第2話 INSERT
※※※※
2月2日(水)10:30
藍沢テトラは落ち着いたあと、浜辺ヒデアキの買ってきた朝食をもそもそと口に入れていた。
彼女の食事の好みが分からないから、とりあえずおにぎりやパンの種類を揃える形で買うだけ買ってきたヒデアキではあったが、テトラといえば、そのなかから甘ったるい菓子パンばかり選んでいた。
「おいひい」
とテトラは言って、チョコレートデニッシュを飲み込みながら、不意にヒデアキを見た。
ヒデアキは、彼女が食べ物をちゃんとよく噛んで、きちんと飲み込むのを見て胸をなで下ろしていた。
「そ、――そんなに見られると、食べづらいよ?」
と彼女は言った。
「ああっ、すみません!」とヒデアキは視線をそらす。
テトラは首をかしげながら、今度はもっと甘いクリームホイップサンドの袋を開けていく。
ヒデアキは和風シーチキンマヨネーズのおにぎりを頬張って、
「これからどうするんですか?」
と訊いてみた。だって、いつまでもここに置くわけにいかない。
「ひとりで家に帰れます?」
「むり」
テトラは即答した。そうして、いそいそとホイップサンドを口に入れてから、――急いで食べているそのほっぺたが、まるでリスのように膨れていた――ごくんと飲み込む。
「外、ひとりで歩けないもん」
とテトラは言って、両膝を抱える。
「どうして?」
ヒデアキの質問に、テトラは自分の顔を膝のなかに埋めた。
「この世界に悪いことばっかり起きるから。みんな悪い人しかいないから」
そうやって、彼女は目をつぶった。
ヒデアキはおにぎりを食べ終えて、「でも」と言葉を繋いだ。
「俺は悪い人ですか? なんか悪いことしそうに見えます?」
テトラはゆっくり顔を上げる。
ヒデアキの、
「ああ、俺、ヒデアキって言うんですけど――まあそれも忘れてますよね?」
という自己紹介を聞いてから、彼女は彼の目をじっと見つめた。
「ヒデアキくんは、悪い人じゃないかもって思う」
「よかった!」
彼は喜び、
「じゃあ、俺のことは信じてください」
と言った。
藍沢テトラの住居は阿佐ヶ谷の新築マンションだ。エントランスを抜けて中庭に入ると、コンクリートの質感そのままな外壁と、ガラス張りの手すりで演出された外廊下。色をつけるように、常緑樹が植えられている。建築家はこれがモダンなデザインだとでも思っているのだろう。苦学生のヒデアキには、なんとなく鼻につく建物だった(これは一般論だが、建築家なんてものはだいたいが鼻につく連中なのだ)。
テトラはここに辿り着くまで、ずっとヒデアキの腰に腕を回して、しがみつくように歩いてきた。ときどき向こうから人が歩いてくると、ひっ、と息をひそめて彼の陰に隠れる。そんな彼女を見ると、なにか、彼のなかに切迫した気持ちが湧いてくる。
不思議だった。昨日の夜はずっと彼女に振り回されていたはずなのに、今は、彼女を放っておけない、彼女のそばにいなくちゃいけない、という、自惚れに似た衝動が彼の胸中を満たす。
そんな気持ちもヒデアキの人生では初めてだった。
――俺はなんなんだ?
テトラを家に送ってやるという約束をしたまではよかったが、やっぱり彼女の住処を見ると、ああ、生きる世界が違うなと思う。世間に忘れられていても、やはり有名人で、芸能人で、そして天才ではあるのだ。
途方に暮れていると、不意にテトラが彼の手を握った。
「ヒデアキくん、ありがとね?」
「え」
「お茶だすから、おうち来てよ」
とテトラは笑った――その表情はやはり、まるで、十四歳の少女のように幼かった。
※※※※
同じく、2月2日(水)10:30
柿ノ木キョウカの実家は東京都の日野にあって、彼女はそこから大学に通っている。彼女はいつもそこで目を覚ますと、丁寧に顔を洗って居間に向かった。
リビングには朴セツナというシンガーソングライターのポスターが貼られていた。両親がファンなのだ。
といっても、両親は現代の大衆音楽に興味津々というわけではない。理由は単純だった。
柿ノ木キョウカと、朴セツナは、中学までずっと隣同士の家に住んでいて、学校だっていっしょだった幼馴染なのだ。
母親がキョウカへと向き直った。「キョウカ! さっきセツナちゃんが実家に帰ってきてたよ!」
「――え? セツナが?」
とキョウカは言った。
着替えて外に出ると、隣の家の前にレクサスが停まっていた。運転手らしき男性が――彼の名前は本並と言うらしい――道路に立って両腕を組んでいる。
契約更新かなにかで、セツナは必要なものを取りにきたのだろう。あわあわとした様子で家から出てきた。
すると家のほうから、背の高い少年――これはセツナの実弟だ――が現れて、なにかセツナと談笑していた。実の家族にしか向けない油断しきった表情を久しぶりにセツナがしている。
それは、テレビでもネットでも見れない彼女の顔だ。
「セツナ――!」
キョウカは思わず玄関から飛び出て、セツナを見た。
朴セツナは驚いた表情でこちらを見た。
「――キョウカ?」
「セツナ、久しぶり。――帰ってきたんだね」
キョウカが近づくと、セツナは縮こまって手をもじもじとさせる。本当にもう昔から変わらないなあ、今じゃ有名人になったくせに。
キョウカは彼女の弟に頭を下げながら、ゆっくり近づく。
――キョウカとセツナは、いつもいっしょだった。セツナはよく学校でいじめられていたし、両親からも出来が悪いと冷遇されていた。そういう悪役から、彼女を守ってあげた。
勉強のできないセツナのかわりに、夏休みの宿題もぜんぶ写してあげた。セツナにちょっかいをかける男は全員撃退してやった。
思えば、とくに両親の夫婦仲が悪くない彼女がフェミニズムに傾倒したのも、セツナを守っていることの延長上なのかもしれない。
学問の分野を選ぶことに理由は必要ないが、きっかけはどんな物事にも埋まっている。現代の性差と恋愛を当たり前と思えなくなったのは、きっと、それをダシにして悪用してセツナに近づく下卑た連中のせいだった。
で。
雲行きが怪しくなったのは、高校に入ってからだ。二人は成績が違いすぎて、別々の高校に入った。キョウカが進学したのはW大系属実業学校で、セツナが進学したのは、マトモに授業が行われているかどうかさえ怪しい底辺校だった。
久しぶりに会ったとき、セツナの精神状態は明らかに悪化していた。クラスのボス猿女のパシリをしながら保護下に置かれて連れ回されている彼女は、その治安の悪い価値観にどっぷり影響を受けていた。
「キョウカ、あたし、一生処女なのかな?」
「はあ?」
「あたしバカだし、全部トロいし、あたしを好きになる男とかないじゃん。あ、あたしっ、20になっても処女のままなのかなあ。それ怖くって、耐えらんない――」
「なに言ってんのセツナ!?」
キョウカには、セツナがなにに悩んでいるか理解できなくなっていた。
「そんな風に考えてたら、カラダ目当ての男に利用されるだけだよ! なんで分かんないの! そういう奴らいっぱいいたけど私が守ってあげたんじゃん!」
「キョウカにあたしの気持ちなんか分かんないよ!」
彼女は怒鳴った。
セツナがキョウカに怒鳴ったのは、このときが初めてだった。キョウカは打ちのめされていた。自分が大切に守っていたつもりのセツナが、結局、自分とは違う他人なのだという事実に。
「キョウカはいいじゃん! 勉強できてスポーツできて顔も美人でさあ! そうやって男を選り好みしてりゃいいよ! でも、あたしになにがあるの!? なんにもないあたしにはっ、なんにもないじゃん!! 無能じゃん!!」
「――――」
「頭いいくせに、バカの気持ちを分かった気になるなよ! コラァ!!」
そしてセツナとキョウカは、気まずくなって、以降あまり会ったりしていなかった。
話によると、セツナはクラスのどうでもいい男子とセックスをして、処女卒業、直後に教師に見つかって不純異性交遊による停学を食らい、しかも停学中にフラれて教室で暴れて、自主退学を勧告されたとのことだった。
キョウカはなるべくセツナのことを忘れようとした。そして高校を出てW大学に内部進学する頃には、本当に彼女のことを忘却しかけていた。
私の価値観は、セツナにとってはもうただの迷惑でしかない。
セツナが今どこでなにをしていても、私にしてあげられることはもうないんだ。
――私にはなにもできないんだから。
そんな朴セツナの存在がキョウカの視界に再び入ったのは、とあるレコードショップでのこと、そして、新進ロックアーティストの祭典『ザ・ウォール』の動画配信でのことだった。
朴セツナは、いつのまにか、立派なシンガーソングライターになっていた。喉を壊すような破滅的な歌いかたで彼女は叫び、ステージを揺らしていた。
インディーズ1stミニアルバムのタイトルは『夏休みの宿題はいつも、頭のいいあの子に写してもらってた』だった。
――それ、私じゃん。
セツナの宿題を写してあげてたの、私だったじゃん、いつだって。
気づくと、キョウカはその場にうずくまって、大声で泣いていた。
そんなセツナと、久しぶりに顔を合わせて、キョウカはなにを言えばいいのか分からない。
「ごめんね」だろうか。
「もう気にしてないよ」だろうか。
「てめー、勝手に私のこと曲のネタにしやがったな。料金よこせ!」だろうか。そうやって笑えば、昔のように友だちに戻れるのかな。
分からない。
セツナは、真っ白な長い髪と、蛍光色のモコモコのコート、そして、太ももやふくらはぎのところにまでいっぱいファスナーがついているズボンを履いて、まるで遠い世界のミュージシャンみたいに立っている。
――まるで、じゃなくて、本当に遠いんだ。
「キョウカ、久しぶり」
とセツナは言う。
ああ、セツナを守っていたはずだったのに、本当はとっくにあなたが大人になっていて、そうして、私が取り残されているんだ。
「――セツナ、相変わらずヘンなカッコしてる」
とキョウカは苦笑した。
笑って誤魔化すことでしか涙の隠しかたを知らないのが柿ノ木キョウカというちっぽけな小娘なのだ。
「き、キョウカに会えるの久しぶりじゃん」
「そう? うん、そうだね」
「大学でさ、なに勉強してんの? キョウカは頭よかったもん、あたしには分かんないことやってるよ」
そうやってセツナが笑顔を返すと、キョウカの胸はズキズキと痛んだ。
分からないのは私のほうだよ、セツナ。セツナがなにを考えているのか、セツナにとってなにが大切なものなのか、なんにも分かっていないんだ、私。ごめんね。
キョウカが黙って彼女を見つめていると、レクサスの隣にいた本並が「セツナ、そろそろ行こう」と優しげに呼びかけた。
キョウカはその男を睨もうとして、でも、睨みつける資格なんかないと知って、なにもできない。
そうしてセツナは車に乗り込む。
年度末にある全国規模アーティストにとっての大会、
THE DEAD(Developed Entertainment & Art Determination=発展した娯楽と芸術の裁定)の準備がもうすぐ始まろうとしていたからだ。
※※※※
火蓋はとっくに切り落とされているのに、君は剣を抜かない。合図のピストルはとっくに鳴っているのに、君はスタートラインから走り出そうとしない。そうやって全員に追い抜かれていく。
そういえば、昔、そんな曲があった。Pink Floydの『Time』という曲だ。
Tired of lying in the sunshine, staying home to watch the rain
You are young and life is long and there is time to kill today
And then one day you find ten years have got behind you
No one told you when to run, you missed the starting gun
《日差しのなかで横たわることに飽いて、雨を見つめながら家に引き籠っている。
君はとても若くて、寿命も長い、だから、今日を無駄にすることもできる。
そうしてある日気づくんだ。十年もの年月が過ぎ去っていたことに。
誰も教えてくれなかったし、君は、走り出すべき合図のピストルを聞き逃したんだ》
いや、君の話をしているわけじゃないよ。《僕》はただ藍沢テトラの話をしただけだ。
※※※※
2月2日(水)12:00
藍沢テトラの住む新築マンションに招かれた浜辺ヒデアキは、その広さと、そして、内装のちぐはぐさに驚いていた。
まるで三人か四人の人間が、互いに境界もなにも決めないままルームシェアをしているかのように、場所ごとに趣味も意匠も異なっていた。
壁なしに繋がっているリビングとダイニングは、たとえば、東を向けばあたりに乱雑に洋服が脱ぎ散らかしてあって、足の踏み場もない。西を見ると、ギターやベースといった楽器が内壁に架けられていて、デスクの横には胸の大きいグラビアアイドル(たぶん)のポスターが大きく貼りつけられている。
そうして南のほうには、大量の書物。テーブルの上には赤の入ったエッセイらしき原稿。それから、同業者のものであろうCDが積み重なっている。そうして北は、ダイニングと繋がっていてなにもない。台所は綺麗だ。それは毎日掃除しているというよりも、まともに使ったことがないという風だった。
部屋全体の間取りを簡単に説明すると、玄関から入ってこういう広いリビング・ダイニングに抜けるまでに長い廊下があって、その廊下の左側に三つ、右側に二つの扉がついていた。ひとつは手洗いだろう。問題は、残り四つの扉の使いかただった。それぞれの扉にはおそらく手づくりだろう札が架けてあって、それぞれ、
「モノオ(Mono)」
「ジーイ(Di)」
「トリィ(Tri)」
「テトラ(Tetra)」
と書かれていた。ヒデアキが困惑していると、藍沢テトラがはにかむように笑った。
「ここの部屋に、四人がみんな住んでるから。テトラはぜんぜん帰ってきてくれないんだけどね――」
「――テトラさんが家に帰ってきていない?」
なんだ、それは。
だって、テトラさん、あなたは今ここにいるじゃないですか?
そんな疑問を、ヒデアキはいったん呑み込む。そうだ、今の彼女はテトラさんとは別のテトラさんなんだ。
「あなたのこと、そういえば、なんて呼んだらいいんですか」
「ジーイ」
藍沢テトラは人懐こく微笑む。「藍沢ジーイなの。よろしく、ヒデアキくん」
ヒデアキがリビングのソファで落ち着かないまま待っていると、藍沢テトラが電気ポットで沸かしたお湯を、カップのなかに注いでいる。紅茶パックの中身が溶けて甘い匂いが広がっていった。
「わ、とと――」と、テトラはカップを持つのにすら苦労している。
「俺が運びます。ソファに座っててください」
「ごめん――」
「いえ、別に――出すぎた真似だったら、俺のほうが申し訳ないです」
「ヒデアキくんは優しいね?」
テトラはふにゃふにゃと態度が甘くなる。いや、テトラさんじゃなくって、今はジーイさんか。
――どうにも混乱する。
ソファに座ってルイボスティーを飲むヒデアキは、
「つまり」
と話を切り出す。
「ジーイさんたちは、要は、多重人格っていうことですか?」
「んー」
テトラもお茶を飲む。ゆっくり飲んでから、
「お医者さんにはね、お前は詐病だって怒られちゃった」
「えっ」
「だから治らないの、これ。治してくれる人がいないんだもん」
そう答えた。幼い表情に、なにもかもを諦めた色が浮かんでいた。
「歌うことができるのはテトラだけだよ。そのテトラが帰ってこないんだから、もう、しょうがないんだ」
と彼女は言った。
※※※※
同じく、2月2日(水)12:00
埼玉県白岡市の墓地駐車場に、川原ユーヒチはハリアーを止めて降りると、助手席側に回って車のドアを静かに開けた。
アヲイがシートベルトを外して降り立つ。カーキのジャンパー。だぼだぼのセーター。ミリタリーブーツ。そして、トレードマークの野球帽。
この墓地には一ノ瀬家の墓がある。アヲイの実の父である一ノ瀬ユージとその妻・アヲバの墓だ。
要は、ユーヒチとアヲイの2人は、アヲイの大学が早めの春期休暇に入ったタイミングで、遅ればせながら結婚の挨拶にきたのだ。
――死者の墓前で。
だが、愛情という場においては、生者と死者の区別は明瞭ではない。
愛というものの前では、生きている者を生きたまま殺すこともできるし、死んだ者を死んだまま生かすこともできるから。
まず寺に行ってゆっくり手を合わせる。そして「一ノ瀬家」の字が入った手桶と柄杓を取ると、まっすぐ目的の墓に向かって歩いていく。
帰るときは別の道を通らなければならない。
ユーヒチは墓に葵の造花を添える。娘の名前のもとになった花で、常識でも、そこまで大それたものではないらしかった。
アヲイは手桶の水を、老人の肩を流すように優しく墓石にかける。最後に水鉢にちょろちょろと水を足した。彼女はビールの缶をふたつほど、飲食(おんじき)として墓に置く。
「私、お酒が飲める歳になったよ。父さん。母さん。ちょっと遅くなったけど、報告しなくちゃね」
そう、アヲイは言った。
ユーヒチは線香に火をつけて、灯燭とした。
「それから、もうひとつ報告」とアヲイが言って、ユーヒチのほうにちらっと振り向いた。
「ああ――」
ユーヒチは一歩だけ踏み出す。
「娘さんと結婚させて頂くことになりました、川原ユーヒチです。十年も遅れた報告になってしまい、申し訳ありません」
そう彼は言ってから、自分の《十年も遅れた》という部分を不思議に思った。
アヲイとは去年に会ったばかりなのにな――。
が、本心で言った言葉だから恥ずかしくない。そんな気分だ。
――ユーヒチは今も、アヲイとの出会いを不思議に思っている。《十年前、ここではない世界で、私はユーヒチと会って結婚の約束をしたんだ》。そんな、とんでもない理由で口説かれたのだ。
それでも、好きになってしまうと本当の出来事みたいな気がしてくるから人間の気持ちは分からない。
「娘さんのアヲイさんは、俺が、責任を持って幸せにします。ですから、どうか、娘さんを俺にください」
やっとユーヒチが定型句を言い終えると、アヲイは両方の眼をじっと閉じたまま、ほんの少し腰を曲げて両手を合わせていた。――二人の冥福を祈っている。
ユーヒチもアヲイの一歩後ろに下がってから同じようにした。
十秒ほど経って、アヲイが、
「うへえ! 緊張したあ!」と顔を上げて、合わせていた手をほどいて、少し照れるように笑った。
ユーヒチも笑顔で合わせる。
「いつか挨拶に来たいって、俺も思ってた。本当にありがとな、アヲイ」
「いいよ、こういうの、きっと大事だから」
アヲイの顔は澄んでいた。
「あとはビール缶を持ち帰って、二人で飲んで、それでおしまいだね」
「これ、置いていかないのか?」
「生者と死者の絆を保つために、飲食(おんじき)は持って帰る、らしいぜ」
「――なるほどなあ」
ユーヒチの知らないことだった。
そうしてアヲイが手桶と柄杓を持った、そのとき、
カツ、カツ――と、冬の寒空で敷石を鋭く叩く革靴の音と、それからステッキの響きだった。
――誰だ?
そんな風にアヲイが思っているのがユーヒチに分かる。そのステッキはゆっくりと、二人のいるところまでやってきた。
灰のトレンチコートに高級スーツ。そして、ハンチング帽から覗くロマンスグレー。そして、片方だけ筋痙攣で引きつったような左右非対称の表情。
――マイヤーズミュージックの音楽事業部本部長、八木啓(啓と書いて、ヒラクと読む)だった。
「はは」と彼は笑う。「久しぶりにユージに会いにきてみれば、とんだ偶然じゃないか」
※※※※
2月2日(水)13:30
ヒデアキが阿佐ヶ谷の新築マンションに戸惑っていると、家電代わりのタブレットが音を鳴らした。藍沢テトラは――というか、ジーイは、慌てて通話ボタンを押した。
すると、電話の主らしき声色がそのまま大音量で聞こえてくる。
独り暮らしだから、イヤホンをつけるとか、そういう発想もテトラにはないのだろう。
「あっはっはっ! もしかしてこの時間に起きたんですか、テトラ先輩! ちょっと前にもかけたのになあ!」
不気味なまでに快活な、低い女の声がした。
藍沢ジーイは、その声がヒデアキに聞こえていることに今さら気づいた様子で、慌てたように声をひそめた。
「な、なに――?」
それに対して、電話の主はお構いなしという感じだ。
「いえいえっ、原稿の締め切りが明日だから催促の電話をしたんです。あそこの出版社、ギリギリで連絡してきますけど、それだとテトラ先輩は間に合わないだろうから、前日にリマインドしてやれって八木さんが言うんだよ。あははっ、親切だよねえ!」
「あ、えっと、そうだね――すごく助かったよ」
ジーイはおどおどしたままで、メモも取らない。
ヒデアキは代わりに会話を記憶しながら、相手の声の聞き覚えに思い至った。
――この声、テレビで聴いたことがある。
ポスト・グラムロックバンド「ヴァージンブレイド」のボーカルギターである沖田レインだった。
――ヴァージンブレイドは、沖田レインと土方クラウドと近藤イナヅマ、そんな三人組で女の子たちの人気を得ている、いわゆる、ちょっとビジュアル系っぽいやつらだ。
ただ、音のカッコよさに惹かれている男の子のファンも多いらしい。ヒデアキも、たしかに曲そのものは良いと思う。
そんななか、ひと際存在感を放つのが沖田レインだ。
彼女の心には性別がない。そして、そのことと関係するかどうかは分からないが、彼女には性的欲望がない。それは一般的には、彼女に、恋愛感情が存在しないということを意味した。
沖田レインは、それゆえ、セクシャルマイノリティを扱うその手のワイドショウや討論番組によく出席していた。
テレビドラマや映画で俳優をするときも、「自分の役に恋愛シーンがないこと」を条件に挙げているらしい。
「だって、ほら、演じる材料がないよ!」
そんな風に沖田レインは笑った。
浜辺ヒデアキは、そんなレインのことを知ったのはまだ柿ノ木キョウカに振られる前、皆のゼミ合宿でテレビを見ていたときのことだったが、
「――恋愛で悩まないっていうのも、それはそれで得だったりするのかなぁ」
と、ぼそっと呟いた。
当時の幼い彼にしてみれば、それが心底本音と言ってよかった。
――キョウカさんは、そういえばあのとき、なんにも言わなかったんだよな。
ハスタがヒデアキの肩に腕を回して、
「恋の悩みがないのを羨む気持ちだって、恋の悩みがあるから生まれてきたんだぜ。隣の芝生を羨むのはよくないぞ、ヒデアキくん」
と笑わなければ、もうちょっとシリアスなノリになっていただろう。
そんなハスタの軽やかさが彼には羨ましかった。
――そして今は、ジーイが、
「うん、わかったよ、レインちゃん。ありがとね」
と電話を切って、ほっと胸を撫でおろしているところだった。
「仕事っぽいですね?」とヒデアキが訊くと、
「うん。そうみたい。書くのは私じゃないけど」
とジーイが苦笑する。
ヒデアキはだんだん藍沢テトラを理解し始めていた。もちろん、理解は願望に基づくものでしかないが――。
・現在、俺の目の前にいるのがジーイさん。すぐに泣いて取り乱すから目を離しちゃいけない人だ。
・昨夜、俺をからかった女性がトリィさん。あの人の醒めた飄々とした話しかたには落ち着けない。
・そして、まだ会ったことのないモノオさん。たぶん当時のゴシップ記事からして、唯一、男性のような口調で話す人だ。
・そして、最後に――藍沢テトラさん。
分かり始めてきて把握したことといえば、分からないことだらけということだった。
「仕事の邪魔しちゃ悪いので、帰ります」
と、ヒデアキは言った。
ジーイはすぐにスマートフォンのPixel 5を取り出して、連絡先を交換しようとせがんできた。
「また、会えるよね? ヒデアキくん」
そう彼女は、少女のように言った。
――俺は、また彼女と会うとして、どうするんだ。俺はどうしたい?
この人にとって、俺はただの大学生で、ただのガキだっていうのに。
で。
浜辺ヒデアキは阿佐ヶ谷の新築マンションを出て、なんだかそのままの足では家に帰れなくて、電車に乗って中野の街中をぶらついていた。
ヒデアキはサブカルチャー系のショップが並ぶ街並みを歩きながら、不意に、マイヤーズミュージック専属のファングッズ販売店に足を踏み入れていた。名前は《キャットナップ》というらしい。
自動ドアが開くと、明かりがついているのにちょっとだけ薄暗い店内の奥のほうから、
「いらっしゃいませー!」と、声が聴こえる。
しかも聴こえるだけではなく、その声の主らしき店員がもうひとりの店員の背中を押して、ヒデアキのほうにやってくる。
「ほらアリス! 挨拶しないと! 接客の基本!」
「わ、わかったから、ミンミあんまり押さないで――」
もうひとりの店員は相当に慌てている。
ヒデアキは少し微笑ましく思った。たぶん、どこかの学生が春期休暇でバイトを申し込み、友だち二人で頑張っているのだろう。
ミンミと呼ばれた子は眼鏡をかけて髪を二つ縛りにした仕切り屋っぽい雰囲気で、アリスと呼ばれた子は、長髪を銀に染めて、腕や足の至るところに包帯を巻いている――たぶんファッションだろう――女の子だった。
ヒデアキが会釈すると、ミンミが眼鏡を光らせ(←実際は光っていない、そういう比喩表現である)、
「お客さん、お探しの品物はなんですか!?」と訊いてきた。
服屋かよ。
――でも、たしかにこの《キャットナップ》は客が迷うくらいには商品のタイプが多い。単にCDを売るラックもあれば、契約アーティストのグッズ各種類を揃えているブースもあったし、各バンドの愛用する楽器や機材を置いている場所もあるくらいだった。要は、そんな風なファン専門店というわけだった。
ヒデアキは苦笑いして「じゃあ、CD――」と言いかけた途端、
「おお、誰かのファンですか!?」
とミンミが前のめりに訊いてくる。
そのとき彼は口を滑らせるように、
「藍沢テトラさんのデビューアルバムを聴きたいです」
と言った。
――は?
俺、なに言ってんだよ。そんな、昨日の今日のことで。
戸惑うのも束の間、ミンミは彼の手を取って、
「試聴用のヘッドホンもありますから、よーく聴いてからご購入ください」
そう満面の笑顔で言った。
※※※※
試聴ブースに行くと、見本用のCDと、それをセットするプレイヤーが置かれている。再生制限はたぶんない。
――なんとも太っ腹であった。
とはいえ、どうせ非合法のダウンロードが横行している世の中だ。いっそこの場所で聴かせて、その他の商品を追加で買ってもらおうということなのだろう。
見本用のCDは、各アーティストにつき最新作が一枚のみ。藍沢テトラについては、十年前のデビューアルバムが未だに「最新作」だから、ここで聴くことができる。
ヒデアキは見本をプレイヤーにセットした。
見本用のケースには歌詞カードやライナーノーツを含めた当時のマテリアルも同梱されている。
そこで気づくことがあった。
――ここにあるテトラさんのアルバムは、オリジナルのものではない。
彼女のデビュー作『暗黒/光明』は、オリジナルバージョンと十周年記念復刻バージョンの二つがある。そして、この店の棚にあるのは全て復刻バージョンだ。
二つのバージョンには違いが三つあった。
まず、復刻版にはブックレットの私小説が同梱されていない。次に、復刻版には「秘密の隠し曲」が存在していない。
オリジナルバージョンは二枚組・全二十四曲の他に、奇妙な空白のデータ容量があった。世間では、なにか隠しトラックがあるのだろうと言われていたが、復刻版にはそのような空白はない。
そして最後に、単純にジャケットが違った。オリジナル版では当時十四歳の藍沢テトラを真正面から撮った写真だったのだが、復刻版では、これがウルトラマリンの単色カバーになっているのだ。
――おそらく当時ストーカー犯罪とその二次被害に遭った歌手に対する配慮だろう。
ヒデアキはヘッドホンを被る。
そして、再生ボタンを押した。
――直後、浜辺ヒデアキは海の底に叩き落された。
※※※※
XX月XX日 XX:XX(もはや時間は意味を成さない)
――第1トラック「投身」(作曲:藍沢テトラ)
ヒデアキは気付くと真っ暗な海の中にいた。光は全くない。体にまとわりつく塩水と無重力の感覚によって、かろうじてここが海なのだと理解するだけだ。不思議なことに呼吸は苦しくなかった。
肺を海水が満たしているはずなのに、そこから酸素を得る仕組みを体が身に着けたみたいに、頭はずっとクリアなままだ。
ただ、落下している、海底に体が降下し続けているということだけが分かる。
オルゴールの音が鳴り始めた。洞窟の中に実際に巨大なオルゴールを組み立てて録音したらしいメロディ。
そのメロディに、シームレスに、少しずつロックバンドの伴奏が乗っていく。ドラムが騒がしくなっていき、ピークを迎えたところでサディスティックなギターが鳴り始めた。
――第2トラック「化石の生存」(作詞作曲:藍沢テトラ)
なんだこれ、とヒデアキは思う。
海のなかで、目の前で、テトラが泳いでいた。
どうしてテトラだと分かったのだろう。暗黒。なにひとつ光明のない水の底だというのに。
彼女はゆっくりと足を動かして水流をつくり、彼の目の前まで近づいてきた。表情は見えない。だが、彼女の伸ばした手が彼の頬に触れているのが分かった。
ギターが高音を伸ばすのと同時に、藍沢テトラは口を開く。
そして、海のなかで歌が聞こえた。
ハードロック系統のナンバーだが、オルゴールの音も同時に消えることはなく、テトラの繊細な歌声を甘やかに支えている。
それは現代社会のなかで裏切られ、踏みにじられ、忘れ去られてきた数多くの命に対するなにごとかを歌っているように聞こえた。
皮肉だった。
だって、今は、テトラ自身がそうなのだ。当時の彼女がそれを見たらどう思うのか?
ぐるっ、と視界が回転した。そして、
バシャ――という水音とともに、ヒデアキは無人らしい地下鉄ホームの天井から落ちてきて、そのまま線路の下へ落ちていく。再び水音がして彼はさらに別の世界へ落ち続けていく。
一瞬、ひどく癖っ毛の、ロリータファッションを身に着けた少女が手を振っているように見えた。
――第3トラック「ラブレター」(作詞作曲:藍沢テトラ)
※※※※
2011年8月15日(月)12:30
ヒデアキはやっと目を覚ました。
そこは東京中野のショップではなく、徳島の小さな病院だった。
徳島。
――なんで。なんでここなんだ。なんでだよ。
それはヒデアキの生まれ故郷で。
そしてその病院は、彼の母が晩年そこで過ごした場所だった。
――2011年8月15日の12時30分を少し過ぎたところで、ヒデアキの実の母は、ゆっくりと眠るように息を引き取った。
その場に来ていたのだ。
ヒデアキはまず、自分の体を見た。小学生の頃に戻っていた。
そして、目の前の母親を見つめる。とても今から死んでしまうようには見えない。しかし、カレンダーと時計を確認すると、たしかに今日この日、母は死ぬ。
「どうしたの? ヒデアキ。ぼけっとしてさあ」
「えっ、あっ、ご、ごめんなさい」
「まあ、いいけどね」
母は声を立てず、静かに笑った。太陽が眩しい。
ヒデアキは、この状況に見覚えがあった。俺は、十年前のこの日に、母親を失う。しかも死に目に逢うことができないんだ。
母が《タバコ吸いたいから買ってきてよ》と言って俺のことを病室から遠ざける。そして俺が帰ってくると、母はカックリと首を降ろして、眠るように死んでいた。
――本当に。
本当に眠っているだけみたいだった。いつか起きてくれるんじゃないか、って。「はいドッキリ大成功~!」って俺を驚かす気なんだろ、って、ずっとずっと思ってきたんだ。
――ヒデアキは、自分の半生を思い出す。
父は激務に追われて、愛すべき妻の死に目に逢えなかった。なのに、その臨終に立ち会えたはずの息子は、まんまとタバコを買わされてなにもできなかったというわけだ。
父は大声で泣きながら、葬式の場で、言ってはいけないことを言う。
「お前はなんで最期に母さんのそばにいてやらなかったんだ! ああ!? なんで母さんをひとりぼっちにしたんだ!!」
ショックを受けるヒデアキに、しかし、彼の父親は父親としての責任も義務も権威も全て放り捨てて、全身で泣きじゃくって暴れながら、彼を殴りつけた。
「答えろ!!」
その直後、父親はハッと我に返り、自分の拳を見つめた。息子を殴ってしまったというショックに青ざめているように見えた。
ヒデアキと父の関係は、それから少しギクシャクしてしまった。地元ではなく、東京の大学に進むことを選んだのもそれが理由かもしれない。
大した挫折もないが目標もない、つまらない大学生にヒデアキはなった。ただ、ときどき自分の母のようにタバコを景気よく吸う女性がいると、心がざわつくだけのことだ。
――父を恨む気はなかった。父さんの言うとおり、俺は母さんが目の前で死ぬのが怖かったから、母さんの言うことを聞いただけだったんだよ。
そうやって、誰かに優しいフリをして、なあなあにして合わせて、なにもかもを損なうだけなんだ。
「――ヒデアキさあ」
病室で、目の前の母親が以前のように声をかけてくる。
「なに、母さん」
「悪いけど、タバコ買ってきてくれない? 久しぶりに吸いたくなって」
母は切なく笑う。
「――病室は禁煙だよ?」
そうヒデアキが賢しらに言ってみせたら、
「ここの先生は優しいから怒るだけで済ませてくれるって。お願いだよヒデアキ」
そんな風に母は――甘えるように言った。
実際の過去では、ヒデアキは「分かった。ちょっと待ってて。年齢確認のないお店知ってるから」と言って病室を出ていくのだ。
そして、今は?
――ヒデアキは、泣いていた。
泣きながら母親の手を握って、うずくまって大声で泣きじゃくった。
「そんな――そんな、これから死んじゃうみたいなこと言うなよお!!」
――ああ、俺は大バカだ。母さんが死ぬかもしれないと知ってから、それをすんなり受け入れて、母さんを失ったあとも心を保てるようにと自分の気持ちの準備ばかりしていて、本当に母さんに言うべきことをなにも言っていない!
「死ぬな! 死ぬな! 死なないでよ、母さん! 死んじゃイヤだよお! 俺どうしていいか分かんないよ、生きてよお!」
ずっとそれだけを言いたかったし、それを言えばよかったのだ。
母が震えながら「やめてよ」と言った。「そんな風に言われたら、し、死ぬのが怖くなるじゃん――怖いよ、息子の前でくらい、カッコつけてたかったのに」
「いやだ、母さん、母さん死なないで、死なないでよ、イヤだイヤだイヤだ! うあああああ!!」
ヒデアキはそんな風にして、ただ泣き喚き続けた。
そしてこれは全てウソの記憶だった。
※※※※
――まあ、当時から囁かれていた噂ではあったんだ。
藍沢テトラのアルバムを聴くと、パラレルワールドの夢を見ることができる、って、ね。
その人間が決定的な《躓きの石》と出会った時間に引き戻し、別の選択がありえたこと、別の人生もありえたことを影像のように教えてくれる。
そんな噂だ。
もちろん、そんな体験をした者はネットで募ってもごく僅かだったし、その直後にストーカー男による事件も起きてしまったから、誰もそんな噂は覚えていない。せいぜい信者の妄想か、なりすましアンチの誇大広告と思われただけなんだよ。
この《僕》だって、アルバムを聴いたが、そんな体験はない。
いずれにせよ、事件以降の藍沢テトラは歌姫ではなく、イカレ男が起こした犯罪の付属品に成り下がったんだ。
余談だが、あらゆる犯罪が本当に最悪なのはここだ。
被害者は加害者の《付属品》になるんだ。世間は加害者の人生に注目する。彼の情状を酌量する。だが、被害者の人生や事情にはなんの関心も持たない。
たとえば、藍沢テトラを襲撃した犯人が両親から虐待を受けていたことや、学校とか職場で冷遇されていたことは繰り返し報道されてきた。
だが、藍沢テトラも両親から斬り捨てられ、学校に居場所のない少女だったことなど誰も知らない。
加害者は、その加害行為によって被害者から物語さえ奪うわけだ。
そして、それを行うのは加害者本人ですらない。世間様の風潮だ。
きっと《僕》が思うに、本当の悪に名前などない。特定の誰かが悪さをするとしても、それはたかが知れているんだ。
本当の悪意は、投書欄の、ネットの、世間様の声という形で、常に匿名という形で顕現する。悪には固有名が存在していない。固有名を持つ勇気すらない。自分の心も理性も持ってなどいない。
そんな悪を倒す方法はない。倒すには実体が必要だが、悪に実体はないからだ。
――話がそれちゃった。
ともかく《僕》がここで実況しておくべきは、ショップのミンミ店員が試聴ブースを覗いたら、ヒデアキくんが涙を流して前後不覚になりながらその場にうずくまっていた――ということだけだったんだが。
※※※※
同じく、2月2日(水)13:30
沖田レインが藍沢テトラに対するリマインド連絡を終えて座敷に戻ると、八木啓と川原夫妻は、埼玉県白岡市の蕎麦屋、二階の座敷で談笑をしていた。
八木はアヲイをまじまじと見つめながら日本酒を手酌で飲む。
「なるほど――ユージのアレに目が似ている」
「父さんと母さんを知ってるの?」
とアヲイが訊いた。
八木は軽く微笑む。「お前の父親――ユージとは腐れ縁だ。おかげで面倒な才能もいくつか押しつけられたんだが。あいつの無邪気さは嫌いじゃなかった。あいつの女は俺の紹介みたいなものだが、最後まで俺のほうには懐こうとはしなかった。まあそんな関係だ」
そして日本酒をあおり、「五十嵐のバカは元気か? ああ、いや、今は九条の連中の婿養子になって、それでお前を引き取ったのか――?」と、しみじみ思い出すように喋る。
アヲイも日本酒を飲む。「ヱチカの父さんのこと? それはよく知らない。私を引き取ってくれたことは感謝してるけど、いまは――」
海外の事業を興すことに夢中で、なにをしているのかも知らないよ、とアヲイは答えた。
八木は「へえ」とあごをさする。そして、もういちど手酌で日本酒を注ごうとして、左隣に座った沖田レインにやんわりと止められた。
「僕が注ぎますよ、八木さん」
「おお、そうか――悪い沖田」
八木は笑った。
八木はタバコにも火をつける。「ヤツの一人娘――ヱチカだったか。建前的にはお前の妹ってわけだが、あれとも仲はいいのか?」
「建前じゃなくて、私の妹です」
「――ハッ。なるほどなあ――」
八木はキャメルの煙を吹かして、吹かし終えて、「無粋だがもののついでだ。仕事の話をさせてもらう」
と言った。
八木がカバンから出したのは二セットのファイルだ。
アヲイがひとつめの封筒を開けると同時に、八木は、
「そろそろTHE DEAD(Developed Entertainment & Art Determination=発展した娯楽と芸術の裁定)の季節だ。感傷的なシンセシスはもちろん出てもらう。うちの期待株のひとつだ」
と話す。
そしてもうひとつの封筒には、映画の企画書と仮段階の台本。
アヲイが「これは?」と訊く。
八木はニヤリと笑う。「映画の劇伴と挿入歌、主題歌のお願いだ。ぜんぶお前らに任せたいらしい。プロモーションビデオ風の映画にするわけだな。監督はお前の相当なファンだそうだ。物語も歌姫の話になる」
大役だ。平気で億が動く映画というジャンル、その全音楽担当。
アヲイは中身の書類を封筒にしまう。
「実際に作詞作曲するのはリーダーのリョウだ。返事は彼女のほうからすればいい?」
「無論それで曲はいいが、歌姫役の女優オファーはアヲイ個人に来てる。そこには自己判断で顔を出せ」
「はあっ?」
八木は左右非対称の、筋痙攣で引き攣った顔のまま笑みを浮かべた。
「女優デビューだよ。なあに、台詞は歌と違って音程もリズムもないんだから却って楽だろう。
――俺の持論ではな、アヲイ、技術も努力も必要ないどころか却って邪魔になるような職業がこの世には二つある。なんだと思う? 俳優と小説家だ」
ユーヒチは、妙だ、という顔をしていた。仕事自体はありがたい話だろう。でも、八木氏の話しぶりにはどこか切迫したものがある。
まるで《お前にはやりがいのある仕事を与えて忙しくしてやるから、しばらく勝手に動くな》というような口調だった。
アヲイに自由に動かれたくない、その理由はなんだ?
八木は窓のほうを向いた。「最近はワケの分からない通り魔とかなんとか、世の中がキナ臭くなってきた。下手に暇を持て余して不要不急に動くよりかは、スタジオに籠っているほうが安全だ」
ユーヒチは考える。
八木氏は事件の全貌にアタリがついているのか? だからアヲイを拘束したがっている――?
そんな風に俯くユーヒチを、沖田レインは忌々しげに見つめていた。
――相変わらず妙に勘がいいな、こいつ。だから嫌いなんだ、僕は。お前みたいな小賢しい男が。
※※※※
2月2日(水)15:00
東京都王子のスポーツジム。その1フロアを貸し切りみたいな状態にして、一人の女が懸垂をしている。背中と肩と二の腕の筋肉を徹底的にいじめ抜きながら、ゆっくりと、圧をかけるような上下運動の繰り返しだ。
166cmの痩身に、インナーだけ金に染めた黒の長髪。
そして誇り高い猛禽類のような獰猛な目つき。
――マイヤーズミュージック契約、プログレッシブロックバンド「西園学派」のボーカルギター兼作詞作曲担当リーダー、西園カハルのトレーニング風景だった。
鉄棒から降りて呼吸を整える。そして、後ろで腕を組んで立っている男を振り返った。
「――リンドウ、ミットとグローブだ」
リンドウと呼ばれた男は――氷河期の獣のような強面と体躯をした186cmの大男だったが――、カハルの命令に黙って従い、静かにリングへと上がる。
カハルはグローブに手を入れて、リズムをつくるように数ステップしてから、リンドウがミットを構える場所に合わせて拳と蹴り技を適切に入れていった。
汗がリングに飛び散り、彼女が動くたびに、キュッキュッと音が鳴る。
キックボクシング用のミットとカハルの脚がぶつかるたびに、パァン、という空気の破裂音だった。
――そんな様子を、椅子に腰かけたひとりの少年がリンゴジュースを飲みながら眺めている。
「うちの美女と野獣は昼間からアツいねえ」
少年の名前は水島タクヤ。同バンド「西園学派」のドラム担当。そして、いまミットを持ってカハルに付き合っている大男が鷹橋リンドウというベース担当だった。
カハルがミット越しにリンドウを殴る。蹴る。その勢いのすさまじさは、見なくても分かった。ジムの部屋中に鋭い攻撃音が響き渡っている。
途中から、リンドウが構えた場所にカハルが攻撃するのではなく、カハルが攻撃のモーションをした、その箇所へ後出しでリンドウがミットを置いていくのが分かる。
もし彼が1秒でも遅れたら、彼女は平気で彼の顔面を殴りつけて急所を蹴り上げるだろう。だが彼は遅れない。そんな信頼が二人にはある。
「――ッシィッ!」
歯をくいしばったまま息を吐くと、そういう音がする。
カハルの上段回し蹴りがリンドウのこめかみあたりに届く、その一瞬前で、構えたミットに威力を吸収された。
彼の肉体は1ミリも動じない。カハルの技が弱いからではなく、それを受け止めるリンドウの体格と技術の問題だった。
「――終わりだ」
カハルはグローブを脱ぎ、汗まみれの体のまま部屋の隅へ行く。置いておいたミネラルウォーターのペットボトルを開けて、その液体を頭からかぶった。
ばしゃばしゃという音とともに彼女の熱が冷めていく。
最後に、カハルは、サイドテーブルに用意していたラッキーストライクを咥えた。
後ろから静かに近づいてきたリンドウが火を点け、カハルはそこに唇を寄せる。
ひと呼吸で、何ミリもの長さが灰になって消えた。
「――はぁ」
カハルはため息をつく。これは自分を鍛えるためのトレーニングではない。己の肉体を徹底的に追い詰めることで日々の苛立ちを潰す、そんなルーティンだった。
リンドウが「カハル」と呼びかける。
「マイヤーズミュージックの八木から連絡が来た。俺たちもTHE DEADには参加する」
「それは当たり前だ。他に誰が来るのか訊いたか」
「朴セツナ。キラークラウン。サントーム。あと感傷的なシンセシス、だな。その他はおおよそ中堅かベテランの集まりだ」
「アヲイが来るならアタシは文句はねえよ。行くぞ」
カハルはそう答えた。九条アヲイと西園カハルは、同世代であることも相まって、デビュー当時からライバルとして扱われている。カハルも、アヲイのギターには一目置いているところがあった。
「ああ」とリンドウは答える。
カハルが動き出そうとすると、リンドウが、そっとトレーニングウェアを彼女の肩にかぶせた。
「――体を冷やすぞ、カハル」
その手つきの優しさには気づかないフリをして、
「で、次の予定はなんだっけ?」
と話題をそらすのがいつものカハルだった。
水島タクヤが立ち上がる。「オーディションだよ」
「オーディションだあ?」
「西園学派の四人目のパートが必要って言ったのはカハルだろ。忘れちゃった?」
「――いいや、ま、今日ってのは覚えてなかった」
カハルはちょっと頭をかき、そんな二人の男を連れながら貸し切り状態のジムをあとにした。
西園学派。
THE DEAD エントリー。
※※※※
同じく、2月2日(水)15:00
中野のレコードショップ《キャットナップ》のバックルームで、浜辺ヒデアキは目を覚ました。といっても、彼は最初のうち自分がどこにいるのか分からなかった。
――あれ? 俺、たしか店に入って――そこでテトラさんの曲を聴こうとして――。それから――。
彼が意識を少しずつ取り戻すと、その顔を、長い銀髪の女が上から覗き込んでいた。左手にファッションの包帯を巻いている。
――たしか、アリスと呼ばれていた新人っぽい店員だ。
「大丈夫?」
彼女の呼びかけに応じて、長椅子、ヒデアキは上体を起こした。
「俺、いったいどうしちゃったんですか?」
「CDを聴いてたら、いきなりうずくまって、その場で意識がなかったんだ。調べたけど、気絶してるだけみたいだったからここで寝かせてたの」
そう答えると、アリスは近くのティッシュペーパーでヒデアキの頬をぬぐう。
「えっ、えっ、なんですか?」
「――だって、君、泣いてる」
彼女に言われ、ヒデアキは初めて、自分の瞳からまだ涙が流れ続けていることに気づいた。
夢。
そうだ、俺は変な夢を見てた。その夢で俺は母さんに出会って、現実とは別のことをしたんだ。違うことを言って違うことを選ぶ。
――なんでだろう。
俺はこの夢を見るまでは、自分がなにに後悔しているのかも知らなかった。
ヒデアキがまぶたをこすると、店内で商品を並べていたミンミ店員が戻ってきた。
「お、生き返ってるじゃ~ん!」
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
ヒデアキは立ち上がってバッグを背負う。と、
「ご迷惑って思うなら、もちろん、買うものは買っていってくれるんだよね?」
とミンミは笑う。
こうして、彼は、藍沢テトラのデビューアルバムを買うことになった。
ミンミがバーコード読み取り機を当てながら「でも珍しいねえ?」と言う。
「なんでですか?」
「藍沢テトラって、ひと昔前のアーティストでしょ。君みたいな大学生の間で、なに、また流行ったりしてるわけ? 平成レトロ的な」
「――いえ、すみません。俺、流行には疎くて」
「ふうん。まあいいけど」
ミンミはちゃっかりと手元に置いておいた、藍沢テトラのエッセイ本とか、インタビューが載っているサブカル雑誌の特集号とか、ライブDVD1枚をまとめて同時に押しつけてきた。
「他人と違うのを推すのは気持ちいいぞ~!!」
ミンミが笑顔をぐいっと近づけてくる。女性に免疫のないヒデアキとしては(それは都内二十代男性としては致命的な弱点であった)自分が赤くなるのを恥じながら後ずさるしかなかった。
「あ、ええと――、じゃあ、それも買います」
そんな風に口が滑る。
おい。
なにやってんだよ俺――とヒデアキは思った。
そうして彼は再び中央線に乗る。
上京してからはずっと、いつもと同じ風景で、いつもと同じ帰り道だ。東京は再開発を繰り返す大都市のようでいて、ところどころに、地元のド田舎と変わらない土着の匂いをしっかりと残しながら《固有の大地》であり続けている、そんな場所のように彼には思えた。
人が多くて、建物がデカい以外は、ここもひとつのムラなんだよな。
ヒデアキは、だが、そんな代わり映えのしない景色を眺めながら、なにか自分の心が動いているのを感じた。気がつくと、彼は実の父親にメッセージを送っていた。
彼は父親を「父」とか「親父」ではなく単に本名で電話帳登録している。
要するに、そういう距離感なのだ。これまでも、これからも、ずっと。
だが。
ヒデアキは初めて自分からメッセージを送った。「春期休暇、どこかのタイミングで家に帰るよ」。ただそれだけの、素っ気ない連絡だったが、それでも、かつての彼には送信はできない言葉だった。
意外に返事はすぐに来た。
「なんか、美味いもんでも食いに行こうか」
それだけだった。
ヒデアキは、ハハッ、なんだそれと笑った。
たぶん父は永遠に許さないだろう。悲しみに負けて父親としての義理を忘れてしまった自分も、息子のことも。そして俺もずっと傷つき続けるだろう。でも、家族だ。
俺たちはどっちも不器用なままに、親子だ。
好きだからいっしょにいるとか、嫌いだからいっしょにいられないとか、そういう安易な理屈で家族はできあがっていないのだ。
そして、難儀なことだが、人は《安易ではない》人間関係のなかでしか、なにかを学習したり、成長したりすることはできない。たとえ小手先の技術を上げることはできても。
――駅から降りる頃、ヒデアキのなかには、突拍子もないがリアリティのある気持ちが強くあった。
――あの夢のとおり、俺が母親に接したら、父と俺の関係はこじれなかった。それは夢だ。だけど、そういう可能性があったということが、今の、目の前の父さんに連絡を送る勇気をくれたんだ。
扉が閉まる。
「テトラさんに、ちゃんとお礼を言おう」
と彼は思った。
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