第3話 UPDATE


  ※※※※


 2月2日(水)16:30

 阿佐ヶ谷で降りて、スーパーに寄って夕飯の食材と翌朝の飯を買ったあと、ヒデアキは阿佐ヶ谷のアパートに戻った。

 そうして台所で野菜と肉を切り、簡単な炒めものをつくった。米はインスタント系をレンジに入れ、味噌汁のためのお湯を電気ポットで沸かす。日常だ。

 夕食をつくると、普段はお酒を入れながらPCでユーチューブ動画を見るところだが、そうしない。ただ黙々と食べ終えたあと、PCにCD/DVDプレーヤーを接続して、藍沢テトラのデビューアルバムをセットした。

 続きを聴こうと彼は思った。

 彼女のアルバム『暗黒/光明』一枚目は全ての曲が繋がっていて、通しで聴くことでひとつの世界観が成立するようになっている。いくつかのインストゥルメンタル。当時の社会に対する痛烈な皮肉。拗らせて腐り果ててしまった男女の関係。ただ、愛すべきものを適切に愛せなかったことの後悔。そして、最後に、それらの暗い曲を全て塗り替えるような純粋なラブソングだった。

 ――これを十四歳で書いたのか、テトラさんは。

 ヒデアキは、今の今まで「順風満帆に生きてきた天才少女の人生が、酷い事件によって台無しになった」という単純な物語を信じていた。

 でも、そうじゃないのかもしれない。こんな曲を書けてしまう女の子が、幸せだなんてことがあるだろうか。

 一枚目が終わる。

 ヒデアキはすぐに二枚目をセットして、ヘッドフォンを耳に戻した。

 二枚目は既にテレビやラジオで発表し、シングル化していた楽曲の寄せ集めだった。もちろん、その間にはいくつかアルバム用の新曲が挟まっていて、二枚目だけでひとつの作品に聴こえるようにつくられている。ただ、そうだとして、それでも一枚目に比べるとずいぶん明るいというか、上手く言えないが、メディアの《天才少女》という肩書きに対して上手く付き合っているような印象を受けた。多才さや多芸ぶりは明らかだが、なんだか、それがひどく痛ましいほどに演出的だった。

 全てを聴き終えて、ヒデアキはぼーっと天井を見る。

 ――結局、もう変な夢は見なかったな。

 そう思ってヘッドフォンを外すと、テーブルの隅で、彼のXPERIAが小さく光っているのが分かった。電話だ。

 慌てて画面を見ると、それは藍沢テトラからだった。

「もしもし?」

「やあ、ヒデアキくん」

 飄々とした声が聴こえる。最初に彼と会ったときの人格だった。

「――トリィさんですか?」

 ヒデアキがそう言うと、少しだけ沈黙が広がって、やがて、

「へえ。もう私たちのこと分かってくれたんだ?」

 と、少し嬉しそうな返事だった。

「ええと」と、彼はスマートフォンを持ち直した。「まだぜんぶ分かったわけじゃないですけど――」

「うん。私が、トリィって名前」

「ジーイさんって人にも会いました」

「すごいな、キミ」

 トリィは心から感心しているようだった。

「詐病だとか、演技だとか思わないのか。私たちは医者からだってそんな風に言われて見放されたよ。――ひょっとすると、キミ、すごいお人好しか、あるいは騙されやすいだけの隙だらけな男の子なのかもね?」

「でも、テトラさんたちが俺を騙すメリットなんかないですよ。俺はただの大学生で、ただのガキです」

「ふふ」

 そこでトリィは話題を変えた。

「で、ヒデアキくん、今はなにしてたの?」

「――ちょっと言うの恥ずかしいですけど」

「大丈夫だよ。教えて?」

「テトラさんのデビュー作を聴いてました」

「――あはははははは!」

 トリィの笑い声を聞いて、ああ、やっぱり言わなきゃよかったかもしれない、とヒデアキは思った。

 だってそうだろ。ちょっとしたきっかけで凄い有名人と知り合って、連絡先まで交換して、その日のうちに彼女の作品を買って聴くとか、典型的なちょろいファンじゃないか。

 こんなときに恥ずかしさで顔が赤くなる、その赤さが自分でイヤだと彼は思った。

 だが、トリィは笑い終えて、

「律儀なんだね」

 と言った。

「え?」

「私たちのこと分かろうとしてくれたんだ。すごく嬉しいよ。曲を聴いたって直接言ってくれたひと、何年ぶりかなあ」

「――俺は、別に」

「感想、教えて?」

 そんな彼女の問いに、彼は、どこまで答えればいいのか分からない。

「上手く言えないかもしれません」

「キミの言葉なら、なんでもいい」

 どうして。

 どうしてそんな、誘うようなことを言うんだろう。このひとは。

 ヒデアキは、まず「今日、俺、久しぶりに親父と話したんです」と答えることにした。

「ふぅん?」

「信じてもらえないかもしれないですけど、テトラさんの曲を聴いて、その勇気が出たんです。ずっと上手いこといかない関係だったんですけど、でもなにか変わるんじゃないかって、そう思って、えっと、それが――テトラさんの――おかげというか」

「落ち着いて喋っていいよ? 聞くから」

「はい」

 ヒデアキは唾を飲み込んだ。

「俺の人生は変わると思います、これから。それはテトラさんのおかげです。ありがとうございます、って、本当は俺から言いたかったんです」

 そう、やっと伝えた。

 トリィは、なにも答えなかった。スマートフォンの向こうで音はひとつも鳴らない。

 いや、違う。

 泣いている。

 泣いている女の人の声が聴こえる。

「――ありがとう、ヒデアキくん」

 そんな、涙ぐむ言葉が耳に響いた。その声は、トリィさんでもジーイさんでもなかった。

「ヒデアキくんが、そう、言ってくれるなら、やっぱり歌ってよかったな――あたしこそ、ありがと」

 と彼女は言った。

 誰だ?

 ヒデアキは彼女の涙に心臓を貫かれながら、それでも脳ミソの冷静な部分で結論を出していた。

 今、俺が聞いているのは《元の》テトラさんだ。

「テトラさん!」

 ヒデアキは、思わず大声を出していた。

 彼女が返事をする。ずっと、ずっと表舞台から、セカイから姿を消していた彼女が。

「なっ、なに?」

 

 ここでヒデアキの口が滑る。でも、誰も彼を責めることはできないだろう。だって、かつて失われた天才を前に、他になにが言えるんだ?

 だって《僕》たち凡夫にできるのは、期待だけだろ。

「もういちど歌ってください! 俺、俺だけじゃなくて色んな人を、たくさんの人を救える力がテトラさんの歌にはあるんです!

 なんで歌わないんですか!? テトラさんみたいなすごい人が、なんで、なんでもういちどだけ、皆のためにステージに立たないんですか!

 テトラさんが歌うためなら、俺なんかでよければ、なんでもします! 俺にできることはなんでも言ってください!」

 そこまで彼は言って、言いすぎたと思って、黙る。

 ――マジでバカかよ、俺。

 俺になにができるんだよ。俺なんかなにもできないだろうが。

 そこから電話の向こうは、3分以上は、なにも言わなかった。ヒデアキは、ただ待った。自分で通話を切ることはできない。

 そうして3分40秒後に、再びトリィの人格が聞こえてきた。

「少年、美術館に行かないか」

「え?」

「いや、このまえ画家の個展のレビューを書いたら、謝礼のほかに美術館のチケットを貰っちゃったんだよ。でも二枚組で、他に誘うような友達も私はいないんだ」

 だから、キミと行きたいんだけど、どうかな?

 そんな風に藍沢テトラは――トリィは誘った。

「――俺でよければ、もちろん喜んで」

「よかった。いつなら空いてる?」

「月火金のバイト以外はずっと暇ですよ、俺」

「はは。寂しい大学生だ。じゃあ、明日の12時、乃木坂駅で待ってるね」

 トリィは愉快げに笑ってから、

「あ、そうだ、おなかは空かせておいてね。いっしょに美味しいものとかも食べようよ。男子大学生がたらふく食べるところ、見たいなあ。――お姉さんとしては?」

 と言って、そこで通話が終わった。


 ――いや俺、べつに大食いとかじゃないっすよ――。


 藍沢テトラは電話を切ってから、テーブルの上、そこにある契約会社・マイヤーズミュージックからの郵送物を見つめていた。

 そこには《ザ・デッド》へのエントリー用紙と、付属の書簡があった。

 ――今回が最後のチャンスだ。もし藍沢テトラがザ・デッドの参加を辞退するならば、契約はもう打ち切る。

 それが八木啓からの最後通告だった。

 テトラはそんな言葉を見つめたあと、ヒデアキの言葉に感情を揺さぶられながら、それでも、

「――無理だよ」

 と、体育座りをした膝の上に顔をうずめるしかない。


  ※※※※


 同じく、2月2日(水)16:30

 王子駅から徒歩六分のアパート、そこに西園カハルの部屋がある。2日前リンドウが片付けに来たため、彼女の住まいとしてはそこそこ綺麗だ。

 彼女はDELL製のゲーミングデスクトップPCの電源を入れて、まず、メールアプリのカレンダーからオンラインミーティングを起動した。

 空いた時間でチャットツールと作曲用のアプリを立ち上げる。

 定刻になり、参加者が次々とアクセスしてきた。

 プログレッシブロックバンド「西園学派」の四人目のオーディションにおいて、西園カハルが出した課題は次の二つだ。


 ・第一課題:60~80年代の洋楽において、任意のギター曲をコピーして送付せよ。

 ・第二課題:オリジナルの楽曲を送付せよ。ただし再生時間は10分以内。また、発表済みのものは不可とする。


 である。

 ――もちろん、べつに作曲者を募りたいわけではない。

 しかし、小説のことが小説家にしか分からないのと同じように、音楽のことは作曲者にしか分からない。それが西園カハルの持論だった。

 たとえば、演奏家や指揮者は「演奏家」「指揮者」というジャンルのプロフェッショナルであって、音楽そのもののプロフェッショナルではない。文芸批評家が文学のプロではないのと同じことだ。

 そんなギタリストは不要だ、とカハルは言った。

 定刻になり、参加者10人のうち9人が揃った。全員緊張している。

「一人いないな。誰が来てない?」

 カハルが後ろを向く。リンドウがタブレットで名簿をチェックして「田中ケイコさんがまだだな」と答えた。

「そうか。じゃあ田中は不合格だ」

 カハルはミーティングアプリを操作し、田中の応募用紙に記載されたアドレスをブロックした。

 参加者が軽くざわついた。

「あの」と参加者のひとりが声をかけた。「なにか事情があるんじゃないでしょうか。ちょっと連絡してあげてもいいのでは――」

「お前、名前は?」

「鈴木です。鈴木エイジ」

「お前はステージにメンバーが無断で遅れたとき、リスナーにもそうやって説明するのか。『なにか事情があるかもしれない』と」

「あ、いえ――!」

「リスナーが聴きたいのは遅刻の事情じゃない。音楽なんだ。分かるな?」

「――ええ、はい」

 鈴木という男性は、それですっかり意気消沈しているように見えた。

 カハルは彼を睨む。だが、それは彼女の鋭い目つきが睨んでいるように見えるだけで、実際には見つめているだけだ。

「気に入ったよ。自分の意見を言えるんだな、鈴木。お前の作品から最初に聴くぞ」

 こうして、西園学派追加メンバーのオーディションが始まった。


 西園カハルは順に応募作品を聴いていった。参加者は全員で10人(今は9人)だが、もともとは100人ほどの志願者がいた。それをマイヤーズミュージックの職員が50人に削り、タクヤが25人に減らして、最終的にリンドウが10人を選んだ。

 だが、その9人のなかにカハルの耳と脳を満足させるギタリストがいるかどうかは、確率半々というところであった。

 カハルはほとんどの参加者を、第一課題の時点で不合格にしていた。手元のペンでノートに、

「単純に技術がない」

「譜面通り、創意工夫の欠如」

「この曲だけ頑張って練習したんだな」

「なぜこの曲? やりたいこととやれることの区別!」

 などとメモしていく。

 そして残ったのは二人だけだった。先ほど西園カハルに食ってかかった鈴木エイジと、もうひとり、能登ミキヒコという男性だった。

 カハルは二人のオリジナル楽曲をそれぞれ聴く。そうして、

「えーと、鈴木」と言った。

「は、はい――!」

「お前は才能がある。プロを目指せ。アタシはお前が好きだ」

「あ、ありがとうございます――!」

「でも不合格だ。悪いな」と言った。

 そのときの鈴木の表情をリンドウは忘れないだろう。直前まで喜悦に舞い上がっていた顔が、あっというまに沈んでいく。

 カハルは「これは相性の問題だから、そんなに落ち込むなよ」と、珍しくフォローしてやるような言い草だ。

「鈴木、お前はやりたい音楽がはっきりしている。そのジャンルもコンセプトも。だが、その《はっきりしている》というのが罠なんだ。

 アタシたちは、なんのジャンルにもコンセプトにも囚われたくはない。アタシたちが次の作品に望むのは未来だけだ。だから、お前はお前でやっていくほうが上手くいくよ」

 カハルはそう言って、鈴木がオンラインミーティングから退出するまで待つ。

 それから、残った一人、能登ミキヒコに話しかけた。

「合格だ」

「ありがとうございます」

「いいや、礼を言いたいのはこっちだ。良いギタリストに会えた」

「次回の練習日や、収録日を教えて頂ければ、すぐに調整します」

 リンドウは、そこで初めて能登ミキヒコの顔を見た。

 整った甘い表情を、黒縁のメガネであえて隠そうとしているような感じだ。ぱりっとした白いYシャツに、少し長めのところで切り揃えられた黒髪。名簿によると年齢は23歳。M大学の院生らしい。

 カハルは「いや、ていうか、明日ヒマか?」と言った。

「え?」

「アタシとリンドウとタクヤで、美術館に出かける予定がある。ミキヒコもそこに来い。まずは互いを知ってこう」

 カハルはそう言った。


 ちなみに。

 最初に落とされた田中ケイコは、後日、風邪をこじらせていて遅刻の連絡さえできなかった――と、西園学派マネージャの吉田に泣きついてきた。

「どうする?」と吉田はリンドウに訊く。「カハルに伝える?」

「無駄でしょうね」とリンドウは答えた。「あいつはそういう言い訳をいちばん嫌う」

 ――今でも思い出す出来事がある。

 インディーズ時代、カハルはライブ前に40度を超える高熱を出したが、何度も何度も点滴を打って結局ステージに立ち、ノーミスで演奏を終えてからブッ倒れた。みんながそれをパフォーマンスだと思うなかで、リンドウは彼女を抱えてソデに下がっていった。

 吉田は「いったいなに考えてるの!?」と叱責した。だが、カハルは最悪な顔色のなかに冷や汗を浮かべながら「ハッ」と笑った。

「アタシはロックスターだぜ。――ステージで死ねるなら本望だ!!」

 そう吐き捨ててから意識を失った。

 そういう女なのだ、カハルは――と、リンドウは思いながらそのとき、あまりに軽い彼女の体重を感じていた。


  ※※※※


 2月3日(木)12:00

 浜辺ヒデアキが乃木坂駅で降り、直通の通路を歩いて国立新美術館に着いたとき、既に藍沢テトラはそこで待っていた。正確には、彼女のカラダがそこに立っていたというだけで、どの人格が待っていたのかは分からない。

「すみません、お待たせして」

 と彼が言うと、

「ああ、いいよべつに。オレもさっき着いたから」

 と彼女は答えた。

 ――トリィさんでもジーイさんでもない。

「モノオさんですか?」と彼は質問した。

 テトラは――というか、モノオは両目を見開いた。

「へえ? もうオレたちに慣れてんのか。そんなヤツ初めてだな。トリィもジーイも気に入るわけだ――」

「えっ?」

「でもオレはお前を気に入ってない」

 そう言って、モノオはヒデアキの顔をじっと睨んだ。

「――もうテトラに歌は歌わせねえ。そのせいでアイツの心がどれだけ傷ついたと思ってる。もうテトラはなにも歌わない、なにもつくらない。それがいちばん良いんだ。そこんとこ勘違いすんじゃねえぞ」

 ヒデアキはモノオに睨まれながら、こんな場面で「はい分かりました」なんて頷けない自分の頑固さを自覚していた。

 彼は「それは――」と言い淀んでから、「それはテトラさん本人が決めることですよ」と言う。

「あ?」

「それはモノオさんが決められることじゃないんです。俺だって決められないですよ」

「てめえ――」

「俺は歌ってほしいです。また、もういちど。そう思うのはエゴですか? でも、だったら歌ってほしくないっていうのも同じですよね」

 我ながらメチャクチャな理屈だ、とヒデアキは思った。

 だが、モノオはそこでゆっくり目をそらす。

「まあいいや。お前とケンカしにきたわけじゃないし、あとはトリィかジーイに変わるから、お前は好きなだけ美術館デートでもしてろよ?」

「え、デートって――」

 これデートだったのか、とヒデアキは戸惑う。

「だけど」とモノオは言った。「お前になにかできるなんて思うなよ。いいな? テトラは歌わない。もう二度と絶対に、だ。それがあいつの幸せだ」

 彼は(彼は? 性別なんて分からない)そう言うと、すっとヒデアキに背を向けた。

 ――?

 ヒデアキが「あの、モノオさん?」と呼びかけても、テトラのカラダは反応しない。じれったくなって彼女の肩に触れると、

「わあっ!」と声を上げた。

「びっくりしたあ――あ、ヒデアキくんか。おはよう」

 と言う。

 この表情はトリィさんだ。

「ごめんなさい。急に肩なんて」

「いや、いいよ。おおかた、モノオあたりが顔を出してたんじゃない?」

 トリィは優しく微笑む。

「ええ、まあ」

「彼は過保護だからね、テトラに対して。――キミになにか言いたいことがあったんだと思うよ」

 彼女はバッグを肩にかけ直した。


 乃木坂駅から直通の国立新美術館は、地下1階、地上4階、敷地面積30000平方メートル、延床面積約49830平方メートルで、美術館としては日本最大の規模を誇る。

「めちゃくちゃデカいですね」

 そう彼が呟くと、トリィはおかしそうにフフッと笑う。

「素朴な感想だけど、そのとおりだね」

 黒川紀章が最後に設計したことでも知られること建物だが、正面では、波形のガラスウォールカーテンで日差しを迎え入れて、木張りの床と壁がそれを柔らかく受け止めるようにできている。ガラスの外に広がる緑と、建造物全体の吹き抜け構造がその解放感を後押ししてくれるような感じだ。なんていうか、繊細さと寛容さが、本来は両立するものであることを思い出させてくれるような――上手く言えないが、ヒデアキはそう感じた。

 吹き抜け構造の中心には巨大な逆円錐の柱があって、最上階にはカフェがあるらしい。

「そういえば、ごはんってここで食べるんですか?」

「なに? もうおなかぺこぺこなの?」

 トリィは笑うとき、悪戯好きの子どもみたいになる。

 目の前にいるのが28歳の大人でも、その表情筋は多感な幼少期に培われたものだから、どんな人間だって笑顔を見せるときは人生の積み重ねの上で笑うことになる。

「こういう美術館にあるレストランもいいけど、もっと美味しいところにしなくちゃ」

「そういうもんですか。俺、値段が高いとそれだけで最高だって感じちゃいますけど」

「美術館を出てちょっと歩いたところに、隠れ家的なイタリアンがあるんだ。ちゃんと予約しといたから、そこで奢ってあげるね?」

「えっ、いや、俺も出しますよ! ていうか、こういうのって俺が奢ると思いますけど」

「キミが男の子だから?」

 トリィは目を細めた。

「でもキミは学生で、私は社会人だよ。こんなときくらいはお姉さんぶらせてほしいね」

 そうして彼女は展示の入り口に向かっていった。

 ――その時期の国立新美術館では、いくつかの企画展と公募展があって、しかし、トリィの目当ては最初から一つだけだ。

 それは美術史家・十文字守人のコレクションから選出されたアウトサイダーアート展だった。

 アウトサイダーアート(もしくはアールブリュットと呼ぶ)とは、広義には、正規の美術教育を受けていない制作者による芸術品全般を指す言葉だ。だが狭義には、それは精神障害者や知的障害者による作品のうち、広く芸術的価値を認められたものを指す言葉である。

 これらの作品は、病院や刑務所のなかで制作されることもあれば、当事者たちの家や独り暮らしの部屋のなかにうず高く積み上げられ、死後発見されることもある。有名なのはヘンリー・ダーガーだ。

 発表と、それに伴う評価を前提としない芸術がある。

 作品は、いわゆる《常識の範疇》の有名美術家とは別の様相を呈していて、ヒデアキはしばらく絶句するしかない。ある統合失調症患者の描いた絵は、全体の構成を顧みることなく偏執的に細部にこだわり、バランスの崩壊した幾何学模様と網の目、同心円でビッシリと画面が埋め尽くされているのが分かる。

「彼には」とトリィは言った。「彼にはこれがリアルだったんだ。だからそれを描いた。作者の意図なんてそんなものさ。――なぜ描いたんですか? だってそれが現実だから」

 ヒデアキはトリィの横顔を見た。彼女はうっとりとした雰囲気ではなく、ただクールに、しかしシンパシーを以て作品に接している。

 アウトサイダーアーティストは、日本では、たとえば出口ナオという新興宗教の教祖が挙げられる。その作品もあった。

 読み書きのできない彼女は、神憑りとして、いくつものカリグラフを自動筆記した。それは娘婿の王仁三郎によって解釈・出版され、彼女の名は新興宗教の開祖として全国的に知れ渡った。

「まさに巫女と山伏だ」とトリィは言った。

「典型的なシャーマニズムってことですか」とヒデアキが訊くと、彼女は首を振った。

「芸術と宗教と狂気の区別は、そんなに明瞭なものじゃないよ。それらは全て、理性のシステムに排除されてきた人間性の根源を志す。理性で解釈可能な芸術はただの娯楽さ」

 娯楽は人間を一時的に慰めることはできても、根源に至らせることはできない。それは芸術の仕事だ。

 そう、トリィは言った。

 ヒデアキは、悟ったように飄々と語る彼女に、自分が惹かれつつあるのを感じた。なんでだろう――俺はこの人の言葉をもっと聞きたい。

「ああ、ん? そっか。そういうことか」

 と呟いてから、トリィはヒデアキに向き直った。

「私はキミに、テトラが再び歌を歌うための山伏になってほしいんだ」

「――はぁ?」

「今は分からなくていいよ。ほら、次の作品を見に行こう?」

 彼女はコートをひるがえして先に進んでいく。ヒデアキも疑問を呑み込み、慌ててついていった。

 そのとき、彼らは――北川亜希子とすれ違った。


  ※※※※


 北川亜希子は藍沢テトラとすれ違った瞬間、脳内に火花が散っていくのを感じた。

 ――思い出した。私の人生が上手くいかないのは、あの女のせいなんだ。なぜ今まで忘れていたのだろう。こんな屈辱、脳ミソから消すことなどできないはずだ。

 亜希子はゆっくりとバッグからナイフを取り出す。

「あの女が、私の男をたぶらかした――そうだ、そうなんだ――やっと思い出した」

 亜希子の手に、連続殺人鬼ハインリヒ・K・キュルテンの骨董ナイフが握られている。いつだったか、そうだ、千駄ヶ谷の駅ですれ違った男に手渡されたこのナイフ。なんで持ち歩いていたんだろうか。いや、いいや。凶器があって助かる。

 だって、あの女をズタズタに切り裂けるから。

《君は思い出すんだ。その日が来たら、ウソの仇敵をその手で討つといい》

 ああ、そうするとも。

 亜希子は来た道を引き返し、少しずつ、藍沢テトラとの距離を詰めていく。憎い。憎い。あの女が憎い。あんな魔性がこの世に生きていることが我慢できない!

「おい」と亜希子は呼びかけた。

 藍沢テトラと、ヒデアキが同時に振り返る。亜希子はナイフを構えた。

「――死ね! クソ女!!」


  ※※※※


 同じく、2月3日(木)12:00

 九条アヲイは――正確には既に名字が変わっていて川原になっているのだが――表参道の書店で、演技術関連の本を漁っていた。

 妹のヱチカが、近々表参道のライブハウスでアマチュアバンドとして演奏する。その下見というか口利きというか、もっと直接的に言えば、ハウスのオーナーに「この子は私の妹だからよろしく頼む(副音声:ナメたマネすんなよ)」というような挨拶のために、ヱチカといっしょにここまで来たのだった。

 そうして、その帰り道、本屋を見つけたアヲイはそこに立ち入り、あまり人気がない演劇関連の本棚の前でずっと立ち読みをしていたわけだ。

「アヲイねーちゃん、もしかして女優でもやるの?」

 そう妹のヱチカが訊いてくる。

「ああ、うん。たぶんだけど」

「すご~」

 ヱチカが笑った。なんだか、昔より少しだけ距離が縮まった感じがする。それはアヲイには嬉しかった。

 ――ちょっと半年前に色々あった。いまアヲイと結婚しているユーヒチは、もともとヱチカが先に好きになった男の子だった。だから、無責任な第三者の目で見たら、アヲイは妹の想い人を奪った酷い姉ということになるかもしれない。アヲイ自身、許してもらえなくても仕方ないと思っていた。

 だが、色々あったけれど結局アヲイとヱチカは姉妹だった。

 そういうものだ。

 アヲイはとにかく本を取ってページをめくる。

 リー・ストラスバーグ『メソードへの道』

 エドワード・D・イースティ『メソード演技』

 ロバート・H・ヘスマン編『リー・ストラスバーグとアクターズ・スタジオの俳優たち』

 アリソン・ホッジ編『二十世紀俳優トレーニング』

 そして『エリア・カザン自伝』

「うーむ」

 しかしアヲイには、どれもピンとこない。なにかを演じるなんて発想がそもそも人生になかった。それに、活字だけ追っていても、あまりリアルを感じられない。

「悩んでるねえ?」とヱチカが微笑んだ。「ぶっつけ本番でやったら案外うまくいくんじゃないかなあ?」

「そんなもんかなあ?」

 アヲイは天井を見上げた。

「ギターを弾いて、歌を歌ってるときは、こんなこと考えもしなかったよ。でも、他人の人生を演じるってどんな感じなんだろう。歌は、自分の感じで歌えばいいから分かるんだけどさ」

「リョウ先輩の歌詞を歌うのは演技じゃないの?」

「うん、少し違う」

 アヲイは本を閉じる。

「リョウの歌詞は、リョウの歌詞だから、しっくりくるんだ。だけど――」

 赤の他人が書いた台本を前にして、今までの感覚でやり過ごせるはずがないと感じていた。アヲイは、自分にこんな仕事をぶつけてきた八木の顔を思い出す。

 ――なんで、いきなり私にやらせるんだろう。

 まあ、考えても仕方ないか。

「ていうか、さあ」とヱチカが言った。「同じ会社に俳優の経験者とかいるなら、その人にヒント訊くのがいちばんじゃないの?」

「ああ~」

「心当たりとかあるでしょ? せっかく大きな会社なんだし。助け合うために会社ってあるんじゃない?」

 ヱチカの言うとおりだった。

 アヲイはちょっと頭をかく。

「んん~、でもな~」とアヲイは顔をしかめた。「あいつを頼るのちょっとイヤなんだよなあ」

「誰それ?」

「まあ、いいか。ヱチカの言うとおり、話だけは聞いてみようかな」

 そうしてアヲイはiPhoneSE2を操作して、マイヤーズミュージック最大の問題児、トワのマンションに電話をかけていた。


 浅草にあるトワのマンションには、今のところハナコしかいなかった。トワ自身は修理に出していたギターを楽器店まで受け取りに行っていたし、彼が囲っている他の女たちは、皆、トワが見つけてやった新しい職場に少しずつ馴染んでいる最中だった。

 だからここにいるのは、皆の女房役のハナコだけだ。

「はい、もしもし」

 家電代わりのタブレットを操作して、ハナコはとりあえず話しかけた。

「ハナコさん?」

 その声はアヲイだった。「トワはいないの?」

「アヲイさん!」

 ハナコは感激する。アヲイはちょっと前、このマンションで過ごしたことがあって、ハナコたちはずっと彼女を気に入っているのだ。

「ああ、うん。トワ様は出かけちゃってるね」

 トワのマンションに囲われている六人の女は、全員、彼のことを様付けで呼ぶ。メガネのミンミ、日焼けのビリー、運転手のタマキ、気だるいニーニャ、包帯姿のアリス、そして料理番のハナコ。

「あー、そうなんだ。じゃ、かけ直すよ」

 そうアヲイは言う。

「あ、要件はちゃんとメモしておくね! 言いつけだもん!」

「ほんと? ありがとう」

 ――そうしてアヲイは、ハナコにこう言った。

「あのさ、他人の人生を演じるにはどうすればいい?」

「えっ?」

「上手く言えないけど、そういう相談なんだ」

 それじゃ、よろしく――と言ってアヲイは電話を切る。


 アヲイは、むう、という顔をして電話を切った。ヱチカは「繋がらなかったの?」と訊く。

「うん、なんか出かけてるらしい」

「まあ、皆それぞれ忙しいよねえ」

「だね」

 アヲイはコートのポケットにスマートフォンをしまって、少し笑った――そのとき。

 バチバチバチバチ――と。

 脳ミソが痙攣する。

「あ、ぐ、ああああああああ――!!」

 抱えていた本がバサバサと床に落ちた。アヲイはただ激痛のなかで両手で頭を抑えるしかない。

「ねーちゃん!?」

 ヱチカがアヲイに近寄って抱きしめる、その感触が、まるで遠い世界の出来事だった。頭の痛み以外は、なにも感じない。無数の稲妻が走るみたいだ。

 脳裏に景色と単語が浮かんだ。

 ――乃木坂駅。国立新美術館。藍沢テトラ。アウトサイダーアート展。連続通り魔殺人事件。ハインリヒ・K・キュルテンの骨董ナイフ。そして六平ゼミに在籍している浜辺ヒデアキの顔。

「ううっ、あっあ」

 なんで同じゼミの男子がそこにいる? そもそも、この景色はなんなんだ?

 アヲイはやっと頭痛から解放されると、同時に、ひとりの少女の声を聞いた。

《アヲイ、たいへんなことになっちゃった》

 その声の主を、アヲイは久しぶりに聞いた気がする。もちろんそばにいるヱチカには聞こえていないだろう。

 ――神薙ナクスという幽霊の声だ。

《このままだと――みんなしんじゃうよ?》

 アヲイは意識を取り戻す。そばにいたヱチカの「ねーちゃん、どうしちゃったの」という心配の声は聞かないフリをして、

「ごめん、用事ができた。本は片付けておいて」

 と言ってその場を猛ダッシュで走り抜けた。表参道から乃木坂まで電車で数分だ。しかし、たぶん、今は一秒も惜しい状況になっている。

 タッタッタッと歩道を大股の秒速で走り抜けていく。

「ナクス! あと何秒で間に合う!? 敵は何人だ!」

 アヲイは怒鳴りながら駅まで向かった。

《うわ――》と幽霊のナクスは言った。《さん、よん、ごお、ろく――どんどんふえていくよ。なに、これ?》

「クソッ!」

 速度を速めた。


  ※※※※


 2月3日(木)12:30

 国立新美術館のアウトサイダーアート展で、北川亜希子が骨董ナイフを構え、藍沢テトラを目がけて突進してくる。浜辺ヒデアキは、とっさにテトラを手のひらで押しのけて、相手の標的が自分ひとりになるようにした。

「ああああ――!!」

 刃渡り20cmの金色の刃。

 刺される場所が場所なら、死ぬ。死。死? ヒデアキの思考回路は走馬灯を呼び起こす直前で高速回転した。

 走馬灯は、命の危険を感じた動物が、生き残るヒントを見つけるために必死で脳内を探索した結果発生するという。本当かは知らない。

 だがこの場合、ヒデアキに大それたヒントは要らなかった。

 ただ、高校まで地元の道場に通い続けた古武術を思い出せばいいだけだ。

 脚の軸を回して、ヒデアキは身をかわす。すると、女のナイフは腕ごと虚空へ伸びていく。その腕を後ろ手でがっつりと掴んだ。

 ここで腰を落としながら腕をひねり上げれば、関節がキマって相手の身体が床に転がるというわけだ。

 ――が。

 女の筋力は異様なまでに強く、ヒデアキは、彼女の腕を押さえつけるところまでで止まってしまう。

 ――なんだ、この力!?

 よほど鍛えていなければ、人間身体の物理的制約を活かした武道の場で、女が男の力に勝てる道理はない。しかし彼女は、ただ強靭な腕力のみで、ヒデアキの攻勢を抑圧していた。

 ヒデアキは女の目を見る。明らかに、瞳の焦点が合っていない。

 ――こいつ、催眠かなんかにかかってるのか!?

「放せよおおおお――!」

 そう女は怒鳴った。

 クソ! どうなってんだ!

 ヒデアキはその脇腹にすかさず蹴りを入れ、彼女が吹き飛ぶと同時に両手を離した。女が展示室の床を転がっていく。

 それでも女は右手のナイフを握り続けている。凶器を奪う策は失敗に終わった。

 ――ヒデアキの頭のなかを、最近の連続通り魔殺人事件の噂が巡っていく。犯人たちは常に、骨董のナイフを使用する。そして犯人たちは《ウソの怨恨》をもとに縁もゆかりもない犠牲者を選んでメッタ刺しにするという噂だった。

 これがそうなのか? ――それでテトラさんが標的になってるのか!?

 プランBだ。

 ヒデアキは急いで、遠くで呆然としていた藍沢テトラの手を握った。

「走って!」

 と叫ぶ。そうして二人で混雑した展示室のなかを駆け抜けていった。相手に敵わないなら、とにかくこの場所から遠く離れる必要がある。

 そんなヒデアキとテトラの背中に、

「待てよ――!!」と声がかかる。「てめえ逃げてんじゃねえぞ――!!」

 ヤツの声だ。軽く振り返ると、ナイフの女が人混みのなかを刃物片手に突進してくる。人が避ける。あるいは肩がぶつかる。そして、

「邪魔だ!」

 という声とともに、女はひとりの老婆を切り裂いた。

「キャアアアアアアアア!!!!」

 悲鳴。血。血。血。

 なんだよこれ。

 ヒデアキはテトラの手をさらに強く握って、歩調を強めた。テトラは返事をしない。角を曲がると、ちょうど陰になって隠れられる場所だ。

 警備員が慌ただしい様子で女に近づいた。

 ――やっと取り押さえてくれるのか?

 と思ったが、その警備員の背中を、別の男が骨董ナイフで突き刺した。

 ――二人目!?

 

 女がナイフをかざして歩く姿を見て、三割の人間は逃げまどい、六割の人間は、どうせなにかのパフォーマンスかサプライズだろうと油断していた。

 そして、ごくわずかなその他の者は、女と同様、バッグや服のポケットからハインリヒ・K・キュルテンの骨董ナイフをゆっくり取り出していた。その人数、六人。

「そうだよ――!」

「ぜんぶ、あいつのせいだ――!」

「あのクソ女が――なにもかも悪いんだ――!」

 トリガーはオンになった。

 彼らは全員、たったひとりの憎い犠牲者を目がけて行動を開始する。誰も彼もが、ありもしないウソの記憶を植えつけられて前後不覚だ。

 要は、それが黒幕の能力ってわけだった。


 柱の陰になった場所へ隠れながら、ヒデアキはテトラの状況を確認する。いや、今はトリィか?

「トリィさん? 大丈夫ですか? ここを離れます。駅直通のエスカレータまで10メートル。歩けますか」

 そう呼びかける。だが、

「むり、むりだよ、やだああああ――」

 と、

 悲鳴にもならない声がした。

 ヒデアキは咄嗟に判断する。これはトリィさんの人格じゃない。

 まさか、このタイミングでジーイさんになったのか!?

 ジーイさんはトリィさんと違って、すぐ情緒不安定のパニック症状になる。もし彼女が暴れて声を出したら、襲撃犯に居場所を知らせるようなものだった。

 ――どうする? どうする!?

 ヒデアキは歯をくいしばった。

 俺がなんとかしなくちゃいけないんだ!

 ジーイは「はぁーっ、はぁーっ」と、か細いが、明らかに過呼吸の様相を呈していた。それはそうだ。謂れもない怨恨で襲われる。それこそ、藍沢テトラという個人にとっていちばんのトラウマだ。いま、まさにそれが甦ってきてるんだ。

 ヒデアキはジーイの後頭部を手で押さえ、無作法を承知の上で、彼女の顔を自分のダッフルコートにうずめる。息をしすぎて彼女が倒れたら、俺じゃあもうどうにもならない。

「ジーイさん、大丈夫ですよ。大丈夫」

「――助けて、ヒデアキくん、ヒデアキくん、ねえ、あたしのこと助けてよお」

「大丈夫――」

 そう言いながら、なにが大丈夫なんだよ、とヒデアキは思った。俺がテトラさんになにを保証できるんだよ。なにができるんだ。

 それでも、混乱に乗じて二人は少しずつ出口に向かって歩を進めていく。悲鳴が聞こえ、吹き抜けのフロアにいた警備員も駆り出されていった。まだアナウンスの類は流れない。

 そして、ようやく駅直通のエスカレータが見えてきたというところで、

「おい!! コラァ!!」

 と後ろから声がかかった。

 返り血にまみれた北川亜希子がそこに立っていた。

 ――追いつかれた。

 ヒデアキはテトラの体を押す。

「逃げてください。俺が壁になりますから」

「あぁ!?」

 女が睨んでくる。

「なんでそんなクソ女庇ってんだよぉ? ああぁ? クソガキがコラァ!」

 ヒデアキはその問いかけを無視した。こいつはただの人形みたいなもんだ。相手をする価値などないだろう。

「テトラさん、逃げて――」

「ひ、ヒデアキくんはどうするのお?」

 ジーイはワナワナと震えたまま、そこに立っている。

「逃げろ! 早く!」

 ヒデアキが怒鳴ると、ジーイがよたよたとエスカレータに駆けていく。そして北川亜希子がナイフを改めて握りしめ、そちらのほうに駆けていった。

 ヒデアキが間に入る。

 ――やらせるか! テトラさんを傷つけさせるか!

 彼女がナイフを振り下ろす、その腕をさっと小手でかわし、みぞおちに拳を入れた。

「がふっ」

 ヒデアキはその勢いのまま女を押し倒すが、女はそれをさらに強い力で押し返し、今度はヒデアキが仰向けの姿勢になる。

「邪魔すんなあ!! ガキが!!」

 そうして、女はナイフをヒデアキの左肩に深く突き刺した。すぐにコートに血がにじんでいく。

「うああああああああ!!」

 激痛。激痛がする。が、ヒデアキは無理やり平静を取り戻す。

 痛みは体にはない。痛みは脳が感じているだけだ。それはフィクションと同じ、ファンタジーでしかない。それに惑わされない意志があれば人は普段どおり動く。

 古武術の師範の教えだ。

「ぐううう――!」

 ヒデアキは女の腕を今度こそ掴む。

 ばたばたばたと血が溢れていく。それでいい。お前は俺の体をここでずっと刺してりゃいいんだ。テトラさんの体じゃなくて!

「クソッ」と女の顔に焦りが浮かぶ。「抜かせろ、おいコラ。引っこ抜かせろ!」

「ははは」とヒデアキは笑った。「テトラさんがここから出るまでは、絶対に離さねえぞ――!」

 女がナイフを握った拳を左右に動かす。刃がぐりぐりと振動してさらに人肉を突き進んでいく。今のヒデアキの視界からは分からないが、いま、床はまるで薔薇のプールみたいに真っ赤だ。

「う、ぐ、ああああ!!」

「離せ! 離せオラァ!」

 あと一分、いや二分か? そうすればテトラさんが電車に乗る。

 そうすれば俺の勝ちだ――!

 と、

 彼が思ったそのとき、一本の骨董ナイフが女の前に滑り込んできた。

「は?」

 ヒデアキがそちらを見ると、女と同じく洗脳状態にあるらしい男が、彼女のために追加の凶器を与えにきたらしい。

「苦戦してんじゃねえよ。それで首を切れ。そしたら次に殺るのはあのクソ女だ」

 ――なんだよ、それ。

 こいつら、連携も取るのか!? 反則だろ!!

 ヒデアキの表情に、ずっと胸にしまっていた絶望がやっと浮かぶ。それを目にして、女はサディスティックに笑いながらもう片方の手で新しいナイフを握った。

「――これで終わりだ。お前の力はあたしの右腕を抑えるのが限度みたいだし? 耳の下の頸動脈を、すーっと切開してラクにしてやるよお。ん?」

 女は声を上げて笑った。

「お前さ、お前さあ! あんなゴミ女に、なに拘ってんのお? あんな価値ナシ女、いてもいなくても同じじゃんよ! おい!! おまえのカッコつけイキりムーブなあ――丸ごとぜぇんぶ無駄なんだよぉ!!」

「くそっ! くそっ!」

 ヒデアキは悪態をつきながら、だが、もう自分の体に力が入らないのを感じた。貧血の症状。きっと、血を流しすぎたんだ。

「畜生――! 畜生――!」

 涙が目に浮かぶのをこらえながら、ヒデアキはうめく。それを女は哀れむように微笑んだ。

「じゃあな。ビョーキ野郎」

 そして、ナイフが振り下ろされる――直前だった。

 

「いいや、無駄じゃないぜ。だって、私が間に合ったんだから」

 

 そんな声が聞こえた。

「――ああ?」

 女がそちらを振り向くか振り向かないか、そんなタイミングで、ひゅっ、と風が吹く。

 次の瞬間、女の体は蹴とばされて木張りの壁に打ちつけられていた。

 ――え?

 朦朧とした意識で、ヒデアキは声の主を見た。視界がぼやけていく。

 カーキ色のジャンパーコート。だぼだぼのセーター。ジーンズに、ミリタリーブーツ。そして、男の子のように短く切った黒髪と、トレードマークの野球帽。

「なんだ、てめえ?」

 先ほどナイフを渡した二人目の男が構える。

 彼女は、九条アヲイだった。

 なんでここにいるんだ? そう彼が思うのも構わずに、

「ヒデアキ、よく独りで頑張ったじゃん」

 そう彼女は言った。

「終わったらダチになろうぜ。尊敬した」

 そうしてアヲイは、すっと腰を落とした。

「雑魚があと六人。まあ、この調子なら楽勝だな。――トワのほうがずっと強かったぜ」


  ※※※※


 2月3日(木)12:45

 浜辺ヒデアキは朦朧とした視界で、九条アヲイはジャンパーコートをゆっくり脱いでいた。向かい側には、二人目の男が立っている。

 そして展示室の出口からは、少しずつパニックになり始めた観衆が駆けだしてくる。それに乗じて、男は素手のままアヲイを狙った。

 ――あと六人? とヒデアキは思った。たしかにアヲイはそう言った。だけど、変じゃないか。なんで残りの襲撃犯の人数をアヲイが知ってるんだよ。

「ナクスはヒデアキを助けて」とアヲイは言った。「私は残りの連中を片づけるから」

 その言葉の意味も、もう彼にはよく分からない。

 ナクスって、誰だ?

「『片づける』?」と男が忌々しげに呟いた。「お前になにができるんだ」

 その表情筋のムカつき具合は、もともとの彼の顔立ちとはあまりに不釣り合いだった。たぶん、催眠だか洗脳だかをかけられたせいで、本来の性格とは別の話しかたになっているということだろう。

 アヲイは身長164、対して、男の身長は低く見積もって170後半。

 アヲイとの体格差は歴然だ。

「――らぁッ!!」

 男が拳を繰り出そうとする、そのコンマ秒前に、アヲイはバックステップからの急旋回でキュキュキュッ――と後ろに回り込んだ。

「あぁ!?」

 男が振り向くか振り向かないかのタイミングで、

 ――バサッ。

 と、カーキ色のジャンパーコートが投げかけられる。

 男の視界が埋まった。

 瞬間、その動きが止まる。もちろん、それは1秒にも満たない時間ではある。

 が、

 その隙にアヲイは飛翔し、男の顔面に突き蹴りを食らわせていた。ミリタリーブーツの厚い靴底が男の鼻筋をへし折って、勢いそのまま、美術館廊下の向こう側へと吹き飛ばす。

 後頭部が木壁に衝突。

 動かなくなった。

 アヲイは着地姿勢からゆっくりと起き上がった。その場に落ちたジャンパーコートをもういちど羽織る。

 ヒデアキは、その一部始終を見ていた。

 ――なんだ、その動き。

 アヲイの体術はたぶん、我流によるものだ。ああいう動きを指導する派閥は聞いたことがない。しかし、奇妙に強い。

 それはフィジカルの逞しさによるものではない。見る人が見れば「マグレな攻撃が偶然当たった」という風にしか映らないだろう。

 だが、そうではい。

 ヒデアキははっきりと視認していた。アヲイは、相手が攻撃の予備動作に入る前に、まるでそれを《どこかで見てきたかのように》予知して先回っている。

 筋力のスピードや、動体視力のセンス等では説明できない。「先にそう動くと分かっていれば対応できる」という風なやりかたで、アヲイは敵を無力化していた。

 ――アヲイは何者なんだ? とヒデアキは思った。

 パニックの観衆が増えていく。なかには子供連れの母親もいて、悲鳴を上げながら駆けてきた。

「たっ、助けて――助けてえ! 人殺しがあ!!」

 背の低い母親がそんな風に泣き叫びながら、十歳にもならない子供の手を引いて、その他の観衆といっしょに駆け寄ってくる。

 そして。

 立ちっぱなしのアヲイを射程圏内に捉えた瞬間、その親子二人がコートとバッグから各々にナイフを取り出そうとした。

 ――不意打ちだ! 他のただの被害者に紛れて、彼女だけ刺すつもりだ!

 が。

 アヲイはやはり、その親子が凶器を持とうと腕を動かす前に動き出して、その手首をガッと掴んでいた。

 二人ともその激痛で動きを止めるしかなかった。

「あぁっ!?」「なっああ!」

 刃物がガラスカーテンウォールからの日差しに当たってキラキラと輝くか輝かないかのタイミングで、アヲイは不意に両手を離して引っ込めると、親子がよろめく動きを活かして即座に二人の顎へ掌底。

 そのまま倒立して両足を回転させると、ダメ押しにこめかみを蹴り飛ばして脳震盪を発生させた。

 撃沈。もう三人目と四人目だ。

「ほっ」

 と声を出してアヲイは起き上がる。その表情はヒデアキからは見えない角度にある。見えない角度にあるはずなのに――、

 分かった。アヲイが、犬歯を剥き出しにして、ニヤッと笑うのが。

「つまんねえ仕掛けしてんじゃねえよ――」

 人形越しにしか行動できない浄瑠璃野郎。

 そう、彼女は囁いた。

 そして、三人目と四人目の手から骨董ナイフを奪う。観衆はとうとう、この刃傷沙汰がシャレでもなんでもないということが分かり、完全なパニック、お互いに押し合うように廊下を駆けていた。

 アヲイはヒュンヒュンヒュンと両手でナイフを回す。まるで映画『Ⅴフォーヴェンデッタ』のクライマックスだ。

 彼女の目が、駆けていく人々を眺める。彼らの目つきの違和感を探っているかのようだ。そうして、

「そこだ――15のダブル」

 ダーツの要領。

 廊下の人混みが、一瞬だけ廊下の向かいの対角線上まで直線ルートで空いた、そのタイミングで、アヲイはナイフを投げる。ひとりの学生風の青年の肩に刺さる。そして同じ要領でもう一投。今度は美術学生風の少女の二の腕に直撃した。

「ああああ――っ!? いっああ――っ!!」

 うめきながらうずくまる青年の顔面を下段回し蹴りで吹き飛ばし、同じことを、今度は少女にやった。

 ――二人のポケットからは新しい骨董ナイフが転がり落ちた。要するにこれで五人目と六人目の処理も終わりだった。

 そこで、警備員が廊下の騒ぎのなかに、ひどい暴力行為を見つけて走ってくる。

 つまり、アヲイの暴走を認識した。

「キミ! なにやってるの!」

 そんな叫びとともに、数人の警備員が駆けてくる。ヒデアキは顔面蒼白で上体を起こした。

 なんてこった、アヲイが捕まる!? 俺たちを助けてくれたのに!? 俺のせいで!

 そのとき、

《だいじょうぶだよ》

 という少女の声が聞こえた。

 ――はぁ? 誰だ?

 アヲイは警備員三名の、左の男を睨んだ。

「すげえ。そこにも潜ませてたのか」

 彼女はタッタッタッタッと自分から警備員たちのほうへ近づいていき、辿り着く直前で、まるで野球走者のスライディングのようにその場で滑り込んだ。

 やっぱり、後ろへと回り込む。

 警備員の左の男――そいつが最後の七人目だ、ナイフを握っている――が振り返り、床に目を落とす、

 瞬間、アヲイは飛び上がった。

 人間の眼球は上下運動に対して咄嗟の反応ができない。

 アヲイは、七人目の身長と同じ高さにまで飛んだあと、男の喉仏にとどめのケリを食らわせていた。


「――ゲームセットだ! カス野郎!!」


  ※※※※


 2月3日(木)13:00

 藍沢テトラは――というか、ジーイは駅直通の歩道を駆け抜けて、乃木坂駅まで辿り着いた。チャージ済みのICカードで改札を抜け、ちょうどよくホームに来た千代田線に乗り込む。

「はあっ、はあっ、はあっ――」

 胸の動悸がうるさい。息切れがしてめまいもする。

 電車が動き出すなかで、車両にいた乗客たちは、冷や汗まみれで呼吸を乱したままのジーイを迷惑そうに見つめていた。

「おい、こいつヤバくねえ――?」という声がする。軽い舌打ちの音さえした。

 電車んなかで急病人が出たらまた遅延するじゃん、こいつ、大丈夫なの? というような視線の集まりだ。

 ジーイは、暖房が効いているはずの車両で、本能から来るのであろう体の震えが止まらない。

 ――ナイフを持った襲撃犯に、あたし、殺されそうになった! また、また襲われたんだ! また逆恨みされたんだ!

 そんなトラウマレベルの恐慌状態で、彼女のマトモな思考回路が働くわけもない。ただ怖い。

 そして、ハッとする。

 ――ヒデアキくんは。

 ヒデアキくんは、あたしを庇ってあそこに留まって、それからどうなったの。もしかして、酷い目に遭ってるんじゃないの。あ、あたしのせいで。

 思わず両手で頭を押さえる。もう誰の役にも立てないくせに、あたし、大切なひとに迷惑ばっかりかけてるんだ――!

《なに、大切な人って?》

 と声がした。もちろん、現実の声ではない。ジーイは、ときどきそういう風に、自分自身のだらしない自罰感情を幻聴みたいな形にして聞くことがあった。

《いい年こいて、なに言ってんのテトラ。相手、大学生じゃん! 自分がどれだけ無駄に歳食ってんのか考えたことある!?》

「いやああああ――! もう誰も酷いこと言わないでよお――!!」

 幼いジーイは叫びながらうずくまった。いよいよ同じ車両の乗客は彼女から距離を置く。ふと、そのなかのたった一人だけ、親切なビジネスマン風の中年男性が彼女へと近寄る。

「だ、大丈夫ですか? えっと、次の駅で降りられますか?」

 そうして彼は、純粋な善意でジーイの肩に手を置く。

 が。

 それに対して、パニック状態のジーイは最悪の反応しか返すことができなかった。

「やああああああああ!」

 悲鳴。叫び声。中年男性は思わず手を引く。そして、電車が止まった。赤坂駅。彼女は四つんばいに降りて、ホームに転がるように出た。

 ジーイの正面に立っていた、トレンチコートの男が不愉快げに別の昇降口に歩いていった。

 彼女はただ、床にボタボタと汗を落としながら、乱れた呼吸を落ち着けようとする。

 ――ああ。

 ジーイは、そして、テトラは思う。

 あたしまた逃げ出しちゃったんだ。

 都合の悪いことからみっともなく逃げたんだ。

「で、でも――ヒデアキくんが逃げろって――」

 そう呟くと同時に、

《最低じゃん》と幻聴がする。《自分の逃げ癖、出会ったばかりの男の子のせいにするんだあ。年下の。自分が弱い――弱いせいで十年以上も逃げてきたくせに。今回もヒデアキくんのせいで逃げましたあ、全部ヒデアキくんのせいですう、ってねえ》

「うううう――! 言わないで――!」

 ジーイの意識が遠のきそうになる。


「おい、なにやってんだよ、お前」

 そんな女の声が現実のほうで聞こえた。

 ジーイの胸倉をほとんど強引に掴むように、その女は、ジーイを無理やり立ち上がらせた。

「ひい」というジーイの声をその女は無視して、ただ、じっと睨みつける。

 インナーだけ染めた長髪。ゴス風の黒いコートジャケット。金具がガチャガチャ鳴るような威圧的なロングブーツ。

 プログレッシブロックバンド「西園学派」のボーカルギター兼作詞作曲担当のワンマンリーダー、西園カハルだった。

「――あ? 藍沢テトラ先輩ですか?」

「や、やめて――」

「はぁん?」とカハルは眉をしかめる。「多重人格って噂はマジなんですね?」

 彼女の背後にはリンドウ、タクヤ、そしてミキヒコというメンバーが揃っている。おおかたカハルの独断で付き合わされているのだろう。

 ――が、今の本題はそこではない。

「おいテトラ先輩、どこから来た?」

「えっ、えっ――?」

「どこの駅でどんなトラブルが起きて、そんな大慌てで逃げてきた。答えろ」

「の、乃木坂――! 国立新美術館で――!」

「――分かりました。ありがとうございます」

 カハルはジーイを、というか、テトラの体を解放した。

「おい、タクヤとミキヒコは解散。リンドウは付いてこい。――なんかヤベえことが起きてる」

「ああ」

 こうして、西園カハルも国立新美術館に向かう。


  ※※※※


 2月3日(木)13:15

 九条アヲイは七人の襲撃犯をブッ飛ばしたあと、警備員を撒いて美術館をあとにした。通報を受けた警官が到着する頃には、その姿は完全に消えていた。

 襲撃犯たちはそれぞれ怪我をしたが、大きな後遺症になるようなものはない。どうせ彼らは操られていただけなのだ。

 ――しかし、こんな行動をしてアヲイは無事で済むのだろうか?

 そんな杞憂を取り除くために、この《僕》としては時系列を前後して、ちょっと先回りして語っておこうと思う。

 まず、美術館にいた襲撃犯や警備員や観衆の全員が、九条アヲイの顔をまともに覚えていなかった。ひとり残らず全員が、である。

 犯人たちいわく「誰かに蹴り飛ばされて気絶したが、誰に蹴り飛ばされたのか覚えていない」

 観衆たちいわく「身体を張って犯人を止めている勇敢な人間がいたことだけは覚えているが、その顔はボヤけてて思い出せない」

 警備たちいわく「間近で見たはずなのに、少年なのか少女なのかさえ定かでない」

 いやあ、不思議なこともあるものだ。あっはっは。

 じゃあ、美術館そなえつけの監視カメラはどうだったのかというと――こちらのほうはもっと奇妙なことが起きていた。

 アヲイが美術館を訪れてから去るまでの間だけ、完全に壊れていた。

 記録された映像は完全にブラックアウト。音声はノイズまみれ。

 担当刑事の黒井サワコと青山シンジも、首を傾げながら映像データを押収した。

 ――ちょっとしたエピソードがある。刑事の黒井が署内で映像データをぼーっと流しながら、ふと、あることに気づいた。ただの雑音であるかに聴こえたノイズに、ちょっとだけギターロックの曲が混じっているという。

 ――なに?

 黒井はヘッドホンを耳に当てながら、映像データのボリュームを少しずつ上げた。そして気づく。

 そのひどく自由奔放なギターは、Jimi HendrixのVoodoo Childって曲を弾いていた。

 ――もちろん、それに気づいたのは黒井だけで、こんなことは与太話として捜査ファイルにも残ってはいない。

 いずれにせよ、九条アヲイが美術館で大暴れして浜辺ヒデアキを助け、結果として藍沢テトラや多くの人間を助けたことは誰も知らない。

 相変わらず彼女は世間では「利己的で自己中心的な問題児」であり続けるだろう。そういうことだ。


《もったいないね》

 そんなアヲイに、幽霊のナクスが語りかけた。

「なにが?」

 アヲイは美術館を出て六本木駅へと走りながら、幽霊のナクスに訊き返した。すると、

《だって、いいことしたのに。かくしちゃったもん》

「ははは、それは別にどうでもいいよ」

 アヲイは少し笑った。

「それより変に騒ぎになって、ユーヒチに心配かけちゃうほうがヤだよ、私」

《ふふふ》

 こうしてアヲイは時間をかけて六本木駅に辿り着き、そして、先回りしていた西園カハルに会った。

 ――カハルのほうは、乃木坂駅からの直通通路はどうせ封鎖されているだろうと踏んで、遠回りした最寄り駅を選んで降りたわけだ。その背後にはリンドウがいる。

「おー、カハルじゃん」とアヲイが言うと、

「よう、好敵手」とカハルも言った。

 二人はそのままその場に立ち尽くす。

「なんでここにいるんだ?」とカハルが訊くと、

「それはお互い様じゃん?」とアヲイが答えた。

 カハルはiPhone12 Max Proを取り出し、タイムラインを確認して「国立新美術館で刃傷沙汰だ。お前も関係あるのか?」と訊いた。

「え、なにそれ。なにかあったの?」

 とアヲイは返事をする。

 沈黙。

 カハルは「大した役者だな。まあいい」と吐き捨て、もう用済みだとばかりに歩き出した。

「リンドウ、行くぞ」

「分かってる」

 こうして二人は美術館に向かっていき、アヲイは逆に駅のほうへ歩を進めていった。

 こうしてアヲイが今日この場にいたことを知っているのは、西園学派の主要メンバーの二人だけだった。カハルは口を割らない。リンドウはそれに従うだけだ。要するに、アヲイの今回の行動は誰も知らないわけだ。

 ――それは、浜辺ヒデアキも例外ではなかった。彼は数日経って病院で目を覚ましたとき、誰かに助けてもらったことは覚えているが――覚えているが、誰に助けてもらえたのかは、ポッカリと思い出せなかった。


 そうして、彼はひどい神経損傷のせいで、左腕を二度と肩から上へと動かすことができなくなっていたが、命に別状はなかった。

 医者から後遺症について説明を受けながら、彼は、

「そんなことより、テトラさんは無事だったのか?」

 と、そのことばかり気にしていた。

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