エヴリアリの群青 synthesis/altanative

籠原スナヲ

第1話 SELECT


  ※※※※


 2月1日(火)16:15

 W大学Tキャンパス33号館の教室で、六平先生のゼミがもうすぐ始まろうとしていた。コンクリートの建物に足音が響いて、廊下に忍び込む真冬の空気がどうしても肌寒い。

 ――伊角タエコは早めにゼミ室に入る。早め早めに行動してしまうのが彼女の癖だった。

 今日もそこには先客がいた。ひとりの女子学生がゼミ室の後ろのほうで、長机にホチキス留めのA4用紙を並べている。

 その日のゼミで発表する子は、そうやって、皆が来る前に資料を用意しておくのが決まりだ。要は、今回は彼女が当番というわけだ。

 カーキ色のメンズのコート。だぼだぼの赤いセーター。ジーンズ。そして、動きやすそうなミリタリーブーツ。――まるで少年のように短く切った黒髪。

 その女子学生は、トレードマークの野球帽を目深に被っていた。しばらく彼女はゼミには顔を出していなかったのだが、その帽子を見て、タエコもすぐにその名前を思い出す。

「――久しぶり、九条さん」

 タエコはロの字になった長机の奥のほうに座りながら、彼女――九条アヲイ――に挨拶する。

 アヲイもタエコのほうに向き直った。

「あー、うん。久しぶり」

 とアヲイは言ってから、「えっと――」と目を泳がせた。たぶん、タエコの名前を忘れてしまっているのだろう。

「――伊角タエコですけど?」

「そうだった。ごめん、タエコ」

「しょうがないよ。九条さん、あんまり大学に来れてなかったんだし」

 タエコは笑った。そうしてアヲイの顔を見る。

 やっぱり、アニメの美少年みたいな顔だ、とタエコは感じた。綺麗とか、可愛いとかってだけじゃなくて、あまりに中性的でリアリティのないところが。

 それは女の子というより、どちらかといえば、男の子から「男の子の部分」を引き算した人間がそこに立っている、という印象をタエコに与えた。

「タエコ、実はさ――」

 アヲイは資料を並べ終えると、タエコの隣の隣くらいのところに座った。リュックサックを椅子にかける。

「私、もう『九条』じゃない」

「えっ?」

「今年の一月に、名字が変わったんだ」

 アヲイの言葉に、タエコは戸惑った。

 ――名字が変わった? もしかして、両親に何かあったのだろうか?

 タエコが頭の中でぐるぐると考え込んでいると、アヲイがさらりと、

「結婚したから、今は『川原アヲイ』なんだよ」

 と、軽い調子で答えた。

 ――結婚!?

 いや、だって、私たちまだ大学2年生だよ!? なのにもう結婚!? どういうこと!?

 タエコは、どう反応すればいいのか分からない。

 ただ、なにか返事しなければならないと思って、

「お、おめでとう――」

 と、やっと穏当な言葉を振り絞ることができた。

 アヲイは「サンキュー」と笑う。

 やがてゼミの時間が近づいてくると、他の学生たちも教室に入ってきた。

 ――柿ノ木キョウカ。宇野チヨコ。暁ニモ。浜辺ヒデアキ。石原タイヂ。長崎ハスタ。留学生のソユル。

 六平ゼミに在籍している全員が久しぶりにこの場所に揃っていた。

「ん」とキョウカが声を上げる。「アヲイ、珍しいね?」

「おひさ」とアヲイが笑顔を返すと、キョウカは、

「芸能人は大変だね。出席日数を免除されてても、単位のために仕事合間でゼミ発表とレポートは出さなくちゃいけないんだから」

 と冷たそうに言った。

 ――場の空気が少し固まる。彼女は嫌味でそういうことを言う人間ではないが、表情も相まってどこか皮肉な聞こえかたになってしまうのだ。

 だが、アヲイのほうは特に気にせず「ま、ズルだけどね」とヘラヘラ笑うだけだった。


  ※※※※


 2月1日(火)18:00

 九条改め川原アヲイのゼミ発表は問題なく終了した。六平先生も多少のコメントを挟んでみただけだったし、学生たちからの質疑応答も少なかった。

 アヲイが題材に選んだのは、デイヴィッド・ルイスの様相実在論だった。そんな題材を選ぶのがタエコには意外だった。

 デイヴィッド・ルイスの様相実在論は、分かりやすく言えば次のようなものだ。パラレルワールドは単なる言葉の存在ではなく、実際に存在している。

 六平先生は「面白いね?」と言った。「分析哲学であれば自由とは言ったが、どうしてこの題材を選ぼうと思ったのかな?」

 アヲイは天井を見上げながら、

「なんだろう――私は、ルイス先生のことが分かる気がする」

 と答えた。

 キョウカは不思議そうに、というか、ほとんど不機嫌そうに「この研究の現代的意義はどこにあると思いますか?」とアヲイに訊く。

 それは、哲学科としては珍しく、ジェンダー論を専門にしているキョウカらしい疑問だ。

 ジェンダー論は、賛否両論あるが、少なくとも現代の性差を問題にしている。それに比べるとアヲイの扱った様相実在論は、どうしてもSF的な、ただの言葉遊びのような要素が拭えない。そんな風にキョウカは感じているようだった。

 アヲイは首を傾げて「えっと、哲学は、現代的意義みたいなものって考えなくちゃいけないんですか?」と訊く。

 キョウカの目線が鋭くなった。

「そういう貢献があるからこそ、大学って国から税金で守られているわけでしょ?」

「へえ、なるほど」

 アヲイは気にしていなかった。

「だけど、すみません、彼の研究が誰かの役に立つかどうかは知らないっすね。それは役に立たせる側の問題なんだろうって思います」

「はあ? というと?」

「えっと」とアヲイは言葉を繋ぐ。「ギターを弾いてるときに、メロディの現代的意義なんか考えないでしょ? 哲学も同じかなって」

 その答えに対してハスタは軽く笑った。彼だけではなく、チヨコとニモも、その場をやり過ごすような表情を浮かべた。

 キョウカはいよいよ不機嫌になって黙った。そして、それが全てだった。


 そんな風にゼミが終わると、アヲイは廊下でスマートフォンをいじりながら、ずっとそのままだった。

 タエコは声をかける。

「ねえ、九条さん――じゃなかった、川原さん?」

「アヲイでいいのに」

「うん、じゃアヲイ」

 タエコはバッグを肩にかけ直す。「このあと年度お疲れ会があるの。来る?」

「あー」

 アヲイは帽子を被った。

「名字が変わったから、学生証の更新とか、色々しなくちゃいけないんだよね。けっこう面倒くさいんだ。書類の手続きってちょっとアレルギーというか」

「じゃあ、私がそれは手伝ってあげるよ?」

 タエコは笑った。

「だから、代わりに飲み会に来てくれる?」


 アヲイとタエコの予感は当たっていた。ただ女の子が結婚で名字を変えたというだけで、大学は膨大な書類で変更の手続きを迫ってきた。

 アヲイは息切れ。手伝いのタエコもひいひい言いながら事務所で作業をした。

「参ったなあ」とアヲイは言った。「結婚したってだけでこんなに大変な思いするんだ?」

 新しく発行された学生証と新規アカウントを受け取った頃には、アヲイはもうその場でぐったりとしていた。タエコは、そんなアヲイを、ちょっとだけ可愛いと思ってしまう。

「じゃ、大変な思いをしてお疲れってことで、あとは飲んで忘れちゃお?」

「うん」

 アヲイは苦々しく笑った。

「すごく助かったよ、ありがとう」


  ※※※※


 2月1日(火)19:30

 高田馬場ロータリーから少し歩いたところにある大衆居酒屋で、六平ゼミの年度締め会は行なわれていた。タエコとアヲイが少し遅れて参加したとき、既に留学生のソユルとヒデアキが酔っ払って真っ赤になっていた。

 ハスタが「こっちこっち~!」と手を振る。

 チヨコがにっこり笑って、ピッチャーのビールを2人分のグラスに注いでくれた。

「アヲイちゃんがこういう場所に来てくれるの、でも、けっこう珍しい系では?」

「うん」

 アヲイはメンズの、カーキ色のコートを脱ぎながら掘り炬燵に腰を下ろす。

「タエコがいろいろ手伝ってくれたし、それに――」

「それに?」

「ユーヒチに言われたんだ。せっかく大学に入ったんだから、色んな人と関わって、自分の世界を広げてみてもいいんじゃないか――って」

 ユーヒチ。

 アヲイがその名前を出すと、タエコはドキッとする。

 いっしょに事務所で書類を処理していたから分かる。それはアヲイが結婚した男の名前だ。

「ユーヒチ?」

 ニモが訊いた。彼女は四十代になってから大学に入り直したタイプで、ひとりだけ、お酒を飲むのが大人のペースだ。

「うん」とアヲイが答える。「私の夫になった人」

 夫、という言葉が重かった。

 アヲイが結婚したということは、ゼミの発表のときに自分で言ったから皆が知っている。

《あんまりゼミに顔を出せなくて、すみません。あと、九条じゃなくて川原になりました。――結婚で。あ、マスコミには内緒でお願いします》

 でも、そのときはあんまり皆にリアリティが伝わっていなかったのだろう。実際に男の名前が出ると、あ、マジなんだ、みたいな空気が広がっていくのがタエコには分かった。

 ――大学生のうちに結婚かあ。

 ハスタは大げさに天を仰いだ。「想像できねえよ。アヲイちゃんすげえなあ」

「出会うのが早かっただけだよ」

 とアヲイは苦笑した。大学を卒業してから三十代で結婚するのも、卒業する前に二十代で結婚するのも、本質的には同じことだ。要するに、この人だ、と思える相手と出会うタイミングの問題だ。

 そんな風に彼女は説明した。

「でもさあ」とチヨコはタバコを咥える。「生活とかいろいろ不安にならない系? 相手の人はもう社会人だったりする?」

「――ベーシストでしょ」

 口を挟んだのはキョウカだった。マルボロの煙を吐きながら、彼女は言葉を繋いでいく。

「アヲイはバンドで稼いでるし、お金の心配はないんじゃない? もっとも、音楽業界は入れ替わりが激しいから、安定した生活とはちょっと違うかもしれないね。でも、それを言ったら、別にどんな世界に入ったって同じことだよ」

 そうして、キョウカはビールを飲み干した。

「私、アヲイのバンドの曲は聴いてる」

「そうなの?」

「同じゼミ生なんだからそれは当然でしょ」

 キョウカは、キョウカなりの不機嫌さのなかに少しだけ好意を込めるような話しかたをいつもする。

 ――バンドで稼いでいる。

 それもタエコにはピンとこない情報だった。

 目の前のアヲイは、まだ大学生なのに、既にメジャーなレーベルと契約している。

 同い年なのに、彼女はとっくに社会に揉まれて、結婚もしていて、要するに、さっさと大人になっちゃってるんだな、とタエコは思った。

 ――なんだか、置いてけぼりにされてるみたい。

 私は将来の夢も彼氏だってなんにもないのにな。

 なんでだろう。

 アヲイとまともに話したのは今日が初めてだったのに、寂しい。と彼女は思った。


  ※※※※


 2月1日(火)21:00

 飲み会が終わり、全員はそれぞれの帰路に向かって解散になった。

 ハスタは笑った。「やっぱアヲイは、ご主人の待つところに行くんだ?」

「うん」

 アヲイが笑顔を返すと、キョウカが苦虫を噛み潰したような表情になる。

「『主人』って言いかた、好きじゃないな、なんか召使いみたいじゃない?」

「そうかなあ」

 ハスタは目を泳がせる。

 と、ヒデアキが「まあ、前時代的ではあるよな」と呟くだけ呟くように言った。

 キョウカはそんな彼の言葉に喜ぶようにも見えない。

「ねえ、本気で同意しないんだったら形だけ頷いたりしないで。ちょっと不愉快なんだけど」

「――ごめん」

「は? 謝ってほしいとも言ってないけど? ヒデアキのそういうところ、良くないよ」

 そんなキョウカの追撃で、とうとうヒデアキも黙ってしまった。

 タエコは固まる。二人の間で下半期、なにが起きたか知っているからだ。

 ――ヒデアキはキョウカに告白して、こっぴどく振られてしまった。

 キョウカがヒデアキにぶつけた言葉は、次のとおりだ。

《「好き」ってなに? 私のことを「好き」ってどういう意味で言ってるの?》

《それって結局、セックスしたいってことでしょ。本当にくだらないね。私のこと、ゼミの間、ずっとそういう風に見てたんだ》

《気持ち悪い》

《男女の愛なんて、結局ぜんぶ、ただのイデオロギーでしょ。ヒデアキはメディアに洗脳されてるんだよ。そんなの、自分のアタマで考えなくちゃダメでしょ?》

 ――こういう言葉をぶつけられて、ヒデアキはすっかり落ち込んでしまった。

 相談に乗ってあげていたタエコもチヨコもどうすればいいか分からなかった。

 キョウカは不機嫌な態度はそのままに、どんどん綺麗になっていった。鼻筋の通った、透けて見えるような白い肌。ピンと張った背筋。そうして、この世界の全部を疑ってかかるような鋭い目つき。

 そういうキョウカが男性に愛情をぶつけられるのは、正直、仕方がないことだという風にもタエコは思った。

 キョウカの綺麗さは、アヲイの美しさとは違った。アヲイと違って、キョウカはなにも自分に寄せつける気がない。

 ――そんな感じであった。

 アヲイは意に介さないで、「召使いっていうか飼い犬かな」と笑った。「ユーヒチ、今日もご飯つくって待ってくれてるんじゃないかなあ」

 キョウカはアヲイを睨む。

 ニモは対照的に微笑む。

 キョウカは「結婚って、やっぱり分かんない」と言いながらバッグを背負った。

「そんな風に自分の人生を誰かに任せるってぜんぜん想像できない。アヲイってすごいんだね?」

 そんな風に夜の街、キョウカは去っていくし、彼女と同じ電車に乗るヒデアキとソユルもついていく。

 タエコはそれを眺めて、それから、ハスタと少しだけ目を合わせた。

 私たちは真っ当な大人になれるかどうか分からない、分からないまま生きてて、だけどアヲイという存在が揺さぶりをかけてきたから、感情がビックリしてるんだ。

 アヲイはのびをして空を見上げている。

「どうしたの?」

 とニモが訊く。

「いや」とアヲイは首を振った。「夜に星が見えるのだって、別に当たり前じゃないなあって」

 タエコにはアヲイの言いたいことが分からない。

 ハスタが笑って「――キョウカを悪く思うなよ」と告げた。

「あれは多分ちょっと、どっちかっていうとアヲイを気に入ってんだよ」

 アヲイが首を戻してハスタをじっと見つめた。

「分かってるよ、ハスタ」

 そうしてアヲイはにっこりと表情を崩す。

「お前、いいやつだなあ」


  ※※※※


 ほら、また雪が降るよ。

 ガキの遊びはおわりだ。


  ※※※※


 2月1日(火)22:30

 ――告白なんてしなきゃよかった。

 そんな風にヒデアキは思う。

 好きだという気持ちさえ伝えなければ、お互いの関係性はゼロのままだった。好かれることもないけれど、嫌われることもない。

 だったら、ずっとそのままでいたほうがよかった。なのに、テンパって、口が滑って、最悪になったんだ。

 ヒデアキは電車を降りながら、キョウカの「じゃ、また来期もよろしくね」という言葉を受け止めていた。ソユルが心配そうに見つめている。

 こんな風に、皆がいるところではいつもどおりに接してくれている。そのことが余計にヒデアキの気持ちを辛くさせていた。

 消えたいな。

 ――ああ、クソ、クソ、クソ。

 キョウカに告白しようとしている昔の自分に、できることならばタイムスリップして顔を合わせたい。そして説教してやる。

《キョウカさんはお前に好かれてもなにも思わないぞ。気持ち悪がるだけなんだ。悪いことは言わないから諦めて、ずっと胸の奥に仕舞ってろ》

 アルコールの回った頭で、阿佐ヶ谷の街、ヒデアキはよろよろと歩きながら自分の行動を後悔していた。そして同時に、アヲイという女が、ゼミをサボっている間に既に結婚まで済ませていたということを思い知る。

 ――じゃあ、俺だけバカみたいじゃないかよ。

 この世には、運命的に愛し合った男女がいる。

 それがヒデアキを惨めにさせた。

 ――キョウカさん。俺なんかに告白されて本当に迷惑だったよな。嫌な思い出にだけなってなきゃいいんだけど。

 彼はそんな風に帰路につく。

 ――と、アパートの前のゴミ捨て場に、ひとりの髪の長い女が、ぐったりと酔い潰れているのを見かけた。

「あの、大丈夫ですか?」

 そんな風にヒデアキは声をかけた。

 ゴミ捨て場で横になっていた女は、目を開き、ヒデアキのことをじっと見つめた。そこにはどんな感情も浮かんではいなかった。孤島の少数部族が信仰していた女神サマが人口減によってとうとう神性を失った、そういう雰囲気であった。

 肩にかかる茶髪。灰色のダッフルコート。チェック柄のスカートに真っ黒のタイツ。そして、まるで妖精の国を旅するかのようなロングブーツ。

 ヒデアキは、ただ、彼女を美人だと思う。

 女はゆっくりと起き上がる。

「ああ、そうか――」と彼女はぼやいた。「私、眠っちゃってたみたいだね」

「はあ?」

 ヒデアキはすぐに彼女に駆け寄って、肩を貸した。

「酔い潰れてるなら、安全な場所まで運びますよ。ニュースとか見てないんですか? いま、都内、通り魔とかメッチャ起きてて大変ですよ」

「どうでもいいけど」

 女は微笑み、しかし、ヒデアキの腕を振りほどいたりはしなかった。

「少年は優しいね?」

「えっ?」

「こんなに優しい少年のことだ。きっと、どんな女の子だって少年に愛されたら嬉しいだろうね」

 女は退廃的に笑いながら、ヒデアキのことをじっと見つめてきた。

 そうして、ヒデアキも思い出す。この人、藍沢テトラって名前だ。十年以上前にメディアを賑わせたことのある元・天才少女。

 テトラは十四歳の幼さでメジャーデビューを果たし、二枚組のアルバムと一本の私小説を出した。そして、翌年、ファンを名乗るストーカーに殺人未遂を起こされると、今に至るまで二作目を発表できないまま活動休止でいる。

 ――歌わない歌姫。それがテトラの二つ名であった。

 なんでそんな女が、ここにいるんだ。

 戸惑うヒデアキの耳もとで、テトラは囁いた。

「少年。キミのお家で寝かせてくれないか?」


  ※※※※


 十四年前。

 藍沢テトラがその才能を見出されたのは、中学校の文化祭だった。軽音楽部の演奏が行なわれる数日前から、ボーカルの女の子が喉を腫らして休み続けていたのだ。

 仕方なくそのバンドは、いつも教室の隅で本を読んでいるだけのテトラに声をかけた。

「歌が上手いのは知ってるよ、テトラ。音楽の授業、いつも褒められてんじゃん」

 ギターの子がそんな風に誘って、テトラは逆らうそぶりも見せないままマイクを握った。

 ――もしもその文化祭に、OBである実業家の一ノ瀬ユージが気まぐれで顔を出していなければ、きっと彼女の歌が表舞台に出ることはなかっただろう。

 ユージは雷に打たれた。

 彼はすぐに友人の八木啓(啓と書いてヒラクと読む)に電話をかけた。――大手レコード会社のプロデューサとして確実なキャリアを積んでいる八木を純粋に助けたいと思ったのだ。

「おい! 八木! お前のほしい天才を見つけた! あの子の歌声は本物だぞ!」

 こうして、藍沢テトラは世間に見つかった。

 大人たちが驚いたのは、藍沢テトラは単に歌が良いというだけではなく、作詞作曲の才能も持っているということだった。

「驚いたな」と八木は呟いた。「自分の作品を誰かに聴かせる気にならなかったのか?」

「いえ」

 当時十四歳の彼女は伏し目がちに答えた。

「自分が落ち着くための作曲でしたので」

 こうして、テトラは大人たちに言われるがままに、既に作り終えていた自分の曲をステージで歌い、テレビやラジオに出てまた歌い、そして長いレコーディングの末に二枚組のデビューアルバムを出した。付録には彼女自身の書いた拙い私小説もあった。

 そのとき、たしかに世間はテトラに軽く熱狂していた。

 ――だが、終わりはすぐにやってきた。

 ファンを名乗る男が、帰宅途中のテトラを待ち伏せし、その体を金属バットで何度も殴打した。頭蓋骨陥没と全身打撲の重体でテトラは病院に運ばれ、何度も生死の境を彷徨った。

 男はすぐに逮捕され、やがて、拘置所で自分の腕を噛み切って命を絶ったと言われている。

 男の供述はこうだった。

《彼女の歌を聴いて分かった。あの歌はオレと彼女のことを歌ってるんだって。ここじゃない世界で、オレたちは愛し合ってた。なのにあいつは、テトラは、こっちの世界ではそんなことはまるで覚えてなくって、オレのことをなんとも思ってないんだ。そんなの許せないだろうが!》

 要するに、アタマのイカれたストーカーの凶行というわけだった。テトラは、だから初めのうちは、高すぎる有名税を支払わされた哀れな被害者という扱いだった。

 ――だがそんな世間の目も、テトラが意識を取り戻すと一変した。

 まず、なぜか、テトラは以前のような伏し目がちの話しかたをやめていた。

 あるときは飄々と、

「もう藍沢テトラという人間はここにいないんですよ、皆さん。ここに残ったのはその器と、バラバラになった魂の残り屑だけなんです」

 そんな風に煙に巻くような言いかたをした。

 また、あるときは、

「意地悪しないで。やだ。あたし、テトラじゃない。そんなひと知らない」

 と泣き続けた。

 そしてまたあるときは、雑誌記者の胸ぐらを平気で掴みながら、男のような口調で怒鳴り続けた。

「お前もテトラを傷つけんのか? ああ? オレの許可なくテトラに触んな! ブチ殺すぞ!!」

 ――こういった奇行の数々が、少しずつテトラの周りの雲行きを怪しくした。

 人は綺麗な被害者しか求めない。

 テトラは、いつの間にか《哀れな被害者》ではなく《奇妙な道化》になり、そして酷い場合には《若い男を誑かして犯罪に走らせた魔性の女》という扱いを受けるようになった。

 そして事件が起きた。

 藍沢テトラの復帰ライブは彼女が十六歳のとき行なわれた。それは生演奏と生配信を是とする番組で、堂々と歌う姿を大勢に見せることがなによりアピールになるとレーベルは信じていた。

 テトラは一曲目が始まると同時に、電源の入ったトランシーバー型のマイクを床に落とす。

 騒音がスタジオに鳴り響き、観客が不愉快げに顔をしかめた。

 異変に気付いたのは、当時、バックバンドでエレキギターを鳴らしていた谷崎ハジメだった。

「――どうした? テトラちゃん!」

「あ、ああ、あああ――ああああ!」

 テトラは両手で頭を抱えてうずくまった。膝をつき、肘で体を支えながら、彼女は泣き叫んでいた。

「イヤああああああああ!!!!! もうイヤああああああああ!!!!」

 涙と、鼻水と、涎をボタボタと垂らしながら、テトラは浅い呼吸を繰り返し、ヒュッ、ヒュッ、という音を立ててその場に倒れ込む。

 谷崎ハジメはギターをかなぐり捨てて、苦しみ続ける彼女に駆け寄る。

「テトラちゃん! 息だ! 息しないと!」

 ハジメは彼女を抱きかかえた。

「救護スタッフを呼んでくれ。演奏は中止だ! この様子見りゃ分かるだろそんなの、早くしろよ!!」

 だが、全員の反応はいったん遅れる。《またテトラちゃんのよくある奇行だろ?》と、無意識にでも思ってしまっているのだ。

 そうして、事態を呑み込めていないカメラマンがテトラにレンズを寄せる。

 ハジメが激昂した。

「テメエこれが見世物に見えんのか!? いいからさっさと医者を呼んでこい!!」

 彼の人柄を知っている人は皆、口を揃えてこう言う。

《ハジメがキレるのを見たのはあれが最初で最後だな》


 ――テトラはそのまま気絶した。


 さて、

 それからテトラはいちどもステージで歌っていない。自分の音楽もつくっていない。そんな彼女が大手レコード会社であるマイヤーズミュージックとの契約を続けていられるのは、テトラを悲劇へと巻き込んだ八木の罪悪感か、それとも彼女のクビを切るほうが企業に悪印象を与えるという商業的な判断か。

 もちろん現実の藍沢テトラは細々と、提携会社の音楽雑誌にエッセイの類を書いたり、対談に顔を出したり、アイドルグループに楽曲を提供したりして収入を得ている。しかし、それでも、彼女はもう自分の声で歌うことはなかった。自分のための楽曲も全くつくっていない。だから世間は自然と藍沢テトラを忘れていった。

 いま世間が注目している天才は《九条アヲイ》という若いロックスターと、その同世代のライバルたちだ。それに比べれば、ただでさえ二十八歳のテトラに目をつける理由はなにもなかったのだ。世間のほうの都合では。

 ――世界はテトラを忘却した。世界はテトラを不要と見なした。そうして世界はテトラが不在のまま健全に回っていく。

 だから、だからこそ、彼女を覚えている《僕》が語ろうと思う。

 これは、かつて歌声を奪われた少女が、自分の歌を取り戻そうとする物語だ。

 もちろん結局なにも取り返せないかもしれない。取り返すまでの過程で失うものが、得るものよりも多いかもしれない。いずれにせよ犠牲になった十数年は帰らない。

 だから、最初からなにもしなければよかった、という結論に収まっても《僕》は反論をしないだろう。

 ――だけど、奪われたものはいつか取り返さなくてはいけないんだ。

 これはそういう物語だ。正しくない、美しくない、でもそういう誇りを持って生きていきたいと願う《僕》のような人のための物語だ。

《僕》の名前?

 ヴァージンブレイドのギターボーカル、沖田レインだ。《僕》もまた、かつて失われたものを取り戻すために生きている。そして、それはまた別の物語だ。


  ※※※※


 再び2月1日(火)18:00

 高円寺のカフェバーに藍沢テトラは顔を出していた。旧友の谷崎ハジメに呼び出されたからだ。

 もっとも、そのときの人格のテトラは、ハジメが旧友だということを単なる情報としてしか知らない。元々のテトラと感情自体を共有しているわけではないからだ。

「よう、テトラちゃん!」

 カウンター席のハジメが笑いかけ、ひとつに結んでいたブラウンの長髪をほどく。そしてアゴ髭をさすると――いつもの癖だ――マスターを手招きしてカクテルを注文した。

「年末にも、年明けのパーティにも来なかったろ。あのトワ坊でさえ来たっていうのに。だから顔を観たかったんだ」

 ハジメは焼酎を飲む。

「ええ?」とテトラは言った。「私が来たって、話すことはなにもなかったと思うよ? マイヤーズミュージックの年末年始に顔を出すのは、その年にちゃんと活動したミュージシャンなんだから。ハジメさんとサシで飲めるっていうなら、話は別だけど」

「テトラちゃんの話を聞きたい同業はたくさんいるさ」

 ハジメはグラスの中の氷をカラカラと回す。

「そんな人、いないよ」とテトラは言った。「私はとっくに終わってるからね。期待してくれてるのはハジメさんだけだよ」

 そうしてカフェバーには音楽が流れ始めた。この店にはステージがあって、予約すれば誰でも表現を垂れ流していいことになっている。

 詩人の朗読でも、批評家のトークショーでも、そしてアマチュアのミュージシャンでもなんでも。

 今日、予約をしているのは三人組のガールズバンドであった。テトラは壁にかかった演目を確認する。

 ――MER。フランス語で「海」と「結婚した」の両方を意味する言葉が、そのガールズバンドの名前だった。

 ごく数人の男性のファンが拍手を送る。どうやらMERとは、その三人組の名前の頭文字を取った名前のようだった。

 三島モモコのM。ギターボーカル。

 九条ヱチカのE。シンセサイザー。

 勅使河原リンネのR。ドラム。

 そういう女の子たちの集まりが洋楽を懸命にカバーする姿が、テトラには眩しかった。

 ハジメも目を細めている。

 この三人の中で、最も技術が高いのはヱチカという女の子だろう。シンセサイザーを2台用意して、左手でベースラインを弾き、右手でキーボードパートを弾くことでバンドの人数不足を補っている。その手つきには少しの淀みもなかった。

 たぶん、彼女がバンドの技術的支柱だ。

 リンネという子のドラムはまだぎこちない。もっと酷いのはモモコという子のギターだった。おそらく練習を真っ当に始めてから数ヶ月というところだし、歌声の硬さもぜんぜんボーカル向きと言えない。

 しかし、きっとこのバンドはモモコを中心にして組まれているのだとその場所にいる誰もが分かった。

 彼女の熱意が他の2人を引っ張っているからだ。

 そうして奏でられるのが、Weezerの『The World Has Turned And Left Me Here』の変奏だった。

「いいね」とテトラは不意に言う。

「そうかい?」とハジメが訊いた。

「うん」

 テトラはモスコミュールを飲んだ。「ああいう芯のある歌声に導かれる人たちは、きっと幸せなんだよ」

 ハジメはセブンスターを咥えた。

「なあ、テトラちゃん」

「なに?」

「もういちどだけステージに立ってみる気は本当にないのかい?」

 テトラはハジメの真剣な目を見て苦笑するしかない。

「よしてよ、ハジメさん。言ったと思うけど、私はもう辞めたんだよ。どんな人も、私の歌なんて期待してない」

 タバコの煙が流れる。

「テトラちゃんは今は休んでるだけさ。少なくとも、俺はそう思ってるんだ。ずっと待ってる。そのことだけは伝えておきたいんだ」

「知ってる」とテトラは副流煙を吸う。「ハジメさんは毎年そんな風に私に言ってくれるから。そういう優しいところ好きだよ、友人としてだけどね」

 演奏が続く。モモコという女の子の歌声は切実で、上手い下手を越えて美しいものだと、この場所に響き渡る価値があるとテトラ個人は思った。

「なあ、ひとつ聞かせてくれないか?」

 とハジメは言った。

「今のテトラちゃんは本当に、昔とは違うのか?」

 彼の声に応じるように、テトラは寂しく笑った。

「ごめんね、うん、元々の私じゃないんだ。今はトリィ――藍沢トリィだよ」


  ※※※※


 ハジメと別れて、自分の賃貸マンションがある阿佐ヶ谷の街を歩きながらテトラは頭を抱えていた。自分がどうしてここにいるのか分からない。だけど、ハジメに言われたことだけは思い出せる――彼と話しているときのテトラとは、別のテトラになっていても。

《テトラちゃんは今は休んでるだけさ》

 その優しい声色が、余計にテトラを追い詰めていた。

「そんなわけないよお」

 テトラはふらふらと、両手で頭を抱えながら路地を歩くしかなかった。

「テトラがどんな風に歌ってたかなんて、そんなの知らないもん。あたしになにができるの。分かんない分かんない分かんないんだよおもう――!」

 そうして彼女は向かいから来たカップルにぶつかり、そのままゴミ捨て場に倒れ込む。

 カップルは彼女を嘲笑った。

「――うわっ、汚えっ」

「キモッ、早く行こ?」

 真冬の寒空で倒れ込むテトラを誰も助けない。誰も手を差し伸べない。誰かが助ければいいやと思いながら冷笑をするだけだ。いや、《誰かが助ければいい》と思うような上等な人種だって今は希少なものだろう。

 それが世界だ。

 テトラは涙を流しながらその場にずっといた。

 寒いな。

 あたし、このまま寒くって死んじゃうのかな。

 だけど、別にいいか。

 だって、あたしが歌ってた歌を聴いてくれるヒトなんてもう誰もいないもん。もう、あたしなんかいなくてもどうでもいい、そういう風になってるんだもん。だから、どうでもいい。

 ――そんなときだった。

「あの、大丈夫ですか?」

 という声がテトラの耳に聞こえた。自分よりもずっと年下の男の子の言葉だった。

「ああ、そうか――」

 とテトラはぼやいた。

 夜空を見ると月の位置が少しだけ変わっているのが分かる。1時間かそこら、意識がなかったようだ。

「私、眠っちゃってたみたいだね」

 男の子はすぐに彼女に駆け寄って、肩を貸した。

「酔い潰れてるなら安全な場所まで運びますよ。ニュースとか見てないんですか? いま、都内、通り魔とかメッチャ起きてて大変ですよ」

「どうでもいいけど」

 テトラは微笑み、しかし、彼の腕を振りほどく気なんて少しも起きない。

「少年は優しいね?」

「えっ?」

「こんなに優しい少年のことだ。きっと、どんな女の子だって少年に愛されたら嬉しいだろうね」

 テトラは笑いながら、自分を助けてくれた男の子のことを、じっと見つめた。

 少し伸びた黒髪で、顔立ちは整っている。だが、純粋な心の在りかたが表情に出すぎている。きっと同年代にはあまりモテないタイプだろう。

 そんな不器用さが、寒空の下の優しさが、テトラの身に染みた。彼が特別だなんて言う気はない。だけど、他に助けてくれる人が誰もいなかったのも事実だった。

 テトラは自分の口調が混乱しているのを自覚する。人格が交代しているからだ。

 そうして彼の耳もとに静かに唇を寄せた。

「――少年。キミのお家で寝かせてくれないか?」

 それが始まりだった。


  ※※※※


 2月1日(火)24:00

 浜辺ヒデアキの家に連れられた藍沢テトラは、彼が急いで沸かしたお風呂にゆっくりと入り、彼の部屋着を拝借しながら風呂場から出ると、彼の入れたホットミルクをゆっくりと飲んだ。

「本当にもう」とヒデアキは言った。「凍死したっておかしくなかったんですよ?」

「そう?」とテトラは笑った。「じゃあ少年は、私の命の恩人ってわけだね」

「いやっ、その――別に恩着せがましいことを言うつもりはないんですけど」

「ふふふ」

 テトラはホットミルクを飲み終えると、ヴィトンのバッグからセブンスターを取り出した。

「灰皿はどこなの?」

「ないので、缶に適当に」

「はーい」

 テトラはタバコを美味そうにゆっくりと吸った。それを眺めていると、ヒデアキは、そういえばキョウカさんも喫煙者だった、と思い出す。

 俺、タバコ吸う女の人に弱いのかな。

 そんな考えが頭に浮かんで、すぐに、ブンブンと首を振ってそれを追い出した。

 ――なに考えてんだよ、俺はバカか?

 そんな様子をテトラは楽しそうに眺めてきた。

「少年、お酒はないのかな?」

「ありません。体に毒ですよ」

「人は生きていれば死ぬよ? どうせ早いか遅いかの違いだろ」

 そうして彼女はスパーッと煙を吐いて腕を組む。

「わかった。キミが近くのコンビニまでビールを買ってくるまで待ってあげよう」

「――はあ?」

 こうして、ヒデアキは寒空の下、徒歩3分ほどのコンビニでアルコールとつまみと夜食、それから彼女が吸っていたタバコと同じ銘柄を注文して帰路についた。

 俺、なにやってんだろう。

 倒れていた女を助けてあげたと思ったら、とっくに相手のペースにハマっていた。年上の有名な美人の。

 部屋に戻ると、テトラはテレビをつけてミュージシャンのステージを眺めていた。数日前に収録した映像を再放送しているらしい。

 ヒデアキはテトラの隣に腰を下ろす。そこに映っていたのは彼もよく知っている顔であった。

 バンド名は『感傷的なシンセシス』。ギターボーカルは彼と同じゼミに在籍している、九条アヲイだった。いや、今は名字が変わっているんだっけ。

 ヒデアキの目には、彼女は奇妙に思えた。言葉は悪いかもしれないが、ネットやメディア等での彼女の評判は最悪だった。

 業界の関係者を性的にたぶらかしていたとか、イケメンバンドを引き込む代わりに古巣のメンバーを追い出していたとか。

 あげくの果てに、アヲイは、スキャンダルまみれの芸能人と喧嘩したり、メジャーデビュー直後に行方不明になって世間に大迷惑をかけたりしていたという。

 だから今でもネットは、そんなアヲイに対する醜い罵詈雑言で溢れ返っていた。

 ――不思議だなとヒデアキは思う。

 ゼミの教室でときどき会う彼女は、そういうイメージとは大きくかけ離れていた。

「――テレビと本人じゃだいぶ違うな」

 そんな風にヒデアキが呟くと、隣のテトラが、フフッ――と笑った。

「そういえば、少年、私も彼女の妹らしき子に今日は会ったよ。高円寺のアマチュアステージでシンセサイザーを鳴らしてた。三人組のバンドで、ね」

「そうなんですか?」

「ポスターに名前が書かれていたが、あんな珍しい名字は滅多にないだろう」

「ふうん」と、ヒデアキもビールを飲んだ。「姉妹そろってミュージシャンってわけか。血筋なんですか? そういうの」

「違うね」

 とテトラは答えた。「ヱチカとアヲイは血の繋がった姉妹じゃないよ」

「そうなんですか?」

「骨格が違う。でも雰囲気は似ている。あれは義理の姉妹だね」

「そういうの、見てわかるんですか?」

「うん」と言ってから、テトラは呟く。

「本当に音楽の才能があったのは、アヲイのほうじゃなくてヱチカのほうだよ。妹のほう。彼女をその気にさせれば半年で姉を抜くと思う」

「えっ――?」

 ヒデアキは絶句した。メジャーで活躍している姉のアヲイより、アマチュアとして演奏している妹のほうが才能がある?

 なんだ、それ。なんでだよ。

「そんなこと、どうして分かるんですか?」

 とヒデアキが訊くと、

「耳がいいから――両方聴けば分かるんだ」

 そんな風にテトラは答えた。

 ヒデアキは、直接的に疑問をぶつけることにした。

「だったら、なんでヱチカさんのほうが今はアマチュアで、アヲイさんのほうがメジャーアーティストなんですか」

 テトラは静かに笑った。

「ヱチカちゃんのほうが挫けやすい性格だったから、かな。生育環境もあったんだろう。まあ、でも、だとしても、挫折したのは彼女自身の責任だから、誰も尻ぬぐいはしてくれないんだよ」

 テトラの冷たい言葉に(事実はどうあれ、ヒデアキはそれを冷たいと思った)、彼は黙るしかなかった。

 ヒデアキは俯いたままだった。

 テトラは缶ビールを口に含んでから、「でもまあ」と言葉を繋いだ。

「今は音楽に戻ってきた」

 それを聞いたヒデアキは、苦し紛れに、

「あなたと違って、ですか?」

 と言ってみた。

 ――藍沢テトラは十四歳でデビューし、そのあとストーカーに襲われ、それ以降なにも歌わず、なんの発表もできないでいる。

 言ってからヒデアキはすぐに後悔した。こんな風に人のトラウマを刺激するべきではなかった。

 だが、テトラはとくに怒らなかった。

「うん、そうだね。だから――」と、そういう風に自虐的に言葉を繋いだ。

「私はあの妹さんよりもずっと弱虫の意気地なしで、挫けたまま立ち上がることができないだけなんだろう」

 彼女の言いかたに、ヒデアキはとっくにうなだれていた。なんてバカなことを言って、彼女のことを余計に苦しめてしまったんだろうと思う。

 そんな彼を見て、不思議なことに、テトラは朗らかにも笑った。

「少年、キミに会えて私はよかったんだ。これからもときどき遊びにきていいかい」

「――えっえ?」

 ヒデアキが顔を上げたとき、彼女は彼のベッドを借りてとっくに眠ろうとしていた。

 なんだ、この人――とヒデアキは思った。

 テトラは眠りについていた。


  ※※※※


 誰かが言った。

「人は自分が思うほど天才でもなければ、自分が思うほど凡才でもない。ただ肝心なのは、特別な誰かが自分のことを見つけてくれるその日まで、諦めずメーデーを発信し続けることなんだ。いいかい、その《特別な誰か》以外の言葉は信じずに、ひたすら、続けることなんだ」


  ※※※※


 まあ、とはいえ――。

 浜辺ヒデアキは、その夜、ほとんど寝つけなかった。自分は床にマットを敷いて横になったが、ベッドでは謎の年上の美人が眠っていて、そうして部屋中にタバコの香りと、うっすらと香水の匂いとが漂っていたわけだ。

 それは彼にとって初めての経験と言ってもよかった。

 だから彼は、うとうとと眠気に襲われては覚醒し、それを繰り返しながら夜明けを待ったあと、彼女の朝食を買いにいこうかと部屋を出た。

 テーブルに書き置きを残す。《これから朝ごはんを買ってきますね。途中で起きても待っていてください。なにか食べないとダメですから。無理強いはしませんけど》

 やれやれ。

 この《僕》なんかは、こういう少年の初心な振る舞いを好ましく思うのだが、それは世間的にはどうなんだろう?


  ※※※※


 2月2日(水)09:00

 浜辺ヒデアキが朝のコンビニで朝食を買い、自分のアパートに戻ってきた頃には、とっくに藍沢テトラは目覚めていた。

「ああ、起きてたんですね。おはようございます」

 ほんと、昨日は驚きましたよ――と言いながら彼が靴を脱いでいると、テトラは、びくっと震えた。

 そして、両手をワナワナと顔を前で震わせると、ベッドの上で体育座り、まるで体全体を守るかのようにうずくまった。

「? テトラさん? どうかしたんですか?」

 ヒデアキがそう呼びかけると、

「ここって、どこなの――?」

 とテトラは訊いてきた。その顔色は真っ青で、ほとんど恐慌状態だった。

「あたし、なんでここにいるの――? あ、あっあ、あなた誰っ――?」

「テトラさん?」

 ヒデアキは異変に気づき、買い物袋を廊下に置くと、彼女に駆け寄った。

「どうしたんですか? 飲みすぎて、昨日のこと忘れちゃいましたか?」

「昨日? しっ、知らない。なんであたしのことテトラって知ってるの」

「えっ?」

 ヒデアキにはわけが分からない。でも、彼が事情を呑み込めるのかどうかとは関係なく、テトラのパニックは少しずつ大きくなっていくわけだ。

「ああっ、あっ、あたしを、ど、どうしたいの? もしかして誘拐なの? ひ、ひどいこと――するの?」

「なに言ってるんですか? テトラさん」

「――いやあああ、あああああ!!!!」

 テトラは両手で頭をおさえてうつぶせになる。ほっそりとした体が小刻みに痙攣していた。叫び声だ。

 ヒデアキの心臓に、彼女のパニックが伝わる。どうすればいい。どうすればいいんだよ?

「分かりました。分かりました! どうしたんですか、落ち着いてください!!」

「あっ、ああっ、ああああっ――!」

「俺は酷いことをしません! 絶対に! テトラさんを助けたいんです。昨日だって俺が助けたんじゃないですか!?」

「あああああっ、あああっ――うう」

 彼の言葉のどのタイミングで安心したのだろう、テトラの呼吸が少しずつ深くなっていった。ヒデアキは寄り添う。

 年上の女性に対して不躾かもしれないと思いながら、彼女の肩を抱き、背骨と肋骨の浮き出るような痩せた背中を彼はさすった。

「大丈夫、大丈夫ですよ、テトラさん」

「あ――あ――」

「大丈夫です。ここにはテトラさんを傷つけるヤツはいないですから」

 ヒデアキが努めて穏やかな声で呼びかけると、やっと、テトラは顔を上げた。

「ほんと――? 痛くしない――?」

 その表情と声色にヒデアキは戸惑う。まるで昨日とは別人だ、と思った。

 昨日の藍沢テトラは、歳相応の年長者として飄々と語る人生のナビゲーターという風だった。なのに今は、どちらかと言えば導かれる側の、まるで十代の迷子そのものだ。

 そんなことがありえるのだろうか?

 ヒデアキは不意に、藍沢テトラという《今は消えた》有名歌手のネット記事を思い出していた。

 ――ストーカー襲撃事件のあと、彼女は、人が変わったかのようだった。しかも、ひとりの別人に移行したのではなく、何人ものペルソナにバラバラに砕け散ったかのようだ。

 と。

 ――これが、そうなのだろうか?

 ヒデアキが戸惑いながら彼女の肩を抱いていると、不意に、彼女がじっと見つめてきた。

「信じて、いいの――?」

 それに対して思わず彼はこう言った。不用意だが、彼にとってそのタイミングで他になにを言えただろう。

「信じてください。俺はあなたの味方です――!」

 テトラはやっと落ち着いた、と、そのことにヒデアキも胸をなで下ろした。

「ご飯だって買ってきましたよ。いっしょに食べましょう」


  ※※※※


 同じく、2月2日(水)09:00

 埼玉県北のW大付属H高等学院。1時間目は運よく自習ということになったので、川原シキは、勉強もそこそこに趣味の本を開く。

 ――はーあ。

 お兄ちゃんたち大学生はもう冬休みだっていうのに、こっちはまだ授業があるんだもん。現役高校生の辛いところだな。

 まあ、お兄ちゃんは普通の大学生とは違って仕事もあるから、簡単に気楽とは言えないけどさあ。

 シキが読書に没頭しようとしていると、隣の席のヒナが声をかけてきた。

「ねえシキちゃん。また起きたらしいよ――例の事件」

「ほへえ?」

 シキは顔を上げる。と、ヒナはスマートフォンの画面を見せてきた。

 例の事件。

 それは去年のクリスマス頃から起きている、不思議な連続通り魔殺人事件のことだった。今回の事件でもう八件目になる。

 通り魔なのに連続とは、いったいどういうことか。だがそれこそがこの事件の謎なのだ。

 今回の殺人は、吉祥寺のサイゼリヤ前で発生した。ある女性が半狂乱になって、その場を通りすがった別の女性を骨董ナイフでメッタ刺しにした。目撃者の証言では、被害者は悲鳴を上げる暇もなかったという。そういう話は、有名SNSにゴロゴロと転がっていた。なかには事件直後の、血まみれの現場を画像でアップロードしている不謹慎なアカウントもあるくらいだった。

 こういう事件が、都内で立て続けに発生している。

 もちろん犯人はそのたび現行犯で逮捕されている。犯人同士は一切面識がないとされている。だから、それぞれの事件を結びつけるものはなにもないはずだ。常識的に言えば。

 ――しかし、だ。

 重要なのは、これらの事件には共通点があるということだった。

 まず、第一に。

 凶器は必ず骨董ナイフが使われた。それは十九世紀に実在した連続殺人鬼、ハインリヒ・K・キュルテンという謎の職人がデザインしていたものだった。五十二人を殺害したキュルテンの作品は、今でもマニアの間で高値で取り引きされているという。そのナイフが毎回使われているわけだ。

 そして第二に。

 捕らえられた犯人たちは、なぜか全員、似たり寄ったりの供述をした。

「あの女はあたしの大切な恋人を平気で奪った」

「あいつは俺の大事な仕事を自分のものにした」

「あの女は俺の告白を笑って皆の晒し者にした」

「あいつは私を小中高の間ずっといじめてきた」

 そんな感じだ。

 だが、どれだけ警察が靴底を減らして調べても、加害者と被害者の間にはなんの接点もなかった。要は、実行犯たちは、誰も彼もが《ウソの怨恨》を動機として挙げているというわけだった。

 精神鑑定は順に行なわれているようだが、そこから目立った成果が上がったという話は聞かない。

 全員正気なのだ。

 これら二つの共通点が、一連の事柄を「偶然的に多発している通り魔殺人事件」ではなく「なにかしらの必然性を持った連続殺人事件」という風に思わせていたのだった。

 ――んで。

 ヒナはこの事件に、乙女丸出しで夢中なのだった。

「名探偵シキちゃん! この事件の真相はっ!?」

 とか言ってくるし。

 シキは溜め息をついた。

「ただの偶然だよ偶然。まあ、犯人の皆さんは全員そのヤバい奴のナイフを持ってたんでしょ。じゃあ、頭がおかしくても不思議じゃないよ。人間の頭のおかしさにはまあパターンだってあるから、皆が似たパターンの言い訳をしても変じゃない。以上、これが真相だよワトソンくん」

「えーっ?!」と、ヒナは露骨に不満そうな顔をする。

 川原シキは、ああ、日本は平和だなあと思った。すくすくと育ってのびのびと生きてすやすやと死ねる、それが当たり前の社会だからこそ、そうではない、ちょっと頭のおかしい事件が娯楽のように皆を賑わすのだ。

 もっと酷い国なら、惨い殺人事件なんてただの日常だから誰も注目したりはしない。

 虐待とかいじめを描く物語もそうだ。あれは、それが日常的ではないから《お話》になるのであって、多数派の人間にとってはただの面白い娯楽でしかない。

 ヒナはつまらなそうにしているけど。

「こんなの絶対に偶然じゃないよ!」

 と彼女は言った。

「他になんか、なんかないの? シキちゃん、ミステリいっぱい読んでるでしょ? ――こういう事件に上手い理屈とかつけられないの?」

「ミステリは遊びだから理屈がつくんだよ。現実に納得のいく理屈が通ったことなんかないじゃん」

 シキは簡単に言い返したが、それだけだとヒナが可哀想だと思ったから、彼女はちょっと脳ミソを使ってあげた。

「――まあ、たとえばさ」とシキは言葉を繋ぐ。「犯人同士に繋がりがないのに、事件に繋がりがある。こういうときは、それを指示している黒幕がいるんだ。で、なんで皆が黒幕の指示を聞くかというと、それが得になるからなの。たとえば、本当に恨んでいる相手を別の誰かが殺してくれる代わりに、自分は誰かが本気で恨んでいる相手を殺してあげる。そうすると、動機という観点では加害者と被害者のリンクが切れて、皆が捕まりにくくなる」

「うんっ、うん」

「でも今回の事件はそれとは違う。――だって実行犯は普通に捕まっちゃってるんだもん。だからそういう常識的な合理性とは違うんだと思うね」

「じゃあ、なんなの?」

 そのとき、ヒナが面白そうに訊いてきたとき、

 シキの頭に突拍子もないアイデアが浮かんだ。

 なんでこんなことを思いついたんだろうとシキは少し思いながら、

「――笑わない?」

 と訊いた。

「笑わないよ! 教えてよお!」

「黒幕は、現代の科学では理解不能な力を持っている」

「えっ?」

 ヒナの戸惑う顔を見て、だよね、分からないよね、とシキは思いながら、結局は喋った。

「犯人が誰かに《ウソの怨恨》を植えつけることができるヤツだったら、全部の辻褄が合うよ。ナイフは、あのヤバいナイフは、そいつが誰かに記憶を植えつけるための、そいつなりのオマジナイなんだよ」


  ※※※※


 同じく、2月2日(水)09:00

 出勤途中の北川亜希子というシステムエンジニアは、千駄ヶ谷の改札を出たところで奇妙な男性と出会った。

 彼は長身に、銀縁の眼鏡、そして白いコートに白いタートルネックのセーターを合わせた――靴だけ真っ黒だった――なにか絵になるような美形の男だった。

「――?」

 彼女の目には、彼がフラフラと探しものをしているように見えた。もしかして、大事な書類でも落としてしまったのだろうか?

「あのっ、手伝いましょうか?」

 彼女が声をかけると、その男性は、ぱあっと、助かりましたありがとう、とでもいうような顔をした。透き通った爽やかな顔だった。

「よかった」

 と男性は言った。

「あなたは、上手く思い出せそうだ」

「――え?」

 亜希子が戸惑っていると、男性はポケットから鋭利なナイフを取り出した。市販のものとは違う、たぶん、芸術家気質の几帳面な偉人が丹精込めてつくったようなものだろう。

 だから、あまり凶器特有の威圧感はない。

 彼女は、思わずその刃物を受け取った。

 男性は朗らかに言う。

「君は思い出すんだ。その日が来たら、ウソの仇敵をその手で討つといい」

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