6

****

幸せだった

平和だった

穏やかだった

満ち足りていた

全部

一切

完璧だったのに

認めない

これで終わりなどあってはならない

また完全にしなければ

また幸福にならなければ

何だってする

元通りにする


そして

あいつを許さない

あいつだけ何もなかったかのように

あいつには償ってもらう

あいつは…

うん?

そう

大丈夫

任せて


戻ろう


一緒に

****


「透明人間は居ますよ」


 じゅう腫足しょうたの目、その瞳の鈍い輝きは、怯えているようにも、崇拝しているようにも見えた。

 

 いや、それはどちらも同じことなのかもしれない。

 恐ろしいから祀られる。

 畏怖されるから崇められる。

 信じられるものは何時だって、その力への恐怖で語られる。

 それを見た暗宮は、そこに禁忌があるような気がして、一時いっときだけ躊躇する。

 だが彼はここで引くわけにはいかない。その禁断を暴きに来たのだ。

 だから暗宮は問いかけを重ねる。

「お前の父親は、どうやって消えたんだ?」




 彩戸の捜索願が出てから一週間。当時の捜査メモと、最近新たに入った情報を纏めた手帳を見直した暗宮の結論は、「わけがわからん」それだけだった。

 その日何度目かの問に、暗宮は再びぶつかることとなる。

 暗中模索、五里霧中。

 一寸先も見えぬ闇。

 何から手をつけていいものか。

 何を探せばいいものか。


 3年前の殺人。


 消えた被害者。


 透明人間。


 どこにもいない目撃者。


 一度現れた遺体。


 捜査を外された刑事。


 何かを追っていた記者。


 透明人間。


 国の実験。


 安心を作る製薬会社。


 スポーツの祭典。


 姿を消した後輩。


 透明人間。

 透明人間。

 ——


「やっぱこれだけ異質だ。どうにも他から浮いているとしか思えん」

 暗宮は、今や太陽を照り返すばかりとなった額に手を当て、呻くようにそう独り言ちた。


 公安が出張っていたのが本当なら、事件はかなりきな臭くなる。

 しかし、動きが早過ぎる。

 彩戸が聞き込みを始めて数日。それで始末されるのならば、暗宮の方が先だろう。もっと言えば、「公安を見た」という情報源が、真っ先に狙われてしかるべき。

 あの日の“ウェルズ”での二人の接触を、“敵”が気づいていないということもないだろう。

 つまり暗宮の動きは見られた。完全に把握されていると見ていいだろう。

 ところが実際は、この件に一番最後に関わった、彩戸広助が真っ先に処理された。

 直接動いて目立つのを避け、泳がせ監視するのは分かる。

 ならば何故、彩戸に対してのみ迅速に動いたのか。

 透明人間がどこから発生したのかも分からない。

 何故“神隠し”や“天狗”ではなく、“鬼”や“透明人間”だったのか。

 機密の研究の噂だって、関連性は極めて薄い。

 一体どこからその発想が、浮かんで闊歩し始めたのか。

 そして実際、犯行の手口にも見当がつかない。

 休日の昼間、あれだけの人通り、如何にして見られずに、人一人連れ去ったのか。

 何故一度死体を晒したのか。

 何故わざわざ怪しい事件に演出したのか。


 国が関わっているにしては、無意味な演出が多すぎる。

 計画的でないにしては、痕跡があまりにも無さすぎる。

 

 徹頭徹尾、ちぐはぐな一連。

 点と点が線にできない。

 一向に交わらない無数の隘路あいろ


 そもそも“点”がどこなのかも分からない。その状態では整理のしようがない。

 “噂”という不定形の怪物を相手に、頭脳という拳は歯が立たない。

——こんなことなら彩戸のやつに、個人名まで聞いとくんだった。

 後悔してももう遅い。彩戸の情報の真の価値は、失われたことで示された。別の方向を探すしかない。

 

 暗宮はそこで、思考を白紙に戻す。


——思い出せ。こういう時、捜査一課時代ならどうしてた?


 記憶を辿る。

 経験を手繰る。


 かつての彼が言っている。


——答えはいつも、スタート地点に


 “現場百篇”。

 刑事の基本。

——今日は非番。時間はある。

 暗宮は出掛けることにする。

 目指す場所は三絵図商店街。

 彼の失墜、その始まりの場所。


 2年前に人が消えた魔境に、暗宮は再び足を踏み入れる。


 そうしてここで、被害者遺族と問答をする現在に至る。


 揉腫足は、被害者揉戌彦の息子である。


 年齢は今年で確か32歳。白髪混じりで角刈りの頭髪は、今は巻かれたタオルでよく見えない。顔を大きく見せる福耳、皺が目立ち始めた平たい顔と、欠けた前歯が覗く口。目つきは無闇に鋭い。顔だけ見るとヤクザのようだが、この商店街は最近そういった人間が撤退している、世にもクリーンな商店街である。

 それに首から下を見れば、彼がそうではないのが分かる。

 服装は半袖の黒いTシャツ、店の屋号が入った萌黄色の前掛け、黒のチノパン。一目でラーメン屋の従業員だと分かる恰好であった。

 「ラーメン揉」、なんとも工夫のない命名である。

 店内にあるのはカウンターと、申し訳程度のテーブル席。湯気と油の匂いが立ち込め、なんとも食欲をそそる環境。

 かつては戌彦が店主だったこの店も、今や息子の彼が切り盛りしている。そういう意味では、彼はかつての事件で得をした人間であり、数少ない容疑者のうちの一人である。だからといって、商店街の店舗一つ乗っ取るために、あそこまで手の込んだ事件を起こすなどとは、暗宮も本気で考えてはいなかった。


 腫足に尋ねたのは、戌彦の交友関係を洗うためである。

 本当は、その瞬間に会話をしていた猿田壅蔽に話を聞ければ良かったのだが、彼は残念ながら去年に他界していた。

「刑事さんもしつこいですねえ。あれは透明人間の仕業ですよ、他に考えられない。でなけりゃ誰が、あんなことできるんです?」

「それを調べてるんだ。とにかくあの男を恨んでそうな人間を教えろ」

 凄んで詰め寄る暗宮に、腫足は作業の手を止めずに返す。

「恨むったってラーメン屋ですよ?ラーメンがマズくって、金返せって言われたことはありますがね。それで透明人間に殺されちゃかないませんよ」

 至極尤もな意見である。

 それでも暗宮は突いて回る。どんな違和感も見逃さない為に。

「そうは言ったって、人間誰しも反りが合わないやつはいる。そういうのと出会っちまったってことはねえか?」


「もうやめて下さいよ、いい加減忘れたいんです!」


 腫足はこちらを向いて怒鳴りつけ、直ぐに背中を向けて拒絶を示す。


 真実を解明する暗宮の行動は、第三者からは褒められるかもしれない。


 しかし当事者にとってのそれが、歓迎すべきこととは限らない。


「当時、面白半分で色んな人に色んな事を聞かれたんですよ。中には親父が政府関係者だったのか訊いてくるやつまで居ました。そんなわけないじゃあないですか。親父は厳しくて、頑固で、怖くて、俺にラーメンの作り方を教えてくれた人です。俺に生き方を教えてくれた人です。ただ、それだけなんですよ」

 取り付く島もない。

 揉親子の関係は、完全な仲良しこよしとはいかなかったようだが、そこに愛情のようなものがあることも確かに感じた。

 そんな複雑な情緒の坩堝に、掛けてやる言葉など暗宮には無い。彼の好みは「何時だってシンプルなもの」、それだけだった。

「親父さんの仇を討ちたいとは思わねえか?たとえ恨んでたとしても、その最後を知って決着をつけることは、無意味じゃねえと思うんだがな」

「決着なんて、とっくについてますよ。親父が死んだ。死んだのは親父だった。それだけです」

 そう言って腫足は、止まっていた手を再び動かし始める。

 客がほとんど来ない時間帯で、注目を集めることがなかったことが、今ここにある唯一の救いだ。


 暗宮は空気を換えようと、話題の糸口を店内に求め、首を回して見渡してみる。

 ふと、壁の隅に飾ってある十字架が目に付いた。

 クリスチャンだとでも言うのだろうか。その割には、目立たせようという気概も、調和させようという工夫も感じられないため、拭いようのない奇妙さを憶える。

「カミサマの教えなんて信じるタイプには見えねえが…」

「『死が一人の人間によって生まれたのだから、死人の復活もまた、一人の人間によって生み出されなければならない』」

「…なんだって?」

「『コリントの信徒への第一の手紙』第15章21節。使徒パウロがコリントの共同体に、信仰による一致を説くための書簡です。幼い頃から聞かされたものですが、特にこの部分が気に入ってます」

「どういう意味なんだ」

「そのままの意味ですよ。一人の人間、アダムの罪によって、人は死と言う運命を背負うようになってしまった。これが原罪です。それと同じように、一人の人間、イエスの行いによって、人は死後の復活の宿命を手に入れた」

 「それが、希望なんです」そう言った揉腫足の雰囲気は、心なしか穏やかになったように見えた。

 しかし、それだけだ。

 話を続ける気は無いという意志が、その後ろ姿から犇々ひしひしと伝わってくる。

 そもそも暗宮は、信仰や宗教といったものに興味が無い。いや、むしろ憎しみすら抱いていると言っていい。

 それは彼とは、水と油のようなもの。

 現実に確かに浸蝕しながら、雲のように掴みどころが無いもの。

 出来れば、関わり合いになりたくないもの。


「邪魔したな、また来る」

 暗宮は代金を払い、すごすごと店を出る。濃緑のモッズコートを、安物グレースーツの上に羽織る。オマケだという木製の猿の小物を受け取って。

「ラーメン食べに来るなら待ってます」


 沈んだ声を背に受けながら。


 暗宮と入れ替わりで、高そうなスーツに身を包んだ男が入っていく。

 黒縁の角眼鏡にピッタリと固められた髪。胸には天秤が刻まれたバッジ。


——弁護士?


 何故そんな人種がここに居るのか。可能ならば盗み聞きたかったが、これ以上刺激するのは得策ではない。煙たがられている自覚はあるため、出入り禁止が怖いのである。

 後ろ髪を引かれつつその場を後にする。


 その後商店街の他の店にも、話を訊いて回ったが、得られたものは何もなく、ふざけた空言そらごとに詳しくなるのみ。


 様々な巷説が飛び交う中で、共有しているのは鬼胎きたいだった。

 誰もが透明人間の存在を疑問に思っていない。

 皆透明人間に殺されることを本気で恐れている。

 その話を出した途端、まなこに昏い畏れが映る。

 耳を塞ぎ、怖気で慄く。

 例外なく言外に、やめてくれと懇願する。


——どいつもこいつも——


 暗宮は心中で毒づく。

 商店街は全蓋式アーケードになっており、陽の光が天井の色付きガラスを通して落ちてくる。一月後に迫ったクリスマスに向けた、色とりどりの電飾やどこからか流れるキャロルも相俟って、教会の中のように感じられる。

 しかし感じるのは、活気ではなく静寂。

 そしてその静けさは、尊いものでなく混迷の証。


 「いわざる工務店」「梔子くちなし文具」「イタリア料理シレンツィオ」「寿司屋木皮もくひ」…

 どこへ行っても、収穫はゼロ。

 何かに追われているように、今や崖っぷちにいるように、誰も彼もに余裕が無かった。

 個人商店だけでなく、全国展開もしている家電量販店「タメルヤ」、その三絵図店でさえ、後がない物々しさに包まれていた。


 数え切れない憂惧の中で、暗宮が出来ることはただ一つ。

 暗宮は歩く。迷いを踏み潰して進む。

 意志はあるから歩みは止めず、されど行き着く先は見えず。

 何処を目指せばいいのか。

 何を見つけ出せばいいのか。

 

 ふと、暗宮は視線を感じる。


 時刻はいつの間にか、黄昏時に差し掛かっている。

 隣を歩く者の顔が、判別することができないとき


 誰が言ったか「誰そ彼時」。


 どの方向から見られているのか。

 一つか、複数か、それすらも分からない。

 粘っこく、こちらを絡めとるような視線。

 罠に掛かりに飛んで来る羽虫を、今か今かと待ち望む蜘蛛の眼差し。

 周囲を見渡しても何もいない。何かがいる筈もない。

 それでも暗宮は、背中に巨大な何かが圧し掛かってくるような、息苦しい不快感に囚われていた。


「ああっ、なんだってんだ…!」


 焦慮を表に出すことで、暗宮は辛うじて強がって見せる。

 そうでもしていなければ、あれだけ逸っていた気持ちが、容易く萎んでしまいそうで。

 そして暗宮は、逃げるように商店街を去る。


 暗宮はその足で、繫華街の路地裏へと向かう。このままでは終われない。何より一つ気になったことがあった。

 暗宮が捜査していた当時、あの商店街は暴力団やら極道やらの影響を逃れつつあった。

 これが一時的なことならともかく、未だに変わらないとなると、何かの絡繰りを勘繰ってしまう。

 勢力圏の変遷による悶着が、めぐめぐって悲劇を呼んだか。か細い可能性も、今は潰しておきたい。

 ただし警察の捜査網は使えない。暗宮の調査は飽くまでもプライベートである。


 そこで、かつて世話になっていた“情報屋”を探していた。


 悪徳を忌み嫌う暗宮にとって、あらゆる手段で入手した情報を、金で刑事にすら売り付ける、そんな人種との行交ゆきかいは業腹だった。最終的には必要なことだと吞み込んで、利用するのだと言い聞かせたが、それで消化しきれるものでもなかった。

 だからこそ、有用な時には最大限こちらの益を引き出す。それが暗宮のスタンスだった。


 暗い路地裏を少し行くと、占い師にでも間違われそうな、怪しい屋台がそこに在った。

 昼に訪れても曇天下のように仄暗いその場所は、陽が沈んだ今となっては、墨汁をぶちまけたすずりの中と大差ない。

 暗幕に囲まれたその中に入ってみれば、濃色こきいろの電灯、立て札には「お告げ授けます」というふざけた文言。修験装束に身を包んだ不審者。兜巾ときん結袈裟ゆいげさ鈴懸すずかけの色は、照明と色調が被っているために判然としない。顔は白粉で塗り固められ、朱の入った目元と唇が、胡乱な灯りの下でもその存在を主張する。

見るからに怪しいなりをしているその男は、しかし確かに凄腕の情報屋である。


 通称“告げ師”。

 ただでさえ元の貌からかけ離れている上に、恰好が奇抜なために、彼と出会うものは困惑し、副次的な要素に気を取られる。


 故に、誰も彼の本当の顔を知らない。


 本人曰く、容易く群衆に紛れてしまう位には地味な顔立ちらしい。

 化粧を落として作業服でも着込まれたら、暗宮だって判別できるとは思えない。

 知らないだけで、街中で何度もすれ違っているのかもしれない。近所に住んでいる可能性も否定できない。

 “告げ師”はそうやって、何食わぬ顔でどこにでも入り込み、色んな話を仕入れて来る。

 その有用性から、“その筋の者達”にも顔が利く。

 裏稼業を営む者達が、何を想ってあの商店街から手を引いたのか。それを知りたい暗宮にとっては最適な人物であると言える。


 しかし、暗宮から依頼を聞いた“告げ師”は、明らかに乗り気でないような態度を見せた。


「正直、巻き込まないで欲しいわネ」


 この喋り方も、こちらを惑わすブラフか。あるいは本当は女性なのか。得体の知れない情報屋もまた、見えない何かに逃げ腰だった。


「どんな種類の情報でも、役に立つものを取り揃えているのが、お前の数少ない長所だろ」

 裏社会で図太く生き残る怪人ですら、二の足を踏んでいることに暗宮は戸惑う。

 こいつには、怖いものなど無いと思っていた。

「アタシは無敵の勇者様なんかじゃあないわヨ。逆に本当にヤバい“際(きわ)”を見極めることができるからこそ、ここまで生き残っているワケ」

 つまり今回のこの案件は、優秀なドブネズミから見ても「近寄ってはいけない」ということ。暗宮はそれが何より気に食わない。

「実はもう歳か?丹畝市随一の情報屋が、よもや怪談が怖いとはな。寝かしつけられるガキかてめえは」

「別にアンタがアタシのことどう言いふらそうと構わないけれど、こればかりは本当にダメ。そもそもアタシも全体像を掴みかねてるノ。ただ、あそこに事務所構えようとしたとこは、どこも青褪めてドンズラするのヨ。これ以上はムリ、アタシの勘がうるさいくらいにそうがなっていたのヨ。アンタにも手を引くことをオススメするワ」

 当然、その提案に肯く気はない。代わりに暗宮は一つ質問を返す。

「これだけは教えろ。ある筋の情報じゃ、公安が動いているという。それは本当か?もしくは、それに類する極秘組織が動いているのか?」

 

 彼とあまり会わない者は、気づかなかったかもしれない。しかし暗宮は確かに見た。


 “告げ師”の目元が痙攣し、卓上の手は組み替えられる。


「さあ…答えられないわネ…」


 それはほとんど肯定の意。的外れなら否定できる。見当違いを笑い飛ばせる。それが「できない」ということは、こいつには思い当たる何かがある。

 暗宮にとってはそれで充分。次に行くべき場所は決まった。

 帳を抜けて、外に出で、見えた糸口へといざ進まん。


 力溢れる暗宮の背後から、ドスの利いた警句が投げられる。


「死ぬぞ、お前」


 彼が持つ二つ名の通り、


 託宣を受けた預言者のように、


 迷える者の末路を告げる。


 結局、


 暗宮がそれを顧みることは——


 なかった。

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