第8話 ROLLBACK


  ※※※※


 伊角タエコは、ふわー、と思いながら、感傷的なシンセシスのメンバーが去っていくのを眺めていた。

 あれが、同じゼミのアヲイ?

 一ヶ月以上前にひょっこりと大学に顔を出し、いっしょに書類の手続きに四苦八苦し、最後に「ありがと、タエコ」と照れるように笑ったアヲイだったのか。

 まるで別人だ、と思った。即興が始まってからは特にそうだったのだが、――上手く言えないけれど、――まるでこちらの「次はこういう音がほしい。こういう音が鳴ると気持ちいい」という気持ちが全部相手にバレているみたいだった。

 自然に、アヲイに自分の気持ちを流し込んでいた、というほうが正しいかもしれない。

 キョウカが「いいね」と言った。「本人の技術もそうだけれど、周囲もなかなかだった。アヲイ、インプロのときにほとんど合図も号令も出してなかったでしょ? なのにあの変化の多さによく対応できるね」

「えっ」とタエコが途方に暮れる。「事前に打ち合わせてたんじゃないの?」

「違うと思う」

 キョウカはタエコの顔を見た。

「タエコも感じたでしょ? アヲイは、観客のリアクションを逐一見ていたわけじゃないけど、そこに対応してた。だから、あれって、たとえ事前の打ち合わせがあったとしても途中からは完全な即興だよ」

「ええ――そんな」

 タエコは二つの意味で狼狽えた。ひとつめは、

 ――そんな芸当、メジャーデビューしたばかりの、私たちと同い年の子たちにできるの?

 ふたつめは、

 ――キョウカちゃんは「リアクションに対応していた」とか「技術」とか言うけど、違うくない?

 ということだった。

 だって、アヲイのギターは、観客の歓声や表情に後追いで追随したわけじゃなかった。

 まるで、心が読めるか、ちょっと未来が見えるか、そういう感じだった。

 ――でも、タエコは反論しなかった。キョウカはそういう非科学的な話を好まないだろうし、もし言っても「そういう心理的な技術もあるでしょ?」みたいな正論を言うだろう。

 ううーん。だけど、私は違うと思うんだけどな――。

 ときどき思うことがある。

 ――幽霊の存在とかを認めない人たちって、たとえ倫理的には寛容でも、存在論的には不寛容だな、って。

「ようよう」とハスタが口を挟んだ。「アヲイも最高だったけど、いよいよ藍沢テトラだぜ! 来るぜ!」

 そのとき、

「テトラさん」と声を漏らしたのは、ヒデアキだった。

 キョウカの目が厳しくなる。

 ソユルが「ヒデアキもテトラ好きか?」と訊いた。

「えっ」とヒデアキは顔を上げた。それまで両手の指を組んで祈るようにしていたが、慌てた様子で「ああ、まあ、最近ファンになった感じ」と笑った。

 ――そうなんだ。

 とタエコは思う。

「美人だもんな」とハスタは言う。

 ヒデアキは「それは音楽とは関係ないだろ」と躱すみたいに言った。

 タエコの胸に、《美人》という言葉が突き刺さった。

 ――やっぱり、ヒデアキってキレイ系の顔の女の人が好きなのかなあ。

 キョウカちゃんも美人だし。ちょっと怖いくらいに。だからテトラって歌姫のファンにもなったの?

 ――いやだな。

 好きな人の好きなものを知って、邪推して、嫉妬や劣等感を覚えてしまう自分がイヤだ、とタエコは思った。

 ――どうせ私は童顔だし。

 どうせ童顔だしと思って、勝負をする前から諦めて、ヒデアキの恋の相談なんかに乗って――ヒデアキが振られると、落ち込むと同時にホッとした自分がいたんだ。

 なんていうか。

 すごい悪人というわけですらない、等身大に卑怯な自分自身が、さっきまでステージに立っていたアヲイと対照になっているみたいで、少し辛い。


 そうして、藍沢テトラがバックバンドを連れてゆっくりと歩いてきた。

 ホールのごく一部から熱狂的な声が上がる。たぶん、十年以上前からのファンたちだ。

 背が高い。たしか、ウィキでは171cm。茶髪を肩まで軽く伸ばし、ステージ服はノーネクタイの黒タキシード。

 寂しげな影を残す美しい顔立ちをしていて、その瞳は、嵐の前の夜の海みたいに真っ黒だった。

 ――少し眉をひそめ、辛そうな表情だと分かる。相当なブランクで、緊張しているのだろうか。

 息苦しさを誤魔化したいのだろう、ブラウスのボタンをいくつかはずして、ネックレスを外に出した。


  ※※※※


 瀧千秋(千秋と書いてセンシュウと読む)は、彼女の登場を見たあとゆっくりと眼鏡を外し、丁寧に拭いてから顔に戻した。

 ――藍沢テトラ。

 やっと頑張って戻ってきたんだね。これまで辛いことがたくさんあったろうに。君は、一人の力でここまで帰ってこれたんだ。

 すごいな。カッコいいよ。

 ――最近は物騒な事件も起きていたじゃないか。昔の自分と重ね合わせて怖くならなかったのか?

 テレビを見る君を不安にするためだけに、僕が、いいかい、僕が何人殺さなくちゃいけなかったか分かるのか?

 ――藍沢テトラ。

 僕の初恋の女の子は、とても勇敢で素敵な女の子だ。ねえ、それがとても嬉しいよ。

 だって、そうじゃないと、お前の人生を踏みにじり甲斐がないじゃないか。

 ――瀧は爽やかに笑った。今日の僕は久しぶりにとても幸福だ、と思った。


  ※※※※


 控えスペースを歩いて個別の休憩ルームに向かっていたアヲイは、不意に、

 ――なんだ? この、最低な感じ?

 と思った。

 頭痛がして、思わずよろめく。ユーヒチの体にしがみついて、「なっ――」と声が漏れた。

「なんだ、こいつ――これ、なんだよ――?」

「大丈夫か?」

 ユーヒチが背をさする。

「うっ」

 アヲイは口もとを抑える。強烈な吐き気。たぶんトイレは間に合わないだろう。

 ――こんな、こんな心底腐り切ったヤツの気持ち、今までいちども流れ込んできたことがない――。

 ユーヒチはポケットから嘔吐用の袋を取り出し、彼女の顔の前に運んだ。吐き癖のある彼女のために、いつも持っている。

「アヲイ、いいんだ、スッキリしろ」

「――げええええええええ」

 彼女が屈み込んで胃の中のものを吐き出すのを、ユーヒチは全身で包むように隠してくれた。

 ユーヒチはアヲイの背中を撫で続ける。「ちゃんと吐けたな。偉いぞ」

 その様子を、ガロウもシシスケも呆然とした様子で眺めているのが分かった。リョウもただ立ち尽くしている。

 邪気の在りかが、ハッキリ分かった。

 ――CブロックP列135。

 アヲイは口もとをぬぐって体を起こし、ユーヒチを見つめる。

 ――そんな心配そうな目すんなよ。

「ありがとう。ちょっとゆすいでくる」

「ああ」


 そのとき、女性スタッフが近づいてきた。

「感傷的なシンセシスの九条アヲイさんですね」

「――あ?」

 アヲイが振り返ると、その女性スタッフは、顔色ひとつ変えずに言った。

「八木本部長からの伝言です。一字一句違わず読み上げます。『分かったのか? 分かったのなら、来い』。以上です」

「おいおいおい!」とガロウが突っかかる。「なんだよそりゃ、意味わかんねえだろ! 説明しろ!」

「残念ですが」と女性スタッフは言う。「部外者への説明は一切禁じられています」

「あ?」とガロウは目を見開く。「なんだおい。こんな状況のアヲイ呼びつけといて、オレらのこと部外者だあ? ナメてんじゃねえぞ。――八木の野郎に伝えろ。話をするってんなら、なあ、テメエが来いコラ!!」

「ガロウ」とユーヒチは言う。

「この人は指示を承っているだけだ。彼女に怒鳴ってもしょうがない」

「冷静だな、ユーヒチは」とガロウは吐き捨て、しかしバツの悪そうな顔をする。

 ユーヒチは首を振った。「冷静じゃないよ。俺の代わりに怒ってくれて、ありがとな」

 そして、女性スタッフに向き直る。

「俺も同行させてください」

「無理です」とスタッフは言った。「八木本部長が今回面談を望んでいるのは、九条アヲイ一人だけです。あなたは全くの無関係なので、どうぞ休憩を、とのことです」

「――へえ」

 ユーヒチの瞳に、久しぶりにようやく怒気が満ちる。が、

 彼がなにかを言う前に、アヲイが止めた。

「大丈夫」

「――アヲイ?」

 ユーヒチの心配げな瞳に、アヲイが笑った。「ちょっと上司と話してくるだけだろ? それより、打ち上げに先に出て、いいもんキープしといてよ。――リョウもシシスケも、他のアーティストと仲良くしててほしい」

 ユーヒチは黙る。ただ心のなかで、

 ――本当に大丈夫か?

 とだけ訊いてきた。

 ――大丈夫だよ。お前の妻を信じろ、ユーヒチ。

 とアヲイも思った。ユーヒチにその気持ちは伝わるだろう。

 アヲイは少し笑い、女性スタッフのほうへ体を向けた。

「トイレ寄っていいですか? なんかゲロ吐いちって」

 そうして二人で足早に向かっていく。

 

 ――八木はこの日、黒幕がホールに来ることを分かっていたんだ。なぜ?

 アヲイは全てを勘で察している、が、同時に、ユーヒチも理屈でそれらを理解していた。

 ――ウソの記憶で通り魔を起こした事件は、別に今年から始まったわけじゃない。記念の初犯行は、十年以上前の藍沢テトラ襲撃事件だったんだ。

 あのとき藍沢テトラを襲撃した犯人はなんて供述した?

 ――別の世界で彼女とは結ばれていた。

 この言い回しは、いま流行っている事件の実行犯とあまりにも似すぎていないか。

 ありもしない恨み。

 誰も気づかなかったんだ。テトラが過去の人になっているから。そして、テトラの音楽人生に責任を持つ八木だけがそれに気づいたんだ。

 だから、藍沢テトラが復帰すれば、必ず黒幕はそこに現れるだろう。

 ハンニバル・レクターも言っている。連続殺人事件において、最も重要な手がかりは初犯の被害者との関係にある、と。

 ――えっ、あの『羊たちの沈黙』を見たことがないの?

 まあいいや。

 結論としては、だから八木はテトラの復帰を強制し、そしてテトラの復帰ステージが来るまで、アヲイを動かさずにおいたというわけだ。

 ――アヲイの力を知っている、八木が。


 アヲイが八木の部屋を訪れると、全てのカメラが壁一面のモニタに表示されている暗い空間で、彼は言った。

「よく来たな、ユージの一人娘。

 ――それで、犯人はどの座席にいるんだ?」


  ※※※※


 ハジメがCaparisonのBROCKEN FX-WMの弦にピックを当て、攻撃的に鳴らす。

 彼のプレイスタイルは、カハルのような高度な技術や、アヲイのような狂った素質に支えられているわけではない。ゆらゆらと揺らしながら、婉曲的に色気を漂わす。

 ――別に、俺のギタリストしての腕前は月並なものさ。

 でも、別にそれでいいじゃないか。

 俺たちはコンテストに出て技術点を稼ぐためにギターを弾くわけじゃない。ましてや、西洋音楽のお高くまとまった荒野に墓石を並べたいわけでもない。

 ――目の前にいる女の子を魅了して、男の子たちに「どうだ、羨ましいだろう?」と囁くために、ギターはあるのさ。

 そういえば、トワ坊のヤツはそれを最初から理解していたっけなあ。可愛げのある良い奴だ。そういえば、あいつも復帰できてよかった。

 ハジメは彼にギターを教えた日々のことも思い出す。

 オラクルオブガゼルのメンバーが、音を重ねていく。

 そして、テトラがマイクにゆっくりと近寄って、唇を開いた。

「あ、――」

 しかし、そこで声が途切れる。テトラは一歩引く。

 ――テトラちゃん、どうした? そうハジメは思った。

 やっぱりダメなのか?

 だが、テトラはそこでハジメたちに振り返らず、人差し指を一本立てる。――もう1ループちょうだい、ってことだな、これは。

 ――オーケイ。ハジメは軌道修正する。

 テトラの顔を見る。冷や汗が酷い。でも、暗黒の瞳から力が消えていない。

 どこまでも付き合ってやるさ。

 イントロをもう1ループするなか、ハジメは彼女の視線に気づく。たった一点、観客席の一方向だけを見つめている――。

 ――ヒデアキって彼氏を探しているのだと分かった。

 ああもう。妬けるよな。

 だから1曲目は、デビューアルバム2枚目の1曲目、

『Everything』なのだろうか。

 全てとは世界、そして《君》のことだ。そのふたつをイコールで結ぶテトラの歌だった。

 イントロの2ループ目が終わり、テトラは再びマイクに近づいた。直前、大きく見開く。

 ――ヒデアキを見つけたのか?

 ハジメはそう感じた。

 そして、


『あなたがもしも、明日――、

 死んでしまうとしたら――』


 歌い始めた。

 ――よし! とハジメは思った。思わず目頭が熱くなるが、無駄な感傷に身を委ねて運指に支障を来すことだけは避けなくちゃいけない。

 ごく一部のエリアから歓声が上がる。あいつらもずっと待っていたんだ。

 俺と同じように。

 最高の歌姫が帰ってくるのを!


『もうあたしは、なにもかも、

 焼き尽くす炎になって、それから会いに行く――』


  ※※※※


 観客席にいたヒデアキは、ぐっと拳を握って、でもそれだけでは足りなくて、「やった――!」と短く叫んだ。涙が溢れてくる。

 だって、なあ、テトラさんが、歌を取り戻せたんだ!

 藍沢テトラの歌は、当たり前のことだが、アルバムバージョンとは違った。そこには、14歳と28歳の大きな溝が広がって横たわっていた。

 失ったものも、手に入れたものもある。

 もうテトラは、以前のようにキンと張り詰めた高音を伸ばすことはできなかった。柔らかなファルセットに代えている。

 そして、特に『Everything』がそうなのだが、エゴイスティックな恋心を歌う歌で、それを衝動そのままにぶつけるエネルギーも衰えているように思われた。

 その代わり、テトラは、それを「こんな幼稚なことを想うあたしを許してほしい」みたいな、湿気の強いニュアンスに変えて歌い上げているのが分かる。

 もし長年のファンの表情をモニタリングすることができたとしたら、きっと、一瞬だけ落胆の表情が浮かび、次に納得の色に変わり、そして、曲が進んでいくうちに別の歓びを見出していくだろう。

 特に、後半の歌詞の《あたしはまだ、少しもオトナじゃない》という部分が、言葉の意味さえ違っていた。

 14歳が「大人じゃない」と言うのと、28歳がそう言うのとでは、違う。

 重みが。

 こうして1曲目が終わる。愛する人が世界の中心になってしまった女の子、その、幼い衝動と甘えの歌だった。

 歌い終えて長いお辞儀をしたテトラは、頭を上げてホール全体を見渡すと「お久しぶりです」と照れ笑いを浮かべた。

「おかえりー!!」という野太い男の声がどこかから聞こえる。ちょっと周囲の観客も笑う。

 テトラは苦笑して、「うん、ただいま」と言った。「ただいまって、言っていい? ここに、帰ってきてもいいかな――?」

 ――ひときわの拍手。

 テトラは「ありがとうございます」と深く頭を下げる。そうして、

 後ろのスタンドにかけていたMartinの000-28を手にとって、肩からさげた。

 フィンガーピッキングで軽く爪弾いたあと、後ろでちょっとおどけているハジメに、「あー、1曲だけ1人で歌うから、飲み物飲んでて?」と声をかける。

 肩をすくめるハジメに軽い笑い声が上がる。

「ごめんね、ハジメ」

 そして、

 2曲目が始まった。

 デビューアルバム1枚目のクライマックス曲。『あたしがいなくても』


 優しいギターの音に合わせて彼女が口を開く。


  ※※※※


 彼女が2曲目を歌い始めた瞬間、


 キョウカは数年前の、セツナの前に立っていた。

 タエコは数ヶ月前のヒデアキの前に座っていた。

 そしてハジメは、

 どことも分からない部屋のベッドで横になっていた。


 ――他の観客に同じようなことが起きたかどうかは知らない。少なくとも《僕》にはない。


 藍沢テトラの、彼女の歌は、聴く人のセカイを変えてしまうことがある。かつて、ヒデアキがそれを経験したように。


  ※※※※


 キョウカは戸惑った。

 ――なに? なにが起きたの?

 さっきまで彼女は、横浜の《レッドへリング》で藍沢テトラの歌を聴いていたはずだ。なのに今は、日野の喫茶店、セーラー服を着た朴セツナの前に立っている。

 そして私も、高校時代のブレザーだ。

 ――え?

 戸惑うキョウカに、セツナが声をかけた。

「キョウカ、どうしたの――?」

「ああ、いや」

 椅子を引いて腰かけ、煙草で黄ばんだメニューを開く。キョウカはこの景色をよく覚えている。

 セツナと絶交してしまったときの風景だ。私は今からセツナに恋愛の相談をされる。そして私は、頭でっかちにそれを突き放して、キレられて、おしまいになる。

「あ、あのさ、キョウカ――」

「なに? ――あ、すいません、アイスティーと、あとモンブランください」

 近寄ってきた店員にキョウカは注文を終えてから、ぞっとする。昔、注文したのと同じだ。

 セツナの顔を見た。まだ髪は真っ白に染めていなくて、なんだか、どこにも頼るものがなさそうな表情だった。

 ――なんでそんなに自信なさそうなの、セツナ。

 あなた、数年後にメジャーデビューするんだよ。一流企業から声がかかって、有名シンガーソングライターの仲間入りになるんだよ。私なんかとは比べものにならないくらい、独りきりで生きて、強く生きて――そんなセツナが私に相談するのっておかしいよ。

 はは。

 店員が先にアイスコーヒーをテーブルに置く。キョウカはそれをゆっくりと飲んだ。セツナは、胸の前で指をからませながら、

「あ、あたしさあ――」と言った。

「なに?」

「あたし、ずっと処女なのかな。周りのみんな、経験しまくってるし。あたし、二十になってもなんにもないのかな。それが、怖くて」

「うん」

 キョウカはグラスをテーブルに静かに置いた。

 実際の過去では、ここでキョウカは声を荒げた。

「なに言ってんのセツナ! そんな風に考えてたら、カラダ目当ての男に利用されるだけだよ! なんで分かんないの! そういう奴らいっぱいいたけど私が守ってあげたんじゃん!」

 そう言って、セツナに拒絶された。

 ――私は、セツナの苦しみをなにも知らなかったんだ。

 今は?

 キョウカはセツナの両手を握りながら、声を震わせた。


「ごめんね、セツナ」


「えっえっ、なに?」

「私、セツナのためになること、いっぱいしたいって思ってたのに、ぜ、ぜんぶ自己満足で――ごめん、ごめんね――」

「――キョウカ? なに、どしたの? なんで泣いてんだよ?」

「セツナ――あ、うう、う」

 キョウカはうずくまる。鼻をすする。

「本当は、セツナに自分を大切にしてほしいだけなの。親友だから。もう守るなんて偉そうなこと言わないから。私がセツナを大好きなだけなの。だから、だからさあ――」

 お願いだよ、セツナ。

 自分を粗末にして、まがいものの愛なんか掴もうとしないでよ――。

 きっといるって、セツナを大事にしてくれる男の人、いつか。

 いなかったら私が夫になるからさ。

 ねえ、セツナ! セツナはすごい可愛いのに! 将来ギターと歌で有名人になるのに! なんでそんな今は劣等感ばっかりなの!! いやだよもう――。

 ダメだ、涙が止まらない。

 キョウカがテーブルに突っ伏すと、セツナは慌てた様子で彼女の席に移り、背中を撫でる。

「どうしたの? ねえ、キョウカ。キョウカらしくないじゃん。どうしたんだよ――キョウカはずっと頭よくてカッコよくて、あたしを守ってくれたじゃん」

「私なんかバカなんだよ!!」

 私なんか、大好きな人の気持ちも分からなくて、傷つけて、それでも善人でいたい、それで償いたい、世の中に必要とされていたい、そんなヤツだよ。

「セツナ!」とキョウカは叫んだ。「やめてよ、捨て鉢になって、そんな、さあ。本当に好きな人とじゃないとイヤだよ! じゃあ私としろよ! セツナ!」

「わかった、わかったから――」とセツナは大慌てで、でも、涙目になりながらキョウカを宥める。

「なんだよ――どうしちゃったんだよ?」

「分かんない! もう分かんないよお!」

 ああ、私、セツナとだけは絶交したくなかったんだ。大好きだから。ずっと、そのせいで心が痛かったんだ――。

 やっと自分を認めることができて、キョウカはさらに泣く。

 この世界では、セツナは高校を退学せず普通の人生を生き、シンガーソングライターとして世間に見つかるのはもう少し先のことになるだろう。そしてキョウカとセツナはずっと親友だ。

 そして、これはウソの記憶だった。


  ※※※※


 そして、ハジメはベッドで目を覚ました。

 ――あれ?

 俺は、テトラちゃんのライブのために、バックバンドとして参加したんじゃなかったっけ――?

 部屋の窓の外を見る。日差しの感じからして、晴れた朝だ。すると、

「パパー! 起きて! パパ!!」

 という声がする。首をそちらに向けると、

 ちっちゃな男の子がベッドのへりに立って、ぼふぼふと毛布を叩いている。

「えっと――」

 ハジメはとりあえずベッドを降り、男の子を抱きかかえてやる。きゃっきゃっと、彼は喜んでいる。なんだろうか。――身に覚えなんてないはずだけれど、俺はこの子を、命に替えても守りたい、そんな情が湧いている。

 寝室を出ると、キッチンに藍沢テトラがいた。

「テトラちゃん――?」

 そう呼ぶと、テトラは振り返った。シックなエプロンをつけていて、髪が短い。そのとき不思議と、

 ――ああ、そうか、テトラはちゃんは育児のために髪を切ったんだっけ――。

 と思った。

 なんだそりゃ? テトラちゃんが育児だって?

 テトラは「もお」と照れるように笑う。

「XXXXの前で『テトラちゃん』はやめてって、言ったのに」

 すると、男の子が「テトラちゃん!」とマネする。「テトラちゃん、テトラちゃん!」

「ほら、真似しちゃった――」

 テトラは苦笑しながら、朝食の皿を2人分と1幼児分、ダイニングテーブルに並べる。

「今日もレコーディングなんでしょ?」とテトラは微笑んだ。「お仕事お疲れ様、パパ。頑張ってね」

 男の子が「がんばっえ!」とマネする。

 ハジメは、

 ――こいつはいったい、なんの冗談だ? と思った。

 そして、記憶が甦った。俺は、あの日――17歳のテトラちゃんと付き合っていた頃のことだった。

 実際の過去では、ハジメは、

「もうやめよう」

 とテトラに言った。俺がどれだけ寄り添っても、慰めても、テトラはもう歌を歌おうとは思っていない。――なにひとつ変わってはくれなかった。

 じゃあ、俺の愛ってなんだ?

 ただ傷ついた女の子を慰み者にしているのとなにが違うんだ。

 そんな罪悪感が辛くて、ハジメはテトラに別れを告げた。そのとき、テトラは17歳、ハジメは25歳だった。

 ――それからは皮肉にも仕事は順風満帆だった。そうして女性にも大いにモテた。もともと鼻筋の通った顔で不自由はしていなかったが、それ以上に好かれた。

 当たり前だ、金を稼いでいて肩書きもあるんだからな。

 下品な服を着て歩くだけが取り柄のファッションモデルや、野心にまみれたグラビアアイドル、くだらない台本のくだらない棒読みに定評のある女優、愛想よく原稿を音読するアナウンサー、あとは、レコード会社にやってきたK大出身の弁理士。

 そういうのを、ま、とっかえひっかえって感じだった。

 だけど、いつも心は荒んでいた。

 ――あるとき、トワ坊と二人きりで飲んでいると、彼に言われた。

「ハジメさん、まるで自分が傷つきたいから下らない女をわざわざ抱きにいってるみたいだな――?」

 トワ坊は素直な良い奴だ、こういうのはすぐに見抜く。

 それに対して、俺は、茶化すようなことしかできない。

「トワ坊みたいに、本当に良い女を見つけるなんてできないんだよ、俺は。ははは」

 嘘だろ。

 やめろ。

 お前は、見つけられなかったんじゃない、そこから情けなく逃げ出したんだろうが。

 ――本当はあのとき、テトラちゃんに「やめよう」じゃなくて、「結婚しよう」って言えばよかったんじゃないのか?

 もう歌を歌えない自分に苦しまなくていい、そんなことで痛んでしまうくらいなら、もう、普通の女として俺のものにならないか?

 そう言えばよかったんだろう。

 ――ハジメは涙を流していた。

「パパ、どうしたの?」とテトラは近寄る。エプロンで手を拭いて、ハハ、ほんとに世間の主婦みたいじゃないか。

「なんでもないんだよ」

 ハジメは自分の抱く男の子に頬を寄せた。「本当に、なんでもないんだ。ああ、こんな幸せ、俺にはもったいないくらいだ――」

 言い終わる前に、涙声になってしまった。くそ。

 俺は、ごめんね、テトラちゃん、今でもテトラちゃんのことが好きだよ。忘れられない、大切なんだよ。

 彼はうずくまる。

 そしてこれも、また、全てウソの記憶だった。


  ※※※※


 なんで? とタエコは思った。

 さっきまで横浜でライブを聴いていたはずなのに、今は高田馬場のバーで、チヨコやヒデアキといっしょに酒を飲んでいた。自分の服装を確認すると、秋の装いだ。

 ――時間が遡っている。

 チヨコが完全に泥酔している。目の前に男の子がいるのにちょっと不用心じゃないか、という気もするが、ヒデアキはそういう下心をぶつけるような人じゃない、という信頼があるのが分かった。

 それに、チヨコの彼氏のハスタくんは、ヒデアキと親友だし。

「ひれあきはさぁーあ」とチヨコは絡んだ。「すきなひとろかいないのぉ?」

 呂律が全然回っていない。

「いるにはいるけど」とヒデアキは笑った。「たぶん、俺のことなんてなんとも思ってないよ。恋愛するタイプにも見えないし」

 弱気な発言だった。そして、それを聞いたとき、タエコは自分がズキズキしたことを思い出す。

 ――なんで? ヒデアキ、全然かっこいいのに。私はかっこいいと思うけどなあ。

 モヤモヤするタエコの隣で、チヨコは自分の額に人差し指を当てた。

「言い当ててやるぜ!」と彼女が言った。「キョウカちゃん好きなんでしょ!」

 ヒデアキの顔が、かあっと赤くなるのが、バーの暗い照明のなかでも分かった。

 ――え。

 パキッ、と、ガラスが割れるような音が、タエコの心臓に響く。

 失恋の音だ。いつも乾いていて、鋭く、切ないんだ。

「ああ、えっと」とヒデアキは頭をかく。「――うん、そうなんだ。尊敬してさ。いつも自分の主張があってカッコいいだろ? 俺、最初はただ意見にだけ関心してるんだって思ってたんだけど――たぶん違うんだと思う」

「うんうん!」とチヨコは笑顔だ。

「本人には言わないでくれよ」と、顔を赤らめたままヒデアキが言うのを、ズタズタになった心で聞いていたのがタエコだ。

「言わない言わない!」とチヨコはカクテルを飲んだ。「つか、めっちゃ応援する! キョウカちゃん、男の子寄せ付けない系だけど、ヒデアキとなら上手くいくかもだよ!」

「応援って」とヒデアキは苦笑する。彼も酔いのせいでほんの少しだけ気が大きくなっているのがタエコには分かる。「変な小細工とか全然要らないからな。俺、どうせキョウカさんになんとも思われてないのは分かってるから、まずは、ちゃんと認知されてからじゃないと話にならないしさ」

「弱気だなあ~!」

 チヨコは笑った。

 タエコは笑えない。

 ――このあと、ヒデアキはキョウカに振られるからだ。

《気持ち悪い》

《私のことずっとそういう目で見てたの?》

《男女の恋愛なんて全部イデオロギーなんだよ。ヒデアキ、自分の頭で考えなよ》

 って突き放されるのを知っているからだ。

 なんでそこまで言われるの?

 ヒデアキは悪くないのに。ヒデアキのこと、いちばん好きだったのは私なのに。

 実際の過去は、

 タエコは作り笑いをして「応援するね! めっちゃ相談乗るから!」と宣言した。嘘をついて、諦めた。だって、勝ち目なんかない。キョウカちゃんは美人だ、それは分かる。

 私は童顔で短足の、ただの地味な女の子じゃん。

 今は?

 タエコは、

「ヒデアキのこと好きな子、いると思うけど。その子のことはいいの?」

 と言った。

 ヒデアキの笑顔が固まって、そして「いないよ、俺を好きな子なんて」と言った。

 そうして彼はおどける。「マジ非モテだし! 告白された数ゼロだから! だから、こういうの自分から頑張らないと――まあ頑張っても無駄かもだけど――」

「それさあヒデアキに告白したくても勇気でなかった子の人数さあ数えてないじゃん!!」

 タエコは思わず怒鳴ってしまった。

 チヨコがちょっと酔いを醒まして「どした? タエコ」と背を撫でる。ヒデアキは完全に凍りついて、「き、急にどうしたんだよ――」と呟いた。

 それでも、タエコは、止まらない。

「ヒデアキがキョウカちゃんを好きなら、それでいいよ諦めるよ――」

 タエコは拳を握りしめる。

「じゃ、じゃあ、さ、キョウカちゃんに振られたときは私のこと彼女にしてよ!」

 そう言った。

 なんて無様な告白だ。タイミングも変だし、内容もおかしい。

 でも、どんな告白も、しないよりはマシなんだ。

 これが肝心なところなんだ。

 どんな不器用な言葉も、不誠実な沈黙よりはマシだ――少なくとも《僕》はそう考える。

 ヒデアキはタエコの言葉に動揺して、初めて、彼女の顔をまじまじと見つめた。タエコは泣きそうになるのをこらえながら、彼と向かい合っていた。

「俺、その言葉、どう捉えたら――」

「好きだったの!!」

 タエコに気圧されて、ヒデアキはもう喋らない。

 そして、この世界線では、ヒデアキはキョウカに想いを伝えることすらせず、タエコと付き合って普通に幸せになるのだろう。

 ――でも、それは現実ではない。ウソの記憶だ。


  ※※※※


 テトラが2曲目を歌い終わると、キョウカも、タエコも、そしてステージに立つハジメも我に返った。

 ――なにが起きた?

 ――パラレルワールドの夢を見たのさ。

 藍沢テトラの歌声にそういう力があることは、デビュー当初から言われていた。そして、誰も本気で信じなかった。夢に突き落とされた人間以外は。

「いま、なにが起きたの?」とタエコは戸惑い。

「ああ、これが噂のやつか」とハジメは納得し。

 そして、キョウカは目を見開いたまま静かに涙を流していた――。

 どんな人生にも《躓きの石》がある。自分がなにに躓いたのか、大抵の人間は自覚すらできずに生きていく。

 でも、テトラの歌はそれを呼び覚ますことができる。

 あなたが選択を誤ったのは、この地点だ、と――そして正しい選択をしたとき、その人生がどんなものになるのか、を――。

 彼女の歌声はセカイを超えて伝えることができる。

 これは呪いだろうか? 聴いた人に、余計に後悔をさせるだけなのだろうか?

 たぶん《僕》の考えでは、違うんだ。たぶんだけど。

 だって、正しく過去を悔いることだけが、正しく未来を生きる道だからだ。――そうだろう? 違うとは言わせないさ。


 テトラはマイクに近づき、「じゃあ、最後になっちゃうけど――3曲目」と囁く。「ハジメ、ギターお願い」

 そう言われて、彼はやっとギターを構えた。

 色気まみれのカッティング。

 3曲目は、藍沢テトラの楽曲のなかでも、特にセックスアピールの強い歌だった。

『種の保存』

 テトラはタキシードのなかのブラウスを、もう1ボタンだけ外した。歓声が響く。そしてマイクをスタンドから抜いて観客席に近寄った。ひとりの熱心なファンらしい女性を指差す。

「――ねえ、今日はひとりで来たの?」

 歓声。

「あ、恋人と来たの?」

 歓声。

「へーえ、そうなんだ――」

 そして、その場でターン。ぴたっ、と、2回転して体が止まる。

「あたしのほうがいいと思うけど、本当にその恋人でいいのかなぁ――?」

 歓声。悲鳴。

「おうちに帰ったら、ちゃんと、あたしのこと思い出してね。お願い。――それじゃ、ベース、おいで」

 曲が始まった。

 さっきまで純粋なラブソングを歌っていたテトラとは、もう別人だった。


  ※※※※


 アヲイは八木の顔を見つめながら、

「CブロックP列135」と言った。「――そこに邪気を感じるよ」

 八木は頷く。

「分かった。もう下がっていい。あとの問題は、俺たちが解決する」

「え? ちょっと待ってよ八木さん!」

 アヲイは彼に近づく。八木が彼女を睨みつける。

「駄目だ、アヲイ」

「えっ?」

「お前は今から起こる全ての出来事について、見て見ぬフリをしていればいい。自分の責任と思うな。俺からの質問も忘れて、これまでどおり生きればいい。いいな?」

「なんで」

 アヲイは歯を食いしばる。「――私は、もうできることはなにもないってこと?」

「できること?」と八木は笑った。

「たとえお前にできることがあっても、もうそれをやらせる俺じゃない。お前はユージの一人娘だ。これ以上お前を巻き込む気はないし、危険に晒したらあの世のユージに申し訳が立たないさ。今までどおりロックスターとして気楽にやれ。あまり汚れた世界に関心を持つな」

「ふざけんな」

 アヲイは凄む。

「こちとらあの犯人のせいで大学のダチが後遺症だ。黙って指くわえて見てろってのかよ? 私も当事者だろ! 犠牲者だってまだ出るんだろ!」

「口を慎め」

 八木は静かに呟いた。

「ガキの時間は終わりだ。打ち上げがあるんだろう。せいぜい楽しく飲むといい。――それからあの夫と仲良く暮らせ。幸せに生きろよ」

 アヲイは拳を握りしめたまま、なにも言い返せない。

 八木は右手を挙げ、

「少し近づけ、アヲイ」と言った。

 彼女がそのまま歩み寄ると、八木は、まるで死んだ恋人の遺骨を指で撫でるような優しさで、革手袋ごしにアヲイの左頬を撫でた。

「ユージゆずりだ、その性格だけは――」

 八木の瞳に、慈しみが宿る。

「アイツはせっかく金を稼いだのに、なんで慈善事業なんかに熱心なのか、ずっと俺は分からなかった。でも、違う。あいつはただ人の役に立ちたいと思って、結果として利益を得ていただけなんだろう。――野心にまみれた俺にはそれが眩しかった」

「八木さん――?」

「お前も、恋人への愛の強さで見えにくいが、本質は似てる。根っこのところでは、誰かのためを思って生きている。イジメに遭っていたモモコを助けたときも、トワの女を庇って自分が汚名を被ったときも同じだ」

「なんで、それを――」

 アヲイが戸惑っていると、八木は手を離し、モニタのほうに椅子を回して彼女に背を向けた。

「帰れ」と八木は言った。「頼む。ユージの一人娘よ」

 アヲイは、目の前にいる八木の気持ちがなにも分からなかった。ただ、

 ――この人のこと、もう、嫌いになれないな。

 そう感じながら部屋をあとにした。


 八木はアヲイが部屋を出ると同時に、隣の女性スタッフに「CブロックP列135席のチケット予約名を検索しろ」と命じた。

 スタッフはすぐにタブレットで作業を終える。

「予約名は瀧千秋です。――新進気鋭の音楽批評家。批評雑誌の《アルキメデス》の編集委員。年齢31。W大の六平ゼミ出身です」

「住所は?」

 という八木の問いに、スタッフはすぐに答えを出す。

「六本木のアパートに一人暮らしです。セキュリティは簡単なオートロック。いつでも侵入可能」

「その前に、今日の横浜全域の宿泊データを調べろ」

「はい」

 スタッフは椅子に座り、タブレットをPCに繋いでデータベースを検索する。

「出ました」

 スタッフがキーを押す。

「横浜グランドシザーハンズホテル19階。部屋番号も割り出せました」

「――よし」

 八木はステッキを持って立ち上がる。「ペギンとスンハに連絡。ターゲットが部屋に入って日付が変わるのを待ってから突入。余計な発砲だけは避けろと伝えろ」

「――殺していいんですね?」

 スタッフが顔を向ける。

 八木は自分の視線の冷たさを自覚したまま、

「この事件の黒幕は法では裁けまい。報いを受けさせるルートは限られている」

 と言った。婉曲的な言葉のチョイスだった。

「承知しました」と言って、スタッフはスマートフォンの通話アプリを起動する。

 電話が繋がる。出たのはスンハのほうだった。

「드디어 우리의 차례입니까?」

 とスンハは言った。

「そうだ。――死体(ボディ)は透明にしなくていい。代わりにハインリヒ・K・キュルテンの骨董ナイフを現場に置いていけ。前に渡したな?」

「예」

「こいつを連続通り魔殺人事件の最後の犠牲者にする」

 八木は電話を切った。

「――さあ」と彼は言う。「夜が来たぞ。もうロック小僧どもの時間は終わりだ」


  ※※※※


 藍沢テトラは全てのパフォーマンスを終えると、ふらふらとした足取りでステージをあとにした。

 去り際に、ホールの一部から「また歌ってよ!」という声が響く。

 テトラはそちらのほうに顔を向ける。そして、ゆっくりと丁寧に、また頭を下げた。

これが藍沢テトラという歌姫の復活劇だった。

 控えスペースまで移動してから、彼女は、

「みんな、ありがと」

 と言った。満身創痍って感じだ。

「大丈夫かい? テトラちゃん」

「大丈夫。彼が、大丈夫に、して、く、れたから――大丈夫だよ」

 テトラはそう言いながら意識をフェードアウトする。全身に力が入らず、そのまま倒れていく自分を感じた。

 そして眠りにつく前に、こう思った。

 ――ありがと、ヒデアキくん。だいすき。あたし、ヒデアキくんのことだいすきだよ。


 ハジメは、彼女が倒れないように慌てて抱きしめた。なにかの発作かどうか、すぐに片耳を寄せて確かめる。

 だが、テトラは穏やかな寝息を立てているだけだった。

「よくやった」

 ハジメはテトラを抱き起こし、個別の休憩室まで運べるようにしてやる。スタッフが近づく、が、彼は目つきでそれを制止して歩き始めた。

 テトラはただ、無防備に眠り続けているだけだった。

「よくやった、テトラちゃん。最高だ」と彼は呟く。


  ※※※※


 3月11日(金)20:30

 女子トイレの前には長い行列ができていた。やっと出てきたキョウカを迎えて、チヨコ、ソユル、ハスタ、タエコ、ヒデアキの一行は《レッドへリング》を出た。

「日本の音楽もいいねえ」とソユルが笑う。両腕を横浜の夜に向けてまっすぐ伸ばし、体をほぐしていた。

「歌詞の細かいニュアンス、分かんないとこメモしたからあとで教えてよ」

「オーケー」とキョウカが頷く。「やっぱり、歌詞の翻訳は難しいよね?」

「トワって男の歌がなんかエッチだってことしか分かんなかった!」

 笑い声。

「なあ」とハスタが言った。「このあとどうするよ。どっか飲みに行かね?」

「んー」とチヨコは周囲を見る。「予約とかしてないけど、大丈夫系?」

 すると、タエコが「それは大丈夫でしょ。忘れちゃった?」と言った。「アヲイから打ち上げの連絡も来てたよ」

 そうしてスマートフォンを開く。

 ――ちょっとしたお店の予約を人数分入れておいてくれたらしい。私も少し顔を出すよ、とのこと。

 値段はアヲイ持ちだった。マイヤーズミュージックの息がかかったバーらしく、滑り込ませてくれたらしい。

「すご」とキョウカは言った。「――なんか逆に申し訳ないけど」

「ハハハ!」とハスタは気分が上がった笑いだ。「持つべき友達はロックスターだな!」

 それを見て、チヨコが呆れたように笑顔だ。

「ハスタに任せると、またコンビニでサワー買ってどっかの河川敷で飲もう、あとは朝までカラオケ~、だもんね。アヲイのほうが良い彼氏になる系じゃん?」

「いいだろそれも!」

 オレらの若さは、だらしない酒飲みに耐えられるように頑丈なんだよ!

 ハスタはチヨコの体に飛びついて、うりうりとやる。で、

「ヒデアキも来るだろ?」と言った。

「ああ――」とヒデアキは生返事をしてから、XPERIAの画面を見つめる。少しスクロールして、――そのときの表情を、キョウカはじっと見つめていた。彼はなにかを読んで、ほっとひと息ついて――、

「俺も大丈夫。せっかくアヲイが招いてくれたんだし、楽しく飲もう」

 と言った。

 ――ヒデアキ、なにを隠してるの? とキョウカは思った。藍沢テトラと、なにがあるの? もしかして、彼女との約束の時間を確認したってことなのかな――。

 キョウカは、こんなことを思う自分がイヤだった。私はセツナに置いて行かれて、なのに、ヒデアキはテトラのそばに行くことができる。

 だとしたら――、私はこれからどうするんだろう。


 ――そして、もう一人、ヒデアキの表情を伺っていたのがタエコだった。


  ※※※※


 再び3月11日(金)21:00

 ――お酒をめちゃくちゃ飲むぞ~~!!!!

 と柊タスクは思った。

 ライブが行なわれたのは《レッドへリング》1号館で、打ち上げは2号館3Fのバーを貸し切って行なわれる。

 ゆったりしたソファベッドの座席で、気持ちがいい。もちろん隅っこのソファベッドで。

 いや、そりゃ、色んな人がいるし、お近づきになりたいとは思うけど――女には話しかけたくない、女性恐怖症だ。そして男の集団にはだいたい女もいる。

 女性恐怖症の苦痛な点はここだった。同性の誰かと仲良くなっても、そいつは女が怖くないから女を集めたがる、だからいつも女の影に怯える。

 職場の人には風俗を紹介されるし、サポートのスタッフはセフレを連れてきて、そのセフレがオレにも距離を詰めてくるし。そんでもって、同郷の数少ない友だちはみんな結婚して――。

 アルコールが入ると、タスクの場合、ポジティブに跳ねるかネガティブに沈むかどちらかだったが、今この瞬間は完全に落ちていた。

「――人類、マジ滅べばいいのにな」

 そんな彼のテーブルに影が落ちた。慌てて顔を上げると斉藤ネネネがそこに立っていた。

「なんか暗いこと言ってた?」

 とネネネは笑う。

「え、あ、いや、その、あ――」

 冷や汗が噴き出て、顔が熱いのに脳ミソからは血が引いて貧血気味になる。酔いも一気に回ってきた。

 そういえばネネネさん、出番前もオレに話しかけてきたし――。なんでだろう。めちゃくちゃ良い人? それとも、こういうオレの反応を見て裏で笑ってんのかな、やっぱり。

 ネネネはタスクのとなりに座った。

 トラウマがぶり返す。席替えのたびに、タスクの隣になった女の子がウソ泣きをして、女子全員がリーダーの子に煽られながら「おい! タスクの隣になったせいで泣いたんだぞ! 謝れよ!」と怒鳴ってきた。タスクは休み時間で土下座をさせられた。誰も助けなかった。

 クラスの男たちはみんな「俺だって標的になりたくねえんだよ、ごめんな」と同情的な視線を寄越しながら教室を去り、タスクは涙と鼻水とでグシャグシャになりながら、

「お、オレみたいなカスゴミピョコピョンが隣の席になってしまって、申し訳ございません――」と言わされた。

 カスゴミピョコピョン。

 この言葉に意味はない。単に、当時、タスクはそう呼ばれていて、「おい、カスゴミピョコピョンやれよ!」と女に言われたらその場でウサギ飛びをしながら性器を晒して自慰をしなきゃいけない、そういう号令だったのだ。

 女子の笑い声。

 そうだ、いちばん怖いのは女の笑顔。次に怖いのは、女が隣に座ることだった――。

「はぁ、はぁ、あ、あ――」

 やばい。動悸がして息が切れそうになる――。

 そんなタスクの様子を見て、ネネネが眉をひそめる。

「大丈夫? 飲みすぎた?」

「いえ、オレ、その――!」

「?」

「じ、女性恐怖症なんです。だから、あの、それで」

「――ごめん」

 ネネネは少し腰を浮かせて、距離を置いた。

「私、ちょっと余計なお世話だったかな?」

「あ、いえ、あの!」

 タスクは慌てて、ついでにグラスに残った酒を一気に飲み干した。

 ネネネは目を丸くする。

 彼としては、景気づけようと思って飲んだのだが、勇気は結局全然湧かない。そうして、

「か、変わりたいとは、思ってるんです――」

 と言った。

 頭では分かっている。隣にいるこの人は、あのとき、オレをいじめてたあの子じゃない。

 でも、体が言うことを聞かない。

 どうすりゃいいのか分からない。でも、どうにかしないといけないとは思っているのだ。

「はぁ――」

 タスクはため息をついた。こんな自己開示をして、絶対に引かれた。キモがられた。

 キモがられるならまだしても、やっぱり裏でせせら笑われていたらどうしよう。《あいつ、本当に女性恐怖症みたい。キャラ付けじゃないんだ。あははは。ダッサ~!!!》

 そうやって、また、いじめられたら――。

 タスクはおずおずとネネネのほうを見る。彼女は静かにワインを口につけていた。

「変わりたいよね」

 と呟いた。目の前のタスクに対する同情ではなく、自分自身に言うような、切迫した感じだった。

「え、え――?」

 タスクが戸惑いながらネネネの横顔を見ていると、彼女は不意にこちらに表情を向けた。ただ、目線を合わせるのではなく、少しずらして、彼の負担を減らそうとしている。

「変わるには、どうすればいいと思う?」

 タスクはその表情を見て、ネネネのバンドが最近、批評家にケチをつけられて方向性に悩んでいることを思い出した。

 批評なんて気にするな、なんてのは外野の意見だ。ファンの人たちはいちいち指摘してくれない。ただ黙って辞めて去っていってしまうだけだ。

 だから、自分が受けた耳に痛い指摘とか批評とかを、ベストな形で次に活かしていかなければいけないのだ。

 ネネネの黒縁メガネの奥で燃えている瞳は、とにかく、答えを求めてさ迷っているかのようだった。おかっぱ頭に隠れた耳を少しポリポリとかいて――酒で体温が上がったのだろう――彼女はタスクに向き直る。

「タスクはどう思うの――?」

 それに対して、彼も不思議と緊張しなかった。

「――オレの話をしていい?」

「どうぞ」

「オレはきっと自分ひとりじゃ変われないと思う。自分はどこまでも自分ひとりだ。だから誰かと会って、それをきっかけにするしかない、してみたい」

 オレが独りきりで籠っても、それはオレだけの世界だ。オレだけの世界は、オレを変えてくれない。

 そんなことを言いながら、タスクは自分が女性相手に自然に話せていることを自覚してはいなかった。

 ネネネは、ふっと笑って、「未知との遭遇をしろ――ってことだね?」と言った。

「タスク、ありがとうね。話しかけてよかったよ」

 その表情を見て、彼も我に返る。

「え? あ、あの、オレなんか、で、よかったら――よかったです」

「ねえ、タスク」

「ひっ? はい」

 怯えるタスクに対して、「私、そんな怖くないよ。少なくともカハルよりはね」と苦笑しながらネネネはスマートフォンを取り出した。

「連絡先交換しようよ」とネネネは言った。「未知との遭遇」


  ※※※※


 3月11日(金)21:00

 六平ゼミのメンバーは、アヲイの予約したバーで皆で飲んでいた。

 ヒデアキも少しずつ酒を口に入れている。友達たちとの空気を悪くしたくはないが、あまり酔うことはしたくなかった。このあとテトラさんに呼ばれる。

 キョウカが立ち上がって「ちょっとタバコ吸ってくる」と言った。

 喫煙スペースはテーブルとは別の場所にあって、そこに向かったのだろう。

 そのとき、店のドアが開いた。

 ヒデアキたちがそちらに目を向けると、入ってきたのは九条アヲイだった。カーキのジャンパーをすぐ脱いで、「あったかいね」と笑いながら野球帽を外す。

「タエコ、隣いい?」と言って座った。

「あ、うん」とタエコはお尻を動かして、場所を譲る。

「なんか飲もう」とアヲイはメニューを見てから店員を呼び、生ビールを注文した。

 タバコを吸い終えたキョウカが帰ってくる。「来てたんだ、アヲイ」

「まあね?」

 アヲイは運ばれてきたビールを掲げた。「みんな、今日は来てくれてありがと」

 かんぱーい。

 ハスタが「打ち上げとかあるんじゃないの?」と訊くと、

「うん」とアヲイは頷きながらビールを飲み干す。「でも、そういうお偉いさんとの話はリーダーに任せてるから。私は、ちょっと飲んでから遅れていくよ」

「へえ――」

 ソユルが刺身を食べながら、「アヲイ、めっちゃよかったよ」と笑う。

「マジ? サンキュー」

「ねえ」とキョウカが訊いた。「打ち上げ会場ってここから近くなの?」

「うん。なんで?」

「いや、もう夜だし、女の子が一人で歩くのはちょっと危ない時間でしょ? 特に、アヲイみたいな有名人だったら」

「一人じゃないよ」

 そう言って、アヲイは店の外を親指で指差した。

 少し外れたところに、シンプルなデザインの国産車(トヨタのハリアーだ)が停まっている。そして、運転手は車の外へと出て、ゆっくりとタバコを吸っているみたいだった。

「ユーヒチ」とアヲイが甘い顔で言う。「送り迎えしてくれるって」

「――ふうん」とキョウカは不機嫌そうな顔で言う。「ずいぶん夫に頼りきりだね」

「え? うん」

「そういうの情けなくなったりしない? ごめんね、怒ってるわけじゃなくて、純粋に知りたいだけ。誰かに甘えて依存して、そういう生きかたって」

 キョウカの言いかたは切実だった。意地悪で言っているわけじゃない。少なくともヒデアキはそう感じた。

 ――キョウカさんも色々あるよな。

「なんで?」とアヲイは笑いながら酒を飲んだ。「ユーヒチは私が生きる理由だよ。ユーヒチがいるから私がいる。だから、甘えて依存してるって言われたら、反論もしないけど」

「じゃあユーヒチって人が『死ね』って言ったら死ぬわけ? 違うでしょ?」

 そんなキョウカの問いに、

「? 死ぬよ?」

 と、

 アヲイが答えた。

 キョウカはいったん頭を抱えて、すぐに「ごめんね変な質問して。――いろいろあって」と言った。

「大丈夫、気にしてない」

 アヲイはサラダを口に運んだ。

 ヒデアキが「俺、ちょっとベランダ見てくる」と立ち上がると、続いてタエコが「私おトイレ」と席から離れる。

 キョウカはそれを見てから、

「ねえ」と再びアヲイに声をかけた。「打ち上げ会場に朴セツナってシンガーソングライター来る?」

「来てると思う。分かんないけど、お酒すきだし」

 アヲイはそう言ってから、

「なんか伝言?」と訊く。

 キョウカの顔が赤くなった。

「え、あ――そういうんじゃなくて、気になっただけ」

「ふうん」

 アヲイはキョウカの表情をじっと見つめてから、にっこりと笑った。

「オッケー、伝えとくよ」


 タエコはベランダに向かうヒデアキに「あのさ」と声をかけた。

 彼は振り返って「? なに? タエコさん」と言う。

 心がいちいちもどかしかった。

 タエコは「タエコさんじゃなくていいって、言った」と呟く。

「ああ、うん」とヒデアキは少し慌てた様子だ。「えっと、――タエコ」

 呼び捨てだ、と思った。

 不思議だな、と思う。ただの二人称の、ひらがな二文字の「さん」が消えただけで、なんでこんなに嬉しいんだろう。言語学の先生だって、きっと分からない。

「こ、これからも、タエコって呼んでほしい――イヤじゃなければだけど」

「え? ――もちろん、タエコがそれがいいって言うならそう呼ぶよ、俺」

 ヒデアキは、微笑んでいた。

 タエコは彼を見上げながら、「今日は楽しかったね、ライブ」と言った。

「? ――だね」

「あのさ、ヒデアキがよければだけど、付き合ってほしいことがあって」

「俺でよかったらもちろん。なに?」

「え、映画でさ――」

 すごい男性向けのR指定のヤクザ映画が公開してて、好きな俳優が出てるから見てみたいんだけど、女ひとりだとちょっと気後れしちゃって――、よかったらいっしょに見ない?

 と、そんな不器用なデートのお誘いを彼女は言った。

 たぶん相手のヒデアキの耳では、デートとさえ認識されないだろう。

「なんだ、そんなことか」と彼は笑う。「いいよ、もちろん」

「よかった――!」

 と、思わずタエコは飛び跳ねる。バーの狭い廊下で、ちょっと通行人の迷惑だが、もう気にしない。

「そんなに見たかったのかよ? その映画」とヒデアキは苦笑する。

 タエコは、――別に! と心のなかで思った。別にその映画が見たいんじゃないよ! ヒデアキ! ヒデアキとがいいの!

「じゃ、あとで日にちの話とか、よろしく」とヒデアキは言ってベランダのほうに歩いていく。

「うん」

 タエコは手を振った。

 勇気! 勇気! 勇気出せた! よし! きっとテトラさんの歌を聴いたおかげだ!! ありがと、テトラさん!!

 ――キョウカちゃんのこと忘れさせちゃおうって、欲張りなのかな?

 そんなのいいや、もう、と思う。キョウカちゃんは恋愛が嫌いなんだよ。じゃ、勝手にすればいい。私はヒデアキのことカッコいいって思うし、付き合いたいもん。

 手も繋ぎたいし、それから先のことは――ちょっと恥ずかしいからあまり考えたくないかもだけど。

 ――うう!

 頑張るぞ! とタエコは思った。


 一方、ヒデアキはベランダに出ると、XPERIAをすぐに開いた。

 メッセージアプリに「電話」とだけ届いている。

 すぐにかけて、繋がって耳に当てて「もしもし、ヒデアキです」と言った。

「やあ、少年。こっちも飲み会だよ」

「トリィさん?」

「――ふふ」と声が響いた。「やっぱりキミはすぐに区別できるね」

「え、聞けば分かるじゃないですか」

「あははは。――部屋の場所は教えたと思う。時間が来たら、私たちのところに来てほしいな」

「――はい」

「ねえ、今日のライブは?」

「――すごかったです。詳しいことは、会ってからいっぱい伝えたいです」

「良い子だね? ――待ってる」

 そうしてテトラは通話を切った。


  ※※※※


 3月11日(金)21:30

 少しだけ休憩室で眠っていた藍沢テトラを連れて、谷崎ハジメは遅れて打ち上げ会場に入った。ゆったりしたソファベッド。

 バルコニーに顔を出すと、そこでトワがハイライトを吸っていた。隣には、おそらく途中から様子を見に来たのだろう沖田レイン、そして、演奏スタッフのビリーがいた。

「よう、トワ坊」とハジメは肩を叩く。「復帰おめでとさん!」

「ありがとう、えっと――」

「ハジメだよ」

「ああ、そうだった」

 トワは無邪気な顔をして笑う。「ハジメさんだった。ははは。ありがとう」

 そうして、うしろにセブンスターを咥えていた藍沢テトラに目を向ける。「あなたも、復帰おめでとう、えっと――」

「ふふ、テトラだよ、ありがと、トワくん――」

 テトラは煙を吐く。だがこの煙の吐きかたは、主人格のテトラの仕草じゃない。

 トリィのものだ。

「もう人の奥さんに手を出しちゃダメだよ?」とトリィは笑う。

「うん、大丈夫だよ」とトワは笑顔を見せる。「ルールは教えてもらったし、もう破らない」

 ――件の復帰会見で自分に食い下がった木村ナナコという独身のライターは、とっくにトワに抱かれて、擁護記事を綴るトワの味方側になっていた。

 沖田レインの揉み消し工作以外に、トワの芸能人生を延命する要因があるとすれば、結局は、こういうところにあるのだと言えるだろう。

 ある日、とある俳優がキャンセルカルチャーを食らって活動休止に追い込まれたとき、いっしょに飲んでいたハジメに対して、トワは「よく分かんないな」と言った。

「なにが?」とハジメが訊くと、

「おれたちの悪口を言っていじめるのは、いつも雑誌とかテレビとかネットとかだ」

 ――だから、まず雑誌の女とか、テレビの女とか、ネットの女を自分のモノにして、優しくしてもらえば、酷いことを言われずに済むだろ。

「――なんであいつらはそうしないのかなあ――」

 ハジメは、「ハハハハハ!」と笑った。トワ坊、相変わらずブッ飛んでんな! そう思った出来事だ。


 トリィがセブンスターを吸い終わり、「ここ、まだちょっと寒いね」と笑った。

 沖田レインがそれに答える。「ちょっと奥のほうに僕らのテーブルは用意してあります。そこで飲みましょう、テトラ先輩」

「――、うん」とトリィは笑う。

 テトラとトリィの違いは曖昧だ。たとえば、彼女の人格がジーイやモノオになったらこの場の誰もが気づくだろうが、トリィは《マネージャ》だ。主人格の代わりに全人格の監視と管理をこなす彼女は、限りなくテトラに近い。

 いま違いに気づいているのはハジメだけだろう。

「それよりトワ坊」とハジメは言った。「あのお嬢ちゃんたちは呼んでないのか?」

 それは、トワが特別に囲っている六人の女のことだ。ビリーは同伴だから、残り五人のことだが。

「先にホテルで休ませてやってる」とトワが答えた。

「へえ」とハジメは呟きながら、ソファベッドに腰を下ろした。

 沖田レインがネクタイをゆるめ、「わーい、注文してたフライドポテトだあ!」と喜びながら、二、三本まとめて口に放り込んでいた。

「ハジメさんは?」とトワは訊いた。「いつもこういうときは呼んでるだろ? あのうるさいモデルとはまだ続いてるのか?」

「俺のほう? あ、――」とハジメは言いよどむ。

 彼もレインにならってネクタイをゆるめ、ソファベッドに深く腰かける。隣に座ったトリィは、ウェイターを呼んでワインのボトルを注文していた。

 ――正直言って、この場で本当のことは言いたくない、とハジメは思う。

 適当に連絡すれば呼び出せる女はいる。実際、呼び出すだろう。でも、なんていうか。

 ――テトラちゃんの前では、そういう自虐的な自分を見せたくない。彼女はきっと、これからヒデアキという彼氏に会うんだろう。それに対して、余計なノイズになることはしたくない。

「今日は疲れたよ」とハジメは目を伏せて答える。「ひとりでお気に入りの映画でも見て、そのあと、ゆっくり寝るさ」

 トワは、そんなハジメをじっと見ていた。

 そして、

「まだテトラ先輩のことが好きだから、そういうウソをつくの? ハジメさん、おれには分からない――ヒデアキってガキになにを遠慮してる?」

 と訊いた。


 沖田レインがフライドポテトを頬張ったまま動きを止めた。トリィも、ボトルを開ける手を止める。

 そしてハジメは、自分の未練がましい気持ちがテトラにバレたことを気にするよりまず先に、

「ガキ?」

 と訊いた。

「ヒデアキがガキって――どういうことだ!?」

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