈夫だ」と言った。そして、
「ユーヒチくん。あいつ見張っとけよ。映画が終わるまで大人しく仕事だけしてろ」
そう言った。
ユーヒチも、やっと箸を取って食事を口に運ぶ。「それも八木さんからの命令ですか?」
「? 違う」
「――じゃあなんなんですか?」
「おいおい、ユーヒチくん、最近話題の事件のニュースを見てなにも思わないのか」
トワは、くっくっく、と笑った。
「あの日、美術館で暴れたのはアヲイだ」
「なんですって?」
「――おれたち『思い出す』ヤツがいるのなら、『思い出させる』ヤツだっている、ってことさ。そいつが天然か養殖かは知らないけどな」
――だから、アヲイは放っておいても真実に辿り着いちまう。そうならないようにちゃんと目を見張って守ってやれ。お前がな。
――そうトワは言った。
慎ましい宴会は一時間程度で終わった。六人の女たちのなかで言えば、ニーニャとミンミとが特にユーヒチの整った容姿を気に入って、
「夫婦の相談とかさあ、いろいろあったら電話してよ」
「家族に必要なのは共通の友人だよ~?」
みたいなことを言って、ユーヒチと連絡先を交換した。
トワは笑う。
レインはそんなトワにゆっくりと近づいて、「あとで八木本部長からの手紙を渡すよ?」と言った。「読んだあとは燃やして捨てろとの伝言だ」
「なんだか穏やかじゃないな?」
トワはそう答えたあと、レインと六人の女を連れて部屋に戻り、そなえつけの冷蔵庫に置いておいたワインで晩酌をしてから、帰り支度をするレインからその手紙を受け取る。
「一泊くらいしていってもいいだろ?」
とトワが誘っても、
「他人の家族の団欒を邪魔する趣味は僕にはないよ」とレインは笑って断る。「どうせ今夜もみんなとお楽しみなんだろ? じゃあ、また《THE DEAD》で会おう。僕のたった一人の親友」
そうして、レインは箱根の温泉街を去っていった。
トワは六人の女たちをまとめて抱いて、全員が抱かれ疲れて布団で眠ったあとで、八木啓からの直筆の手紙を開けて読んだ。
それは仕事の話ではなかった。もちろんプライベートの話でもない。
――強いて言えば、それは《歌わない歌姫》藍沢テトラの話だった。
「なるほど」
とトワは言って、その手紙にライターで火をつけて、存在ごと抹消する。
「――たしかに八木さんの言うとおりにすれば、この連続通り魔殺人事件は三月中に解決するわけだ」
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